欲望を持てる人間

Denim(初回限定盤)

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長い間、置きっ放しになっていた竹内まりやの『デニム』を聴いた。
忙しさは言い訳でもあるけど、事実でもあったのだろう。安室奈美恵のを買った店で竹内まりやの新アルバムのポスターを見かけて、さすがにやばいと思ったわけ。
音楽を聴く環境が整っていないのも大きい。つけっ放しのテレビも音声OFFであることは前にも書いたが、これでけっこう隣近所に気兼ねしている。その点、富山は気楽だった。周りに人が住んでいないのだから、ヘッドフォンなんて使ったことすらなかった。
余談になるが、静音キーボードは壊れてしまった。「*」が反応しなくなった。
9月下旬の気温だそうだ。朝から曇っていたが、夕方少し激しい雨になって、やや肌寒くさえあった。
今朝NHKで、最近引き続いて起こった無差別殺人について討論していた。ちゃんとユーモアのある人たちだったので、めずらしく議論が噛み合っていた。
べ平連の吉岡忍、教育の現場から河上亮一日本教育大学院大学教授、派遣会社社長の奥谷禮子という女性、社会背景の視点から斎藤貴男というジャーナリスト、心理の側面から斎藤環という精神科医、それに、「決壊」の作家、平野啓一郎という顔ぶれだった。
吉岡忍の、
秋葉原の事件に関して、事件の動機が解り易すぎるのが怖い、つまり、特殊な事件に特殊な背景がなく、むしろ平凡すぎるほど平凡な人間しか見えてこないことに問題を感じる、という意見。
河上亮一の、
20年ほど前から生徒の質が変わった、という意見。

かつては、「ワル」といわれる生徒がいて、彼らは学校のあり方に反発する存在だった。今は、そういう人種は絶滅して、普通の子が日常の延長で問題を起こす。
「なにか、言葉が生徒に届かず、すり抜けていく感じ。」曖昧な言い方だが、現場の意見なのでかえって迫力がある。
社会全体のモラルティー崩壊の問題を、教育に押し付けてもらっても困るといいたいのだと思う。
こういう事件があると、とにかく教育のせいにして安心してしまう人がいる。思い出すのは鴻池某大臣が、なにかの事件で「犯人の親をひきずり出せ」といった発言をしたことである。この発言の問題点に気がつかない時点で、政治家としての適正に問題があるが、それ以前にがっかりなのは、意見が凡庸であることだ。ワイドショーにかぶりついているおばさんの域を出ていない。
斉藤環は、
実は、若者を反社会行為から遠ざけるという意味では、戦後日本の教育は、驚異的にうまくいっている、1960年代に較べると少年犯罪は激減していて、世界と比較しても、日本の若者は「生物学的に謎と言われるくらい」人を殺さない、といっていた。
この斎藤環という人は、目がよく見える人のようだ。四月にこの人の書いたコラムを見つけた。↓
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/8078.html
全文読むべきと思うが、一部引用する。

 「格差社会」という言葉の問題は、それが誰のせいでもなく、システムの作動それ自体が、自動的に格差を押しひろげていくのだ、というイメージを固定してしまったことでしょう。このイメージはきわめてリアルで曖昧なものなので、検証できないまま流布していく性質を持っています。その結果、経済格差や人間関係の格差、希望の格差あど、あらゆる点において格差の存在が予測されがちです。  

 そこで予測されるものの一つに「名前の格差」というものがあるように思います。

 名前の格差とは、あくまでも比喩的な表現です。システムの中で、自分だけの固有の名前を持つことができる人と、匿名のまま名前を持つことができない人の格差です。目的として扱われる人と、手段としてしか扱われない人の格差、とも言いかえられます。目的としての名前を持つということは、変化と成長の可能性に開かれていることを意味します。しかし匿名の手段でしかないことは、そうした変化の可能性に希望を持つことができないことを意味します。  

 こうした匿名性という視点からみるとき、「誰でもよかった」という言葉は特別の意味を持つように思います。もちろんそれは、「殺す相手は誰でも良かった」という意味だったでしょう。しかし、本当にそれだけでしょうか。二人の容疑者が偶然にせよ同じ言葉を口にした事実は、この言葉を象徴的なものに変えます。  

 私には、この言葉が彼らが自分自身に向けた言葉のようにも聞こえるのです。匿名性の中に埋没しつつあった若者が、「これをするのは自分ではない誰でも良かった」と呟いているように聞こえるのです。  

 かつて、若者による動機の不可解な犯罪の多くは、犯罪行為による自分自身の存在証明のように見えました。自分自身の神を作り出したり、犯行声明文を出したりという形で、それは表現されました。  

 しかし、今回の二つの犯罪には、もはや殺人によって何ものかであろうとする欲望の気配も感じられません。自分自身の行為すらも、半ばは匿名の社会システムに強いられたものであり、たとえ犯罪を犯しても自分の匿名性は変わらない。そのようなあきらめすら感じられるのです。

興味を感じられたら全文を読んでごらんになればよい。

名前の格差というのは面白い。日本人のブログ開設数の多さは抜きん出ているらしいが、ハンドルネームを持つことが、名前の格差解消に役立っているのかもしれない。
吉岡忍は、ネットを席巻したイラク戦争の人質事件にふれて、「あのときの書き込みはすべて読んだが、欲望を持てる人間に対する激しい嫉妬を感じた」
斎藤環が、これに応じて「問題なのは、反社会ではなく非社会だ」といった。
しかし、日本に社会といえるほどのものが存在しているのかどうかという問題もある。それが、阿部謹也の「世間とは何か」の論点であった。
「欲望を持てる人間」は、自我に目覚めている個人と言い換えることができるだろう。「社会」が単に生物のコロニーをさす言葉でないとしたら、それを構成しているのは、社会の一員でありながら、社会全体と対立しうる個人でなければならない。
格差社会」という言葉をぶら下げられると、すぐにそれに飛びついてしまうのは、名前どころかこの国の大部分の人間には、顔さえないのではないかと思うことがある。
彼らには自我が存在していない可能性もある。であるかぎり、彼らが反社会的でありうるはずがない。彼らにはそもそも社会がないのだ。
なぜかこのところ立て続けに、あの高遠菜穂子さんの事件に対する言及に接した。そのシンクロにシティーが私には感慨深い。
「ぐるりのこと。」の橋口監督は「日本人はいつからこうなったんだろう」と書いていたが、私には「日本人はこうだったんだ」という思いのほうが強い。近代化のプロセスをすっ飛ばしてしまったために、一皮めくれば「くがたち」のまかり通る中世の迷信が顔を出すのだ。
今回の番組でもこのコラムでも、斎藤環が主張しているのは、限りなく自殺に近い殺人だということである。
現在、年間の自殺者は3万人だそうだ。そういえば、人身事故でダイヤが乱れることが最近やたらと多い。
私が、自殺の代償行為としてロシアツーリングにでかけた2002年ごろは、自殺者年間2万人と言われていた。