廃校図書館、3099年夜 このページをアンテナに追加

2018-06-22

日記、メモ

6月22日、
昨夜は21:20頃に眠って23:00に起きる。つまり一時間半くらい、眠った。
昨日は四万回はやっぱり叩けなくて、25000回と少し叩くに留まった。
今日は、昨日の不足分と合わせて55000回、叩けるといいんだけど。

この頃は音楽が聴けるし、本もまあまあ読める。それは、嬉しいことだ。もっともっと集中出来ればいいのだけど。僕は毎日少しずつ向上していく、という心掛けをなかなか持てずにいる。少しずつ自分の状態が良くなっていきはしても、根本的な処での空虚さは、手付かずで残るような気がするからだ。

昨日と今日は、怠くはないので嬉しい。ストラテラが効いたのだろうか? いいや、いくら何でも効くのが早すぎる。効果を実感出来るのに二週間はかかる薬だと言うではないか。医者の先生は一ヶ月かかる、と言っていた。だから多分怠さが軽減したのは、偶然、乃至は時期的なものだろう。

不安の強さは相変わらずだ。

三時間ほど書きものをする。来週、次の診察日、先生に渡すための文章、日記、散文、友人へのメールの返信。一太郎の画面を同時に五つ開いている。十個くらい同時に開いている時もある。沢山書ける時ではなく、むしろ全然書けない時に、節操なく画面を並べてしまうことが多い。詩と小説と散文をいくつか書きかけにしている。詩は、書きかけにしておいても、後で完成させられることは殆ど無い。殆ど別の作品になるほど、書き直すことはあっても。詩や小説を長いこと書けていない。というか今年に入ってから(去年より調子はいいにも関わらず)ちゃんとした作品を一つも書けていない。まあ、不作の期間はあるし、僕は別に職業作家では無いので、有り難いことに、いくら不作でも誰にも咎められることがない。とりあえず書くことと読書を日課にしている。もう少し日課をきちんと決めた方がいいかもしれない。この頃、もしかしたら、きちんと決めたとおりのことをやれるかもしれない、という自信が付いてきた。日に四万回キーを叩くという、結構無茶な日課も、昨日は無理だったにしろ、取りあえずは三日坊主にならずに続けられているし。

毎日、一日、その日にあったことを書く、という習慣は、いいかもしれない。僕はその日したことを、次の日には(過去の匿名的な日々の風景に紛れて)忘れてしまって、自分の過去を空っぽだと思い、自分のしてきたことを過小評価してしまいがちだ。今日はこれだけのことをした、ということを(一日の終わりに)振り返る習慣があれば、少しは不安が収まるかも知れない。本当に何もせずにだらだらしていたなら別だけど。自分で言うのも何だけど、僕はだらだらごろごろするのは苦手だ。だらだらしていてもちっとも楽しくなく、ごろごろしていても少しも休息出来ないから。たまにリラックスして短い眠りに就くことはあっても、それは夢の底から何かを拾ってくるための瞑想のようなものだ。主に言葉を拾ってくるための。だからそのとき、厳密な意味での休息は出来ていない。その瞑想にしたって、滅多に成立するものではない。
ともかく、一週間くらい、まあまあまめに日記を書いている。と言っても、やっぱりあんまり何もしていないことが分かるだけではあるんだけど。これから、少しずつ、やることを増やしていけたらいい。

3:10、眠くなる。
ベッドに横になるも眠れず。
3:50、眠るのを諦める。

感情にバイアスがかかっている。感情の揺れは(僕は、今は)日本語でしか表せない。光があって、光を追って進むように生きたい。「僕? 僕は面影を追いかける。それだけさ」と言ったのはボードレールだっけか? 違う。ネルヴァルだ。

