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全ての人は深海なので、人は人に簡単に溺れてしまう。
浅瀬だけを見て、通り過ぎてしまうことも出来るのですが。
私は深海です。深海で出会いましょう。


私には数なんてもう、何の意味も無い。
ヤマハのスピーカーが溺れてる。
窮屈になることって人間くさいけれど、
生き死にを気にしないとき、人は人に好かれるのだって。
雨の音を聴きながら、私は何万年も前に見付けた答えを思い出として、
電光掲示板の下や、廃墟の街で、
そこが私にとっての、人類最後の場所ならいいなと思う。


言葉にならない程美しい文章が、出てこないのです。
少しだけ睡眠薬の冷たい味がします。
リリカルで、赤くて、甘くて、白い味。
自分の身体を受け入れることが出来ないなら、
詩と小説を書くしかないんだ。
睡眠薬で身体と世界を曖昧にして。
私みたいにね。


静かで冷たい、ガラスの匂いに泣きたくなる。
私は今、ここにいる。お腹の奥の孤独感は、
私が生きている証だ。
新しいアルコールで拭かれたような春、
心持ち乾いた空気、
ソニーのヘッドホンから流れる音が、
全身を満たしていく。世界の色が変わる。
いつかの前世、全ては雨漏りだった。


放課後の水道、ガラスの廊下。
個人は個人として世界を持っているので、それ故に孤独で、
それ故に誰かと繋がれるけれど、
僕は先ほどから、セイコーのデジタル時計の温度表示を見ている。
ここは、僕の世界だから。
完璧主義や拘りって、脳の何処にあるのだろう?
僕が僕に拘らないならば、僕が僕である必要は無いし、
僕が僕に拘っても、結局は死ぬ。
身体全体じゃなくて宇宙全体で。
だから、多分溺れることだけが肝心なんだ。
死後も溺れ続ける海を見付けることだけが。


そう、私はギターの地図を持っている。


人恋しくて、冷えた街にシロップを垂らしながら歩く。
ガラス張りの電車、その沿線住民となる。
全ての人がガラス越しに過ぎ去っていく。
有刺鉄線に張り付いて死ぬか、それともウォークマンの電源を求めて、永遠に彷徨い歩くか。
どちらも同じことかもしれないけれど。

私は今、社会と繋がっている。コンセントと繋がっている。ケーブルのずっと先には、原子力発電所があって、青い核融合炉があって、私はそこから感情を供給している。
感情が溢れ出しては涸れ、溢れ出してはまた涸れる。
シューベルトを聴いてると200年前と繋がっているし、バッハを聴いてると300年前と繋がっているので、歴史なんてみんなドット絵のヴァーチャルで、そしてみんな嘘みたいに花の比喩みたいに感じる。

本当と嘘の区別って知ってる? その境目が無くなったとき、あなたは本当に生きてるし、私のいる本当の場所が分かる。何故ならそこには孤独があるし、この世の原理や輪廻からは外れるけれど、そこには純粋な感情だけがあるから。誰も私の好きな世界を壊せない。祈りが根拠となる場所に、私はひとりで佇んでいる。あなたもひとりでいるとき、私とあなたは、きっと本当の意味で繋がれるよ。何故なら嘘も本当も生も死も無いとき、何の境目も存在しない場所にはただ、孤独だけがあるから。


どこまでが存在で、どこからが非在なのか、私には分からない。
誰も大人にはなりたくないし、老人になりたくないし、少女のままではいたくない。
どこまでが私で、どこからが私ではないのか、私は変化そのものなので、分からない。
全てが私だし、全ては私ではない。時によって、私はいないし、時々私はいすぎる。
そして私は地球の裏側にいる。見慣れた景色からはすごく遠い。
塩辛い空気を吸って、触ることも出来ない人たちと、見慣れない景色の中にいて、
これはゲームじゃないんだ、と確認して、そして一生泣けないと思う。
言葉を書いて、そしてそれを読んで貰える環境の中でしか、私は泣けない。


あらゆる人は、沈みゆく都市を持っている。
岩場や寂しい季節を持っている。
だから私たちは、浅瀬で笑い合いましょう。
死にゆく人たちを見て、海を弔い合いましょう。
私は私が許せないほど私が好きですが、
他人を見ていると引きずり込まれて足が竦みます。

空が好きです。
そこには全ての危険が集約されているから。
言葉は羽です。飛ぶためではなく泳ぐための。
ところが言葉は言葉の無い場所にあるのです。
言葉の無い言葉の先で、言葉を見付けるでしょう。
孤独の冷たさを、私の墓に供えるために。
墓はきっと、私の底にあるのでしょう。

《私は私の墓を見付けました。》という
《私は睡眠薬を飲みました。》という
こんな簡単な言葉さえ出てこないのです。
私はいつでも起きています。
私の墓を見せることが出来たなら、あなたは花を、
孤独の言葉を供えてくれますか?


ずーっとビリー・アイリッシュの歌を聴いていて、
彼女の歌の中でなら死ねると久しぶりに思いました。
一ヶ月後に、彼女の新しいアルバムが出るので、
一ヶ月寿命が延びた、と思います。
僕は冷たい人間ですが、この家ではなくて人生が僕の家だと感じます。
この辺りには薄暗い図書館が無くて寂しいです。

痛みが欲しい。世界中の白い部屋が真っ赤に染まるまで。
もうそこから動かなくて、
そこで死んでもいいと思えるまで、ここに留まる訳にはいかないのです。

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風向き次第で、理由なんてどんどん変わる。
生きてる理由も、死にゆく理由も。
搾りたてのオリーブオイルみたいに、
空気はいつも揺れていて、
私が私である理由は、ただ、
お気に入りの黒い靴のおかげだったりする。


アメリカ大陸をつるつるに磨き上げるように、
ソフトクリームを両手に持つように、
12本の鉛筆をふたりで分け合うように。
生活は「今」というアトリエ。


不安や動悸こそが恩恵なのだと、
命が尽き、全てが冬になるとき、
あなたは何か、多分風に似たものを感じる。


(心によって出来た結晶たち。)
雪の結晶のように歌いたい。


不安の無い世界で会いましょう。
私はギターの地図を持っていて、
あなたはピアノの地図を持っている。
部屋はとても四角くて、そこに白い陽が差して、
ガラスのような心拍を、
私たちはふたりで見詰め合っている。


ギターが一音ずつ揺れている。
脳/細胞に共鳴する酸素。
ただ光る波としての私を勝手に見ててもいいし、
誰も見てなくても平気。
宇宙の光や星の粒と、同じ呟きを、
手のひらの窪みに載せて。


少し楽しくて、全て繋がっているのはどうしてなんだろうと脳裏でテレパシーみたいに、僕の心/身が交信し合っている。
多分、誰かと一緒にくすくす笑い合えたら、最後の瞬間はそれだけでいいんだ。
不完全なデータを残してきたけれど、最後はきっと笑顔で塗りつぶせる。
そして消えるんだ。


私たちはみな、誰もいない場所に住んでいる。
けれどちょっと大人になって、今日の祖母に「おめでとう」なんて言ってみたら?

