だうなあ日記~blog RSSフィード

<< 2017/03 >>
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

2017-02-25 草間彌生 わが永遠の魂

knockeye2017-02-25

 今週もいろいろあったんだが、毎月のことながら、月末に近づくほど忙しく、ブログの更新がおろそかになるが、まあ、それはともかく、今週、とりあえず書いておきたいのは、この水曜日から、国立新美術館で開催されている「草間彌生 わが永遠の魂」。

 ついこないだ埼玉で観たばかりのはずだが、旺盛な制作意欲に圧倒される。

 今回の展覧会は、二部構成になっていて、一つは最近作、もうひとつは、レトロスペクティブって感じ。最近作をずらっと並べた部屋は、携帯電話にかぎって撮影可になっていた。携帯電話は不可、カメラは可ってのはまあまああるが、その逆はめずらしい。

 それはともかく、その最近作がすばらしかった。

 草間彌生については「反復」ってことがよく言われるのだけれど、草間彌生の「反復」は、高い絶壁によじ登っては落ち、よじ登っては落ちっていうのを毎日毎日繰り返している人のような、見る者を圧倒する力がある。

 リフレーンだったり、再放送だったり、セルフコピーだったりというのではない。激流の中を泳いでいる人がそこにとどまっているように見えるようなもがくエネルギーを感じる。

 わたしなんかは、十代のころから、ほぼ惰性でずっと美術館通いをしている気がしているのだが、草間彌生の「反復」はそういうのじゃない。襟を正される思いがした。

 実際に、この美術館の壁を、草間彌生という人が、よじ登って落ち、よじ登って落ちした痕跡がこの絵なんじゃないかと、一瞬、そんな、幻視ではないが、錯覚でもなく、気配というよりはもっと強く、やっぱり痕跡というのが一番近い気がする。

 あんなの初めて見たのは、展覧会の入場に行列ができるのは珍しくないが、ショップのレジの行列が、廊下にまであふれて三重くらい続いてた。私は図録だけだったので、地下のミュージアムショップで買ったんだが、図録以外も買う人は並ぶしかなかったわけで、グッズを買う人があれだけいたということなんだろう。それも草間彌生という人の特長だろうと思う。美術館の枠に収まりきらないライブ感があるんだと思う。

f:id:knockeye:20170225132747j:image

f:id:knockeye:20170225132751j:image

f:id:knockeye:20170225132859j:image

f:id:knockeye:20170225133010j:image

f:id:knockeye:20170225133014j:image

f:id:knockeye:20170225133104j:image

f:id:knockeye:20170225133155j:image

f:id:knockeye:20170225132539j:image

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20170225

2017-02-19 「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

knockeye2017-02-19

 ジャン=マルク・ヴァレって監督は「ダラス・バイヤーズ・クラブ」、「わたしに会うまでの1600キロ」、そして今回のこの作品。何か共通点があるだろうか。大概の監督は、たとえて言えば、コード進行が似ていたりするのだけれど、そういう手癖みたいのが見えない。ちょっと不思議な監督かも。

 「わたしに会うまでの1600キロ」と今回の映画の共通点をあえて言えば、喪失感だろうか。

 喪失と死の違いは、死が決定的に極私的であるのに対して、喪失はそれがどんなものであろうとも、関係に生ずるものである。あたりまえのことをややこしく言ってみました。言い換えれば、死ぬときはだれでも一人だし、人は自分の死以外に死を経験しないし、知ることもない。残されたものが経験するのは死でなく喪失なのだ。

 自分とかかわりのある誰かが死ねば、その関係には喪失が生ずる。関係が喪失するのではなく、関係に喪失が加わるだけ。どんなに最愛の人であっても、死は絶対に極私的なので、かけらほども理解できるはずはないのだが、人は喪失ではなく、死を知りたいと望んで、死について考え、多くの場合、自分の喪失には気が付かない。この映画の主人公は、突然の妻の死でそうした喪失を経験する。

 泣こうとするけれど泣けない。人間って誰も、死も喪失も想像すらしないで生きている。明日も昨日と変わりないだろうと思って生きている。だって冬になれば、夏の暑さを思い出すことすらできないんだからね。たった半年前なんだけど。そんな人間が別れを覚悟して生きているなんて絶対うそなのである。

 主人公の周りの人は、最愛の人を亡くしたのだから、打ちひしがれているだろうと考えて先回りして泣いたりしているが、喪失はそんなふうに訪れないみたい。

 西川美和監督の「永い言い訳」と比較されたりしているようだが、この映画の秀逸なところは、奥さんが亡くなった病院の自販機で、買おうとしたm&mが出てこない、その苦情の手紙に主人公の喪失感を書かせるところ。そのファンタジーがこの映画を動かしていく。

 西川美和監督も是枝裕和監督も好きだけれど、ちょっと自然主義的な縮こまり感は感じる時がある。是枝監督は「空気人形」とか、そういう部分は他の原作で補っているみたい。西川美和監督は「ディア・ドクター」も「ゆれる」も、現実にありそうなところから想像を膨らませていくように思う。

