手をつないで走る徒競走

先日、国際教養大学中嶋嶺雄村上龍の対談を聞き書きした。
そのとき、ゆとり教育について、ちらっとふれたと思うのだけれど、あのあと思い出したのは、ゆとり教育‘華やかなりし’ころの小学校の運動会では、徒競走といいつつ、‘順位をつけずに皆で手をつないで走るのだ’というのをテレビでみた記憶である。
そのときは、‘学校てのはあいもかわらずばかなことやってるな’と鼻で笑っただけだったのだけれど、今にして思えば、現にその教育現場にいた子どもたちにとっては、その大人たちのやり方こそ権威だったはずで、そのころの小学生がそれを大真面目にやっていたであろうことは無理からぬことだった。
そして、そういう教育が彼らのマインドの基礎の部分をかたちづくったのだと思うと、少し背筋が寒くなる。
手をつないで走る徒競走が、権威が彼らに示した正義であるとすれば、その手を振り払って、もっと先に行こうとする誰かは、彼らの実感として、たしかに‘悪’であるにちがいなかった。
学校教育がこどもたちに植えつけるその種の正邪の感覚、プロパガンダといってもいいそういうものは、多くの場合、子どもたち自身が長ずるにつれて、彼ら自身の中で批判が芽生え、やがて止揚されていくものである。
ところが、それでも何パーセントかの人間は、子どものころに植えつけられた価値観そのままで人生を全うする。
そういう人間はバカだと思うのがもっとも正確だとわたしは思う。
たとえば、偏差値至上主義で教育された人間が、いまだに偏差値以外の価値観を持っていなかったとしたら、ずいぶんうすっぺらだとおもうけれどどうだろう。
昔テレビで観た、手をつないだ徒競走のすがたを思い浮かべたとき、高遠菜穂子さんや国母選手をバッシングした連中のこころのありかたが、わたしにはわかった。
高遠菜穂子や国母選手は、彼らのつないだ手を振り払おうとしたのだ。わたしや、またおそらく多くの他の人には理解できない、彼らの肉体的憎悪は、そこから生まれたのだ。
格差社会’という実態のよく分からない言葉の意味も、そう考えていくとかなりはっきりと分かる。
手をつないで走る徒競走がスタンダードなら、確かにこの社会は‘格差社会’だろう。しかし、それは現代の日本だけに限らない。手をつないで走る徒競走が競争だと信じているマインドの子どもたちにとっては、世界中のすべての社会が‘格差社会’であるはずだ。わたしが彼らにいってあげられることがあるとすればこういうことだ。あなたたちのいう‘格差社会’が現実の社会であり、手をつないで走る徒競走のほうが圧倒的に異常なのだと。