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2019-01-01 はてなブログに移行します

knockeye2019-01-01

 今年からは、本格的にはてなブログのみに移行してゆくことになると思います。ほんとは去年からそうするつもりだったんですが、先に払ってたぶんもあるし、こっちの方が慣れてるしって事で。

 今年も、こっちもうだうだ続けるつもりだったんですが、2018年の映画をふりかえる記事を書いたら、こっちはなんか知らないけど、you tubeが埋め込まなくなってまして。がっくりきちゃいましたね。

http://knockeye.hatenablog.com/entry/2018/12/30/154249

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2018-12-28 『パッドマン』と『大人の恋は、まわり道』

knockeye2018-12-28

 インド映画『パッドマン』と、キアヌ・リーブズ、ウィノナ・ライダーの『大人の恋は、まわり道』のどちらかひとつしか観られないって人に勧めるとしたら、たぶん、実際に観た人の100人中97人くらいは『パッドマン』を勧めると思うし、そもそもこのふたつを並べる意味がわかんないと思うんだけど、個人的には、「疾風怒濤の波をかぶらない恋愛」という点で、このふたつの映画を、仮に、括ってみたい。

 ただ、勧めるとしたら『パッドマン』の方なのは間違いなく、こちらは恋愛映画というだけでなく、奥行きも広がりもスケールが大きい。

 インドの片田舎で、新婚の奥さんがメンスの処理に、雑巾みたいな布を使っているのを知って、安いナプキンを自作しようとする男の奮闘記で、実在の人物がモデルになっているそうだが、インドの性差別や偏見やサクセスストーリーの大略は実話としても、その映画的な脚色の方にむしろ感動した。

 日本に置き換えてみて、本田宗一郎の若い頃を主人公に映画を作るとして、こんなにうまく作れる人がいるかしらと思った。本田宗一郎も、たしか、スーパーカブの元になった原付自転車を、奥さんのために作ったのではなかったかなあ。

 「大愚」って言葉があるけど、主人公ラクシュミの性格はまさにそんな感じ。誠実で明るくバイタリティーに溢れてるけど、どこか抜けてる。町工場で働いているのも本田宗一郎に似てる。アメリカ的なマッチョな価値観の対極にある、こういう主人公が、NYの国連本部で、カタコトの英語で演説する言葉を聞いていると、アメリカの資本主義社会から、さまざまなマイナス面が噴出するのを目にしつつも、アメリカ人がなんとなくそこから離れがたい態度で煮えきれないのは、マッチョな価値観への郷愁といったものがあるからで、それが、トランプ大統領を誕生させもしたのだろうと思えてきた。

 主人公のラクシュミは、苦労して作った機械がコンテストで認められて、特許を取れば大金が手に入るという時に、敢えてそうせずに、安い機械を作り、ナプキンの消費者である女性たち自身を労働力として雇い、そしてまたその利益で、機械をインド全域のみならず、アフリカなど世界各地の貧しい地域に普及させていく道を選ぶ。

 これは、アメリカ型資本主義の真逆の発想だが、重要な点は、それがアメリカ型資本主義に対する批判や反発としてではなく、自然な感情、大金があっても幸せだと感じないだろうという、素朴な実感に素直に従った結果であることだ。

 だから、アメリカ型資本主義が、最新の経済理論でもなんでもない、実は単に、マッチョ神話に基づく虚ろな迷信だと見えてくる。そういう力をラクシュミの言葉と行動が持っている。だから、この映画の恋愛が、どうしてもお姫様抱っこの結末でなければ気が済まないマッチョ神話の幻と違っているのは当然だ。

 パリーというこの映画のヒロインは、アメリカ型資本主義とラクシュミの世界をつなぐ立場にいる。パリーがいなければラクシュミの試みは妄想で終わったかもしれない。ラクシュミに出会わなければ、パリーは退屈な一生を送ったかもしれない。2人の関係は、お互いを補完するという意味で恋愛以上かもしれない。疾風怒濤の悲劇でもなく、ハリウッドのハッピーエンドでもないこの恋愛の顛末は私たちの胸を打たないだろうか。

 この恋愛の顛末が実話かどうかわからないが、なにも、恋愛を、ロミオとジュリエットや若きウェルテルの末裔に独占させなくてもいいだろうと思える。

 その意味で、『大人の恋は、まわり道』も、こじゃれた恋愛映画になっている。舞台はアメリカだし、セリフのある登場人物は、キアヌ・リーブズとウィノナ・ライダーだけという、なんとなく舞台劇の映画化みたいなんだけど、オリジナル脚本みたいです。レビューは散々だけど、個人的にはそんなことはなく、金曜日の夜にカップルで見たりするのにちょうどいいお洒落な映画だと思いますよ。泣いたり喚いたり、キッタリハッタリしなくてもいいだろうよ、という、文字通り「大人の恋」を描いてる。

