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2016-02-12 五島美術館

knockeye2016-02-12

 2月7日、五島美術館を訪ねた。冬晴れで、五島美術館の茶道具と庭を訪ねるのによい日和だったということもあるが、その週末は、宮藤官九郎の最新作「若くして死ぬ」を観る予定にしていたのに、バスの事故で封切りが延期になってしまい、予定が空いてしまった。

 すると何ですかね、映画会社ってのは、交通事故があると、交通事故を描いた映画を引っ込め、火事があると、火事を描いた映画を引っ込め、ということですかね、なんか納得できませんね。たぶん、メリーなんとかと鑑定団のPを足して粉々にしたような奴がうろちょろしてんでしょう。

 五島美術館へは去年の「イセコレクションの名陶 姿華明彩」も観にいったのだけれど、このブログには書き逃した。

 お前が茶道具なんて見て、なんかわかんの?、とか言う人いるだろうけど、そんなこと言い出したら、絵だって映画だって、別に何が分かるって訳じゃない。ただ観にいけばよいと思っている。その意味では旅に似ている。長く旅に出ていないが、旅は契機であるように思う。絵もそれまで何度も観たことのあるものが、突然よいと思えることがある。その逆ももちろんあるが、そのとき、自分の中で起こっている何かは興味深い。そういう体験のために、ウロウロさまよっているのだろう。

 五島美術館の庭は、根津美術館の庭とはまた趣が違う。根津美術館の庭は「表参道にこんな庭があるの」っていう驚きがまずあるが、五島美術館のある上野毛はまわりもお金持ちの家だらけで、そんな違和感がない。オープンで長閑な気がするのは、冬晴れのせいだったかもしれないけども。

 もう梅がほころんでいた。

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 館内のフライヤーで、いつの間にか静嘉堂文庫がリニューアルオープンしていて「茶の湯の美、煎茶の美」という展覧会をしているのを知った。近いっていや近いし、行こうか迷ったが、美術館めぐりは夜が早い。あまり慌ただしいのも気ぜわしいので、こちらはまだ会期もあることだし、次の機会に。

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2016-02-11 上方落語会〜ザ・大阪〜

knockeye2016-02-11

 いまや上方落語は笑福亭仁智という時代であろう。髪型が似ているせいだけでなく、なんとなく落語界隈のスティーヴ・ジョブズに思えてきた。上方落語を「re-invent」した感がある。漏れ伝わるところだと、2015年の「文化庁芸術祭」大衆芸能部門優秀賞を受賞したそうだ。

 横浜にぎわい座で「上方落語会〜ザ・大阪〜」。この落語会は早くから行く予定にしていたのだが、直前まで仕事を休めるかどうか微妙だったのを、なんとか駆けつけることができてよかった。当日券でも、関東ではまだ大丈夫だろうと予想していたけれど、意外にわずかしか空いていなかった。

 笑福亭仁智がトリだけれど、独演会というわけではなく、しかも顔ぶれを見ると、前座の桂慶次郎は桂米團治の弟子、桂雀五郎は桂雀三郎の弟子で、このふたりは米朝事務所、桂坊枝は先代の桂文枝の弟子で笑福亭仁智とこの人はよしもと、林家卯三郎は紋がぬの字うさぎ、林家染丸の弟子。林家染丸はよしもとだけど、この人自身はどうなのかわからない。どうもにぎわい座の方で人選しているらしく思えた。大阪ではかえってめずらしい組み合わせに思えた。

 それでちょっと話はそれるのだけれど、個人的に懐かしかったのは桂坊枝で、このひとはああ見えてなかなか短気らしく、結婚する時も死ぬの死なんのの大もめだったそうだし、やしきたかじんに気に入られてよくテレビにも出ていたのだが、番組中にブチ切れて、たぶんあのまま、やしきたかじんとは疎遠になったと思う。関係者じゃないから知らないけど。単に性格が短気というだけみたい。見てて「そこでキレル?」と思ったもん。直情径行型なんでしょうな。

 そのころ、落語は聴いたことなかったんだけれど、よく通る声で、喋りは聞きやすくきれいな大阪弁だった。今回は「天王寺詣り」。見事なもんだったと思う、私が言うのはおこがましいけど、最近、滑舌の悪い噺家に慣れすぎてたので、語り口のきちんとしている気持ちよさを忘れかけていた。坊枝だけでなく、今回はみんな流れるような語りで気持ちよかった。「天王寺詣り」は「うちの師匠が得意にしてた」と言ってたんだが、この人の師匠が先代の桂文枝と、こちらの人はあんまり知らないだろうと思うが、米朝、松鶴もそうだったが、先代の桂文枝も弟子の多い人だった。

