ビアトリクス・ポター生誕150年 ピーターラビット展

knockeye2016-09-08

 Bunkamuraミュージアムで今、「ビアトリクス・ポター生誕150周年 ピーターラビット展」が開かれてます。
 老眼鏡を持ってったほうが良い。トーベ・ヤンソンムーミンもそうだったけど、挿絵の原画は本で見るより小さいくらい。もとは、ビアトリクス・ポターの家庭教師をしてくれていた女性の、息子さんが病気になった時に、書いたお見舞いの手紙だったそうなので、その小ささも納得。
 wikiによるとその家庭教師の人は、ビアトリクスの2歳上だっただけだそうで、歴代の家庭教師の中でも、一番馬があった人だったようです。ビアトリクスの絵入りの手紙を全部保管していてくれて、出版を勧めてくれた。
 江國香織の『抱擁、あるいはライスには塩を』は、舞台が日本だから珍しかったですけど、ヴィクトリア朝の頃のイギリスのお金持ちは、子供を学校には通わせず、家庭教師をつけるのが普通だった。今の日本でも、1クラスの生徒数が多いとか問題になるくらいなので、教師の人数に対して生徒の数が少ないほうが、教育の質が上がると考えれば、そりゃ、金持ちは家庭教師を雇うってのは理にかなってます。
 学校の役割って、つまり集団主義の訓練にすぎないから、大英帝国のエリートが通ってもしょうがないのは確かだろう。ビアトリクスの母親は、小島慶子のいうところの「しんどい親」で、過干渉がひどかったようだが、学校に通わなかったことについてはビアトリクスも「学校に行かなくて良かった。行っていれば独自性が潰されてしまっていただろう」と語っていたそうだ。
 ロンドンにあった生家の4階で終日暮らして、階下に降りてくるのは、両親におやすみを言う時だけだったそうだが、でも、その4階は、子供だけの解放区だったらしくて、弟と2人、部屋に現れる動物を捕まえては飼育して、それを絵に描いていた。そのせいかどうか、ビアトリクスは、動物をあんなに上手く描けるのに、後年までも人間を描くのが苦手で、弟にからかわれている。
 父親のルパートはちょっと面白い人で、ペーパー弁護士というか、金持ちだったので特に働くこともなく、趣味に明け暮れていた。ラファエル前派のジョン・エヴァレット・ミレイとも交友があって、ビアトリクスは若い頃、絵を見てもらったことがある。
「絵の描ける人間は多いが、あなたと私の息子ジョンには観察力がある」
と言われたそうだ。
 恵まれた才能は、他でもない、このピーターラビットに続く作品群が証明しているだろうが、それは実は、彼女の仕事のごく一部で、ピーターラビットを描き始める前は、菌類の研究でも成果を上げていた。もし、露骨な性差別がなければ、その分野で名をなしていたかもしれない。湖水地方の景観を守るためにナショナルトラストにも携わったし、晩年には、所有するヒル・トップの農場経営も、毎年羊の品評会で受賞するなど成功を収めている。
 また、特筆すべきは、ピーターラビットの版権の管理を徹底していた。展覧会でも見ることができるが、ピーターラビットボードゲーム、カレンダー、ぬりえ、ぬいぐるみなど、関連商品も発売した。ただの「絵のうまい女の子」ではこれはできない。
 ピーターラビットのおはなしの冒頭でも、ピーターの父親は、マクレガーさんの奥さんに肉のパイにされている。ピーターもベンジャミン・バニーもビアトリクスが実際に飼っていたウサギがモデルだし、その他のペットたちにも大変な愛情を注いでいるが、この愛情がセンチメンタルにならない、と言えばいいのか、愛情はかくあるべきだといった、型にはめられない。
 もし、子供の頃から学校で集団生活をして、型にハマった女の子になっていたら、男性研究者に伍して論文を発表したり、業者相手に版権を交渉したりは、できなかった気がするのだけれど、どうだろうか?。無意識に女の子のジェンダーを演じたり、自然な愛情の発露に、いかにも愛情の装いをまぶしたりしないで平気でいる、その自由さが、今もビアトリクス・ポターの作品が、人々を魅了するわけのひとつなんじゃないかと思う。
 ピーターラビットは、この種のキャラクターの元祖で、かわいい青いジャケットを着てはいるが、骨格はウサギそのまま。その意味では、決して擬人化されていない。たぶん、ビアトリクスにとっては、ピーターやベンジャミンは、現にこんなウサギだったのではないかと思う。
 ところで、大貫妙子の「ピーターラビットとわたし」って曲が好きなんですけど、ほんとにモミの木の下に住んでたんだと、あの歌が頭の中に流れてました。

大貫妙子 ライブラリー

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