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2015-02-27 「アメリカン・スナイパー」

knockeye2015-02-27

 今週はもちろん「アメリカン・スナイパー」のお話。

 公開初日に観にいくつもりでいたのだけれど、TOHOシネマズのvitで予約しようとしたら、「え」という混雑、ここはあえて初日をはずして日曜日の朝イチで観た。それでも満席だったけど。

 あの無音のエンドロール。芝山幹郎のレビューを読んだけれど、アメリカではあのエンドロールの間に席を立つ観客はいないというが、わかる気がする。あの静寂に何かがまだ鳴り響いていて席を立てない。音の残響というより、重い荷物を下ろした後、指がじんじんしている、あの感じに似ている。

 映画を観ている間、これがクリント・イーストウッドの作品だということを忘れていたが、この映画ほど、クリント・イーストウッドが現場のたたきあげだと感じた映画はなかった。

 世界中のいろんな町に映画館があって、その映画館に観客が映画を観にやってくる、その映画を作る現場を、クリント・イーストウッドは熟知しているということだ。

 映画を作っているだけでなく、映画で考えてさえいると思った。

 これほど圧倒的な映画を観た後で、右だ左だの議論しかできない連中の薄っぺらさにはあきれざるえない。

 宮崎駿の「風立ちぬ」を思い浮かべてしまうのが不思議だけれど、宮崎駿の方がすこし年下だが、第二次大戦を少年として体験したふたりにとって、戦争は人間の現実なのであり、学者の議論のような空疎なものではないのだろう。

 ここに人間の現実が描かれている。この映画が、能うかぎり自覚的に人間的であろうとした人の内面の記録であり、そうしたことが映画で描きうることを、私はいまさら驚きもするが、クリント・イーストウッドにとっては、西部劇の昔から、そうしたことを描くことが映画だという思いに疑いを抱いたこともないのだろうと、今回あらためて気がつかされたわけだった。

 「日本よ、これが映画だ」というコピーで炎上した映画があったが、そのコピーはこういう映画にこそつけてほしかった。

「アメリカン・スナイパー」と場内の沈黙 : 芝山幹郎  娯楽映画 ロスト&ファウンド - 映画.com 「アメリカン・スナイパー」と場内の沈黙 : 芝山幹郎  娯楽映画 ロスト&ファウンド - 映画.com

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2015-02-21 『てんやわんや』

knockeye2015-02-21
てんやわんや (ちくま文庫)

てんやわんや (ちくま文庫)

九年前の祈り

九年前の祈り

 寒いと出掛けるのがおっくうになる。雨の日はもちろん、晴れたら晴れたで、明るい部屋から出たくなくなる。それで先週末は読書して過ごした。

 芥川賞を受賞した「九年前の祈り」という、小野正嗣というひとの小説を文藝春秋で読んだ。例によって、選評とともに読む。そういう読み方は、ニコニコ動画をコメント付きで見るのと同じ気分なのかもと考えてみると、芥川賞受賞作に対する自分の期待度は、いつのころからかそんなに高くなくなってるんだなと思いもする。スター誕生みたいな華々しさは、芥川賞にはもうなくて、受賞作を読むときも、地味だけどいい小説みたいなのを求める気分でいる気がする。本来、そういう賞だったのかもしれないけれど、賞の主催者、受賞者、読者のそれぞれの間に微妙なミスマッチが生まれている気がしないでもない。

 「九年前の祈り」はいいと思うけれど、そんなことより、この作者の小野正嗣という人のほうに興味を持った。大分の産で、お父さんもおにいさんも地元で建設作業をしていて、大学に行ったのはこの人だけ、それも東京大学。東京大学って金持ちの世襲みたいなイメージあるけど、こういう人ももちろんいるにはちがいない。それで、フランスに8年間留学してる間に、イギリスの大学を出てパリでフランス語の勉強をしていた大阪の女性と結婚した。そういう人から出てきた小説と知って読むと、これは味わい深い。

 経歴が奇妙な具合に浮世離れしているって感じてしまうんだけれど、反省してしまったのは、「浮き世」っていうその感覚が、今はたぶんにマスコミ製で、世の中、右傾化してるとか、格差が広がってるとか、信じても信じなくても、とりあえずそれを「浮き世」と受け入れてしまっている。しかし、自分のまわりを見回して、子供の頃から較べて、右傾化しているとも、格差が広がっているとも思わないんだよね。ヘイトスピーチの現場とかにでかけてみたら、そう思うか?。イヤイヤ、バカは昔からいる。めずらしがることはない。

