廃校図書館、3099年夜 このページをアンテナに追加

2017-01-15

メモ、日記

1月15日(日)、

終日、WILCOを聴いている。悲しい。
Oh, distance the way of making love understandable

とても内気な人間でいたい。
傷付かない人間なんていないのだから。



1月14日(土)、

何処にいても安心出来ない。音を立てたら罰されるかもしれないし、罰されるかも、という僕の不安は収まらないから。安心出来るのは歌ってるとき、それから論理の中。空を見ていればそれでいい、という老人のような、極めて日常的な安らぎを得ることもある。雲を見るともなしに見て、雲の端が溶岩のように光って夕暮れが始まると、寂しくなり、父が帰宅して、夕食があって、僕は僕が鬱だとか何だとか言っている。仲良くしようぜ、と思うんだけど、(FUCK!)、って言いたくなる。躁鬱病の薬と、てんかんの薬を飲んで、ひどい悪夢を見る。悪夢かどうか分からない時もある。今朝は、両脇に部屋が並んでいる川を、いろいろな人が、僕も含め、どこまでも降っていく夢だった。僕は、何かに驚いて、脇の部屋に飛び込んだ。西洋趣味の、知らない人の部屋だ。もう随分長いこと、誰も住んでいないような部屋だったけど、電気は通っていた。デスクライトとフロアランプの明かりを付けて、僕は魚料理の用意をしようと思った。生で食べるかな(料理を知らない)と考えていると、昔の友人が来て、料理をしてくれた。



身体がぐらぐらし始める。いつも異様に天気が悪い気がする。晴れてて、雪も降っていて、おまけに雷も鳴るような、妙な空模様だ。犬が歩いている。柴犬だ。
腕を切っていると落ち着くというのは、別にそれ自体は悲しいことではない。何故かドラクエ6のことを思い出して、(中断)



人形が好きだけれど、数が欲しいとは、全然、全く思わない。大体に於いて、親というものは、子供が好きなものについて話していると、白けたような顔をするものだ。「そんなことより」と、殆ど必ず言い始める。ひとりでUKロックを聴いていると、今度はヘッドホンまで取り上げられる。そうすると、子供は、外面的にはどうあれ、簡単には心を開かなくなる。対応の仕方はそれなりに学ぶのだけど。ほんのたまにしか、対応と感情が一致しなくなる。すごく鬱な時、「鬱だ」と言っても、理由を聞かれたり、病院に連れて行かれるだけなので、また、試しに「鬱だ」と言ってみても、全く、思った以上のことにはならないので、もはや黙って鬱が去って行くのを待つしかなくなってしまう。その子供は、僕のことかもしれないし、違うかもしれない。僕は非常に内気で、しかも目立たなければ気が済まないような子供だった(である)、と大ざっぱに分析出来るので、今の僕は、歪んだ愛着心を持っているかもしれない。僕は、友人に、「頼むからそんな目をしないでくれ」と思うのだけど、口に出しては言えない。……好きだったものは、今や、病んでしまった僕を、憐れむような表情をしている。

僕が産まれてすぐの時、父は生まれ立ての僕を、ガラス越しに、病院が閉まるぎりぎりまで眺めていたのだ、という。それは母からの又聞きなのだけど。その間、母は、何時間も一人で父を待っていて、そのことを恨んでいるとか何とか言う。僕は何にも知らないで、多分寝ていた。それを大人(と呼べる年齢)になって聞かされても戸惑ってしまう。僕は、正直、そんなことは知らんよ、と言いたい。嬉しいときは時間を忘れるし、寂しいときは、時間は無限に長い。両者の時間の流れが一致することはないのだ。
けれどもまた、自分に感じられるのは自分の時間の流れだけなので、皆同じ時間の流れの中にいるはずだ、と僕自身、思い込みがちだし、思い込みたがっている。お酒と薬は、ある程度、それを可能にしてくれる。孤独に目が覚めるのは、死ぬよりずっと怖い。
一方は寂しいと言い、一方は嬉しいと言うだろう。その内に、寂しいとも嬉しいとも言わなくなるだろう。どうせ誰も分かってくれはしないのだから。自分が放り出されないように必死になるだろう。喜ぶことも悲しむことも、大っぴらには出来なくなる。喜んでいたら自分勝手で想像力が無い、と言われ、悲しんでいたら「何が悲しいんだ?」と言われる。ワインで眠剤を飲みたくもなる(念のために言うと『ワインと眠剤』は、僕が今飲んでいるというわけではなく、トム・ヨークがそう歌っているのだ)。そして目が覚めて自分を最悪だと思う。もう、空しかなくて、それは子供の頃から変わらずで、それでいい、と思う。死ぬ前になれば心配事なんてないんだ。けれど、死ぬのは簡単ではないし、それまでは生きていくのだ、と思うと、やはり少しは考えなければいけない気がするし、自分が、考えることに於いては、これ以上なく馬鹿なことは、自分で十分分かっている。つまり、熱意というものがまるで無いのだ。「熱意を見せてみろ」ということを、たまに言われる。今は寒くて、雪が降っている。それはさておき熱意があるらしいことをしようと思っても、どうしてもやる気になれない。



