黒田官兵衛について

黒田官兵衛について知っていることを書きだそう。知らないことは整理して、後で調べよう。
黒田官兵衛は戦国時代の軍師。羽柴秀吉に仕えた。姫路出身。竹中半兵衛と合わせて、両兵衛と呼ばれていた。兄弟(弟)が3名近くいる。弟は、黒田24騎?に入っている。息子は2名。一人は黒田長政、もう一人は16歳頃に溺死している。姫路にいた頃、小寺の家老だったが、毛利と織田に挟まれて織田方についた。織田を裏切った織田の家臣を説得しに行くところで牢屋に閉じ込められた。家紋はその時の着想がきっかけ。
・黒田の戦果。播磨に攻めてきた毛利5000の兵を500の兵で追い返した。播磨をまとめ、織田に従属させた。羽柴について、毛利方の備中高松城水攻めを行った。水攻めする時、船を沈めてせきを作った。(農民に協力させたのは羽柴の活躍で、水攻めの献策と船を沈めたのは黒田の活躍?)。何キロの堰を作ったかは不明。300mという説もあるらしい。九州攻めで島津を降伏させる。姫路から九州に領地替えさせられて、地侍を従属させる。戦国時代最後の勢力である北条家に対して説得を行い、降伏させる。民攻めに参加。関ヶ原の戦いの最中、九州の大部分を制圧。関ヶ原が1日で終わったので、戦果は徳川に献上。
・死の数日前に家来に対して横暴な振る舞いをした。息子長政にやめるように言われたが、早く長政が主になってほしいと思われるように、家来に対して悪態をついた。黒田の先祖は目薬を売って勢力を伸ばした。もっと前の祖先は偉そうな人だったらしい。


さて、大体知っていることは書きだした。間違っている可能性があるので、wikipediaで知識を保管しよう。
・1546年12月22生まれ、1604年4月19日没。(大阪の陣は1614年-15年なので、それより前の話。黒田長政は徳川(幕府)についていた)
・1568年(22歳頃)赤松政秀宇喜多直家などが姫路城に3000人の兵で攻めてきたが、300人の兵士で2度にわたって防いだ。
・1576年5月(30歳頃)、毛利・三木軍5000の兵が英賀(姫路)に攻めるが、500の兵で退ける。
・1578年(32歳頃)、荒木村重織田信長に対して謀反し、有岡城に籠城した。(どこ?長浜、木ノ本付近?)。交渉しに行った黒田官兵衛は約1年間幽閉された。栗山利安(全助)に助けられ、姓を小寺から黒田に戻している。


・ちょっとここまで。自分の理解できる範囲でwikipediaの内容を書き直しているけど、相当精神を使いそう。時間があるときにもうちょっと書き出してみようと思う。それにしても、いつどこで何があったのか、自分の言葉で書き直すとわかりやすい気がする。それと、わからないことも並列して書き出しておくと、理解が深まる気がする。

【今日の一言】
知っていることから、芋づる式に理解を深めていきます。