 「右傾化」とか「格差」とかは、二次的な情報にすぎなくて、事実そのものではないということを、常に確認しておくことは重要だなと思った。というのは、事実はすくなくとも‘なにものか’だけれど、二次情報の方は何でもなくて、どうせ時代が変われば、上書きされる。たとえば、5年後くらいでも、今の「右傾化」とか「格差」とかをマスコミが言い続けているかどうか微妙だと思う。なかったことにしてる可能性もかなりある。

 「九年前の祈り」は短編なので、そのあと、獅子文六の『てんやわんや』を読んだ。フランス帰りという意味では、小野正嗣といっしょだ。

 終戦直後、愛媛の架空の町を舞台にした小説なんだけれど、とにかく面白かった。こういう小説を読んだ方が戦後が分かる。映画化もされているらしい。ヒロインの淡島千景(扇千景ではないよ)は、これが映画デビュー作だった。

 ところで、前の日の記事に「報国婦人会」とか書いたのは、これを読んでいたせいだったらしい。軍国少女があっさり変身する、その感じを読んで、ふと思ったのは、今、リベラルを自称して、慰安婦云々いってるおばさんたち、もしかしたら、軍国少女だった可能性あるかなと思っちゃって、そう思うと可笑しくなってね。

 「浮き世」の先頭に立って騒ぎたい人たちって、いつも一定の割合でいるよね。「慰安婦問題」は、韓国のナショナリズムという一面(私はそれがすべてだと思うけれど)があることは否定できないはずなのに、そのファクターはあえて無視しちゃうのは、そこに目配りすると、騒げないからだと思うんだ。

 バランスの取れた視点を欠いているのだから、騒ぎたいという欲動が先で、理屈は後と言われても仕方ないと思うけど、どうだろう。騒ぎたい欲動の根源にあるのは、慰安婦の事実よりも、その個人のトラウマだったりすると思う。

 慰安婦の事実が悲惨であったには違いない。しかし、あの戦争全部が悲惨だったのだし、しかも、70年前に無条件降伏で終わった戦争で、関係者は縛り首になってるのに、そこだけとりあげて、しかも、今、現在の日韓関係にまで破綻を来すという朴槿惠の態度は、父親と日本人の関係を見ていた少女時代のトラウマにあるだろうと考えるのは、「慰安婦問題は人権問題だ」という意見より、よほど現実的だと思うのは、たぶん、多くの人が思っていることだが、リアルすぎて口にできないだけだろう。それに、日本にバカみたいな差別主義者がいることも厳然とした事実なんだし、こいつらを勢いづかせるのも困りものだし。

 厄介で滑稽なのは、先の戦争を引き起こした‘皇軍’の軍人たちにも、似たような西洋コンプレックスがあっただろう(‘皇軍’って名乗ってるその心理がすでに)ということで、だから今の朴槿惠の態度は、二重に滑稽なんだけど、そういうコンプレックスやトラウマと言った心理的要素が、とんでもない方向に政治を導いてしまうことが、現にあるわけだから、これは迂闊に笑えないわけ。

 これを書いているのは実は、「九年前の祈り」が掲載されていた文藝春秋に、鹿島茂と森千香子の「パリ風刺画テロの背後にイスラム移民」という対談がのっていた中に、鹿島茂がエマニュエル・トッドの説を引いて、

「彼は、国民性は家族形態から生まれてくると論じました。人間の集団は家族を無意識に発展させた。だから、親子関係を縦軸、兄弟姉妹の関係を横軸にしてみれば、世界のたいがいの民族は分類できると考えました。そして、それぞれの国の国籍に関する法律は、この分類と一致するのです。」

として、図にしていた世界各国の国民性がすごく説得力があって、そのすこし後に、

鹿島 ・・・イスラム系移民の場合、砂漠の中にいたときは、父がどっしりと構えていたものが、都市の中ではタクシーの運転手など人に使われる立場になってしまう。それによって権威が崩壊するのです