同じ場所に住まなければならない、という固定観念は妙なものだ。寂しくて痛い世界を離れることが出来なくなる。世界が平坦なのを、自分ではどうしようも出来ない。

自分の手や指だと思っていたものを、そう思えなくなる。感覚がイメージに追いつかない。ある種の感情を基盤にした現実では、現実ではなく基盤の厚さが問題になる。そして、結局は問題にならない。ちょっとした認識過剰で、基盤は消える(僕が基盤の外に出る)からだ。現実の確かさは、何かの上に成り立っているわけではない。あらゆる希望は挫かれる。

自分の声で目を覚ます。ここが悪夢の続きであるかのような気がしてくる。

人に会わなければ寂しいし、会うと何か言い足りない。太陽が眩しくて、目を瞑ると、目蓋の裏に緑色が映る。次いで赤が。だけど、別にそんなことを言いたいんじゃない。別に、他人に評価されたいわけではない。でも、評価されなければ生きていけない。表現しなければ、感情が無いことにならないか不安だ。けれど、表現が上手くなると、感情はひたすら暗くなる。



妹が昔買っていたハムスターは、数は結構いたんだけど(目を離すと増える)、肥って駄目なハムスターを、何故か最初に思い出す。夜中の、僕が静かにしたい時間に、思い付いたように必死に滑車を走り始めるのだが、可愛がりたいときは、お気に入りの巣穴から出てこない。掘り返すと、当たり前だけど、噛まれるし。いや、あんまり噛まなかったかもしれない。ハムスターのしっぽが、何のためにあるのか知らないけれど(バランスを取るためにしては小さすぎる)、触られるのは嫌らしい。

あんまり、自分にとって大事なものを増やしたくない、と思う。美しいものは他人と共有出来るけれど(円の概念とか、白銀律とか)、可愛いものは取り替えが利かないからだ。僕が仮に死んだとして、僕が好きだった人形や、音楽や、物語は、その心を失わないだろう。雑に扱われるとしたら不憫ではあるけれど、まあ、一緒に死ぬわけにはいかない。

取って食われたりしないことは分かってる。そんなことは最初から恐れていない。体裁は体裁で大事だし(空の下で裸で生きたい訳じゃない。今あるものを捨てたくない。お金も欲しい。)、全然気にするほどのことでも無いようなことを、ひどく気にする気持ちを、自分ではどうにもならないし、また、僕がびっくりするような、どうでもいいようなことを気にしている人に、僕は口を出せないので、あれこれ考えて、疲れてしまう。



14歳の時から、今まで、警察と面倒を起こすことは何度かあったし、人生の半分以上を薬まみれで過ごしている。薬が効いた試しがないのだ。精神病院が何故僕に必要かというと、診断書はそれなりに役に立つからだ。そしてまた、不眠症や幻覚やてんかんの発作を、別に意識して起こしている訳ではないから、やはり病気なのは病気だし、例えば幻覚(と自分で言うのはおかしなものだ、と思うのだけど)には、デパケンなどの抗てんかん薬は効くように思える。頭の中がごちゃごちゃしていて、自分が正気を失いかけているように感じるけれど、また、それが出鱈目な空想であることも分かっている。自分が、全くまともな応対を出来ない、と感じる。突然、すぐそこが世界の果てであるような気がしてくる。目の前の道を歩いていけば、数十分で友人の家があって、そこに友人がいて、今何してるんだろう?、と思える感覚が急に無くなってしまう。どうしても、もっと他に急ぐことがある気がしてくるし、ここが本当に果てであるような気がしてくる。この頃は、その感覚も別にすぐ済む、「例のノイローゼだ」と言えるのだけど。また、用心深くならなければ、生きられなかったような気もするのだけど。

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