(18:57)

高校生の頃 よく聴いていたEDM。

何も かも覚えている。

notebookは、窓・緑の風景――風……
私は繋がりが欲しい、道に
あなたの街の道路に、立ちすくみたい
時計は針で手首に留めた 急に
サイレンが聞こえない 躁 神経は冷たい
ドライアイスみたいに 心 もうみんな気化して いて どう
も こうも 乾いた異物の明るい未来
   //
汚れた部屋 指を 私の指輪を
一時間も回している すてきな部屋、何も無い部屋
悲観の煙草を吸う 退屈な涙みたい
壁であなたは笑っている 笑っている
ねえ世界は美しいね こんなに……

目ばかり開けて 鏡みたいな夜しか見えない
死んだら私の顔も美しくなるだろう

明かりを消して 私の図書館へ行く
一冊一冊 背表紙を撫でていく
分厚い本を取り出して
椅子に座って抱いたまま
私は青く
死につつある

空間を愛せるまで

あ、ちょっと森のような。
配水管の白さに陽が当たってて。
理想なんて価値が無くて、
死んだら私、衛星になって、
永遠に、街を見下ろしてていいですか?

赤いフレームの眼鏡を掛けて、
冷たい海を、青く傷付いて、
生命線の泉を、ガラスの裸で、
ひとり愛してていいですか?

春の世界を見下ろしながら、
血の雨が降るまで、
ギターを弾いてていいですか?

夜が全て、夢見のいい眠りに染まるまで。
夜の住民たちが、甘い大気を、
たっぷりと食べられて、彼らの満ち足りた身体が、
音楽へと、溶けていけるまで。

空を見下ろし、血を吐くまで歌って、
指先から血が流れるまで、
ギターを弾いていたいです。

それが、私の願い。
眼に映る活字の世界。
そうっと、ディスプレイに手を伸ばす。
腕と空気の境目も無く、空間には座標が無く。

プログラミングされた世界でも愛おしい。
街を見下ろし、私は私の消滅と、
血の濡れた温度を感じたいです。

生きてる間、私は個体で、
がむしゃらに絶望のパズルを迷うのでしょう。

死んだ私は、また眼となり、映る世界をただ聴いて、
人たちの不幸と生活の中にある、
無限の愛しい命の種を震わせながら、
祈りそのもののとなるのでしょう。

ノイズ、全てはノイズです。
ぱっちりと目覚めた夢の中で、
過去も未来も永遠も、生も死も無く、
私は今、私を許してていいですか?

消えていく、消えていく。
全ては、元あったように。
私もまた永遠に、
身を沈めてていいですか?

全てが元あったように。
死後の永遠に、
身体を溶かし尽くしてていいですか?



森の冷たい手前で、とてもとても若かったこと。
私は身勝手な私の底に、ひとり沈み込んでいく。
ガラスの地球儀に、×印を付けていくみたいに。

ガス室みたいなベッドで、
ひとり、ビル風を浴びています。
アスファルトの透明さを危ぶみながら。

ちょうど手のひらに乗るサイズで、
歌は溢れています。


私は、危うさを、
とても愛しているのです。
好きな人に好かれないから、
この世は地獄ですが……。
結局は、
地球とは幽霊であり、そして沈黙なのです。


寂しくて、自分のことが分からない女の子の秋、
冷たい森のようなこの気持ち、
あたりまえ、で溶けてしまう、壁の前、
風にカーテンが膨らんでいる雨の路、

心の帰り道と、安心できる家。
私が私を受け入れられる家。

誰にも変だと思われない、
誰もに必要とされる、酸素になれるような、

……ひとりぼっちで私を愛せる、
部屋をください。

最近の日記

2月22日(木)、
 自分に期待する気持ちは、本当に即座に落胆に変わる。朝、とても寝覚めがいい時なんかは、僕は本当に何でも出来ると感じる。それで、喜び勇んで英語の勉強や、ギターの練習などを始めるのだけど、ほんの少し時間が経つと疲れてきて、あっという間に「何にも出来ない。駄目かもしれない」と思って、何もかも放り出してしまう。寝逃げしようと思っても、もう眠れない。

 

2月23日(金)、
 いつか僕の心臓をなだめることが出来るだろうか?

 

2月24日(土)、
 部屋の壁紙を貼り替えた方がいいのかもしれない。天井には僕の手形が付いていて、何だか事故物件みたいだ。僕が自殺したら、この部屋には幽霊が出ると噂されるかもしれない。でも大丈夫だ。僕は幽霊にはならない。この世に恨みを残すような性格じゃない。僕は誰ひとり恨まない。それは僕に残された、数少ない美徳のひとつかもしれない。
 僕はパソコンで書く。夜に、影が踊り出すような時間に、書く。本当はタイプライターで書きたいけれど、持っていないし、和文タイプライターは、あれをタイプライターと呼んでいいのか分からない。美しい機械だとは思うけれど。機織り機みたいで。機械の蝶みたいで。そして僕は日本語でしか書けない。英文や仏文のタイプライターで書くのが、いつかの夢だ。
 天井の手形は、僕が自傷した時に、ハイになって、血でべとべとの手をなすりつけたのが、時を経て黒くなったものだ。

 

2月25日(日)、
 昼間、僕はガラクタみたいな気分になる。インクの切れたボールペンとか、乾燥したプランクトンの標本みたいに、黴臭い世界の隅で麻痺して、心は埃で埋もれている。

 

