だうなあ日記~blog RSSフィード

<< 2016/12 >>
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

2016-11-23 鈴木其一

knockeye2016-11-23

 サントリー美術館で開かれていた鈴木其一展は前後期とも観た。

 鈴木其一は酒井抱一の弟子。酒井抱一は、江戸琳派の創始者とされている。尾形光琳の百回忌を行い、『光琳百図』を上梓するなど、さまざまなかたちで尾形光琳の画業を江戸に紹介した。たぶん俵屋宗達を始祖とするはずの琳派が、尾形光琳の一字をとって琳派と呼ばれるのは、酒井抱一尾形光琳を顕彰したためもあるのではないか。琳派と言いつつ、彼らは師匠と弟子という関係にはない。ちなみに、尾形乾山を「再発見」したのも酒井抱一だそうである。

 尾形光琳酒井抱一、鈴木其一は、先達の俵屋宗達がオリジナルを描いた《風神雷神図屏風》をそれぞれに模写している。これら4つの《風神雷神図》が一堂に会す展覧会も過去に観たことがある。

 俵屋宗達尾形光琳の《風神雷神図屏風》の、素人でも分かる違いは、雷神の目線。宗達の雷神は下界を見おろしているが、光琳のは風神を見ている。

 もう一点は、宗達のは、風神と雷神の頭を結ぶ線を引くとほぼ水平だが、光琳のは雷神がやや下がっている。このわずかな構図の狂いがひきおこす効果は劇的で、見比べる価値がある。

 まず、宗達の構図では中央にどっしりとられている余白が、光琳のでは、雷神が少し下がったために消えてしまう。その余白と目線が生み出すダイナミズムで、宗達の風神雷神は天空のはるかかなたで対峙しあっているように見えるのに、光琳風神雷神は、曲がり角で出くわした、みたいに見えてしまう。

 雷神の目線から考えても、宗達が風神雷神の足下に大胆に空けた余白の効果を、光琳は侮ったかに見える。

 宗達の場合、突然の雷雨に逃げ惑う町衆のざわめきさえ、その余白にこめられているといったらいいすぎなんだろうか。光琳のは、風神雷神を天空の高みから、地べたに引き摺り下ろしてしまっている。

 光琳のマスターピースといえば、何と言っても《紅白梅図屏風》だが、あれは、宗達の《風神雷神図屏風》に対する返歌だと言われることもある。宗達のダイナミックな空間表現に対して、光琳は平面的な装飾性をもって答えたのだろうか。岡本太郎がパリで偶然《紅白梅図屏風》を目にして感動に震えたそうである。

 酒井抱一は、宗達の風神雷神図を知らなかっただろうと言われている。光琳のものを模写しているので当然だが、ここでもまた、宗達の持っていたダイナミックな揚力はない。

 しかし、知られているように、抱一は、光琳の《風神雷神図屏風》の裏に、《夏秋草図》を描いた。雷雨に打たれる夏草と、風に翻弄される秋の草を描いて、風神雷神図に対峙させた。

 ここで面白いのは、光琳が、資質的にか意図的にか、持ち得なかった宗達のダイナミズムを、宗達を知らない抱一が、むしろ、獲得してしまっているように見えることだ。天空に上昇する宗達に対して、抱一は足下に下降するのだけれど。

 《夏秋草図屏風》があったればこそ、抱一は江戸琳派と呼ばれうるのだろう。もし、あの屏風がなければ江戸琳派も存在しなかった気がするのだけれど。

 鈴木其一の風神雷神図は、屏風ですらない、襖絵では、宗達の持っていた高揚感は望みようがない。風神雷神のポーズは、もはや記号化しているかも。

 鈴木其一の頃になると、もう明治も近い。安土桃山時代の俵屋宗達が表現した縦方向の空間感覚が、だんだんと引き下ろされ、最後に横方向になるのは興味深い。

 安土桃山時代の空間感覚を日本画がだんだん失っていったと言ってしまえば、それは本当だろうか?。傍証としては、江戸時代は建築にあまり収穫がない時代だったということがあげられる。小堀遠州がかかわったとされる(つまりそれは安土桃山の最後期といえる)修学院離宮以来、明治に入るまで特筆すべき建築は現れなかったようなのだ。