未明、カエルが鳴いている。虫の声がする。それから相変わらずの、高速を車が走る音。今がいつなのか分からないような、深い、暗い、車の音。それから新聞配達のバイクが走って通る音。扇風機が静かに鳴っている。今は音楽はかけていない。キーボードのキーの音が音楽だ。リズミカルな、カタカタいう音。エンターキーだけ音が違っていて、気持ちいい。カタカタ、カシャン、って。もう、夏なんだな。今日は、夏至らしい。カラスが鳴いている。カラスは夜も鳴いている。暗闇の中でも、目が見えるんだろうか? それとも起きて、木に留まったまま鳴いているのだろうか? あまり眠れないので、僕の心はあまり穏やかではない。カラスとは違う、明るい声の鳥も鳴いている。いや、もう夜が明ける時間なのか? 夜が明けるには、まだ少し早い。……空がほんの少し白んでいた。まだ四時を少し過ぎたところだ。六月も終わりに差し掛かろうとしている。ああ、今月は何をしただろう? 今年は何をしてきただろう? 何かしよう、と決意ばかりはしている。けれども憂鬱で、不安で、憂鬱と不安が続くと絶望さえして、しかもお酒も飲まず、生きている。何が出来ると思っているのだろう? 何でも出来るのだ。しかし何も出来ないのだ。まだ夜が明けない時間は素敵だ。誰もが深い眠りの中にいる。僕だけがこの街で、この家の中で、起きている。……夏だけれども、ストーブを付ける。まだ朝方は、ほんの少し肌寒い。いや、ストーブが必要なほどではないのだけれども、灯油がまだ残っていて、なかなか減らないから。灯油缶に灯油を戻せばいいのだけど、それがなかなか面倒だ。それに、僕はストーブの温かい匂いが好きなのだ。安心する。だから、いつもストーブを付けていられる冬は好きだ……。夏は、ずっと嫌いだった。暑くて怠くて、頭がぼーっとするからだ。嫌い、というより、実際に暑さには弱くて、一昨年は多分熱中症で、倒れてしまった。でも、その倒れた時の感じは、その頃頻繁に起こっていて、今は起こっていないんだけど、その倒れる前の意識の状態は、調べたてんかんの前駆症状によく似ていた。身体的にも相当参っていたのだけど、精神的にもくたくただったのだ。
……父の目の前で倒れたので、父はびっくりしたらしく、つまりそれまでおそらく父は僕の状態がそこまで悪いとは思っていなかったと思うのだけど、それから父は僕にはあまり口うるさいことを言わなくなった。今では僕の方が、父の期待に少しは答えなければ申し訳ないような気がするほどだ。口うるさく言われると、例えば「もっと努力しろ」と言われると、意地でも努力などするものか、という気持ちになってくるものだ。それが急に言われなくなると、何だか努力したくなってくるのだから、人間の精神は、少なくとも僕の精神は、あまのじゃくだと思う。

うむ。少しずつ良くなっていこう。疲れ、というか疲労感、を減らしていきたい、と思う。もちろん本当に疲労しているならば、疲労は感じるべきだ。だから僕は覚醒剤にはあまり興味はない。少しは興味がある。というのも、クラブで夜通し踊る、というのを、一回くらいは経験してみたいからだ。でも、それもそんなにいいものではないかもしれない。もともとが僕はあまりはしゃぎ回るのは好きではなく、ひとりで読書をして、音楽を聴いて、書きものをしている時間が至福、と思っているタイプだからだ。でも、経験したことがないことを書くのは大変難しいので、どんなことであれ、一回は体験してみたいのだ。苦しみは、十分に体験した。昔は、「最高の苦しみを経験してみたい」と公言していたけれど、それは達成出来た。最高の苦しみとは、自我と世界観を失う苦しみだ、と思う。いや、それを失いかけた地点で、尚も意識を保たねばならないことだ。痛みなど、それ自体はどれほどのものでもない。地獄の苦しみとは、もはや生を観念して、自分には死ぬこと以外の選択肢が全く残されていないと確信し、全ての終わりを切実に願いながら、しかも全てが想像の限界を超えて不可逆的に悪くなって行くような状態だ。例えば自分の脳みそがゆっくりと、機械的に粉砕されていく音を、目を見開いてじっと聞いていなければならないような状況を作ることが出来れば、そのような苦しみにも再現性を持たせることが出来るだろう。痛みを与える拷問には限界があって、それは人間が、痛みにはある程度以上、人が予想する以上に、耐えられることを示していると思うけれど、最高に苦しい拷問は、例えば江戸時代の日本では、ただ膝上までの水が溜まった部屋に、ひたすら立たせておく、というものが最も非道な拷問だったらしい。それには不眠によって精神の柔軟性を奪うと共に、じわじわと足を腐らせていく、という意図があったらしい。痛みに対する怖れは、自分の世界の範囲内でのことだ。つまり、痛みは(いつか)終わる。しかし、衰弱は、余程のことがない限り、更なる衰弱へ連なる。死まで、一直線に弱っていく。少なくとも、ある程度以上衰弱した場合、僕はそこから回復へと向かう道筋を描けなくなる。死に向かってどんどん衰弱していく自分を在り在りと感じ、痛みの一つ一つを致死的なものと感じる。多分、実際には僕はそこまで、死と隣り合わせとなるほどに、身体的に弱ったことなんて、今まで一度もないのだろう。けれど僕の精神は、ときどき本当に参ってしまう。何をどう考えても、希望などあり得ない、と冷静に、思うのだ。重苦しい諦観を以て。病んだ精神が見渡す世界は、隅々まで病んでいる。病んだ精神には、自分自身の健康な姿を想像することが困難だし、例え想像出来たとしても「健康な自分」の像は、やはり病んでいる。だから健康になりたいとも思えない。そこから抜け出る為には、僕には、ひとりで休息する時間が必要だった。周りの人、特に家族が、概ね僕を放って置いてくれたのが有り難かった。

