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2014-07-21 フィオナ・タン まなざしの詩学

knockeye2014-07-21

 東京都写真美術館に「フィオナ・タン まなざしの詩学」を観にいった。

 商業映画そのものをアートと呼ぶのに別に躊躇するつもりはない。美術、音楽、文学、演劇を統合した映画という芸術は、事実上、いま最も盛んなアートだと言える。

 そうした商業映画のシステムとは別に、映像が、いわゆるファイン・アートの世界に侵入しはじめてから、アートの世界で独自に発展してきた映像世界というのが一方にある。しかし、商業映画が到達している成熟度に比較すると、映像を手法としたさまざまなアートには、おそらくフォーマットの‘自由に呪われて’か、これぞというマスターピースは現れていないみたいだし、それになにより、映像が私たちの日常に入り込んでいるその状況を考えると、映像をアートの素材、手法に選ぶこと自体が、そもそも、そういうマスターピースを志向していないとでもいいたげな姿勢には、実は、ひそかに共感を抱きさえする。

 それでも、美術の世界の映像作品というと、何か、飛び道具というか、イロモノみたいな気分でとらえているのも事実だった。

 フィオナ・タンは、‘彼女の作品なら観にいこうか’と、つまり、ただ絵を観にいこうではなくて、モネを観にいこうとか、ビュフェを観にいこうみたいに、作品と作家が頭の中で結びつく、私にとってはじめての映像芸術家かもしれない。

 最初に観たのは、犬島を撮った「cloud・islands」という作品で、これがすごくよかった。映画ではないし、ドキュメンタリーでもないし、インスタレーションとかハプニングみたいな要素もない、ただの映像が、こんなに面白いのは、初めての感覚だった。

 多くの作家は、絵筆を持って絵を描く、とか、カメラを持って写真を撮る、という、手の技術にとらわれて、イメージそのものを取り逃がしがち、だけど、彼女の作品にはイメージの新鮮さがとらえられているように思う。

 ただ、映像作品なので鑑賞に時間はかかる。今回の展示は、一階のホールで、それぞれ一時間ほどのふたつの映画と、二階で、映画とはフォーマットの違う映像作品、だったんだけど、二階の方のは全部は観られなかった。

 映画は、「興味深い時代を生きますように」というのと、「影の王国」。

 「影の王国」は、イメージそのものについての作品で、偶像を否定する宗教の話から、彫刻は古代人にとってのイメージだったと言われてみて、たしかにそのとおりだと、そういうところで虚を突かれてみて、彼女の感覚の鋭さにあらためて感心したりした。

 印象的だったのは、これは、2000年の作品なんだけど、元ナチスだった報道カメラマンの人のインタビューで、ハイテク化された「イラク戦争には映像が残っていない。だから、あの戦争は、将来、なかったも同然になるだろう」って言ってたこと。たしかに、それから14年しかたってない今でさえ、イラク戦争の印象はすごく薄い。

 「興味深い時代を生きますように」は、自身をディアスポラという、彼女自身のルーツをめぐる。

 見逃してしまった映画「アクト・オブ・キリング」と背景が重なる、インドネシアで投獄されたおじいさんの話とかでてくる。

 かのじょの父方の親戚はみな華僑なので、1997年だけど、その頃の華僑のリアルな感覚が伺えて興味深かった。スイスでレストランを開いているいとこがいる一方で、中国に戻ったいとこもいる。

 ディアスポラという感覚には、私はむしろ肯定的だ。フィオナ・タンの映像が魅力的なのは、一面、たしかに彼女のディアスポラ的な感覚に負うところが大きいと思う。

 二階の作品はまたいつか観にいってもいいな。それでもふたつは観たのだけれど。

 図録はまだできていなくて、予約して郵送だそうです。最近、これ多いな。

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2014-07-20 『イエス・キリストは実在したのか?』

knockeye2014-07-20

 私も人並みに三連休だったので、今日は出掛ける予定にしていたのだけれど、この本が面白すぎて読みふけってしまった。

 邦題がちょっと‘丹波哲郎’系のうさんくささを臭わしているが、原題は‘ZEALOT The Life And Times of Jesus of Nazareth’、‘ZEALOT’は「狂信者」とか「熱狂者」という意味。この本のカバーでは「革命家」という訓みをあてている。