 この人たちが若きウェルテルの末裔でないかどうか知らないけど、恋愛映画かくあるべきっていう固定観念を斜にみてるのは間違いないと思います。

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2018-12-25 青山の児童相談所建設に見るgentrification

knockeye2018-12-25

 青山で児童相談所の建設に反対する人が多いという話を聞いて、アメリカでようやく問題になり始めているgentrificationが、日本ではとっくに完了して、地域社会を根絶していたんだと気付かされた。

 日本の民主主義が機能しない原因 は、きっと複合的なものに違いないが、そのひとつとして最近考えているのは、地域社会の崩壊だ。

 空き家の増加が報じられるようになって久しいが、これといった解決策が講じられることもなく、一方では、ばかすか新しいマンションが新築されている。はたでみていて空恐ろしい気持ちになる。

 家が地域社会と繋がっていないのだ。

 たとえば、アメリカなら、地域社会に誰かが引っ越してきたとすると、ハウスウォーミングパーティを開いて近所の人たちを家に招く。日本でもついちょっと昔までは「向こう三軒両隣」なんて言葉が生きていた。言うまでもなくすでに死語。むしろ、地域社会と係わり合いを持ちたくないと思う人が多いのではないか。

 それは、逆に言えば、地域社会に依存しなくても生きていけるからだろう。人が帰属している社会が、地域と無関係なんだ。多分それは、急速な高度経済成長のさいに生じた、民族の大移動、知らない町の大学に、偏差値ごとに振り分けられて、知らない町の企業に就職して、その町に住まいするが、それは、その人が企業社会に帰属するためであって、地域社会に帰属するためではない。日本の社会は企業に結びついて、しかもそれが、オリンパス事件などにみられるように、多分にムラ社会的なのは、組合が企業を横断して存在しないために、労働者の社会が、企業に従属しているためだろうと思う。一般社会の正義に反していても、企業社会を守ろうとしてしまう。それこそ、ムラ社会だろう。普遍的なルールに背を向けて、狭い集団の利益を守ろうとしてしまうのは、普遍的なルールがリアルに感じられないからだろう。それもそばのはずなのは、「社会人になる」という言葉が、事実上、「就職する」と同義語で用いられるくらいに、日本人にとっての社会とは企業社会のことだから。

 例えば、待機児童の問題がある。子供を保育所に入れられないために、仕事を諦めなくてはならない女性が多いそうなのだが、これは、行政の問題であるには違いないけれど、そもそも、なぜ子供を保育所に預けなくてはならないかといえば、その家庭が核家族だからだ。「核家族」という言葉も死語なのだろうか。核家族は、夫婦と子供だけの家族のことで、この現象も、高度経済成長とともに生まれた。そもそも核家族は女性が家庭に入ることを前提にしている。でなければ誰が子供を育てるのか?。高度経済成長以前は、そうではなかった。

 桃太郎の童話を思い出してもよい。桃太郎が生まれたとき、家にはおじいさんとおばあさんしかいなかった。父母はどこにいたのか?。言うまでもなく、働いているのだ。おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行っていた。洗濯も柴刈りも「生業」 ではなく「家事」である。父母はおそらく田畑で働いていたはずだ。そうでなければ生活がたちゆかない。

 父母が働いているあいだ、祖父母が子供の世話をする。それが、核家族以前の家族では当たり前だった。だから童話に出てくるのは、おじいさんとおばあさんなのである。保育所なんて存在しないし、存在する意味もない。なんなら、幼稚園も学校もいらない。

 そう言う農耕社会を捨てて、企業社会に移行する、その際、女性が家事と育児を担当することになった。それは、高度経済成長の暗黙のルールだった。それは、近代工業化が始まった明治以来徐々に浸透してきて、高度経済成長では一般化したルールだった。母性本能なんてのも、明治以降にでっち上げられたウソの一例なのがわかる。

f:id:knockeye:20160330100536j:image

 これは、渡辺幽香の《幼児図》(ここからお借りした)。渡辺幽香は、五姓田義松の妹である。別に幼児虐待の図ではない。農家では、両親が野良に出ている間、子供を臼に括り付けておくなんてことは普通だったろうと思う。

