廃校図書館、3099年夜 このページをアンテナに追加

2018-05-11

憂鬱なエゴを取り巻いての断片


きらきらしたものが降ってくるのを待ち続けている。僕たちが昼間生きている領域の外から、それは降ってくる。それを肌で感じていられる間、僕は生きてはいないが、死んでもいない。生と死の間をぷかぷか浮いていられる。部屋を暗くして、白熱灯で部屋の半分を明るくして、十本の指先を、何度も裏返して確かめる。ドアーズを大音量で流している。音楽には色がある。

生きるとは生きる以上の何かを探し続けること。生活の中で静かに自分の書斎を構築していられるとき、いずれ僕は、全てを超えた何かに、その中で出会うだろう。

(「ううん、真実はそんなものじゃない」)



どうしてずっと不安なんだろう? ずっと考えている。

夜中、ひとりきりで起きている。

書くのが何よりも楽しい、という感覚を喪失している。

怯えている。自分が自分だという感じがしない。「自分が自分である(という感じがする)」ということは、何よりも大事なことだ。それが無いと、いつも言い訳しているみたいな気分で生きなきゃならない。でも、正直に生きることは難しい。「これが自分」といつも思えていられたなら……。

いつもあやふやな気分だ。

僕は、僕が僕を超えられる瞬間を待ち望んでいる。日常的な生存感覚の延長ではなく。

僕が僕であると僕が思うとき、僕は嫌われる。ドラッグをやっていると思われるか、躁状態だと思われる。でも僕は、ハイでいたいんだ。クールではいたくない。きらきらした日常を過ごしていたい。ギターと音と言葉に塗れていたい。(くだらないことだらけ。)(くだらない。くだらない。くだらないことだらけ。)

狂っていなければ楽しくない。人格をはみ出なければ。

私は私の生存をはみ出なければ。



書くことは楽しいことだ。生きるのは(それだけで)楽しいことだ。歌うのは楽しいことだ。音楽を聴くのは楽しいことだ。読書は楽しいことだ。ギターを弾くのは楽しいことだ。ゆるやかな、ぼうやりとした(「自分」)という感じが、その核となっている。つまり生活に追われていて、慌ただしく、自分が何なのか分からないときは、何もかもが楽しくない。何もかもの基盤は、自分、というぼうやりとした感じ。

その感じを忘れることはたやすい。でも一度失ってしまったら、もう一度取り戻すのは、本当に難しい。指標がないから。「こっちの方向に行けば「自分」はある」という指標となるものがない。不安で、ばらばらで、自分が分裂しそうな感じだけがある。

「これが自分」という感じ。僕はそれを一番に大事なものだと考える。過去の悔恨を解決することや、将来の不安を無くすことよりも。

ぼんやりと、かつ覚醒して、部屋の隅で今までの自分の写真を切り刻み続ける。今までの自分が清算されていく快感。

うつろな、憂鬱な、「自分」があればいい。温かい、閉塞的な、自分の世界の中で、他のことは何にも気にならず、詩が書ける。(まずは)その「自分」だけがあればいい。あれこれ集めたり、あれこれに手を出すのは、その次だ。

どんな書斎がいいだろう? どんな部屋がいいだろう?



僕自身の回復記録みたいなことばかり書いている。僕は今、僕自身の精神状態の回復に一番興味があるし、回復の過程を文章化すれば、また病状が悪化したときの参考になるかもしれないから。

最近は、音楽が聴けるようになった。でもヘッドホンではあまり聴けない。耳が塞がれて、周りの音が聞こえないと不安になる。スピーカーでだと音楽が楽しめるようになった。「自分が音を出している」というだけで、少し大きめの音量で音楽をかけているだけで、周りの人の迷惑になっているような気がして、ずっとびくびくしていたんだけど、最近は、そこまでの大音量でなければ、誰も気にしないだろう、と思う。あと、選曲が他人にばれるのが恥ずかしいような気持ちもあった。それも、それこそ誰も気にしてないだろう。