 日本画のコレクターとしても知られるピーター・F・ドラッカーも、特に好んでいるのは室町時代の水墨画だそうだ。西洋画に比べて「絵の中に引き込まれる」というその空間デザインを、過密都市江戸で暮らす画家たちはだんだん失っていったのではないかと仮に考えてみたくなる、風神雷神図の変遷なのである。

 鈴木其一の絵では、千葉市美術館所蔵の《芒野図屏風》と、出光美術館所蔵の《桜・楓図屏風》が好き。根津美術館の《夏秋渓流図屏風》は好きと言っていいかどうか判断に迷う。インパクトがすごいのは確かだ。

 鈴木其一は、ありとあらゆる技法をものした人だった。そのため、かえって「自由に呪われる」といった印象を受けもする。この人を見ていると、明治の日本画が西洋画の影響を受けて、しばらく自分を見失ったようになるのもしかたなかったかと思えてくる。

 西洋との出会いという外因だけでなく、日本画の内側からも、やるべきことはやりつくして、何か新しい展開を待ち受ける機運が熟しかけていたように思える。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20161123

2016-11-20 クラーナハ展

knockeye2016-11-20

 国立西洋美術館クラーナハ展。

 ルーカス・クラーナハは、マルティン・ルターと親交が深く、彼と彼の家族の肖像画を何枚も描いている。

 しかし、それだけなら、500年後の東洋の島国で、展覧会が開かれることはないだろう。画家としてのクラーナハが、今でも私たちに投げかけている謎は、なんといってもエロティシズムなのである。

 それは、今回のポスターにも使われているユディトに典型的に表れている。

f:id:knockeye:20161023004137j:image

 他のユディトの例を見てみると、たとえば、アルテメシア・ジェンティレスキーのユディト。

f:id:knockeye:20161124003332j:image

 レイプされた経験のある、この女流画家が描くユディトは、いかに真に迫っていようとも、ただ、男を殺す女というだけのことである。

 また、カラヴァッジョが描くユディト。

f:id:knockeye:20161124001748j:image

 カラヴァッジョは常にモデルを使って描いた。盾に描いたメドゥーサの首のように、この絵もたしかに人を驚かせるが、ユディトは、まるで初めて魚をさばく女の子のようである。

 クラーナハのユディトは、おそらく伝説の通りか、あるいは、伝説以上に、絶世の美女に描かれている。絶世の美女であることで、人間性を疎外されているといってもいい。人を殺したばかりというのに、一分の隙も無く着飾り、面差しには感情の乱れさえ感じさせない。これに対して、首を切られたホロフェルネスの方は、血の気の失せた顔にまだ射精の恍惚感さえ漂わせているようだ。

 ここにははっきりと死とエロティシズムが描かれている。

 ジョルジュ・バタイユによれば、キリスト教が存在するはるか以前から、死とエロティシズムはともに「悪魔的」である。人間は死を認識することによって動物と区別されるが、死とエロティシズムは、自我という意識にとって、ともに気まずいものだ。

 人は意識を持つことで自我を獲得したが、死とエロティシズムは、ともに自我を破綻させるからだ。死とセックスは、自我という意識が、所詮は仮象にすぎないことをあっさりと証明してしまう。

 すべての宗教が前世と来世を仮定する。もし前世、来世との連続性がなければ、現世の自我は仮象にすぎなくなるはずだからである。厳然たる死という事実を前に、自我という意識の確実さを保証するために宗教は存在する。

 すべての宗教がセックスを忌み嫌う。我々の自我という意識がかりそめにすぎず、我々の生が遺伝子を受け継ぐためだけに存在しているという事実から目を背けるためである。

 にもかかわらず、いうまでもなく、私たちはセックスをする。宗教が死と自我に折り合いをつけるための方便だとしたら、エロティシズムは、セックスと自我の折り合いをつけるための方便なのだろう。

 おそらく、エロティシズムがあるから、私たちはセックスをしつつ自我を保っていられる。私たちがすでに人間である限り、セックスの時にだけ動物に戻ることはできない。だから、動物のセックスはエロくないが、人間のセックスはエロい。

 おそらく、クラーナハの描くこのルクレティアと

f:id:knockeye:20161023001632j:image

沢渡朔の撮った冨手麻妙のこのグラビアは

f:id:knockeye:20161125201723j:image

全く同じ意味しかない。

 しかし、ルーカス・クラーナハだけでなく、アルブレヒト・デューラー、ハンス・バルドゥング、ともに宗教改革派の画家たちが一方でエロティシズムの画家たちであったことは興味深い。