 昔に思いが飛んでしまうのは、桂坊枝、歳とったわぁ。昔は顔だけ子どもみたいだったのに。俺も年取るはずやわ。

 まあしかし、それはそれとして、笑福亭仁智の噺だけれど、あの横浜にぎわい座の観客席にどれくらい笑福亭仁智を知っている人がいたのか知らないが、“爆笑”ですよ。うまく伝えられないけれど、笑いの質が、米朝、吉朝とちがう。やっぱり、初代春団治、仁鶴のめざしていた方向を受け継いでいるように思えてしまう。

 中とりの坊枝も上出来だったし、雀五郎も「時うどん」という誰もが知ってるネタにもかかわらず、きちんと笑いを取っていた。

 でも、笑福亭仁智の笑いは、それとは違う体験みたい。亡くなった枝雀は「あんなの落語じゃない」とか陰口を叩かれることもあったが、そういうこととも違う。笑福亭仁智の場合は、「落語じゃない」どころか、「落語にしかならない」「落語にでもせなしゃあない」という笑いで、まちがっても映画化されたりはしないわけである。

 今回の「多事争論」というネタも、むりやり古典落語を引き合いに出そうとすれば「天狗裁き」に似てなくもない。聴いた人には「どこがやねん」と言われそうだが、ちょっと似てる。「天狗裁き」も上方落語屈指のシュールなネタだが、今度の仁智を聴いて思ったのは、たぶん「天狗裁き」が初演された当時、いつか知らないが、そのころは大爆笑のネタだったんだろう。それが今に残った結果、シュールに思えるんじゃないだろうか。「天狗裁き」は「業の肯定」とか何も関係ないもん。

 噺で人を笑わせることのできる人がいて、人は笑おうと思ってその話を聴きに行った。考えてみれば奇妙な話だが、でも、それが落語だよなあと、笑福亭仁智を聴いていてそう思った。人を笑わせるってすごい技です。

 笑福亭仁智の独演会は、5月25日、深川江戸資料館であるそうです。水曜日だから、ちょっときびしいかなぁ。

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2016-02-10 FACE受賞作家展

knockeye2016-02-10

 もう会期も終わりだが、新宿の東郷青児美術館で「FACE受賞作家展」を観た。東郷青児記念美術館は、もうずいぶん長い間、こうした公募展を続けている気がする、その受賞作家のオムニバス展。撮影可だったので盛んに撮影してきた。各作家の短いコメントに個性がありこれも面白かった。

 例によってわたしの嗜好は偏っているが、永原トミヒロの作品群には強い印象を受けた。

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 大阪の忠岡というところに住んでその風景を描き続けているそうだ。2月20日まで、コバヤシ画廊というところで展覧会が開かれている。

 個人的嗜好にもっとも合ったのは、西村有だった。

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特に、この《岸辺》は

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素晴らしいと思った。

 田中千智は黒が美しく好もしいけれど、個人的には、こなれすぎていているように感じた。この感覚は、どこまでも感覚にすぎなくて、自分でもあてにはできないが、たとえば、シャガールとか、いわさきちひろの絵を、時には良いと感じたり、時には退屈に感じたりする感覚と同じだろう。ある表現が現実に向かってどの程度有効かというせめぎ合いを感じるか感じないかということかもしれない。

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 二川和之の、画面を2分割して微妙にずらす作品は、しかし、デイヴィッド・ホックニーのフォトコラージュという先例に比べても、日本の近世の屏風絵に比べても、もう少し空間意識が欲しいと感じた。ただ、画面を、切ったり、曲げたり、貼ったり、という屏風絵の演出が現代に失われるのは惜しいと感じているので、この表現をもっと発展させてほしいと切に願うのもほんとのところ。

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 逆に、村上早の作品は危うさに満ちているが、まだこなれていないと感じた。

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 その他の作家さんたちの作品も、もちろん見応えのあるものばかり。今週末までやっているので、新宿に予定のある方は、足を運ばれてみてはいかがかと思う。午後5時半まで入場出来、午後6時に閉まる。

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2016-02-09 清原 vs.おぎやはぎ

knockeye2016-02-09

 おぎやはぎのメガネびいきを ポッドキャストで聞いてたら、「人生を通じてモテなかった時期がないもんなぁ、モテないキャラにリアリティないもん。いいよなぁ、モテなかったやつって」と、いつもの鉄板トークを繰り広げていた。