ここ数日、久しぶりにレコードで音楽を聴いている。レコードプレーヤーを買ったのは去年の夏なのだけど、そのときは二、三日くらいしか使わずに、ずっとクローゼットにしまい込んでいた。レコードで音楽を聴くことの良さが、去年の夏には分からなかった。レコード盤自体は、アートワークが美しいし、その黒いずっしりとした重さとビニールの感触が好きだったのだけど。レコードで音楽を聴くのは、ちりちりとしたノイズ音は温かくて好きだけど、いいところはそれくらいで、音質もCDやMP3とさして変わらないし、音飛びはするし、A面をB面にひっくり返すのが面倒くさいし、曲のスキップもリピートも出来ないし、あんまりいいところが無いなあ、と思っていた。

レコードはすごく未来な感じがする。

レコードは、一枚一枚/一曲一曲を大事に聴ける。レコードを取り替えるのも、ひと手間なので。レコードが段々磨り減って、音がノイジーになっていく過程が好きだ。くるくる回るレコード盤を見ていると、今そこで音が産まれている、という感じがする。段々古くなっていく音。今だけの音。

僕は、消費されていくものが好きだ。全てはいずれは無に還る、ということを思い出させてくれるからだ。全ては、摩擦して、摩耗して、質量は熱量となり、熱量は冷えていく。

今そこで音が鳴っているという感覚が好き。遠い遠い場所から音が届けられて、今、この部屋で、例えば机の上で、再生されている。遠い遠い場所で奏でられ、録音された音が、息を吹き返す。僕は遠い遠い場所と繋がる。時を越えて、距離を越えて。音楽と一体になる。

遠くから音が届けられてくる感じ、音楽が今まさにそこで鳴っている感じを、レコードによって思い出した。音楽をとても楽しめていた頃の感覚。僕は、iPodでAppleMusicを使って音楽を聴くのに慣れてしまっていた。音楽を聴く際の、自分の精神的態度について、考えてみた方がいいのかもしれない。音楽を聴くとは、その都度、一回きりの体験だ。でも、まるでBGMみたいにして、忙しなく次から次へと曲を替える聴き方に慣れてくると、音楽を音として聞けても、その時々一回きりの音楽体験をしっかり感じることが出来なくなってくる。聴き方が浅くなってくる。僕はアルバム一枚に凝縮された世界観やコンセプトを大事だと思っているのだけど、iPodで聴いていると、アルバム一枚を聴き通す辛抱が無くなってくる。好きな曲とか☆の付いてる曲だけをさっさとタップして聴いただけで、一枚全部を聴いたような気になってしまう。AppleMusicを使うと世界中の名盤が聴き放題だし、聴くべきアルバムは山ほどある気がするし、好きじゃない曲を聴いてる時間がもったいないような気がしてくるから。

今のところ、レコードでは、エレキギターの音を聴くのが好き。レコードだとエレキギターの音が美しく鳴ると感じる。アコースティックギターやシンセサイザーの音はどうなのか、今はそれらの音がたくさん入っているレコードを持っていないので、分からない。