2月26日(月)、
 ここ数日ほとんど眠っていない。毎日、朝から晩までギターを弾いていた。青葉市子の音楽に出会ってから、ギターを弾くことと歌うことが格段に楽しくなった。こんなに自由に演奏していいんだ、って。彼女の歌を聴いて、音楽には規則や制約なんて無いのだと、初めて知った気がする。音楽理論はあっても、そんなの無視してよくて、自分が気持ちよく弾けるなら、それでいい。そうすれば、気持ちいい音は、結果的に理論にも適っているのだと思う。ギターを弾き過ぎて指先が痛くなってくると、音楽を聴く。

 朝早く、また父と口論をしたのか、母が家出をした。大荷物を抱えて出て行ったし、東京に行くと言っていたから、多分少なくとも五日間は帰ってこないんだろうな、と思う。夜、父とふたりきりで過ごさなければならないと思うと、憂鬱でならない。僕が住んでいる地域は、東京からは大分遠い。
 せっかくだから、東京の白山眼鏡店で、ずっと欲しかった眼鏡を買ってきてもらうことにした。白山眼鏡店は、通販をしていないので。
 もうひとつ憂鬱なのは、母が帰ってこなかったら、来週は、病院にひとりでタクシーで行かなくてはならないことだ。僕はタクシーがものすごく苦手だ。

 買ってきてもらうつもりの眼鏡は、ジョン・レノンが、もしかしたら掛けていたかもしれないモデルだ。白山眼鏡店のサイトにはこう書かれている。↓

『当時、白山眼鏡店では毎年数本の新作をデザインしていました。そんな話をジョンにすると、「僕用に各アイテムを取り置きしてくれないか」と思わぬ言葉が返ってきました。それは願ってもないことで、許されるならその場で飛び上がりたいほどの歓喜の瞬間でした。翌年の夏の再会を約束して、白山眼鏡店はジョンをイメージした新作に取り掛かりました。ジョンにかけてもらいたい……その一心でイメージの翼が大きく広がっていきました。完成したモデルは、ジョンのミドルネームにちなんで、ウィンストンと名付けました。』
(白山眼鏡店HPより)

 結局ジョンは、完成した眼鏡を掛けることなく死んでしまったのだけど。何となく、この眼鏡を掛けることで、ジョンの跡を継げるようで夢を感じる。何故かあまり人気の無い(検索してもあまり出てこない)眼鏡なのだけど、白山眼鏡店の他の眼鏡よりも、デザインがいいと思う。実際に生前のジョンが掛けていたのは、メイフェアというモデルで、時々復刻されているのだけど、高いし、おそらく僕には似合わないだろうと思う。デザインの主張がやや強い眼鏡だからだ。あと、ジョンが愛用していたのは鼈甲柄の眼鏡だけど、僕は黒縁の眼鏡が好きだ。

 ジョンは来日した際に、たまたま白山眼鏡店の眼鏡を見かけて、いたく気に入ったらしい。それで僕は白山眼鏡店にはずっと憧れていた。他にも多くの有名人が白山眼鏡店を贔屓にしているらしいのだけど、それは僕の憧れにはあまり関係ない。
 今、僕が掛けている眼鏡もまた、Oliver Goldsmithというブランドの、ジョン・レノンが一時期掛けていたのと同じ種類のモデルだ(ただし、画像検索してもOliver Goldsmithの眼鏡を掛けたジョンの写真が見付からないので、本当に掛けていたのかは分からない)。正確にはジョンの眼鏡より、レンズの横幅が2mm広い限定モデルで、こちらの方が僕に合うと思って買った。ジョン・レノンにあやかっているのは確かだけれど、ジョンと僕とでは好みが違っている。ジョン・レノンのことは大好きだけど、僕はジョンのコピーになりたい訳じゃない。

 僕が産まれてから一番最初に好きになったミュージシャンがジョン・レノンで、彼の歌は全部好きだし、もし眼鏡を掛けるなら、ジョンと同じ眼鏡にしようと、子供の時から決めていた。ジョンの佇まいはとても自然で、特に眼鏡を掛け始めてからのジョンは格段に格好いいと思ったし、眼鏡を掛けるだけで内省的な雰囲気を身に纏うことが出来るので、僕自身も、眼鏡を自分のアイデンティティの一部にしたいと思い続けてきた。数年前にやっと近視になって、すごく嬉しかった。
 ジョンと言えば丸眼鏡だけど、画像検索すると、意外にも本当に真ん丸の眼鏡は、あまり掛けていない。僕が今掛けている眼鏡は、レンズが楕円形だし、白山眼鏡店の眼鏡は、丸眼鏡とはかけ離れたセルロイドの、まるでジョニー・デップが掛けているようなデザインのものだ。

 今朝、母が出て行った後の居間で、しんと虚ろな気分でいて、両親の子供っぽさに呆れたり、母を羨ましく思って少し腹が立ったりしながら、しばらく何にも手に付かなかった。ぼんやりしたまま、まだ全然買うつもりじゃなかったギターを、ネットで注文した。青葉市子が、デビュー前から15年以上も使い続けているヤマハのミニクラシックギターが欲しかったのだけど、サウンドハウスでは売り切れだったので、少し迷って、コルドバというブランドのミニクラシックギターを注文した。ヤマハのとサイズが同じで、しかも僕の好きなオールマホガニー製なので、こっちの方がもしかしたら、好きな音が鳴るかもしれないと思った。
 エレキギターや、今持っているジャンボサイズのアコースティックギターは、いい音なんだけど、とにかく取り回しが悪い。大きくて重くて、特に二階から一階に持っていくときは、壁や階段にごんごんぶつけてしまう。弾きたいときにすぐ手に取れるミニクラシックギターは、すごく便利だし、青葉市子のギターを聴く限りでは、ちゃんと粒の揃った音が鳴るみたいだ。特に、小さいのに低音が豊かだと思う。普通のクラシックギターと比べても、全然遜色のない音がする。ミニと言っても、弦長が普通より5~7cm短いだけなので、音がそう変わらないのは当然かもしれない。でも、それだけでも、持ったときの感じは大分小さくて、外出にも気軽に持って行けるサイズなのだそうだ。

 

