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2016-05-04 イチロー逆転タイムリー

 イチローが、逆転の2点タイムリー。

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2016-05-03 『映画にまつわるXについて』

映画にまつわるXについて

 西川美和の『映画にまつわるXについて』を読んだ。

 「ゆれる」と「夢売るふたり」についての話が多い。特に、「ゆれる」については、その発想の最初から形になるまでの紆余曲折がたどれる。

 「ゆれる」の最初は、別の企画に行き詰っている中、ふと見た夢を是枝裕和監督に話したのがきっかけだったそうだ。

「女に拒絶されて、その男の表情が変わるところ、見てみたいね」

と、言われたのだそうだ。

 是枝裕和という人は、どうしてこうも的確なんだろう。「ワンダフルライフ」という映画を撮っている時のこと、まだ駆け出しの西川美和が、死後の世界へ旅立つところを演じる一般公募のおばあさんたちの持つ履歴書、小道具なんだが、その「死因」という項目を「なくすわけにはいきませんか?」と提案した。是枝裕和は、しばらく考えた後、その項目を消して、「君が今感じた違和感は、これからものを作っていくと、どんどん薄れていくだろう。でも、その感覚を失わないでもらいたい」と言ったそうだ。

 また、香川照之が、「ゆれる」のシナリオについて、第五稿の台詞に戻せと、直談判にくる件りも迫力がある。

 「私は勇気を奮って、もう一度旧稿を読み直すことにした。そして氏の言葉に賭けてみようと思った。『この(元々の)台詞で足らないというのなら、その中に俺は、足らないと言われているすべての意味を含めて表現してみせる。約束する!』そして、今考えると恐ろしいのだ。あの時、鬼が来なければ、この映画において、ある劇的な場面を産み落とすことが出来なかった。」

文中「鬼」とあるのは、「鬼が来た!」で日本兵を演じた香川照之のこと。

 もちろん、その台詞を書いたのは、西川美和なんだが、映画は、こんな具合に共同作業であることに、セッションっていうか、そういう面白さがある。

 真木よう子をキャスティングした話も面白い。あの「ゆれる」のヒロインは、救いのない「やな女」なので、「この『負』の要素を背負ったヒロインを演じることを、どうかポジティブに捉えてもらいたい、と」話したそうだ。すると、真木よう子は、「私が不安になっているとでも?」という顔をしたそうだ。

「しまった。この人は舐めてかかると大変な人だ。やった。見つかった。愛すべき『憎たらしい女』!」

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2016-05-02 「スポットライト 世紀のスクープ」

knockeye2016-05-02

 「スポットライト」は実話なので、映画としてどうこう言うことと、その映画が描いている事実についてどうこう言うことが、混乱するのは避けられないかも。

 例えば、レイチェル・マクアダムスは、「誰よりも狙われた男」の方がチャーミングだった、とか、マーク・ラファロは、「フォックス・キャッチャー」の時の、レスラーらしい身のこなしがまだ残っている、みたいなことを書くと、不謹慎狩りが気になる。

 スポットライトは、ボストン・グローブ紙が誇る調査報道欄の名前であるらしい。その報道チームが、‘ボストンだけで’、約80人のカトリックの聖職者が、信者の子供達に性的虐待を繰り返していた事実を、取材し報道したその過程を、その事実のおぞましさを考えると、驚くほど抑えた調子で描いている。

 抑えた調子っていうと曖昧だが、言い換えると、「こいつが黒幕か!」みたいのが出てこない。観客としては、途中で何度も、「あ、こいつだろ?、分かっちゃった」って思うんだけど、最後まで、全部ハズれる。誰かを血祭りにあげて「ああ、さっぱりした」っていう「2ちゃんねる的な展開」にならない。悪が滅びて善が栄えました、めでたしめでたし、って気持ちで映画館を後にできない。

 リチャード・サイプっていう研究家が証言するように、聖職者の性的虐待は、ほとんど「現象」だといっていいほど普遍的なのだそうだ。全世界の約5%のカトリック司祭が、そうした性的虐待「現象」に陥る。