僕は椅子の上に蹲って、一日中音楽を聴いていた。目の前の壁にはジョイ・ディヴィジョンの『アンノウン・プレジャーズ』のポスターが貼ってある。自分が白く晒されていく感覚があって、電気により増幅された音を浴びるのは好きだ。煙草を吸う。煙草を吸うのは良いことだ。ピアノの練習をしたい、とふと考える。スタインウェイのピアノがいつか欲しい。カーテンをぴたりと閉める。外には出たくないし、外の風景を視覚に取り入れたくない。脳細胞をモノクロにしたい。脳内風景を……。感情だけが脳の中で光っている。僕は昔から、イヤホンで聴くよりはヘッドホンで音楽を聴くのが好きだし、ヘッドホンで聴くよりスピーカーで音楽を聴くのが好きだ。何故そうなのかは分からないけど、単純に気持ちいいからだ。、、今朝はビル・エヴァンスのレコードとCDを聴いている。レコードプレーヤーを久しぶりに押し入れから出してきて。古い人間なのかもしれない、iTunesで音楽を聴いていると、段々音楽を聴く楽しみが薄れてくる。Bluetoothを使えばスピーカーで音楽を聴くことも出来るし、音も悪くないのだけど、iPodを使っていると、すぐに曲を替えてしまう癖が抜けない。退屈だなと思ったらすぐにスキップしてしまう。一枚一枚じっくり聴くのがやっぱり楽しいよ。CDをヴァン・モリスンに替える。『アストラル・ウィークス』。CDは磨り減らないから、レコードよりも聴いている実感が得られない。僕にとっての快感とは、消費することだ。世界を消費すること。その実感を得ること。、、やっぱりレコードを聴くことにする。ジョイ・ディヴィジョンの『クローサー』。曲の始まりからすぐに気持ちよくなる。がらくたの世界。がらくたと瓦礫の終末の世界でトレジャーハンターが見付ける一番の宝物が、黒い円盤。レコード。その中でも誰も見たことのない暗い夢を閉じ込めたレコードが『クローサー』。壊れかけの宝物。、、と、不意に、もう駄目かもしれない、と思う。僕は生きていかれないだろう。もう、駄目な気がする。気持ちよくても、頭が働いていても、いつも不安が、心の淵にべっとりと残っている。何か、生活を根本的に変えなければ。極端に変えなければ、生きていけないだろう。怖い。昔は怖いもの知らずだった。今は人に会うのが怖いし、働くのが怖いし、歯医者に行くのだって、髪を切りに行くのだって、怖い。そしてその怖さは「勇気」で乗り越えられるべきものではない。何故ならもともとは怖いものではないからだ。何だって、本来は楽しんでいれば過ぎ去って行くものなんだ。生きることが怖い。生きることが苦痛だ。今この瞬間も。、、、本当は、生きているだけでいいはずなんだ。何もかもがいいと思えるはずなんだ。なのに今の僕には逃げ場がない。いつも、叫びたいくらい怖いんだ。人生は僕に幸福を約束した。人生は僕に幸福を教えて、突然それを奪い去った。僕の世界は、分子の一つ一つが不安で出来ている。僕は物質的な何ものも望まない。お金は要るには要るけれど欲しくない。今は服も本も音楽も楽器も望まない。というか生存を望まない。死んでもいい。不安が解消されて欲しい。片腕くらいなら無くなってもいい。、、、しかし、僕は15歳くらいの時、やはり不安と恐怖の解消だけを望んでいて、そしてそれは解消されたのだ。だから、また解消される可能性は十分にあると言えるのだけど……15歳の時だってやはり希望は持っていなくて、自殺未遂を繰り返していた。、、、、、以前絶望していたときは言葉に縋った。日本語に。書くことに徹底的に引き籠もった。そして日本語の中に完璧な救いを見出した。読むことによっても救われたし、しかし主には書くことによって救われた。でも今は、書くことにのめり込むことが出来ない。書くことが不安の確認作業みたいになってる。次は、何をすればいいのだろう。何にしろ何かを徹底的にやるしか、僕は恒常的な不安から逃れ出る術を知らないんだ。、と書いていたら、少し楽になって来た。少しだけ。……僕は七年間ほど、ほぼ絶え間なく不安な状態だけれど、けれどその間まるで実りが無かったかといえばそんなことはなく、……いや、実りなんてひとつも無いかもしれない。でも、価値が無い、とは思わない。