2月27日(火)、
 一日中ギターを弾いていた。昼過ぎにミニクラシックギターが届く。すごく出来がいい。ミニだからって手を抜いていないのが分かる。最初、4弦のペグの調子が悪くて、回すとぎしぎし音が鳴っていたのだけど、何度も回していたら治った。中国製だけれど、日本製やアメリカ製と言われても分からないくらいだ。以前にも中国製のギターを持っていて、それもとても作りが良かった。とても真面目な中国人の職人さんが作ってくれたのだと思う。
 ミニクラシックギターウクレレに近い大きさで、弦がゆるゆるなんだけど、部屋で弾き語りをするのには十分な音が出る。持ち運ぶのには本当に便利な大きさだし、練習や作曲をするのにも使えると思う。さすがに金属弦のアコースティックギターには、音量も音の良さも適わないのだけど、夜中に弾くのには丁度いいし、これはこれで可愛らしい音がする。音が重厚すぎないので、例えばボサノヴァを弾くのには、寧ろ適していると思った。
 僕が買ったのは、フレイムマホガニーという、白い木材を使ったギター(マホガニーは通常、濃い褐色)だったのだけど、きちんとマホガニーの音が出るのも良かった。マホガニー製のギターは、少し硬めの、粒立ちのいい音がすると思っていて、特に単音を弾いたときに、微かに「カキン」という感じの、金属っぽい響きが混ざるのが、本当に好きだ。
 もう少し弦のテンションが強い方が弾きやすくて、いい音がするのではないかと思ったので、サバレスというブランドの、硬めの弦を注文した。サバレスはクラシックギター用の弦の老舗中の老舗で、ガット弦(牛の腸を使った弦)の時代から、何と250年以上も弦ばかり作り続けているらしい。金属弦も作っているので、以前試しに買ってアコースティックギターに張ってみたら、驚くほど音が良かった。それまでは弦なんて、どれも大体同じだと思っていたけど、サバレスの弦には違いを感じた。今はエレキギターにもウクレレにもサバレスの弦を張っている。すごい老舗の割りに、知る人ぞ知るブランドという感じで、レビューの数も本当に少ないのだけど、使っている人からの評価は、概ねすごく高い。
 ギターのことに話を戻すと、ミニクラシックギターは、普通のギターの代わりとしてではなく、メインの楽器として十分使えると思います。素晴らしく良く出来たギターです。

 コルドバのミニクラシックギターサウンドハウスでは、Amazonより3千円安くて、しかも最初から、かなりしっかりしたケースが付いていました。Amazonでは見たところ、同じケースを別途2万円で買う必要があるので、サウンドハウスの方が断然お得です。でも、サウンドハウスでは、僕が買ったモデルの在庫が残り1点になっていて、しかもポイントも考慮すると、一気に6千円も値上がりしたので、ケースが要らない方は、今はAmazonの方が、若干安く買えます。ちなみにAmazonの在庫も残り1点のようです。もしかしたら生産終了したのかもしれません。(広告を貼ろうと思ったのですが、サウンドハウスの商品はURLしか表示出来ないみたいです。コルドバ(Cordoba)のMini II FHMというギターです。)(すみません。後日(3月7日)Amazonの当該ページをよく見たら、Amazonで買っても、ちゃんとケースが付いてくるみたいでした。)

↑真ん中がCordobaのMini II FHMです。ギターよりはウクレレに近い大きさです。

 

2月28日(水)、
 今日は殆ど何も書かなかった。何も書かないでいると、自分の身体が空洞だらけになってしまったような気がする。

 

2月29日(木)、
 ひどい眠気の中で、小説風の断片を書いた。続きを書く気が起こらないので、日記代わりにここに記しておく。↓

 『涼城恋羽は、そして狂っていた。夜だった。机も窓も、そして恋羽の足に降る雨も、彼女の身体もみんな夜だった。僕の内臓も、満遍なく、朝が来るまでは夜だった。彼女は雨の服を着ていた。
 切なさの速度で口を開ければいいのにな、と僕は思っていた。切なさの含有量が、言葉を震わせる内に、心を言葉に出来れば。その波長が同調すれば、僕たちはきっと上手く行くのに。彼女は乖離していた。まるで死んでいるみたいだった。
 僕は椅子に座っていた。右足を上にして組んで。そして、ナイトテーブルの上のノートパソコンを前にして、今これを書いている。
 恋羽の滑らかな足が見える。雨は降り続けている。雨は半開きにした窓から、カーテンの網目をすり抜けて、ベッドの上の彼女に、夜そのもののように降り注ぐ。彼女は麻の枕を腰の後ろに当てて、上半身を起こし、眼を僕の方に向けている。そして僕を見ていない。彼女の視線は僕を滑り、僕を透過し、……そしてまた、彼女の眼にも僕は死んでいるもののように映っているはずだ。何故ならキーを叩きながら、僕もまた、ここにはいないからだ。
 いつも遺書だ。けれど同時に、僕は誰も死なない世界で、言葉を書いている。あ、また「入った」と思う。もう誰も死なない世界へ。すべてが死んでいる世界へ。
「ねえ、涼城さん」
 僕は問うてみる。』

 ↑すごく読みにくい。もう少し肩の力を抜いて小説を書けないだろうか? まあまあ言語力が戻ってきたと思うので、そろそろ小説を書きたいと思っているのだけど。

 

3月1日(金)、
 小説を書こうと思って「祈理は本心から死にたがっていた。」と書いたあと、一時間くらいぼんやりしていた。世界観やプロットなどをいろいろ考えるのも面白いかもしれない。短編は、書けるときには、さっと書くことが出来るけれど、長編に挑戦してみたいと思うので。

 

3月2日(土)、
 明日の夜、母が帰ってくるそうだ。眼鏡も買ってくれたらしい。明後日が僕の通院日なのだけど、もし母が帰ってこないなら、僕は病院になんか行かない、と子供みたいに駄々をこねたから、仕方なく帰ってきてくれるのかもしれないけれど。まあ、薬が無いとすごく辛いので、母がいないならタクシーで行くとは思うのだけど、以前やはり母が家出をしていたとき、タクシーに乗ったら、それだけでどっと疲れて、その日一日ぐたっりとして何にも出来なかったので、出来ればもうタクシーには乗りたくない。
 本当は、自分で車を運転して通院するのが一番いいと思うのだけど、僕は車の運転が文字通り致命的に苦手で、自分が怪我をするならまだしも、人身事故を起こしたらと思うと、怖くて運転できない。今は頭が大分回復してきているので、もしかしたら運転も出来るかもしれない。でも、数年前に、反対車線に停まっていた車にブレーキ無しで突っ込んでからは、あそこにもし人がいたら、と思うと、登校中の小学生の列を轢いてしまった、というニュースが人ごととは思えなくて、僕は一生運転をしない方がいい、と思ってしまう。