 著者のレザー・アスランという人は、イラン革命でアメリカに亡命してきた人で、子供の頃、キリスト教に改宗して、宗教学を学び始めるが、学ぶにつれて、聖書に矛盾を感じ始め、後にイスラムに改宗したそう。

 こういう話を聞くと、何か懐かしい気持ちになる。正宗白鳥とか、国木田独歩とか、明治の文化人たちの置かれた状況とすごく似ていると思う。

 イランという国は、今はイスラム教国であるだろうけれど、古くはゾロアスター教が盛んだったはずで、そういう多様性、文化の厚みという意味でも、どこか日本に似ている。いい映画監督が多いっていうところも。

 マタイによる福音書10章34節、「私が来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ」が、巻頭を飾っているのも懐かしい。これは、たしか、トルストイが「アンナ・カレーニナ」だったかに引用して、主人公を(リョービンだった気がするけど、ここちょっと曖昧)暗い気持ちにさせている。どっちにしても、これがトルストイの平和主義と相容れそうにないことは、簡単に想像できる。これを巻頭に持ってきていることで、この著者の信仰の態度に、私としては、信頼がおけるわけ。逆にいえば、こういうところを平気で読み飛ばせる人が信頼できない。

 初期キリスト教教団の実情は、以前、『イエスの王朝』という本を読んで、ある程度の予備知識はあったが、今回は、あの頃からさらに研究が進んだのか、特に、当時のイスラエルの状況について、ローマ帝国とイスラエルの関係、ユダヤ教会の腐敗とか、後にキリストと呼ばれる、ナザレのイエスがどういう背景でああいう行動を起こしたのかがよくわかった。

 今、イスラエルがガザに侵攻している時期が時期だけに、衝撃を受けたのは、ユダヤの人たちが、イスラエルを「約束の地」と呼んでいるについて、私は、今まで漠然と、「もともとユダヤの人たちが住んでいた土地だったからだろうな」くらいに思っていたけど、違うんだって。知ってました?。私は知らなかった。

 「住んでいる」から「約束の地」だって言うんじゃないんだって。もともとは他の民族が住んでたんだって。そこに、ユダヤ人が「この土地、神様がオレたちの土地だって言ったからさ」つって、女子供まで皆殺しにして住み着いたんだって。それが「約束の地」っていう言葉の意味なんだって。

 自分たちがもともと住んでましたってことを比喩的に言ってるんじゃないんだね。「神様が言ったから、おれのだから」で、皆殺ししちゃう人たちなんだね。

 それが、2000年前の話でしょって言えればいいんだけど、今のガザ侵攻なんて、そのまんまなんだよね。うすら寒いわ。

 シオニストがあの辺に入植し始めてから、あの人たちずっと戦争してるんだけど、仲良くしようとか、平和に暮らそうとか、分かち合おうとか、思わないのかなぁって疑問に思ってきたけど、そら思うわけないわ。「約束の地」っていうこと自体が狂信の極みなんだから。

 とりあえず、そこ引用しときます。

 神はイスラエル人にこう言った。「あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ベリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼしつくさねばならない」(申命記20章16節〜17節)

 聖書によれば、「イスラエルの神、主が命じられたように」(ヨシュア記10章28〜42節)ユダヤ軍が、リブナ、ラキシュ、エグロン、ヘブロン、デビルの町々、山地、ネゲブ、低地、傾斜地を含む全域の「息のあるものをことごとく滅ぼしつくした」あとでやっと

