『官僚階級論』

knockeye2016-03-02

 佐藤優の『官僚階級論』を読んだ。新書サイズで、言葉も平明で分かりやすい。佐藤優は、バンバン出版している感があるが、このペースで量産しながら、マルクスやカントをこの分かりやすさで書けるのはやっぱりすごいと思う。
 読むべきよい本だと思うので、内容を紹介するよりも(それは手にあまるし)疑問に思った点を書いておきたい。
 まずひとつは、互酬社会についてだが、わたしは互酬社会からは公共圏は生まれないと思う。これは、佐藤優もそうは書いていないが、このあたりに若干の混乱を感じる。
 というのは、佐藤優自身、柄谷行人との議論を通じて
「つまり、農業とは暴力装置とともに生まれてきたのではないのか。まず国家があって、人々を強制的に定住させて働かせる。(略)国家とともに農業が生まれ、支配階級がむりやり農業をやらせたのではないか。」
と書いている。
 だとしたら、農業共同体の社会である互酬社会は、本来、国家のひな型にすぎない。現代の社会が農本主義に戻れば、ポルポト派の大量殺戮を生むように、互酬社会は本来、暴力を内在している、あるいは、暴力装置と不可分な社会なのではないかと思う。だから、農業共同体が解体され、
「国家と資本による支配が確立されていく」
一方で
「『王の臣民』あるいは『国民』というかたちのナショナル・アイデンティティーを通じて互酬性を回復する」
そうしたナショナリズムが排外行為、内ゲバ、粛清の暴力をむき出しにするのはむしろ当然だと思う。
 「本来異質なものであった資本と国家を蝶番のように結びつけるものがネーション(民族)です。ナショナリズムは、資本家と官僚階級が結託する資本制において不可欠のものです。」
というけれど、そういうまでもなく、そもそも互酬社会の精神はナショナリズムそのものだが、規模が小さすぎて、それをあえてナショナリズムとは呼ばないだけのことではないかと思う。
 これは、上の引用から分かるように、佐藤優の論と矛盾はしないのだが、彼自身「産業社会になっても農本主義的な共同体が維持できるなどというのは幻想です。」と書きながら、「『贈与と返礼』という互酬が根付いている久米島のような共同体感覚があるところは強いです。」と書いていることに矛盾を感じるからで、それは、それこそ幻想だと言っておきたい。
 もう一点は、教会について。
 「公共」が本来、「国家」と対立する概念だというのは全くその通りだと思う。わたしが日本社会に感じる違和感は、だいたいその混同に根ざしていると思うことが多い。
 「公共圏は喫茶店と喫煙から生まれてくる」という、ユルゲン・ハーバーマスの言葉は名言と思うので、佐藤優が、ユダヤ教キリスト教の伝統における公共圏を教会だというのは、単に蛇足であるだけでなく、混乱だと思う。教会について、佐藤優自身も、
「中世に確立したコルプス・クリスティアヌムが近代に向かうなかで世俗化されていく。そのプロセスで、この教会の位置、救済の位置が、容易に国家に転移する・・・」
と書いている。喫茶店は国家に転移しない。ハーバーマスのいう通り、喫茶店が正しいと思う。教会はむしろ国家と同じように、社会の外にある抑圧であり、むしろ暴力装置であるだろう。
 江戸時代には「連」といわれる、身分を超えた結びつきがあったことを田中優子が指摘している。平賀源内と鈴木春信が錦絵を生み出したのもそういう「連」という場があったればこそであった。平賀源内が田沼意次と結びついていたのはほぼ間違いないが、そういう意外な結びつきがなぜ可能だったかといえば、国家に縛られた身分制を超えたそうした場があったからだろうと思っている。
 田沼意次は、松平定信によって失脚させられるが、その後、徳川幕府は100年持たなかった。
 それはまあ、別の話のような、別の話でないようなだが、「公共」という意識は、儒教道徳の制限がありながらも、少なくとも、上方と江戸の都市部では、明治以降よりも、江戸時代の方が成熟していたのではないかと思えることもある。
 浮世絵がヨーロッパの人たちの心をとらえたのも、そこに都市生活者としての共感を感じたからこそだろうと思っている。そこに「喫茶店」はありえた。
 なんといっても、世界で初めて先物取引が行われたのは、大坂の堂島なのだ。そうした資本と国家が結びつく可能性はあったが、徳川幕府は、田沼意次の重商政策をとらず、米本位制に回帰した。
 「ミネルヴァのフクロウは夕闇を待って飛び立つ」というヘーゲルの言葉は、佐藤優のいうとおり、まったく良い言葉で、すべては後知恵に過ぎないが、もし外圧で開国することなく、そのまま閉じたサークルの中で日本社会が発展したとすれば、為政者はやがて重商政策をとらざるえなかっただろうし、そうした社会の混乱は、公共圏を鍛えもしたのではないかと想像される。
 しかし、国家は「内部でいかに社会民主的であろうと、外部にたいしては覇権主義的である」から、そうした外圧によって近代化した日本では、民主的であるより覇権主義的であることが、近代的だと捉えられがちになる。
 そうした近代化によって、18世紀に生まれかけていた公共圏の芽は根こそぎにされ、日本人は「公共」の経験を経ずして「国民」になった。「国家」と「公共」が混同され、本来「公共」であるはずのことが、「私的」であるように思いなされた。こうして日本の「公私」の関係は「主従」の関係と変わらないような事態になってしまったのではないかと思う。
 安保法案についての指摘も、専門家であるだけに鋭い。「戦争法案」などというレッテル貼りで奇声をあげている空疎な批判とは雲泥の差がある。興味のある方は読んでみられたらと思う。