森 確かに、父が不在であったり、父がいかに侮辱されたの見ていて、どれだけ屈辱感をおぼえたかという話を移民の方から何度も聞いたことがあります。・・・

 タクシー運転手がていねいな接客をするのは別に侮辱でも何でもないし、客に侮辱されても彼の価値は減じない。問題は、それを見る子の視点にあるし、その親子関係は彼が属する社会のイメージから逃れられない。朴槿惠の世代を考えると、今の彼女の態度は、このイスラム教徒の親子に重なってしまう。

 金大中の世代をタクシー運転手の世代になぞらえてみよう。彼自身のプライドは何も傷ついていない。むしろ、彼は立派で尊敬されている。大統領でも、タクシー運転手でもだ。しかし、子はそうは思わない、タクシー運転手でも大統領でも。それは、韓国も日本と同じく、親子関係が権威主義的で兄弟姉妹も不平等という似た構造の社会だからなのかもしれない。日本で慰安婦問題が盛り上がるのも。

 私自身は、スタンスが少し違うなと感じるのは、浄土真宗の門徒だからだろうと思う。でも、浄土真宗は、日本最大規模の信者数を抱えている宗教のひとつだし、浄土真宗以外の宗教の信者であっても、韓国のようにもろに儒教的である人は少ないと思う。日本の歴史の複雑さはこれで、儒教、神道、仏教、の要素を誰もが少しずつ抱えている。うちのじいさんなんかは、門徒総代と氏子総代をかけもちしていた。

 しかし、日本も昔からそうだったわけではない。聖徳太子あたりの時代に遡れば、宗教戦争も起こっている。白洲正子によれば「本地垂迹」は神道と仏教の対立を克服する思想だった。本地垂迹は賞味期限が切れていると思うけれど、すくなくとも、排他的な伝統は日本にはないと断言できるだろう。日本に根付かなかった宗教は、信長時代のキリスト教だ。彼らは排他的だったから。

 今の排他主義者もたぶん消えていくだろう。というか、そもそもたいした存在だと思わない。それよりも問題なのは、鹿島茂の対談でも触れられている、移民に対する政治のスタンスの確立で、教育とか、税とか、政治参加とか、どちらかというと地方政治で対応すべきことが多いと思うので、その意味からも、これから地方の重要性が増していく気がする。 

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2015-02-16 植村隆の弁明

knockeye2015-02-16

 女子挺身隊と慰安婦を混同して記事を書いた植村隆という人が、なんか文藝春秋とか、西岡力とか、櫻井ようこを訴えているようで、国際記者クラブで記者会見を開いている。「わたしは捏造記者じゃない」というのが主旨らしいが、この人は、ことここにいたって、自分の保身しか訴えることがないのだろうか。

 この人の書いた記事が間違いだったのは事実だし、情報を隠していたのも事実だし、それを30年以上も放置していたのも事実なので、これを総合的に判断して「捏造」といわれても「名誉毀損」と言うほどとは思えない。むしろ新聞記者は、その程度の批判にさらされて当然の立場ではないのか。

 慰安婦という存在がいた。その人たちがいま気の毒な立場にいるので、そこに補償をしましょうと言うことに異論のある人はほとんどいないはずなのに、なぜそこに、奴隷狩りのような扇動的な嘘を、自他共に認める‘くぉりてぃぺいぱあ’なそうな朝日新聞が言いふらして回ったのか。現実には、そのことが問題の解決を難しくしている。

 それにそもそも慰安婦問題は、日韓二国家間の問題なのか?。第二次大戦中、韓国が連合国側にいたわけではない。当時、韓国は日本の属国だったのだから、当然、韓国はこちら側で戦っていた。韓国人の慰安婦もいた。しかし、日本人の慰安婦もいた。その一方で、日本人の兵士も、韓国人の兵士もいたのだ。

 その後、日本は韓国に補償したのだけれど、それは、敗戦国が戦勝国に支払うものとは意味が違う。個々に賠償することを選ばず、国として一括で受け取った韓国の選択は、その後の発展を見れば、別に間違っていなかっただろう。

 それではいったい、現時点で、何が未解決の問題なのか、冷静に考えてもらいたい。いったい「慰安婦問題」と呼ばれるその問題とは何なのかといえば、朝日新聞が、一連の虚偽報道で煽り立てた憎悪の感情、それこそが、問題の本質ではないだろうか。