彼らの神は、ユダヤ人がその地に入ることを許した。

 一応聞くけど、この神様、キリスト教の神様とおんなじひとですよね。

 ナザレのイエスが生きていたその時代、ローマの圧政と既得権益をむさぼる教会の腐敗に不満を持って、これに立ち向かおうとしてたイエスみたいな人はけっこういたらしく、十字架刑というのは、そうした反乱者の見せしめとして行われていたらしい。現にイエスもその他二人といっしょに処刑されている。

 イエス・キリストと他の人を分けたのは、結局、復活だな。

 死んだ人がよみがえった。だから、あの人、神様だったんだよっていうこと。これを信じるしかないという意味で、これは切実な信仰だろうと思う。

 もうひとつには、イエスが亡くなってほどなく、紀元70年、イスラエルがローマに無謀な反乱を起こして、完全に壊滅させられ、ユダヤ人が各地に離散した。

 この時点で、ナザレのイエスが掲げていた理想は完全に潰えたはずなんだけど、そのときに、マルコという人が、最初の福音書を書いたということだそうです、ギリシャ語で。初期のキリスト教改宗者は、エルサレムに具体的につながるユダヤ人社会の構成員ではなかったということだそうです。

 John Gagerというひとによると、「しかるべき条件のもとでは、基本的な信仰が世界の出来事によって無効にされてしまった宗教共同体はかならずしも崩壊したり解散したりしない。それどころか、大事な信仰が無効になったことから生じる悲嘆や疑念という、行動と信念との間の矛盾を体験的に認識することによって、かえって熱烈な宣教活動を行う可能性がある」と、その著作で報告しているそうです。

 そしてもうひとつはパウロだな。『イエスの王朝』でも大活躍だったパウロ。このひとは、生前のイエスには一面識もないんだけど、復活したイエスには会った、だから、私は使徒ですっていいはって、自分勝手に教義を変えちゃうので、イエスの死後、教団を率いていた義人ヤコブから、叱責されているし、「パウロの言うことは聞かないように」みたいな回状まわされているし、現に、信者からも不信感をもたれていたらしい。

 でも、のちには、パウロの流れを引く、アタナシウス派がローマの国教になる。エルサレムから遠ければ遠いほどローマに都合がいいわけだから当然かもしれない。

 イエスの復活を信じざるえない状況で、国が滅び、民族が離散したことが、キリスト教を成立させたといえる。結局、すべての人の一生が、死と別れで終わるわけだから、復活と再会の望みを吹聴されれば、人はそれにすがるということなんだろう。

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2014-07-19 『英国の青年』

knockeye2014-07-19

 吉田健一未収録エッセイのふたつ目。吉田健一のエッセイは、全集にも未収録のものがまだいっぱいあるそう。ただ、講談社文芸文庫も『ヨオロッパの世紀末』を先に出すべきだという気もする。

 「現代文学における神の問題」は、その準備稿のようなおもむき。

 それによると、絶対という概念は、ヨーロッパではギリシャ文化とともに現れたが、古代ギリシャ人は、つねに、絶対の観念に生命の観念を対置させていた。ギリシャの神々はまだヨーロッパの神ではない。

 絶対者としての神は、ユダヤ人がこれをヨーロッパにもたらし、やがてキリスト教となって、これがヨーロッパを支配する。

 死にゆくわれわれに対する、絶対という概念と、絶対者はまったく違って、絶対者はひとつの人格であるから(私に言わせればその時点で絶対ではないが)、われわれを愛したり怒ったりする。となると、絶対者に愛されることで、われわれも死にゆく境涯から脱せられる可能性が生まれる。あるいは、悪いことに、この神に疎んじられれば、死んだ後まで永遠にゲヘナの劫火に焼かれるかもしれない。現代の篤信家がどのように弁明しても、結局のところ、近代とはこの迷妄を相対化できる文明をいうだろう。