 ジャン=マルク・ヴァレ監督の前作ふたつは、たしか、実話だったはずなんだけど、今回の、なさそうだけどあるかもしれない想像の跳躍力はなかなかのものだと思った。

 ちなみに、この映画の原題は「Demolition」、破壊という意味だそうだ。『破戒』なら島崎藤村だけど、たしかにそのままでは日本の客は入らないだろう。邦題はなかなか凝っている。「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」っていう。これは映画の中に出てくる言葉なんだが、ちょっと詩的に訳しすぎて意味が分かりにくくなっている。

 主人公のクルマのサンバイザーの裏に、奥さんが生前隠していたメモの言葉なんだが、字幕ではこの邦題そのままだったのだけれど、意味が分からなかったので後で検索しまくった結果、「If it's rainy, You won't see me, If it's sunny, You'll Think of me.」と書いてあったのだそうだ。

 サンバイザーの裏なので、「雨だったら見ないでしょうけど、晴れたらこれを見つけて思い出してくれるでしょう。」って、仕事にかまけている主人公に、ちょっとした皮肉をこめた奥さんの伝言だったわけだった。たしかに原文も韻を踏んでいるけれど、これをどう字幕にするかは難しかったのは理解できる。

 奥さんの死と主人公の喪失感が、二人の関係性の中に回収されていく重要なポイントだった。

 もうひとつ美しい場面だなと思ったのは、奥さんのお墓の前に立つ主人公に、ある人が歩み寄ってくる。ネタバレというほど大げさではないが、一応隠しておきたいと思う。喪失の物語が輪を閉じる。

 主演のジェイク・ギレンホールは、前の「ナイトクローラー」を観ようか観まいかと迷いつつ観なかったんだけど、今回の方がたぶん好きだったろうと思う。

 ナオミ・ワッツは、思い出してみるとめったにはずさない人ですね。「ヤング・アダルト・ニューヨーク」、「ヴィンセントが教えてくれたこと」、「バードマン」、「恋のロンドン狂騒曲」、「愛する人」、「ザ・リング」、「マルホランド・ドライブ」って、どれも好きです。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20170219

2017-02-18 「ナイスガイズ!」

knockeye2017-02-18

 ライアン・ゴズリングラッセル・クロウの「ナイスガイズ!」。

 「ドライブ」のライアン・ゴズリングが、まるで別人みたいにドジな探偵を演じるっていう、そのギャップですでに笑える。ラッセル・クロウとのコンビは、ルパン三世と次元大介みたい。

 それも時代は1977年。ベトナム戦争は終わった。ジョン・レノンは生きてる(3年後に死ぬけど)。でも、ビッグ3にマスキー法が骨抜きにされてLAの空はスモッグでどんより。

 そんな時代特有の小ネタも含めて、脚本がすごくうまいと思ったら、監督・脚本はシェーン・ブラック、制作はジョエル・シルヴァーって、「リーサル・ウェポン」のコンビ。「リーサルウェポン」って、1987年だそうだから、その作者2人が久しぶりに映画つくろうってとき、時代を「リーサルウェポン」の10年前に戻してみたってのが面白いと思う。

 いつの間にかアメリカ映画には「デトロイトもの」って分野ができあがってるんじゃないだろうか。たとえば、「ロボコップ」あたりにはじまり、最近では「ドント・ブリーズ」、「イット・フォローズ」、「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」。デトロイトを舞台にしないとしまらない。デトロイトって街のすさんだ感じが、映画に強い香気を付け加えているのは間違いないと思う。

 この映画は、デトロイトが荒んでしまう前夜。この後、デトロイトがダメになっていくんだなってことが、いやというほどわかる。映画自体は確かにフィクションに過ぎないんだけど、事実、日本車が次々と排ガス規制をクリアしていくのに、ビッグ3は「科学的根拠がない」とかいって、排ガス浄化に取り組まず、ロビー活動で自分たちの既得権を守ろうとした。

 詳しく書くとネタバレになるから書かないけど、ライアン・ゴズリング演じるマーチが「そのうち日本製の電気自動車であふれかえるさ」みたいな、まるでフランシス・フォード・コッポラの「タッカー」めいたことを言う。でも、「タッカー」の予言と違ってこのセリフの渋いのは、微妙にずらしているところ。

 絶妙にずらすってのはやっぱ職人技なんでしょうね。たとえば、これもネタバレになるからふわっとした言い方しかできないけど、アメリアって女の子が残したメモについてすったもんだするんだけど、その行き違いが絶妙。

 また日を改めて書くけれど、いま、東京ステーションギャラリーで「パロディ」って展覧会がやってるんだけど、この映画はパロディではないね。もし、現代を舞台にしていたらパロディにならざるえなかったのかもしれない。でも、70年代に設定したことでコメディになりえたんじゃないかって気がする。どちらかというと、ボブ・ホープビング・クロスビーとかそんな系譜を思い出させる。ネタとアイデアをちりばめたコメディなんじゃないだろうか。