 高度経済成長の時代には、企業社会が地域社会の代わりをした。終身雇用で、年金も手当も手厚かった。高度経済成長下では、組合活動も必要なかった。ほっといても給料は上がった。企業のムラ社会に隷属する、いわゆる「社畜」である方が、ムラ社会意識から脱しきれていない日本人にとって楽でもあった。

 しかし、バブルが崩壊した後、企業は地域社会の代行を辞め、その後、何度か景気回復した後も、そこに復帰しようとしなかった。結果として、日本人は帰属する社会のすべてを失った。地域社会もない。労働者の連帯もない。ここから民主主義が生まれうるか?。すくなくとも、地域社会が存在しないのに、選挙区の区割りに意味があるか?。意味のない区割りから「八紘一宇」なんて妄言を吐く三原じゅん子なんかが当選したりする。悪夢である。

 二大政党制が実現していれば、地域社会が破綻していても、個人の政治意識を選挙に反映できたかもしれない。ただし、それは、政党が選挙公約を守ることが絶対条件である。地域社会が存在しない以上、政党と個人を結ぶのは公約以外にない。

 ところが、小沢一郎が、選挙に勝った一週間後に公約を破棄するし、マスコミは「マニフエストにこだわることはない」などと平気で公言するし、先日書いた通り、鳩山由紀夫は、とっとと逃げた。あの時点で、民主主義の可能性はなくなった。マニフエスト選挙で勝ったからには、是が非でも公約に拘らなければならないはずだった。田原総一郎が「政策に興味がない」と評した小沢一郎の小賢しさが、結局日本の民主主義を殺した。危機に際して、あのような愚物しか擁することができなかったことが、日本社会の衰退を示しているだろうと思う。

 「日本 家の列島」という展覧会があった。日本の奇抜な住宅を紹介して欧州を巡回した展覧会で好評を博したらしい。たぶん、企画した人に悪意はなかっただろう。日本の街を歩いて、ユニークな建築の家が多いことに気づいた写真家が、そんな家をコレクションしていったということだろう。しかし、当の日本人としてこの展覧会を見ると、日本の地域社会が破壊され尽くしている証拠にしか見えなった。一番ひどかったのは、もしかしたら、ポスターに使われていたかもしれない家で、四方を高い塀で完全に遮断した上で、その一角だけ、ちょうど豆腐の角をスプーンですくったみたいに塀を切っていた。そこから、小さな祠の脇に生えた桜が見えるからだそうだ。当時は書かなかったが、端っこのブログだから、正直に言わせてもらうと、これを建てた人の人格を疑った。

 今、青山に児童相談所を建てるのに反対運動が起こっているそうだが、日本の小さな成功者たちの意識はたぶんそんなものだろうと思う。そこに家はある。地域社会は存在しない。そのことに誰も危機を感じていない。そんな国になってしまっている。「日本、家の列島」って、そう考えるといみじくもよくできたタイトルだった。

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2018-12-22 『アリー/スター誕生』4度目のリメイクの意味

knockeye2018-12-22

 『スター誕生』のオリジナルが公開されたのは1937年、まだ第二次世界大戦も始まってない。ジュディ・ガーランド版、バーブラ・ストライサンド版に続き、今度のレディー・ガガ版は、4度目のリメイク。

 ストーリーの骨格はすごくシンプル。大スターが無名の新人を見出し、新人は大ブレイクするが、対照的に彼女を見出したスターの方は落ちぶれていくという話。

 なので、アレンジしやすいとも言える。フランス映画として初めて米アカデミー作品賞を受賞した『アーティスト』とか、今年公開された三木聡監督、吉岡里帆阿部サダヲ主演の『音量を上げろタコ!なに歌ってんだか全然わかんねぇんだよ!!』も、その変奏と言えないことはない。

 しかし、前回のバーブラ・ストライサンド版からすでに40年以上も経って、タイトルもそのまま、堂々とリメイクするモチベーションは何なんだろうと訝っていたが、どうやら監督も兼ねているブラッドリー・クーパーにこの作品が降りてきた気配があった。

 レディー・ガガが今さら女優に色気を出すはずもなく、ドラマの比重は、ブラッドリー・クーパーの演じるロックスターのジャックの方にずっと重い。

 1937年のオリジナルはもちろん、ジュディー・ガーランド版も、バーブラ・ストライサンド版も知らないので比較できないが、少なくとも、このレディー・ガガ版は、だんだん落ちぶれていく男の嫉妬や焦燥ではなく、自分が見出した才能が、商業主義に呑み込まれていく虚しさや孤独感がむしろ丹念に描かれている。

