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2014-04-23 ジャスティン・ビーバーと140人の国会議員 靖国参拝

knockeye2014-04-23

 以前、日本のリベラルはただのおためごかしだと書いたけれど、もっと正確な定義を思いついた。

 日本の左翼=いい子ぶってる、日本の右翼=ワルぶってる。おそらく、これ以上でも以下でもない。日本の右翼、左翼はそれだけのことだと思う。

 超党派の国会議員でつくる「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」というのが、140人連れだって、靖国神社を参拝したそうなのだが、相前後して、ジャスティン・ビーバーも靖国に参拝したそうで、靖国神社の写真がジャスティン・ビーバーInstagramに「神様、ありがとう」というコメントとともにアップされていたんだとか。

 ジャスティン・ビーバーが、最近、荒みきっているのは周知の事実。

 こんな調子。

 で、靖国神社参拝。

 つまり、靖国参拝というのが、海外の人たちにどんなものだととらえられているかよくわかる。良識的な人なら眉をひそめるだろう‘サイテー’な行為なのである。それがわかってるから、ジャスティン・ビーバー氏がわざわざInstagramに写真を投稿するわけよ。

 そういうことわかってるかね、その140人の先生方は。

 昭和天皇は、靖国にA級戦犯が合祀されるや、すっぱりと参拝をやめた。今上天皇も一度も参拝していない。

 こう考えてみると、昭和の政治家で、いちばん国際感覚があったのは、昭和天皇なのかもしれないなと本気で思う。

 それから、先日書いた元牧師さん、松本栄好氏のインタビュー記事だけれど、神奈川新聞のサイトにあるかと思ったけど、ないみたいなので、スクラップして保存しておいた。

 自分としては、信頼できる証言だと考えている。もちろん、私自身は、それをジャッジできるどんな根拠ももちあわせていないわけだけれど、松本氏の証言で重要なことは、慰安所ではないところでも、軍の権力をかさにきた監禁レイプが行われていたということ。

 この慰安婦問題については、国家の責任があった、なかったの諍いがいつ果てるともなく続くだろうけれど、日本人がそういう非人道的な行いをした、ということを、記憶しておけばいいだろうと思う。

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2014-04-20 日曜日の神奈川新聞

knockeye2014-04-20

 日曜日の神奈川新聞に、今年、92歳になる元牧師の松本栄好という人の、慰安婦に関する証言が掲載されていたのを読んだ。

 陰惨で生々しい証言だが、この人にしても、この証言をはじめてしたのは、わずかに6年前のことだそうだ。河野談話に遅れることおよそ10年。

 不寛容について書いたときにも触れたことだが、ほんとうは、河野談話のようなあいまいで何が言いたいのかよくわからない官僚的な文章ではなく、太平洋戦争中のすべての不幸について、日本が国家として責任をとると言えれば、それがよかっただろうと思う。

 しかし、それを言えるだけの政治力のある政治家を、結局、私たちが持ちえなかったのだし、その機会は永遠に失われた。

 責任は、それを「とる」意思をどこかでしめさなければ、それが「ある」「ない」の議論はとどまるところがない。その責任をとることに、国民の意思をまとめることができるのが、よい政治家なのだけれど、そういう政治家がいなかったんだから仕方がない。

 もしそういう政治家がいれば、国の財源から元慰安婦に補償することに反対する人は少数だっただろうが、結局のところ、国のカネを官僚が握っている、官僚国家であるかぎり、決断力のある政治家は生まれないだろう。

 それで思い出したけれど、こないだ岡田斗司夫が、「振り込め犯罪結社」という本の書評で面白いことをいっていた。その本によると、今、振り込め詐欺に加担しているのは、普通の人たちなのだそうだ。普通の人たちがサイドワーク感覚で、振り込め詐欺に加担している。それが現状なのだそうだ。

 小泉政権、民主党政権を経て、結局、政治が官僚支配を打破できないことが国民に周知徹底されてしまったので、官僚社会が日本のデフォルトの姿だとなれば、その社会には、モラルは建前としてしか存在しない。

 建前のモラルが、実効性のあるモラルに取って代わられるのは目に見えている。時代が変わるということなのだ。

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2014-04-19 『未完の憲法』

knockeye2014-04-19
未完の憲法

未完の憲法

 先週末、渋谷往復のどこかで風邪をもらったことは間違いないみたい。思い出してみれば、去年の今頃も風邪をひいていた。

 しかも、この週末はまるで冬のような寒さで、さすがに自重する気になった。こういうときは読書。

 改憲論議について、たぶん、ネットでもかまびすしいのだろうけれど、原発をめぐる議論で、うすうすわかってしまったことは、ツイッターで交わされるような議論は、ほとんど議論の名に値しない。

 というのは、大概はただの罵詈雑言だし、いちばんあほらしいのは、フォロー、フォロワーで、お互いの承認欲求を満足させているだけのような、「ですよね」「そうそう」「感動しました」「ありがとうございます」みたいな、やりとりは、傍で見ていてさすがにしらけてしまう。