 吉田健一は、ヨーロッパの世紀末とは、つまり、西欧の文化が、キリスト教の呪縛から離れるその諸相をさしていると言っている気がする。

 アメリカが今抱えている問題は、アメリカの源流のひとつが、ピルグリム・ファーザーというキリスト教原理主義者で、アメリカがキリスト教を相対化しきれないことかもしれない。阿部謹也が『西洋中世の男と女―聖性の呪縛の下で』で、これについ書いていたと思う。

 こんなことを書くのは、最近のイスラエルによるガザ侵攻の非道ぶりを目の当たりにしてさえ、これについて、手をこまねいている、どころか、口をつぐんでいるアメリカの姿勢に不審を抱くからだ。

 単に政治的、経済的な理由からとは思えない、反イスラムの態度には、中世の迷妄を引きずっているようにさえ見える、不気味さを感じるのは私だけなんだろうか。

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2014-07-18 桝添都知事もヘイトスピーチ対処へ

knockeye2014-07-18

 前回の最後に書いたが、大阪府警は自白強要で‘超'有名。自分の記事ですけど、リンク貼っておきます。

「殴るぞ」と自白迫る録音公表

 てなわけで、すったもんだしている反ヘイトの現場らしいが、先日、大阪の橋下徹市長が市内でのヘイトスピーチ禁止の方針を言明したことを受けて、朝日新聞の記者が、舛添要一東京都知事に東京都の対応を質問している。

 以下に、かいつまんでおく。

・・・これは人権に対しては、根本的に人権に対する挑戦ですから、東京都の人権週間、日本国でも人権週間がある。それは人権啓発キャンペーンのようなところで徹底的にこれは、そういうことは止めるべきであるということを言いたいと思います。

・・・おまえを殺すぞといって脅迫しているのであったら、脅迫罪ということが適用できないか。

・・・きちっと監視をして、警察がですよ、完全にこれは脅迫に当たるという時は、それはどんどん摘発すべきだと思いますね。

・・・そういうことをやるより前に、これから2020年の東京オリンピック・パラリンピックを迎える東京都民が、そういうことを言って、・・・恥ずかしいと思ってもらわないといけないですね。

・・・人権も守れないような東京で、他の国の人、他の民族に対して、それだけ汚い言葉をかけるような東京で、それはオリンピック・パラリンピックなんて胸張ってやれませんよ。ですから、こういうのは東京都民が私と同じ気持ちになっていただいて、そういうことは許さないのだと、そういう思いを持っていただきたいと思います。

 公共の場で大勢の人間が「死ね」「殺すぞ」と連呼して練り歩く行為が、暴行の現行犯でなぜ逮捕されないのか、その方が不思議だが、こうしたヘイトスピーチに、人権上問題があると誰もが(頭のまともな誰もが)思いながら、思い切った規制に踏み切れないのは、一方で表現の自由に抵触しないかという懸念があるからだ。

 しかし、福田和也が言っていたように、また、橋下徹が今回言っているように、在特会が「在日外国人に不当な特権が認められている」と本気で考えているなら、それを認めている役所に抗議するのがスジであって、在日外国人の居住地でデモをするのは、場所が間違っている。

 京都地裁の判決が示しているように、デモの場所によって、そのデモが、表現に形を借りた示威行為にすぎないと特定できるのではないか。

 もうひとつは、デモの内容だが、在特会が主張しているような特権が明白に事実無根だと証明できれば、名誉毀損で禁止できないか。

 このヘイトスピーチの問題に関しては、国政レベルよりも、地方自治のレベルで対応した方がよいと、個人的には考えてきた。というのは、これは、地域住民の、自分たちの住まう地域をどう守るか、隣人の人権が冒されているとき、どのように振る舞うべきか、常識のレベルだとおもうからだ。

 地域住民が、私たちの町では、市では、県では、ヘイトスピーチを認めませんと、住民投票で決めれば、それでよいではないかと思う。

 たとえば、神奈川県では、ビーチでたばこを吸うことが条例で禁止されているし、たとえば、スクールゾーンに大型車は乗り入れるなとか、ヘイトスピーチはそれと同じ扱いで済むと思う。