 もう一つ考えられることは、本の誕生だろう。クラーナハはルターのドイツ語訳聖書の出版に協力し、挿絵も描いている。

 宗教改革とは何だったかといえば、キリスト教という信仰を、聖書という一冊の本にしたことだといえる。

 それまでの聖書は、すでに滅びた言語であるラテン語で書かれ、教会の僧侶しか読めなかった。つまり信仰とは教会のことを指していて、聖書は、十字架とか聖像とかと同じように、それに付属するアイテムに過ぎなかった。

 宗教改革はそのシステムを変更した。出版技術がその変更を可能にしたのだが、その出版技術がエロティシズムもまた進化させたのかもしれない。

 逆かもしれない。エロティシズムが出版技術を進化させたのかもしれない。

 ジョルジュ・バタイユは『エロスの涙』に、ラスコーの洞窟絵画について、こう書いている。

「たしかに、人間というものは、本質的に、労働する動物である。けれども、人間はまた労働を遊びに変えることを知っているのだ。私は、そのことを芸術について(芸術の誕生について)強調したい。人間の遊び、真に人間的な遊びは、まず労働であった。つまり、遊びとなった労働だったのである。近づき難い洞窟を乱雑に飾っている見事な絵画の意味は、結局、どのようなものであろうか。

(略)

なによりも、これらの薄暗い洞窟が、深い意味における遊びというもの___労働に対置され、魅惑に服従すること、情熱に応ずることを何よりも先に意味するものである遊び___に捧げられたということは事実なのである。」

 オノ・ヨーコが「アートは生きるのに必要な遊び」と言っていたのを思い出した。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20161120

2016-11-19 「ガール・オン・ザ・トレイン」

knockeye2016-11-19

 「ガール・オン・ザ・トレイン」は、いつも辛口なNEWSWEEKの批評子が、褒めてたので、ちょっと意表を突かれた。エミリー・ブラントが車窓から何かを見ているキー・ヴィジュアルも好みに合う。

 うすうすそう感じてたのだが、エミリー・ブラントルーニー・マーラは、メイクとかカメラアングル次第でほとんど同人物かと思う時があるのは、私だけではないらしいが、個人的には、ちょっとグランジがかっているというか、荒んだ感じの方が、エミリー・ブラントだと区別していたので、今回の、バツイチ、アル中、失業中って役どころは、まさにはまり役だと思う。

 離婚後、居候させてもらってる友だちに、失業したと言えなくて、毎朝、通勤電車に乗って、元・ダンナが後妻と住んでる、元・自分の家を車窓に見ながら都心に出て、暮れ方にまた帰ってくる、そんなやりきれない感じが、エミリー・ブラントによく似合っている。

 そんな毎日の車窓の風景に、勝手に理想化している夫婦の家ってのがあって、その夫婦を眺めるのが唯一の慰めみたいな。

 ところが、ある日、その勝手に理想化している夫婦の嫁さんが、他の男と浮気しているらしい現場を見て、記憶がなくなるまで飲んでしまうんだけど、翌朝、目を覚ますと血だらけ泥まみれ。そして、その「理想の嫁さん」は行方不明になっている。

 エミリー・ブラントは、その失踪の真相を知るべく動きはじめるのだが、このプロットの面白いところは、もしかしたら、最悪は、自分が殺したかもしれないという不安をいつも抱えているところ。

 失踪した女性(ミーガンという名前だと後でわかる)も、主人公が勝手に想像していたほど幸せではなく、ある深刻なトラウマに悩まされていたことがわかってくる。そのトラウマは、主人公の過去とも無関係とまでいえず、そして、実は、元ダンナの後妻・アナとの関わりも分かってくる。

 てな具合で、この映画のシナリオはよくできている。というのは、原作は、主人公・レイチェル、失踪した女性・ミーガン、元旦那の後妻・アナの3人の日記で構成された300頁を超える長編小説だそうなので、それを映画的な構成に組み替える手腕はなかなかなものなんじゃないかと思う。

 それから、エミリー・ブラントもそうだが、アナを演じたレベッカ・ファーガソン、ミーガンを演じたヘイリー・ベネットも、いずれ劣らぬ美女ぞろい。しかも、ルックスが性格とマッチしている。