 ツイッターはやはり、つぶやきにすぎないのが正しくて、どんどん流れてゆく川の流れみたいにやり過ごして、たまに面白いのがあったらすくえばいいんだろうと思う。

 一時期、やたらにツイートしていた村上隆がこないだ「おれやっぱ仲間と話してたほうが楽しいんだ、そんだけ」といって、半分下りたみたいな発言をしていた。

 それは言い換えれば、大衆に対する幻滅だろう。仮想的な人格を備えたかのような、大衆というものがどこにいるのか、どこにもいないのか、しらないけれど、すくなくともツイッターにそれを求めても無駄だということだろう。

 『未完の憲法』は、1929年生まれの憲法学者、奥平康弘と、1980年生まれの憲法学者、木村草太の対談集。

 安倍政権については、当初の経済重視の姿勢は評価していたのだけれど、「憲法は国家権力を縛るものだという考え方は古い」みたいなことを言い出されてしまうと、もう支持できない。法理論以前に、権力の自覚がない権力者は卑しい。

 でも、このことも、大衆という幻想と無縁ではないと思う。自分を支持している声なき大衆というイメージがあるから、自分の権力を縛ろうとするものは何であれ、因習にすぎないと見えてしまうのだろう。

 知性的な抑制に対する反発という意味で、安倍首相の態度を‘ヤンキー’と呼ぶ向きがあるのも理解できる。

 この本の中でも「司法権の優位」について議論されている。アメリカでも、司法が憲法の解釈をする最終機関だと認められていて、日本でも、憲法81条で最高裁に違憲審査の権限が与えられているが、その一方で、民主主義的に制定された法律について、民意と無関係な司法が判断をくだすのはおかしいという考え方もあり、その実例としては、ルーズベルトがニューディール政策を推し進めるために、どんどん作っていった新しい法に対して、違憲の判断が下されたこともあったそうだが、ルーズベルトは圧力を加えてその決定を覆していった。

 ごく好意的に解釈すれば、安倍晋三の今の立場は、ルーズベルトのそれに似ているといえるかもしれないが、経済の立て直しに大胆に取り組んでいる、よりは、防衛に力点が移っているように見える。

 また、アメリカの最高判事が最初に下した違憲判決は、黒人は憲法に規定された国民ではなく財産だというものだったそうで、憲法の名の下で人権が侵害されたこうした事例もあった。

 こうした矛盾について、奥平康弘は、ジョン・ロールズが『正義論』で用いた「民主主義的な立憲主義」という概念で、立憲主義を限定したいと云っている。対立的に扱われることもある立憲主義と民主主義だが、民主主義は本来、立憲主義よりも広い概念なので、同じレイヤーで対立的に扱うよりも、ふたつを統一する新しい概念が提示できればそうすべきだという意見は魅力的だった。

 民主主義を単なる多数決におとしめないためには、公共という意識が大切ではないかと考えた。自、他の意識の他に公共という意識があるかないかでいろいろなことが変わってくる。たとえば、この本にも書かれている小国主義ということでいえば、自国、他国という概念しかなければ、他国が大国であれば、自国も大国になろうとせざるえないが、公共という意識があれば、自国が小国であってもかまわない。

 国旗や国歌の強要が問題なのは、個人の信条の自由を国家が侵害して、権力に恭順を強いることに他ならないからだ。この場合も、公共という意識を国家の上位におけるかどうかが実は問題なんだと思う。

 公共心と愛国心の違いを感覚的に理解できるかどうかが重要で、愛国心は膨張した自己愛にすぎないから、どこまでいっても排他主義にすぎない。

 「人間の安全保障」という概念もこの本ではじめて知った。1993年に国連開発計画ではじめて用いられた比較的新しい概念だそうだが、安全保障を国家を超えて、人間のレベルで考える。つまり、戦争がリアルでなくなり、憲法9条の理想がリアルになる概念だ。

 憲法九条は、作った直後から、なんとか引きずり下ろそう、後退させようという努力を、日米ともに続けてきた感があるけれど、今になって、その理想の実現が世界で注目され始めているのは皮肉な気がする。

 ちなみに、高野秀行の著書『謎の独立国家 ソマリランド』にまで言及していたのが面白かった。「こういう本を読んで平和について考えるのも憲法と向き合うことになるのではないでしょうか」とあった。

 

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2014-04-13 日曜日のシアター・イメージフォーラム

knockeye2014-04-13

 今日は体調がよくなかった(このあと風邪を引いた。この時期、風邪のひきはじめと花粉症がまぎらわしくて、対応が後手に回る)。きのうは、平塚市美術館のあと、鎌倉に、藤沢から江ノ電を長谷でおりて光即寺の花海棠を観にいったのだけれど、先週の海蔵寺の感じからすると、今週もまだ大丈夫かなってかんじだったのに、一週間は保たなかったらしく、とうに盛りが過ぎていた。