 このところ、あまり文学的な気持ちになれない。つまりは「これが自分だ」という静かな気持ちになれずにいる。毎日数時間は読書をしているし、音楽は四六時中聴いている。けれど、何処かそわそわして、上の空な部分があって、ベッドに横になると、天井が回って、壁が近付いてくるような、幻覚が起こりそうな恐怖を感じる。幻覚とは、起きたままで見る夢のようなものだと思う。しかも大抵は悪夢だ。
 これが自分、という気持ち。ひとりきりの静かな時間に一番近いのは、詩だと思う。中原中也の詩をゆっくりと読んでいると、懐かしい、そして遠いような気持ちを思い出す。
 最近は西脇順三郎の詩を読むのもとても好きだ。彼の詩集を初めて買ったのは、もう4年以上も前で、最初は面白さが全く分からなかった。けれど何か引っ掛かるものがあって、一週間に一度くらいのペースで、彼の詩集をぱらぱらと捲っている内に、彼の詩は、解釈されることを拒んでいると感じた。ごちゃごちゃした気持ちで読むと、ごちゃごちゃした詩にしか見えないし、静かな気持ちで読むと、静かで、心にしんと馴染む詩として読める。
 西脇順三郎の詩は難解だ。難解、というのは、解釈するのが難しいという意味ではなく、何も考えずに、書かれたことを文字通りに読むことが難しいという意味だ。すごく魅力がある。彼と同世代の詩人だと、朔太郎や室生犀星三好達治北原白秋なども読んだし、『海潮音』や『月下の一群』(二つとも訳詩集)も読んだけれど、ほぼ何ひとつ記憶に残っていない。もちろんそれは彼らの作品の文学的価値とは全然関係が無くて、僕が求めるものがそこには無かったというだけだ。教養だとか文学の歴史とか時代の空気に関係なく、そして世間の人々が抱えているであろう感情にも関係なく、端的に自分の世界を独白してくれる詩が好きだ。読者に与える効果をわざわざ考慮していない詩も好きだ。孤独を感じる詩が好き。
 宮澤賢治の詩は、長年愛読しているけれど、まだ分かったとは言えない。その間に、西脇順三郎の詩には、ぐっと近付けた気がする。「好きだ」と思うと、その人の詩を全部読みたいと思う。賢治の全詩集は一応持っているけれど、『春と修羅』より後の詩は、まだ何となく、読んでいて辛い感情が湧いてくる。西脇順三郎は、85歳で最後の詩集を出版するまでの、どの詩を読んでもわくわくする。その後、88歳で亡くなるまでの詩もあるはずだから、いずれ読めたらいいと思う。彼の評論集や訳詩集も読みたいのだけど、買うのを後回しにしている内に、すぐに絶版になってしまって、中古でべらぼうな値段が付いている。詩集はもう七冊も買ってしまったのだけど。

 

3月3日(日)、
 西脇順三郎の詩がとても好きだ。古本で買った1971年版の『西脇順三郎全集』のI巻とII巻を持っているので、彼の詩は殆どそれで全部読めるのだけど、1979年刊の『人類』という詩集は、もちろん収録されていない。西脇順三郎はあまり人気が無いのか、その後、全集は出ていないし、『人類』も再刊されていない。『人類』には1200部の「限定版」があって、すごく欲しかったのだけど、ものすごいレアだろうし、高価だろうと思って、今まで探したことも無かった。「普及版」の方は持っている。本当に好きな詩集だ。
 昨夜遅くに何気なくAmazonで『人類』の古本の出品を見ていたら、何と「限定版」が2000円で売られていた。今すぐ買おうにも、Amazonのポイントの残高はゼロだし、母はまだ家出中なので、ギフト券を買いにコンビニに連れて行ってもらうことも出来ない。そうそう売り切れる物でもないと思うけれど、もしかしたら誰かが見付けて今にでも買うのではないかと思うと、気が気じゃなくて、頭の中がそのことでいっぱいになってしまった。何しろ全国には一億人以上いるのだ。その内のひとりが、西脇順三郎のファンで、「限定版」をたまたま見付けて、今日明日にでも購入するということが、絶対に無いとは言い切れないではないか。
 コンビニは一応歩いて行ける距離にあるので、真夜中にとぼとぼギフト券を買いに行こうかと思ったのだけど、すごく寒いので、駄目もとで父の部屋に行って、映画を見ていた父に、コンビニに連れて行って欲しいんだけど、と頼んでみると、じゃあ今から行くか、と返ってきたので、すごく驚いた。まず間違いなく断られるか、明日時間があったらな、と言われると思っていたので。
 それで、今日、日付が替わってすぐの頃に、父の運転する車でコンビニに行って、ギフト券を買ってきた。外気温は2度しか無くて、車の中でも寒く、しかも父はジャージしか着てなかった。寒い寒いと言いながら、僕に文句のひとつも言わずに、真夜中に車を出してくれた父には、本当に感謝の念しか無い。帰宅してすぐパソコンを開いてチェックしたら、当然のように『人類』の限定版はまだ売れてなくて、無事に注文することが出来た。ほっとした。これで僕が持っている西脇順三郎の詩集は八冊になる。一番目立つところに西脇順三郎の詩集を並べていると、本棚から水の音が聞こえてきそうだ。背表紙を眺めているだけで胸が軽くなる。

 夜、母が帰ってきた。えらく上機嫌だ。早速、白山眼鏡店の眼鏡を出してもらって掛けてみたら、想像通りだった。おそらく僕に似合っている。出来れば近日中にレンズを入れてもらおうと思う。今日はギターばかり弾いていたけれど、他にはあまり何にも集中できなかった。とても疲れている。早く寝てしまおう。おやすみなさい。

日記(青葉市子のこと、憂鬱のこと)