 長編小説を映画にするのはそもそも無理なんだけど、キャスティングがハマると、小説では長々かかる人物造形が映画では一瞬で出来る利点はある。

 元旦那の作り込みがイマイチなのは残念だが、目立つキズはそのあたりだけかも。その点では、「ザ・ギフト」の方が仕事がていねいだった。

 細かいところで好きなシーンは、レイチェルがミーガンの旦那のスコットを訪ねるシーンで、取り乱しているスコットの、ずり下がっているズボンから、何かの拍子にチラッと見えたブリーフとおへそに、レイチェルが目を走らせるシーン。あのシーンがあるので、ただ車窓から眺めている夫婦に妄想をたくましくするレイチェルの性格に説得力を持たせられる。

 ミーガンのカウンセラーであるカマルを訪ねた時は、訛りを見抜いたり、意外に名探偵ぽかったりするのが面白かった。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20161119

2016-11-17 『小さな城下町』

knockeye2016-11-17
ちいさな城下町

ちいさな城下町

 ときどき手にとってぱらぱら読んでいた『小さな城下町』てふ、安西水丸の紀行文集を読み終わった。安西水丸が死んだ年に買った記憶があるから、3年もほっといたことになるけど、せいぜい去年みたいな感じしかしない。たぶん、こっちももうこのまま死ぬな。

 暇つぶしに読んでるから、読んだはなから忘れてゆく。忘れてゆくけど、まあ、読んでく。

 タイトル通り、ほとんどどうということもない城のあった、ほとんどどうということもない城下町を歩いてくだけの本。そして、ほぼどうでもいい歴史の雑学がちりばめられてる。

 しかし、こういう旅の小品をいくつか並べて見るのも、不思議と飽きない。城下町というくくりも、ちょっとした発明でもあるのだろう。タモリの坂道というくくりもそうだけど、暮らしを楽しむちょっとしたセンスでもあるだろうし、徹底的に孤独な一人遊びでもある。どこかポケモンGO!を思わせる、コレクター心理でもあるような。

 関西にいた頃、信州にいた頃、富山にいた頃は、若かったせいもあるのか、よく一泊二日程度のキャンプツーリングに出かけたものだったが、こっちに来てからは、渋滞にうんざりしてしまって、出かける気をなくした。

 それに、こちらには、映画なり美術館なりの、お手軽な一人遊びがイッパイあるということも大きい。

 小さな旅にはいつも憧れてきた気がする。ロシア横断とか、北海道放浪とかの破滅的行動とは違って、小さな旅には暮らしのセンスが必要だからだろう。

 柳宗悦の民藝運動について書いたところがいくつかあり、中に、柳宗悦は小堀遠州に否定的だったみたいな部分があり、あれ、そうだっけ?と読み返してみたら、たしかにそんな箇所もあった。

 小堀遠州といえば個人的には、それこそ小さな城下町、水口の大池寺にある大刈り込みの庭が印象に強いんだが、綺麗さびと言われるキャッチーな美しさを維持する手間は確かに大変だろう。庭が暮らしに寄り添うべきだとしたら、大刈り込みは確かに特権階級のものであるかもしれない。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20161117

2016-11-15 日本警察の法意識

knockeye2016-11-15

 日本の警察は自分たちが法的な機関だとは思っていなくて、おそらく権力者だと思っている。つまり、自分たちは権力に守られていて、市民に法を守らせる存在だと思って、自分たちは法を逸脱してもよいと考えている。

 取り調べ中に亡くなった医師について、警察側が語ったのは、「この男性は椅子に音を立てて座る癖があったので」とか。完全になめてる。

 取り調べは、いますぐ全面的に可視化すべきだ。

 以下に最近新聞をにぎわせた警察ネタをあげておく。

取り調べ中に暴行され死亡か ほぼ全身に“内出血” 取り調べ中に暴行され死亡か ほぼ全身に“内出血”

バイク元世界王者のワイン・ガードナー氏 日本の警察を非難 - ライブドアニュース バイク元世界王者のワイン・ガードナー氏 日本の警察を非難 - ライブドアニュース

レイプ対策、日本は百年古い=米兵性犯罪、豪被害女性語る:時事ドットコム レイプ対策、日本は百年古い=米兵性犯罪、豪被害女性語る:時事ドットコム

「土人が!」沖縄で機動隊員が罵倒か ヘリパッド建設に抗議する市民に(動画) 「土人が!」沖縄で機動隊員が罵倒か ヘリパッド建設に抗議する市民に(動画)

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20161115