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 今日の予定では、シアター・イメージフォーラムで、ジャック・タチの「プレイタイム(新世紀修復版)」を11:00から観て、そのまま「アクト・オブ・キリング」を13;45から観る強行スケジュールを立てていたのだけれど、一日二本の映画はつらいっつう、気の重さもあったのか(結局、風邪だったんだな)、ちょっとうだうだして、とりあえず、「アクト・オブ・キリング」だけでも観ようかと出かけたわけだった。

 ところが、あなた、びっくり。

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 これですから。

 開映の45分前でこれですから。シアター・イメージフォーラムにこんなに人がいたのをはじめて見ました。すでに立ち見の整理券を配り始めていて、次の16:00くらいの回なら観られたんだけれど、ちょっと体調悪いし(風邪引いてたな)、明日もお仕事だし、で、今回はご縁がなかったと云うことで。これは、ジャック&ベティにも回ってくるそうなので、そのときにでも。

 ただ、ジャック・タチの「プレイタイム(新世紀修復版)」の方は見逃したくない。

 というのは、気がつかないうちに、時代が変わっている、そのヒントなりとも得られないものかと、こないだからしつこいようだけど、松本人志の「R100」、あれは、いろんな人が絶賛しているし(みうらじゅんも絶賛してるんだって)、私も実際、面白かったんだけど、ただ、面白がりながらも、これが受けないのもうすうすわかる気がして、その部分を確かめたいという思いがあれからずっとある。

 良し悪しはともかく、今はもっとゆるいもの、自己完結しないもの、波及するもの、イベント性のあるもの、でないと歓迎されないんじゃないかという気がする。

 たぶん、インターネットが観客のありかたを変えてしまったのだろう。

 鴻上尚史が、ニコニコ動画に流れるマーキーみたいなコメントだけど、ああいうこと舞台の観客にされたら、それだけですべてがぶちこわしになると書いていたけれど、演じる側と観る側をはっきり分け隔てるマナーがあることで、あるテーマについて、表現者が発信したものを観客が受信する、というコミュニケーションは成立していたはずだ。

 これは、すべての芸術表現についていえるはずで、展示している絵の前で立ち話しているおばさんたちとか、上映中に携帯で話し始めるおじさんとかが、マナーが悪いというのは、そのコミュニケーションを阻害するからだった。

 つまり、芸術は教養として受け入れられてきたし、芸術を鑑賞する態度は教養主義的な態度だったと言えると思う。それは、ダウンタウンの漫才やコントだってそうだったはずだ。

 松本人志の「R100」は、松本人志の映画としては、多少の迷いはあったにせよ、けっこうな高さに到達していたと思うのだが、にもかかわらず、あれが受けないだけでなく、バッシングの対象にされてしまうのは、映画だけでなく、絵画や、音楽や、笑いにしても、教養としての芸術の価値が揺らいでいることなのかもしれない。

 言い換えれば、芸術を教養として受け入れる価値観がゆらいでいる。あるいは、観客がその価値観を見失っている。

 教養としての芸術が後退して、遊戯としての芸術、ゲームとしての芸術が受け入れられていく、そういう転換点なのかもしれない。それはつまり、反知性という意味である必要はなく、コミュニケーションの形式として、遊戯性や、ゲーム性がなければ、表現を受容できないといった感性を、時代感覚が条件化してしまっているのかもしれない。

 そして、その感覚はインターネットがもたらしたものなんだろうなと思う。インターネットの衝撃はこれからますます広く波及していくんだろう。

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2014-04-12 石田徹也展−ノート、夢のしるし

knockeye2014-04-12

 平塚市美術館で今日から始まった石田徹也の展覧会を見に出かけた。

 故人を天才呼ばわりするのは、思考放棄にすぎないかもしれないが、おそらくこの人は今後、天才と呼ばれてゆくだろう。

 今まで断片的に観ていた絵から判断して、もっと寓意的なものか、もっと狭い世界を想像していたけど、こちらの予想よりはるかに完成度も高いし、モチーフの選択も、自由自在で、私小説的な狭さに閉ざされていない。

 それに多作なのもすごい。アトリエにごっそり未発表作が残されていたそうだ。

 美術史の必然と関係なく、こういう才能が突然、「降臨」みたいに登場する。そして、気がつくとすでに死んでる。

 どれも印象的だったが、なかでも、マスターピースといわれるのではないかと思ったのは、<捜索>という作品。

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 ここに寓意しか読み取れないとしたら、絵を観ていないのだろう。えぐられた腹に、むき出しになった地層の不快感を感じるし、腕に潜り込んでくる線路にかゆみのような違和感をおぼえる。そして、生きているのかいないのか、自己なのか他者なのかの区別が曖昧になる。

 「芸術が人生を模倣する以上に、人生は芸術を模倣する」と、オスカー・ワイルドは云ったそうだが、もしそうなら、オスカー・ワイルドのその時代、風景が印象派を模倣し始めたように、現在のわたしたちは、もはやいくぶんか、この石田徹也の絵を模倣しはじめているかもしれない。

 早すぎる死が残念だと思う。現在にひっかききずをつけられる、数少ない芸術家のひとりだったと思う。

石田徹也遺作集

石田徹也遺作集

石田徹也全作品集

石田徹也全作品集

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