今生きているという感覚。それが無いと、僕は気持ちよく書くことが出来ない。それに、文の流れが分からなくなる。

ひとりきりになること。

それから、自分自身に正直であること。

人を殺しても何とも思わないような人が作った音楽があってもいい。創作をしなかったら、殺人者になっていたかもしれない人の作品。

脳みそをかき混ぜる音をレコーディングして街頭で配る。

楽しい。

純粋なものは不純なものの中心にあるのかもしれない。不純なものを直視できないとき、私は純粋ではないし、自己とは不純なものだ。

私を忘れないで。

今叩いているキーボードの打鍵感は、アーケードゲームの筐体のボタンを叩く感じに似ている。

ゆっくりゆっくり、精神の状態が安定してきている。急に落ち込むことがあまり無くて、順調に上がり調子。何でも考えられる気がする。

何もかもにびくびくして暮らしてしまう。怖い怖い、って。どうして怖いのだろう? 誰も彼もに嫌悪感を露わにされても、多分本当は構わないのに。



自分の文章を読み返すと、すごく読みにくい。けれど、何か書きたいことはあるんだろうなあ、と自分で読んでいて、思う。何かあるのだけど……。

僕は、何年も引き籠もっている。その間、読書も月に二、三冊くらいしかしていないし、毎日不安で、殆どの時間をベッドの上で過ごしていた。一日に、主に夜中に一食だけ、家族から隠れるようにして食べて、あとは薬を飲んでぼんやりしている。音楽さえも、聴いても、あまり楽しむことが出来ない。ここ最近、絵を見るのは楽しくなった。小説は未だに読めない。読めるには読めるんだけれども、何故か殆ど楽しめない。やっと、何かを好きだと思える気持ちが戻ってきたので、多分次に読む時は、小説も楽しいだろうと思う。詩は楽しめるようになった。

気分が落ち込んでいるときには、本を読んでも、ただ分からなくて、理解出来なくて、すぐに本を閉じてしまう。でも、この頃は、昔小説をいっぱい読んでいたときの感覚が戻ってきていて、本を読むと、分かるような、分からないような、もやもやした感じになって、そのもやもやが僕を本の世界の中に引き込んで行ってくれる。さらさらと読むのではなく、あちこちに引っかかりながら読むのは楽しい。言葉では明確に描かれていないディテールを、自分なりにせいいっぱい想像しながら。

どうすればもっと良くなるのだろう? 慢性的な鬱を完全に抜け出せるのだろう?

過去の自分のことを整理する文章を書こうかな、とこの頃思っていたけれど、それにはもう少し頭の調子が回復しなければ、取りかかれそうにない。生まれてこの方、のことをみんな書きたいんだけど。



(ここは世界の悪いサイド。いてはいけない側。私はここにいない。私がいないことのおまけとして私の生存は約束される。向こう側で……いきなり殺される? 当たり前。懐かれる? 当然。私は、電線が送りつけてくる人間像を壊す。私たちは新聞紙みたいなもの、お互いに出鱈目に悪意を印字し合っている。撫でる空気は眠そうで。(私はここにいてはいけない。))

音楽に溺れたい。私は犯罪者のサイドにいる。人生の最高の苦しみを味わいたい。それは何度も味わったはずなのだけど、でも、もっとだ。恐怖じゃなくて、痛みが欲しい。もっと、もっと、味わいたいんだ。存在の証明を。私が生きているということは、死んでないということじゃない。単一な何かとして、存在すると言うことだ。



今朝は何が何やら分からなく不安だった。書いていなければ、壁に頭をぶつけたくなるし、叫びたくなる。書いているといっても、書きたいことがあるわけではなく、ただキーを叩いているのが指先と耳に刺激となって、それが精神を慰めてくれるのを期待していただけだ。昨日は絵を見るのが楽しかったのに、今日は何だか絵にも焦点が合わない感じだ。不安はどこから来るのだろう? もう何年も、自分が自分じゃない感じが続いているような気がする。自分が本当は何を話したいのか、何を書きたいのか、自分でも見極めるのが難しい。友達へのメールの返信なども、出来るだけ感じよく書きたいとは思うけれど、それだけでは自分の気持ちを伝えられないので、苦肉の策として、うまく書けないことの言い訳ばかり書いている。自分が自分じゃない感じの時に、けれど誰かに責められるのって不思議な感じだ。謝ろうにも本心からは謝りようがない。けれど、自分の言動の責任を放棄したいわけじゃないし、自分が嘘吐きだ、とは感じているので、やはり申し訳なく思うし、はっきりしない自分を情けなく思う。不安なんだ。不安をどうすることも出来ない。僕自身にかけるべき言葉が見付からない。とにかく不安から逃れたいのだけど、そしてその為には、半端に、じゃなく一途に、何かに集中することが大事だ、と思ってはいるのだけど、僕の精神力は強張っていて折れやすくて、何を始めても、ものの数分で「こんなことしてて何になる」と心が音を上げてしまって、身体はいつの間にかベッドに重たく横たわってしまう。朝起きたときから空気中が重油に満たされている。



何もかもに慣れて、分かったような気になってしまう。

焦燥感。未来感。と、懐かしさ、望郷、郷愁。

自分の着ている服を忘れる。空想の中で着る服の方が楽しい。

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