 来週は「ラ・ラ・ランド」を観るんでしょう?。ライアン・ゴズリングつながりでこれもご覧になったらいかがでしょう。ちなみにアメリアって子を演じているマーガレット・クアリーは、ハリウッド版「デス・ノート」のミサミサをやるそうです。

f:id:knockeye:20170220232222j:image

 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20170218

2017-02-17 『去年の冬、きみと別れ』

knockeye2017-02-17
去年の冬、きみと別れ (幻冬舎文庫)

去年の冬、きみと別れ (幻冬舎文庫)

 『掏摸』が面白かったので読んでみた。

 『掏摸』の方が面白い。

 どこが問題かといえば、殺人容疑で捕まっている写真家の性格がぶれてる。

 今度の蝶の写真家は、死んだ蝶に興味はないと彼自身が言っている。現に、乱舞する蝶の写真が代表作である。その意味で、コレクターではない。だとしたら、ウィリアム・ワイラーの映画「コレクター」のような女性監禁事件を起こすのは、彼自身の信条に反する。

 人が信条に反することをするのは珍しくないが、だとしたら、この男は凡庸な性犯罪者にすぎなくなってしまう。

 芥川龍之介の「地獄変」のマネをして失敗したと、人形師に評されるが、「地獄変」の主人公は、自分の娘が焼き殺されているのを目にして、絵筆を走らせてしまう業の深い絵描きである。そういう画家にあこがれているとしたら、それがすでに凡庸な作家であることを証明しているだろう。

 一方で近親相姦のテーマがある。蝶の姿に仮託しているのが美しく残酷な姉の姿だとしたら、この姉弟のモデルとカメラマンとしての関係は相互依存的だろう。写真はセックスの代替行為だったはずである。写真を処分してしまういきさつに説得力がない。

 この写真家と人形師がシンパシーを抱くのは分かる。どちらも一瞬をとらえようとする志向を持っている。ところが、この人形師は狂言回しみたいな役割しか演じない。

 事件の仕掛けは面白い。だから、この小説は、登場人物の性格とミステリーとしての仕掛けがミスマッチなんだと思う。『掏摸』の場合は、掏摸である主人公の無意識にまで掏摸がすりこまれていて、それほどの職人技が見事なラストにつながる。それと比べると、今回の写真家は途中で魅力を失う。スランプだったとうわさされていたことになっているが、そういうことだろうと思う。

 蝶の写真家、その姉、人形師、この三人を深く追い詰めていったら、別の物語になったろうと思う。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20170217

2017-02-14 アメリカ社会の健全さについて

knockeye2017-02-14

 KKKの幹部が射殺体で発見されたらしいが、これはアメリカ社会にとっては望ましいことだと思うし、アメリカ社会がまだ健全であることを示していると思う。

白人至上主義KKK最高指導者、ミズーリ川近くで射殺体で発見 警察は妻のFacebookを疑問視 白人至上主義KKK最高指導者、ミズーリ川近くで射殺体で発見 警察は妻のFacebookを疑問視

 去年の9月に「黒人の命だって大切だ」運動の主導者だったダレン・シールズって人が、射殺されたあとクルマに火をつけられて殺されている。

「黒人の命だって大切だ」運動の主導者ダレン・シールズさん遺体で見つかる 殺人事件か 「黒人の命だって大切だ」運動の主導者ダレン・シールズさん遺体で見つかる 殺人事件か

 こういう事件があった半年後に、白人至上主義を公然と標榜する差別主義者が「悲惨で、容赦なく殴打」され、頭に銃弾をぶち込まれたのは、社会のバランスとして実に正しい。

 フランク・アンコナというらしいが、KKKなんて頭巾をかぶって正体を隠して活動するのがスジである。それを、アメリカのような銃社会で、顔も名前もさらして、差別活動をするなんてことは、殺してくれと言っているとしか思えないが、それを、当人はそう思わなかったからこそ、顔も名前もさらしているのだろう。それはとりもなおさず、差別されている側の痛みを全く理解していなかったってことだから、殺されて当然で、殺されて当然の人間が殺される社会は健全な社会だと思う。

 アメリカでは黒人が警官に殺されまくるわけだが、警官になる白人のうちの何パーセントかは黒人を殺したくてなるのだろう。それとも、アメリカの白人に差別主義者なんていないとでも?。

 おそらく、アメリカ社会は、差別主義と戦い続けることでしか健全さを保てない。それは、いうまでもなく、誰かが黒人であるというだけで殺されたなら、誰かが白人至上主義者を殺すってことである。

 白人至上主義者が殺されたってニュースを聞いて「ざまみろ」と思わなかった人間は信用できない。白人黒人に関係なく「ざまみろ」と留飲を下げた人が多かったと信じている。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20170214