2月18日(日)、
 やわらかい、水のような気持ちに辿り着きたい。

 今朝また音楽をいろいろ発掘しようと思って、二週間前にすごく好きになったミツキから繋がるミュージシャンを延々聴いていたら、何人目かで青葉市子の名前が出てきたので、久しぶりに聴いてみようと思った。以前、一度だけYouTubeで彼女のライブ映像を見たことがあって、でもそのときの印象は全然残っていなかった。なのであまり期待せずに聴いたのだけど、イントロの不思議な音選びがとても好みで、歌声がすうっと身体に馴染んできて、一番が終わるときには、すごい、天才だと思った。
 ほとんどの曲が、ギターの弾き語りなのだけど、どの曲にも独自の個性と、音の拡がりがある。
 ギターの伴奏が、とてもメロディアスだったり、歌の引き立て役に回って、とてもシンプルな単音弾きになったりして、聴いているとギターを弾きたくなった。何曲か聴いていると、不思議な気持ちになった。どの曲も、単純に明るい/暗いとは言えなくて、仄明るい世界を届けてくれる人だと感じた。
 以前彼女の歌を聴いたときは、おそらく音楽を聴いても何にも感じなかった時期で、ドラムが無いから入れない、とか、とても寂しいことを考えてスルーしたんじゃないかと思う。僕はまだ完全には回復していないと思うけれど、今は音楽からとても多くのものを受け取れるようになってきたと感じる。嬉しいし、それ以上に有り難い。

 心を空っぽにして耳を澄まさなければ感じ取れない、そのぎりぎりのところに、一番心に近い音があると思う。自己主張の音ではなく、心の震えのような音。そっと拾い上げなければ他の音に紛れて消えてしまう、心そのもののように不安定で不定形な音。その音は、詩の言葉みたいにとても儚いけれど、それ故にこそ、きちんと正確な場所を与えられたときには、とても強い力を持つ。
 青葉市子は、そんな音たちをひとつひとつ拾い上げては、あるべき場所にそっと流しているようだと思った。彼女の音楽の世界観は広々としているのに、隅々までひとつの色合いや心の流れで統一されていて、同時に、まるで僕自身の心を語ってくれているみたいな、個人的な親しみ深さを感じる。その世界には、光と水と影が同時に含まれていて、柔らかでふんわりしているようにも聞こえるのに、同時にとてもくっきりとした彼女の心の確かさを感じる。
 ギターの音が景色だとしたら、彼女の声は、そこに吹く風や、鳥や、草や、動物や、悲しさや優しさ、生と死、などを率直に物語る、音楽の世界にずっと前から住んでいる語り部みたいだ。そして、物語りながら、全てに命を与え、聴き手にまっすぐ届いてくる風のようだと思う。そして、僕にとって(個人的に)大事なのは、彼女の音楽は幻想的なのに、その歌からは、生きていて、生活している彼女自身の声を感じるところだ。

 ……青葉市子の歌については、僕にとっての懐かしすぎる記憶について語っているみたいで、全然的確に書けない。僕の普段の生活の中では見えないものが、彼女の歌にはあるのだけど、それはもちろん、単純にギターと歌が上手ということとは殆ど関係が無い。ギターは半端じゃなく上手くて、とんでもなく練習したのだと思うし、歌声の美しさもまた、才能と努力に拠るものだと思うけれど、でもそれだけじゃない。とても失われやすくて、一番大事なのに、僕はすぐに忘れてしまう何かが、彼女の歌にはある。それだけ覚えていれば、他には何も要らないのに。

 

2月19日(月)、
 ……

 

2月20日(火)、
 ……

 

2月21日(水)、
 昨日と一昨日は、何もやる気が出なくて、憂鬱で、ほとんどの時間をベッドの上で過ごしていた。一昨日は全く何も食べず、昨日は夕食(ハンバーグ)だけ食べた。Bluetoothでずっと音楽を聴いていると、夢と現実の境目が曖昧になる。散らかった部屋を見ると気が滅入るので、美しい家に住んでいるんだ、と思い込もうとしていたら、何となく住みたい家のイメージが湧いてきて、これからの行動次第ではそんな家にも住めるんだなと思うと、少し憂鬱が安らいだ。現実逃避なのかもしれないけれど、現状の鬱屈に沈むのは全然得策ではなくて、嘘でもいいから、素敵なことを考えていた方がいい。現実には、どうせすぐに戻って来なくてはならないのだから。
 憂鬱は難敵だ。起き上がると不安を感じて、不安を感じていない自分というものを想像出来ない。いい加減ずっとベッドに横たわっていたら、身体が痛くなってきたし、気分もまあまあ回復したので、昨夜の夕食前に起き上がった。夕食を食べるとまた、主に身体がしんどくなってきたけど、もう一度眠るのは無理そうだし、胃薬だけを飲んで、そのまま今朝まで、英語の本をぱらぱら読んだり、詩集や小説を日本語で読んでいた。フランス語を勉強したいと思っているけれど、毎日後回しにしていて、三年間ほども基礎的な部分で頓挫している。詩を読めるのは、調子がいい証拠だと思っていて、特に今朝は、個人的に難解な部類に入ると思っている西脇順三郎の詩を楽しめたので、うん大丈夫だ、と思った。青葉市子の音楽をたくさん聴いた。昨日と一昨日はベッドの上で、主にバッハを聴いていた。

 ヘッドホンがウォークマンに繋がっている。ヘッドホンを着けた僕は、音楽と繋がっている。ウォークマンはまた、コンセントに繋がっているので、僕は発電所とも繋がっている。辺境にある原子力発電所。元を辿れば核融合の産み出したエネルギーで、僕は今、音楽を聴いている。電気の中。ウォークマンの中の0と1。音楽に生かされている。
 音楽はいつも、現在時刻とは関係ない場所にある。バッハを聴いているからって、400年前に書かれたバッハの楽譜と繋がっているだけじゃない。僕は今、日本時間では、2024年2月21日の午前4時54分26秒にいるらしい。電波時計なので、おそらく秒単位で正確だ。けれど時刻は人間が、道具として便宜的に規定したものに過ぎない。本当は、今には時刻が無い。

 瞑想的な境地もいいんだけど、僕は社会的な感情が大好きだ。例え宇宙の全てを感じられても、そこに生活感情が欠けていたら、それだけで、大切な何かが抜け落ちていると感じる。それがたとえエゴイスティックで、ちっぽけな感情であっても構わない。この生きている現実の中で、きらきらした美しいものに出会いたい。

 苦しくてもいいから、答えを知りたいと思っていた。幼い頃から、長いこと。多分、最近まで。先月にもまだ、答えばかり探していた。だって、生まれてきて、生きてきて、答えを知らずに死ぬことなんて出来る?
 今は、少し考え方が変わっている。でも、具体的にどう変わったか書くには、今日は疲れすぎている。