 映画の冒頭から、ジャックはロックスターの暮らしに飽き飽きしている。その虚栄のむなしさが骨身にしみている。だからこそ、アリーの歌に癒されたはずだったのに、その彼女が、手も無くその虚栄に嬉々として興じているのは、彼にとって悪夢でしかない。

 今まさに上昇気流に乗っているアリーにはジャックのその孤独が伝わらない。その伝わらなさが、レディー・ガガが何度も歌う劇中歌“shallow”のアレンジの違いですごく説得力のある表現になっていて、やっばりレディー・ガガってすごいんだなと思った。こういう風に歌っちゃダメなんですって歌い方もちゃんとできる。

 バーブラ・ストライサンドが歌った『スター誕生』の主題歌“evergreen”もプラチナ・シングルになったが、『アリー/スター誕生』のサウンドトラックも、ビルボード初登場1位から3週連続首位だったそうだ。

 ジャックを苦しめているもうひとつのことは、故郷の喪失感。ロックスターは虚像でも、音楽は彼のルーツであり続けている。そういう部分にフォーカスした解釈が、今回のリメイクの意義である気がする。ジャックはアリーにルーツを見た。だからこそ、アイドル的な売れ方をしていくアリーに対して「自分が君を堕落させた」と告白する。

 だが、それが若いアリーには伝わらない。その辺のことを視覚化しているのは、アリーの髪の色の変化なのはいうまでもない。

 『スター誕生』ってタイトルの意味は、これは、オリジナル版の頃から変わらないコンセプトなのかもしれないが、スターと言われる存在には、ただ売れているとか、人気があるとか以上の何かが必要に違いなく、アリーの最後の歌唱シーンには、彼女がたしかにそれを手に入れた風格と、そして、孤独がにじむ。

 ジャックにとってもそうであったように、歌に乗せて聴衆に届けているものについて、聴衆自身が無自覚なのである。アリーはほとんどただひとりの聴衆を失った、その怖ろしく長い空白に、アリーはこれから耐え続けなければならない。聴衆の誰にも伝わらない、というより、伝わらないと彼女自身が思い続けるだろうその孤独を、彼女の歌は、宿命づけられてしまった。

 「我かつて罪なくて生きたりしが、掟来たりし時に我は死に、罪は生きたり」ってことですかね。

 ところで、蛇足ながら、もう一度念を押しておくけど、『音量を上げろタコ!なに歌ってんだか全然わかんねぇんだよ!!』は、今をときめく錚々たるミュージシャンが楽曲を提供した、日本版『スター誕生』だから、この『アリー/スター誕生』が気に入った方はぜひ観てくださいね。

 

 

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2018-12-21 断章ふたつ

knockeye2018-12-21

 加藤典洋の『アメリカの影』を読んでたら、こんな言説にぶつかりました。

 「一二世紀において 、パックスとは 、領主間で戦争が行われていないということを意味するものではなかった 。 ( … … )平和とは 、戦争がないことではなく 、戦争のもたらす暴力から貧しい者および弱い者がサブシステンス (民衆が自分たちに特有の文化を維持していくのに必要な最低限の物質的 ・精神的基盤 )を得るための手段を保護することであった 。平和とは 、農民や修道士を守ることであった 。平和とは 、領主間でいかに血なまぐさい戦争が行われている最中であっても 、牛や栽培中の穀物は保護されているということであった 。また平和とは 、非常用の穀物倉庫や収穫の時期が保護されているということであった 。 ( … … )したがって 、対立関係にある騎士同士が戦争をしていようといまいと 、その土地が平和であるということとは無縁のことであった 。このサブシステンスの保護を第一目的とする平和は 、ルネサンスとともに失われてしまった 。」

と、イバン・イリッチが書いているそうです。

(「暴力としての開発」大西順 訳)

アメリカの影 (講談社文芸文庫)

アメリカの影 (講談社文芸文庫)

 それから、江藤淳の「荷風散策 紅茶のあとさき」を読んでいたら、断腸亭日乗の昭和17年三月十九日の記事にこんなのがあるそうです。

「 噂のききがき

上野東照宮五重塔のほとりの休茶屋にては近年茶汲の女に花見の時節赤襷赤前垂をしめさせゐたり。然るにこの程警察署にて右赤前垂は目立つ故緑また桃色にすべき由申渡せしに茶屋のかみさん承知せず、警察署に至り何故赤き色御禁止になりしや。日の丸の旗も赤いでは御在ませんか。赤前垂は派手なれば桜時にはふさはしきものなり。若しはでなものがいけないと云はるるはればお上の御威光にて春も来ず、花も咲かせぬやうになさいませとしやべり立てられ、役人も返す言葉なく遂に例年通赤前垂を許すことになりしと云」

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