 表現の自由といって、自分が下劣な人間だと示したければどうぞご自由に。ただ、ここではやるな、他でやれ。それだけのことだと思う。

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2014-07-16 「反ヘイト」とヘイト

knockeye2014-07-16

 今から一ヶ月前に、ニューズウィーク日本版に載った「反ヘイト」の記事について書いた。

‘在特会の差別的言動が、公共に対する暴行であり、自分たちの社会の価値を侵害していると、多くの人が感じて、自然発生的な「反ヘイトデモ」へと結集していったことを、わたしは頼もしくも誇らしくも思う'

と書いた。

 そして、「反ヘイト」に批判的なニューズウィークの記事については

 わたしが個人的にこの記事の根本的な誤謬だと感じるのは、

‘反ヘイト団体は「反差別」という絶対的な大義を盾に・・・云々’

というところ。

 「絶対的な大義」などというものは存在しない。むしろ、「絶対的な大義」という妄想が、差別を生む。「反差別」の行動は、大義を振りかざしているのではない。目の前にある暴行に抵抗しているだけだ。

と書いたが、今日の報道によると、「反ヘイト」を名乗る「男組」という団体の幹部8名が、ネトウヨへの暴行容疑で逮捕された。

 逮捕それ自体はたいしたことではないけれど、

‘男組側はこの様子を撮影した動画をインターネットに掲載し「レイシストを急襲した」とHPの活動履歴で紹介していた。'

っていうくだりはがっかり。

 つまり、ニューズウィークの記事の通り、「反差別」という絶対的大義を盾にしてるんであって、私が書いたように「目の前にある暴行に抵抗しているだけ」ではなかったということらしい。私の弁護よりニューズウィークの批判の方が正しかった。

 この人たちは、自分が正義の味方にでもなったつもりで、自分たちの大義に市民が賛同していると思っているのだろう。

 しかし、公共という価値を共有していると信頼したからこそ、市民がかれらの側についたのであって、その信頼を軽んじ、平気で踏みにじる行為に逸脱するなら、市民にとって、「ヘイト」も「反ヘイト」も公共の価値を損なうという点で何ら変わらない。

 まっとうな社会の一員であることの方が、正義の味方であることよりずっと価値があるのに、日本のこういう運動は、反安保のころから、いつの間にか市民感覚から逸脱し、逸脱することで尖鋭化し、尖鋭化することでさらに市民から乖離する、という末路をたどるのはどうしてなんだろう。

 日常生活の質が低いからなのかもしれない。しかし、それはニワトリと卵で、こういう運動が規範を引き上げ、そういう規範が生活に定着していく、といった相乗効果があってもよさそうなのだが。

 こないだ映画館の帰り、エレベーターが開いて女性2人が降りた。階下に降りていくエレベーターは私と、前から乗っていたおじさん2人になった。すると、そのおじさんの一人が「今のチョンかな?」と、もう一人に言った。さっき降りていった女性が英語で会話していたからなのだが、こういうことを平気で口にできるおっさんが、結局、都議会でセクハラヤジを飛ばしたりするのとご同輩なのだと思うがどうだろうか。

 こういう規範の貧弱な日常がベースにあるから、市民運動もまた暴走するんだろうと思う。

 ただ、ひとつ余計なことを書いておくと、これ大阪府警なんだよね。大阪府警は、中田カウスとかメッセンジャー黒田の例でわかるように、でっち上げは日常業務だと考えていいから、もしかしたら、こないだ橋下徹大阪市長がヘイトデモを市内で禁止すると発表したことと何か関係があるかも。

 まあ、大阪府警に正義は存在していないから、大阪府警に逮捕されただけでは、関西人はそれで人物の評価を変えたりしないのだけれど、そうじゃなくて、暴行現場の動画をネットにアップしていたのがさもしい。

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