 非キリスト教として、キリスト教を傍観していると、性の抑圧がひどくいびつな形で現れていると思うことがある。

 たとえば、ユディトとホロフェルネス。

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 未亡人ユディトは、街を救うために、美貌を武器に敵将の褥に忍び込み、寝首を掻く。

 また、聖アガタは、神に操を立てて、異教徒との婚姻を拒み、乳房を切り取られるが、信仰の奇跡で乳房には傷ひとつつかない。

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 16世紀の聖テレジアは、自叙伝にこう書いている。

「私は黄金の槍を手にする天使の姿を見た。穂先が燃えているように見えるその槍は私の胸元を狙っており、次の瞬間槍が私の身体を貫き通したかのようだった。天使が槍を引き抜いた、あるいは引き抜いたかのように感じられたときに、私は神の大いなる愛による激しい炎に包まれた。私の苦痛はこの上もなく、その場にうずくまってうめき声を上げるほどだった。この苦痛は耐えがたかったが、それ以上に甘美感のほうが勝っており、止めて欲しいとは思わなかった。私の魂はまさしく神そのもので満たされていたからである。感じている苦痛は肉体的なものではなく精神的なものだった。愛情にあふれた愛撫はとても心地よく、そのときの私の魂はまさしく神とともにあった。」

聖テレジアの法悦と呼ばれている。

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 ここにセックスの隠喩を見ない人は、純粋でも、敬虔でもなく、性的に未熟だと思う。この映画にも、自分のやったことはレイプではないと言い張る聖職者が出てくるけど、映画でジミー・ルブランが演じている被害者で、重要な証言者のひとり、パトリック・マクソーリーは、記事の出た2年後に、麻薬の過量摂取で死んでいる。

 状況を生き抜くことは誰にとっても困難なことであるにちがいないが、少なくとも彼にとっては、宗教が、障害になりこそすれ、助けにならなかったのはまちがいない。

 カトリックに限らず、宗教にかぎらす、何ものかに自己を委ねて、帰属意識にすがって生きている人たちが、私にはおぞましく見える。右でも左でも、男でも女でも、白でも黒でも、それは同じことだと思う。未熟な人とは、1人になれない人のことを言うのだろう。

 トム・マッカーシー監督作品では「扉をたたく人」っていう、イスラム移民を扱った映画を観たことがあった。あの延長線上にこの映画があるのだと思うと、この冷静な語り口の重みがよく分かる。こうでなければ、問題提起にならなかっただろう。「ウソでもいいじゃん、うちらの方が正しいもん」っていう態度を「偏向」と呼ぶのであって、もし、そういう態度が力を持つとしても、それは、報道の力というのとは違うと思う。

 ちなみに、2015年のアカデミー作品賞と脚本賞を獲得した。

 ボストンは、独特の陰影がある街なんでしょう。ジョニー・デップが、アイリッシュ・マフィアを演じた「ブラック・スキャンダル」も、ボストンを舞台にした実話だったし。

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2016-05-01 「ルーム」

ルーム

 レニー・アブラハムソン監督が、「ルーム」の前に撮った「フランク」は、観ようかどうか迷いつつ、結局、見逃してしまった。マイケル・ファスベンダーがずっとかぶりものをしている、イタそうなミュージシャンを演じていた。

 予告編を見ただけでは、ホントにマイケル・ファスベンダーかどうかわからない訳。攻撃的な設定ですよね。ハマったらでかいけど、はずしたら寒さもひとしおじゃないですか。なわけで、ためらった訳。

 でも、この「ルーム」も、主演のブリー・ラーソンが、アカデミー主演女優賞を獲得したからよいようなものの、変態野郎に拉致監禁された女の子が、子供を産んでそのまま育ててる、なんて、現実にありうるかありえないか、ギリギリの設定じゃないですか。まず、堕ろさせねえか?っつうことがあるし、産んでから捨てねえか?っつうこともある。

 しかし、そういう「常識的」な判断が働くものなら、そもそも、そんな拉致監禁がありえないんだし、だから、そもそも、「常識的」に考えれば、そんな拉致監禁事件そのものが起こらないはずなんだけれど、現実に起こっているのを、私たちは知ってる訳だから、遡って、奇想天外みたいなこんなフィクションが妙にリアリティーを帯びてくる。