 ‘「従軍慰安婦問題」は、実際は、日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情をたきつけ、国民を憤激させてしまいました。’と、盧泰愚大統領も発言している。

 そういう‘日本の言論機関の方’が、いま、世界に対していうべきことは、「私は捏造記者ではありません」という、保身のための言い訳だけでなく、ジャーナリストとして何か言うことはないのかと、不審に思うのはおかどちがいなんだろうか。

 もう一歩踏み込んでいえば、結局、この人があの記事を書いた本心は‘大衆扇動の誘惑’にすぎなかったのではないか。なぜ、「親に売られた」という情報を隠したのか。それではインパクトに欠けると思ったからではないのか。

 この人にかぎらず、新聞記者になろうという人たちの多くは、‘大衆扇動’のゆがんだ快楽に動かされがちだと思うが、人間観察としてまちがってるだろうか。自分が書いたことで人が騒ぐのがうれしい、自分がそれと示唆した方向へ、人が雪崩を打って走っていくのが見たい、それがまあ、新聞記者の本性だろうと思うが、何か異論でも?。そうでなきゃ、サンゴ事件みたいのを起こさないですよね。

 誰も慰安婦そのものがないとは言っていない。ただ、強制連行の証拠はないですよねと言っているだけ。別に当時の皇軍連中をかばってやるつもりはない。日本史上最低のクズたちだ。しかし、私が韓国の人たちに言いたいのは、今、あなた達がとらわれている偏狭なナショナリズムは、あのクズたちのそれとどれほど違うのかということだ。

 さらに深刻な問題は、朝日新聞の、字義通りのデマに焚きつけられたナショナリズムのために、韓国の民主主義が被っている影響だ。金大中という政治家は、20世紀の東アジアを代表するすぐれた民主主義者だったと思う。彼を支持して、軍事独裁体制を倒した韓国の市民を私は尊敬している。日本がなしえなかった自主的な民主化を彼らはなしえたのに、くだらないナショナリズムのために、韓国の民主主義が後退するとしたら残念なことだ。

 朴菫恵は朴正煕の娘なのだ。産経新聞記者の逮捕に続いて、李石基元議員の有罪判決や野党の解散など、これは、拷問を繰り返した1980年代に返りつつあるのではないかという懸念を抱かざるえない。

 日本のいわゆるリベラルなひとたちが、証拠も曖昧な慰安婦問題で騒いで、なぜ今の韓国情勢に平然としていられるのか私には分からない。リベラルは本来、水平思考の持ち主でありそうなものだが、彼らは結局のところ、朝日新聞を頂点とした「縦の秩序」に連なりたいだけではないのか。だとしたら、戦時中の報国婦人会とかなんとかそういった愛国団体の心理と何にも変わるところがないじゃないか。日本人はそう簡単に変われない。そういうことだろう。別に驚かないけれど。

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ななしななし 2015/02/18 16:51 植村記者の義母…疑われる要因もありますし。

所謂リベラル(個人的にはリベラルとは思えない日本固有の左)メディア、特に偏向な朝日の報道ステーションやTBSのサンデーモーニングや報道特集で出てくる評論家やジャーナリストみて思ったのですが、自由や権利を主張して、それを批判されたら言論弾圧だ、権力だ自分は被害者、弱者と騒いで報道。
これがセットお決まりですよね。
沖縄の米軍基地の反対なども実際と報道では違いがある。
反対活動家の当たり屋が被害者になってるし。

権力の監視は正義だと言うけれど、事実じゃない報道も正義?
ただの反体制、プロパガンダにしか思えず。
もう報道が信用が出来ません。。

ななしななし 2015/02/18 16:59 日本の所謂リベラルってリベラルじゃなく日本特有ですよね。
イメージは反米、反日(平和と言う名の弱体化推進)、親中国・朝鮮、社会主義みたいな。

knockeyeknockeye 2015/02/21 22:21 コメントありがとうございます。
戦時中は「日本は戦争に負ける」って言ってた人が売国奴呼ばわりされてたわけじゃないですか。でも、ホントは、「日本ヨイクニ、神の国」って言ってた人が売国奴だったじゃないですか。
今の騒動の発端を振り返ると、橋下徹が言ったのは、「過去の侵略は認めるべきだけど、抗議すべきことは抗議すべきだ」というにすぎなくて、ごく、まっとうなことにすぎないんですよね。
リベラルな人権派を自称している人たちが、感情的に世論を誘導するやり方は、なんか戦時中の愛国者とかぶって見えちゃうんですよね。