 それで思ったけど、おぎやはぎって、清原の対極にいるな。仮に、「おぎvs.清原」っていう決戦を考えてみ?。おぎの圧勝だから。

 わたくし、清原がまだ巨人にいて人気絶頂のときに「ぜったい筋肉増強剤やってますよね(笑)」と、うっかり口をすべらせて、空気がひやーっとなったことがある。マジで清原が好きって人いたみたいですね。清原が好きで、長渕剛なんかに感動する人を思い浮かべると、いかにもウザい感じがするんですけど。

 なんか、たむけんがファンだったそうで、今回のことで「絶縁」を宣言したそうなんだが、その文章に「思っていたような“漢”じゃなかった」ってくだりがあって、「漢」って書いて「おとこ」って訓ませる時点でなんかひいちゃうんだけど、なんか、そういう集まりでしょう、清原ファンの集いって。

 プロ野球選手としてのプレーより、そういうサイドストーリーに酔っちゃう。だから、引退後、シャブなんかに現実逃避しちゃう。

 清原の後ろにはナベツネがいたわけだし、キムタクの後ろにはメリーなんとかがいるわけじゃないですか。それをなかったことにして、感動できる人たちは、わたしはむしろ怖い気がする。都合よく感動するためには、あからさまな事実さえ無視できるとしたら、その人たちの心の中では、安直な自己肯定が肥大していくだけじゃないですか。

 で、なんで、その対極がおぎやはぎなのかというと、特に、おぎさんなんかのモテのすごいのは、モテに、まったくストーリー性がないのよ。あるのはテクだけ。いわゆる「おぎテク」。恋愛にストーリー性求める人は、まずモテませんわ。恋愛に幻想を求めないことが、モテの鉄則だから。

 

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2016-02-08 『サンダカン八番娼館』

knockeye2016-02-08
サンダカン八番娼館 (文春文庫)

サンダカン八番娼館 (文春文庫)

 山崎朋子の『サンダカン八番娼館』は、1972年とかその辺に出版されている、もはや名著と言っていいと思うんだけど、今はkindleでも出ている。

 「からゆきさん」と呼ばれる、南洋の娼館で娼婦として働いていた人たちを描いた、渾身のルポルタージュで、昨日、「小説的」ということを書いたけれど、凡百の小説は色褪せてしまう。この本の「おサキさん」ほど魅力的な人物を小説家が造りだせるか、という問いかけについて、無頓着でいられる小説家は信用したくない気がする。

 わたしが慰安婦の問題に違和感を覚えるのは、この本のことが頭の片隅にあるからで、少なくとも1910年代くらいまで、この本に描かれているような背景があったことを考えながら、慰安婦が生まれてきた過程を考えると、今、一部の人たちが声高に批判しているようなエキセントリックなこととは違うと思う。

 貧困の問題や女性差別の問題に、広い意味での国家責任はないとはいえないし、それについて、常に改善を求めていくべきなのは当然だけれど、挺対協が言っている「国家賠償」はそういう文脈ではないでしょう。彼らの求めている謝罪はナショナリズムそのものでしかない。

 挺対協は韓国の右翼にすぎない。彼らのやっている慰安婦像とかの活動は情報操作にすぎない。それをまっとうな人権団体のように考えている、その暗愚と鈍感が、日本の「リベラル」の限界だろうと思う。そこにとどまっている限り、彼らの行く先には何もない。日本の右翼を批判しながら、韓国の右翼の片棒を担いで、それで何になる?。

 元慰安婦の人たちに保障するのは良いことだと思う。誰が反対した?。アジア女性基金というのを作って保障しようとしたわけなのに、それを妨げたのはむしろ、強硬に「国家賠償」に固執した「リベラル」の側なのだ。しかも、その頃はまだ朝日新聞の捏造報道は撤回されていなかった。

 いったい、慰安婦の人たちに対する補償を妨げたのは誰なのか?。総理大臣の訪韓直前にもっともらしいスクープを打つなど、結局、朝日新聞界隈の人たちは、この問題を政争の具に利用しただけではなかったか?。

 そして、それでもなお自分たちは「リベラル」だと信じ込んでいて、自分たちを批判する相手は「右翼」だと切って捨てる。それでいて、現にやっていることは韓国の右翼の片棒担ぎなのである。この人たちの「リベラル」という意識は、「エリート意識」の別名にすぎない。だから、大衆の支持をえられないのだが、そういう現実を目の前にして彼らの口にすることは「世の中が右傾化している」なのだから、呆れ果ててしまう。

 「サンダカン八番娼館」は、1974年に、高橋洋子田中絹代、栗原小巻で映画化された頃がブームのピークだったかもしれないけれど、今の視点でもう一度読み直してみる価値のある本だと思う。

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