 この間、僕と音楽の関係、今、一日中音楽を聴く以外に何をしているのか、そして音楽を聴けなかった、長い長い期間、一体どうやって生きてきたのか、考えてみようと書いたけれど、それもまたうまく書けない。ともかく今、僕は音楽と不可分の存在として生きている。それだけだ。もっと掘り下げて、僕にとって音楽とは何なのか、書きたいとは思うのだけど。
 とにかく、今日は眠たい。毎日のノルマの勉強や、自分宛てにだけ文章を書くことを続けていて、それが終わると、やっと一日が終わったという気がする。眠いけど、習慣化するまでは頑張らなくちゃ(一般的に、行動が習慣化するには十週間、つまり七十日近くかかると言われているけれど、本当かな?)と思ってる。今のところ、五十日続いている。もう少しだ。これだけは続けたい。

 取り敢えずは、お休みなさい。あなたへ、そして世界へ、おやすみ。

眠気

眠いとき、私は動物みたいな目を持っている、

あさやけ、

白い虫の羽根が窓からの光に舞っている、

青い雷が地平線から、
私の朝を満たしている、

身体が溶けていくような毎日です、
灰色と黒の服を着て、
二階の震動に心が揺れる、
この世がこの世でも、あの世がこの世でも、
関係ない、音楽と言葉は、
私からあの世とこの世の境を
取り去ってしまう。

この世を忘れさせてください、
光降る音楽を降らせてください、
今をノイズで充たしてください、
誰も、邪魔しないで。

思う存分、夕焼けを浴びた身体が、
群青色に溶け出す時間、
指先に触れた匂いと、
引き出しの中の青いペン、

鍵盤、金属のフレット、

空中では透明な回転扉が私を永遠に誘っている

私は眠い

夢から爪が伸びてきて
心臓をゆっくり刺しつらぬいていく

その爪には濡れた葉っぱが一枚
貼り付いている

日記(メモ、春の匂いがする)

 春の匂いが、頭の中を灼き尽くす。

 

2月14日(水)、
 夜、ヘッドホンで古い音楽を聴きながら、花片だらけの闇の中で、僕は書く。

 僕の頭の中には考えが不足していて、人生は分裂した森のようだ。いくつもの影が重なっている。魚も泳いでいる。綿雪が降ってくる。小さな、手のひらに乗るような稲妻が起きる。
 ドレーキップの窓。直列4気筒エンジン。ひとり遊び用のカードゲーム専門店。電線、どこまでも続く電線、永遠に続く日本語が命に触れるまで。月の光が眼に宿った種類の人たちが、頭の中の砂利道をどこまでも歩いていく。

 未明、もう少しで楽しくなれそうなのに、小さな病気を抱えているみたいな不快感が完全には消えてくれない。もう少しで至福の海にダイブできそうなのに、海面ぎりぎりのところでぶら下げられているみたいな。
 キーを打つ感触はまあまあ気持ちいい。

 夜遅く、詩を書く(『その位置: ゼロ』)。椎名林檎の歌を聴いていたら、妙に感動的になってしまった。音楽を聴かずに書いていたことなんてあっただろうか?

 

2月15日(木)、
 人は、依存しなきゃ生きていけない生物だ。感情や身体に。敵意や不安に。狭苦しい解放感。灰色、藍色。何処まで出かけても室内みたいな、表面が腐ったみたいに新鮮な、強いられた感動と自由。

 お酒を飲んで眠りたい。永遠に。警察に捕まらなければ何をしてもいい、なんて言う社会からは離れて。僕は歩く、栄養学的には悪いものを食べて、坂道を上っていく。誰も僕が死にゆく理由を知らないのに、僕には怒る相手がいない。全ては僕の心の産物に過ぎないというのなら、僕は一体、何を見ているのだろう? ナチュラル・ハイをずっと待っている。そのためにあらゆるものを捨てたくなるし、壊したくなる。僕は自分を否定したい。腐った牛乳を捨てるみたいに。肯定したい。死体を無表情に見るように。

 光。意味の無いものが好きだ。僕はAIと共存出来る。身体のいちいちに刻み込まれた自信の無さを、AIの、分解された言葉が埋めてくれるだろう。

 

2月16日(金)、
 今日も引き続き、日記に書くようなことは特に無い。両親が不仲で困る、ということを書いていたけれど、面白くないので消した。他には、何か散文詩みたいなことばかり書いている。

 元も子もある奇妙なズレの感覚。無価値なブランド品の数々。美しい気分のときは何だって美しいのに、気分が冷めると何もかもが醜くなる。僕は何処まで行っても幸福にはなれないけれど、ある一点を超えると途端に幸福になる。ある程度幸せ、という言葉は、本当のところは、僕にはあり得ない。不幸にはずんずん落ちていく。ある程度の不幸さと、絶望的な気持ちの間には断絶が無くて、あっという間に、すとんと死にたくなる。「もう駄目だ」には一瞬で辿り着く。

 僕にはパソコンとキーボードがあればいい。そしていつかは、それさえも捨てられればいい。ただ一点の今だけに集中していればいい。一瞬にして永遠の、そしていつも完璧に同一の今。

 血のにおい。木製の、分裂するハチミツみたいな機械。

 明日は晴れるらしい。鬱屈した気分が良くなってくれるといいのだけど。

 

2月17日(土)、
 僕、は、この小さな領域から出たくない。「そこ」はとても、広大だから。

 アゴタ・クリストフの『昨日』を読み終える。幻想的な描写と、透明感のある「希望の無さ」に満ちていて、165頁の短い本だけど、読み終えるのが勿体なくて、同じ箇所を何度も読み返しながら、一週間かけて読んだ。アゴタ・クリストフと言えば『悪童日記』三部作でかなり有名なのに、その次に書かれた『昨日』は日本では既に絶版だ。多くの読書家に読まれるべき本なので、再版して欲しいと思う。682円の文庫本を、僕は中古で533円(送料込み)で買った。とても綺麗な状態で届いたのだけど、物語の最終行の「。」の隣りに、パステルカラーっぽいオレンジ色のボールペンで、小さく「2022/7/19」と書かれていた。おそらくこの本の前の持ち主が、読了した日にちを書き込んだのだろう。女性らしい筆跡だけど、男性かもしれない。あるいは筆跡だけは可愛らしい、偏屈で生真面目なお爺さんかもしれない。書き込みをしている時点で、すぐに売るつもりは無かったのだろう。断捨離の際に多くの本と一緒に売ったのか、もしかしたら筆跡の可愛いお爺さんか誰かはもう死んでいて、遺品整理の為に売られたのかもしれない。本編とは違った意味で謎めいている。控えめな筆跡であることも含めて、良い種類の書き込みだと思った。