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2015-02-15 「味園ユニバース」

knockeye2015-02-15

 「味園ユニバース」を観てきた。「ジャージー・ボーイズ」と「バーレスク」を足して4で割ったような。渋谷スバルの歌う「古い日記」がすごくいいし、彼と二階堂ふみの‘目ぢから’が大阪の濃い空気によく映える。

 ただ、難点をいえば、悪役のやくざが大阪っぽなかったな。あそこにもうちょい‘愛嬌’がないと。

 それと、観る前の映画評にも見かけたけど、‘バット’は記号を脱し切れていませんね。痛みを感じさせない。

 暴行されて記憶喪失になる、そのきっかけのバットは、最後のもっていき方に必要だったからで、そこが予定調和的だったように感じるのは、二階堂ふみと渋谷スバルの存在感が、バットの痛みを超えてる。内面の痛みだけで押し切れたと思う。

 最後のライブシーンがストーリー上のカタルシスにはなっていないよね。それはシナリオで、やくざやさんのストーリーと音楽系のストーリーがうまく絡み合ってないからなんだよね。

 赤犬のボーカリストとしてポチ男を手放したくないというカスミと、茂雄を始末したいというやくざやさんの思いはどっちにしろ我欲なんだよね。その我欲のぶつかり合いが昇華するのが最後のライブシーンであるべきだった。

 そうすると、こってこての浪花節のド演歌のブルースのべたべたな展開にはなるから避けたい気持ちもわかるけど、そのべたさに耐える存在感だったと思う、今回のキャラクターはみんな。だから、やくざやさんの作り込みが甘かったのが惜しい。

 ただそれはシナリオの話で、映画としては、渋谷スバルと赤犬の音楽、二階堂ふみの存在感、そして、大阪の空気感で、楽しめる映画だと思う。二階堂ふみの大阪弁はうまいわ。「しょうもな」っていうあの感じ、関西の人しかわからないかも。まあ、観にいって損なことはないわ。

 

 

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2015-02-14 菅 木志雄

knockeye2015-02-14

 東京都現代美術館に、菅木志雄の展覧会を観に行った。

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 こういう感じ。枯山水の前に立ったような気分。

 お正月のテレビで観たのだったか、竜安寺の石庭をサルトルがむやみに褒めた後、エリザベス女王が訪ねたのだそうだが、ひとこと「私にはわからない」と言ったそうだ。

 だけど、その「わからない」は、横で愛想笑いしている坊主のご託が「わからない」と言ったのであって、そもそも、庭なんて別に分かるも分からないもないので、お芝居でも映画でも、横でごちゃごちゃ言われるのがいちばんむかつく。庶民の言葉に翻訳すれば「ちょっと黙ってろ、うるせえぞクソ坊主」ということだったのだろう。

 竜安寺の庭を思い出すついでにそんなことを思い出していたんだけど、サルトルは「文化は守られるべきではない」とも言ったのではなかっただろうか。「そもそも何だったのか」と問い始める頃には、それが終わっているのは確かだろうが、そういう問いかけを残した文化は、やはりたいしたものだと言えるのだと思う。要は、その問いかけに対するてめえのろくでもない答えを耳元でごちゃごちゃいうなということ。

 菅木志雄の作品に竜安寺の石庭を連想したのは、同じように問いかけをそこに感じたからだろう。禅問答といわれる禅の公案には問いはあるが答えはない。と言うか、正解はない。仏教と、キリスト教、イスラム教の違いはいろいろあるだろうけれど、そのひとつにこの答えのなさがあげられるだろう。仏教には絶対者が存在しないので、答えが啓示されていない。仏教は問いかけであって答えではない。

 1970年代に、菅木志雄から発せられたこれらの問いかけが、いまだに有効であることがとても新鮮に感じられた。外界に向かってどのように問うことができるか。結局、それ以外にアートはないんだろうと思う。

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