 とはいっても、そのリアリティーを保ったまま、ストーリーを展開していくのは、相当な力業なはず。少しでも予定調和的になったら、「ハイハイ」ってなるでしょ。設定だけセンセーショナルで、展開は2時間ドラマみたいな。そういうの、日本映画では往々にしてある、なんなら、ドキュメンタリーですら、予定調和的な結末を用意してくれてる映画監督もいませんか?、誰とは言わねど。

 この映画は、そこがすごかったわ。拉致監禁のサバイバルと、そこから逃げ出すアドベンチャーは、いわば「フリ」にすぎない。だって、そこまでなら、「ランボー」と変わらないわけじゃないですか。拉致監禁されている状況が、どんなにありえなさそうでも現実であるなら、そこから解放された状況も、等価の現実でなければならない。

 突然、拉致されて、理不尽に何年も監禁される、その状況を現実だと想像してみることは、その虚構を、現実にどう接続するかだし、それは、言い換えれば、どうやって虚構性を獲得するかでもある。ある虚構が現実に刺さっていないとすれば、その虚構は現実に並列的な退屈なホラ話にすぎないんだし。

 この映画は、解放された後の現実にも、娘が失踪した親夫婦の現実にも、想像力の探針を深く潜らせる。マスコミ、ご近所、となってくると、最初、ありえるか、ありえないか、ギリギリを攻めていたこの虚構が、観客の現実もしっかり呑み込んでいる。

 「フランク」も、やっぱり観るべきだったのかなと後悔させる。

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2016-04-25 「グランドフィナーレ」

knockeye2016-04-25

 最近に観た映画では「ルーム」、「スポットライト」、「グランドフィナーレ」が良かった。その中でどれか1本だけお薦めするとなると、「グランドフィナーレ」だろう。

 この監督のパオロ・ソレンティーノが「きっとここが帰る場所」っていう、ショーン・ペンの主演映画を監督した人だったと、観終わった後に気がついた。あれは良かった。たしか、クエンティン・タランティーノの「ヘイトフル・エイト」にもシーンが引用されていたと思う。監督目当てでなく観た映画が、2本とも良いとなれば、監督が良いのでしょう。

 そして、この映画で特に重要なのは、デヴィッド・ラングの音楽、マイケル・ケインが演じる主役の老音楽家に、英女王が指揮を熱望する、その楽曲「シンプル・ソング#3」に説得力がなければ、映画が成立しない。

 映画の舞台は、スイスアルプスの高級リゾート、トーマス・マンが『魔の山』を書いた古い保養所で、当時の面影をとどめているそう。サナトリウムというわけではなかろうが、メディカル・ツーリズムの一面もあり、老音楽家は、マネージャーでもある娘(レイチェル・ワイルズ)が、プログラムを組んだ温泉浴やマッサージに身を委ねている。

 同じリゾートには、若い頃から親交のある映画監督(ハーヴェイ・カイテル)が滞在しているが、老音楽家が英女王の懇願にさえ応えようとしないのとは対照的に、彼は今でも現役で、若いスタッフと次回作のシナリオを練っている。

 老音楽家の娘婿は、実は、この映画監督の息子なんだが、こいつが他に女を作って別れ話になり、娘もこのリゾートに滞在することになる。

 そして、「ラブ&マーシー」で、若き日のブライアン・ウィルソンを演じたポール・ダノは、当たり役のイメージにうんざりしているハリウッド俳優で、ハーヴェイ・カイテルの映画監督から出演のオファーを申し出られている様子。

 バラバラのようだけど、すごくうまい設定になっている。どのくらいうまいかというと、映画を観終わって1日たってから、「うまいな!」と気がつくくらい、うまい。この設定が、ラストの、言っちゃうけど、圧巻の音楽に収斂するとは、ちょっと気がつかないもん。

 この映画の大団円というか、大転換というか、転調のひきがねを引くのが、なんと、ジェーン・フォンダなんです。最初、後ろ姿で登場して、ナイフに歯だけ写る。その後の、ハーヴェイ・カイテルとのシーンは息を呑みます。

 ヴァイオリンはヴィクトリア・ムローヴァ、歌はスミ・ジョーだそうです。圧巻です。

グランドフィナーレ公式サイト

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