 本を読んだり、音楽を聴いていると思う。人が好き、そして人のいる世界が好きだ、と。

 僕はほぼ引き籠もっている。10歳の時から住んでいる子供部屋から、一歩外に出ることさえ滅多に無い。一日中ベッドの上で踞っている日もあれば、二日間ぶっ通しで椅子に座っていることもある。この間入院したときにそう言ったら、看護師の人に「部屋でどんなゲームをしているんですか?」と問われたので「ゲームはしません」と答えた。
 じゃあ一体何をしているんだろう?、と考えてみる。最近(多分半年間くらい)は寝ても覚めても音楽を聴いている。今日は朝からエイフェックス・ツインを聴いていた。ジェイムズ・ブレイクを流しながら眠りに就くのが好きだ。部屋の中ではなく、音楽の中が僕の住み家だから。夕食時は、両親と同じ空間にいなければならないこと以上に、音楽を聴けないことが苦痛だ。
 音楽を聴かないときは、ギターやピアノを弾いたり、歌ったりしている。もしくはたまに窓を開けて、外の音を聴きたくなるときもある。春には春の音がある。雲の音や風の音。雨の音は特別に好きだ。季節によって変わる鳥の声。人の声は不安になる。街宣車や移動販売の車の音は最悪だ。すぐに窓を閉めてヘッドホンを付ける。眼より耳を失うことが怖い。聴覚を失ったら、でも、そのときは沈黙の音を聴けるかもしれない。
 アニメや映画を見るときもある。ときどきYouTubeでギター関連の動画や、ライブ映像を見たりもするし、たまにつまらない動画を見てしまったりもする。それ以外は、ごくたまにネットで人と話すときも、友人が来たときも、ずっと音楽を流しているし、外出時にはイヤホンを付けている。さすがに診察時にはイヤホンを外すけれど。

 音楽が聴けないときはどうやって生きていたんだろう? ゲームをしていた時期もある。書くこと以外何にもしてなかった時期も。この頃は音楽を聴きながら、何をして生きているんだろう? 眠いし、他にすることがあるから、また明日考えよう。

ひとりの時間についてのメモ(日記からの抜粋)

 ……でも、それにしても、もっとずっと大事なことがあるんだ。無私の心って、やっぱりあると思う。好きになれない理由を探す前に、さっさと人を好きになった方がいいと思う。少なくともその方が自分も生きやすい。お互いが自分だけに拘っていたら、愛し合っていたふたりでさえ、いずれは不倶戴天の敵同士になってしまう。かと言って、自分を殺してまで相手に尽くすと、見返りが少ない分、段々恨みがましい気持ちになってしまうし、それ以上に自分を見失う。

 例え家族同士でも、皆がひとりの時間を大切にして、お互いがお互いの時間を尊重し合うことがとても大切だと思う。そして、ひとりでいる時には、家族のことなんて一切考えないのが、一番いいんじゃないかと思う。誰かに言われたことも、されたことも、全部キャンセルできる時間があった方がいいと思う。ついでに、自分がどうだこうだということもデリートしてしまう。
 いつも生活や、他人や、自分のことを抱えていたら、重苦しいし、何も出来ないし、しんどくて、下手すれば自殺にまで追い込まれてしまう。キャンセルしてデリートしてフラットになった状態でも、まだ文句を言ったり書いたりしたいなら、書けばいいんじゃないかと思う。悪気はゼロでも、誰かに文句を言ってしまったらまた面倒になるので。
 フラットな状態だと、感情まかせの主観的な青みどろみたいな言葉は出てこなくて、例えまだ怒っているとしても、怒っている自分を観察している状態でいられるので、書いていると、気分が大分落ち着くんじゃないかと思う。多分、自分自身を意識している自分が、本当の自分なのだと思う。

 いつも「僕は駄目だ」とか言っている「僕」が消えたところに、本当の僕がある、というのは、僕の昔からの感慨だ。……とは分かっていても、「生活」や「他人」や「自分」という概念の呪縛ってとても強い。
 けれども、僕はいつまでも子供のままでいる訳にはいかないんだ。良い意味での子供らしさとか子供心ってあるけど、大人にはそれと同等に素晴らしい、自分を制御して意識的に変えられる能力がある。きちんと良い部分だけ大人になれたなら、きっと僕は、子供の時よりずっと楽しくなれるはず。
 人生で最高の時間が、もう過ぎ去ったなんて絶対に思いたくない。最高の時間、そして期間は、これから訪れると思ってる。

その位置: ゼロ

 ふわふわ 浮いてる、どこまでも 浮いてる
 私は海の中、どこまでも透明に拡がっていく、

 私は今、肯定している、否定している、うちが外を包む、
 はい、は、いいえを肯定しているし、いいえ、は、はいを肯定している

 春、 選ぶ 到着する 、 と書き放して
 私はとても、トナカイのような目をしていた
 いない いない どこにもいない
 それは私が唯一の 動物だからか
 それともただ一人 思い出せない記憶ばかり思い出す
 倒錯者だからか? それとも全て夢で
 これら、は、すべて 夢で織られた
 血の抜けた街だからなのか


血で織られた街を、血まみれのほうきで掃きならしていく。
好奇心の種が内臓の中心で芽を出せば、
あたたかい冬の中で、散らかった部屋は意識不明になる。
脳を割られて、街は新しい首たちの視野となる。


人間は骨と皮と肉だけど、光の眼差しを持ってる、
いつ死んでもいいように、虹の瞳孔を、
魚の祖先が痛みと共に得たもの。


あの世に行けるかもっていう予感だけで、
この世で暮らすには十分。


意識がとても好き。裏返された身体で街を会話する、
歩く、誰も此処には入ってこない、人、人、人、
其れ其れの独りよがりが、私の頭上をオレンジ色に、

染める、デジタル木琴の音、五感、第六感、
でも私は通常過ぎる吐き気の中、対話と全ての真実の中、
向こう側、嘘を吐く甘さの中、で、

あ、(入っていく)、
土というイメージの深く、平等に……、

第ゼロ番の意識で、歩いている、まっすぐと迷う。


歩いている、、、
あなたは好きに、あなたの方で死んでてください。

……しててください。

 ……してください。

  ……していて……、


――

いつか、ふたりきりと、さんにんめの、りゆうをください。

私に泣く理由をください。

、、


私がなぜ、

こんなに泣いているのか、教えてください。