胸の疼くような感覚は、ポップで、キュートで、恋心みたいな、遠いような、夕陽のような、切れるような、感情は、小説を読んで得られることが多い。それからイラストを見て、胸が疼くこともある。音楽は何故か男性のミュージシャンの音楽ばかり聴いているのに(アニソンは別)、小説は主に女性の作家さんの作品を読んでいる。それも、何故かは、分からない。女性の方が感覚的な言葉がぱっと出てくる印象があって好きだ。それに、出てくる登場人物(主に女性)が我が侭で理不尽なことが多くて好きだ。男性は、これも偏見だけど、、男性の作家は、一般に美しい女性を描く。もしくは可愛い女の子を描く。我が侭も、計算された、可愛さとして。僕は、僕自身は本当なら中性の、つまり性別が明記されない登場人物だけが出る小説を書きたい。けれど、人物の描写はどうしても視覚情報に頼ることになる、と言うか視覚情報を活用した方が便利なので、そして視覚情報的に可愛いとか美しいという属性がキャラクターにあった方が書いていて楽しいので、と言うか可愛い、という理由だけで、女の子を書いてしまいがちだ。……僕は昔、心中を夢見ていた。おそらく、多くの少年がそうなのではないか、と思う。つまり、ロミオとジュリエットのロミオみたいに。理想の女の子と二人きりで、世界の最後を迎える。二人だけの世界で一緒に過ごす。…家を出て、二人以外の世界が何を言って来ようとも、その言葉はもう意味を為さない。二人は死をも辞さないのだから。死をも二人を隔てることは出来ないのだから。二人きりの世界ではもはや、時間も意味を為さない。永遠を感じながら・・・、と言うことを夢見ていて、それで、基本的には僕はその夢についてのことを、小説に書いていた。今は少し変わってきてもいるのだけど、それは「永遠」にもいろんな形があると思っているからで、基本的なところでは、変わっていない。それで、男性作家の多くは、それに類した少年時代の夢を、ずっと抱えているのではないかと思う。『ロリータ』なんかはその典型だし、夢の美しさが群を抜いて素晴らしい『グレート・ギャツビー』も。僕はこの二作が大好きだから(かつ有名だから)挙げたけれど、他にも沢山ある。『ギャツビー』の素晴らしさは、一見無意味に思える登場人物や、猥雑さや、ふとした会話の全て、描写の全てが、夢の輝きを増すことに寄与している、と感じられるところだ。……さっき、「男性作家の多くは」と書いたけれど、女性作家も、基本的には変わらない。男性とか、女性とか、くだらないことに拘りたくない。生活の時間を超越した場所では、永遠しかなく、永遠の中で永遠の少女に出会えなかったなら永遠に歌うより他、どうしようもない。永遠の歌。それとも夢を抱えたまま、少しでも、進むしかない。

僕は自分の生命と、精神の健康性が失われること「だけ」を恐れているのか?、と言えば、そうではない。僕は自分の生活が失われることを恐れている。つまり、人との関係性が悪くなって、見捨てられてしまうことを恐れている。基本的に僕の人間関係は、「好かれたい」という感情よりも「嫌われたくない」という感情で成り立っている。そこから、「嫌われるかもしれないくらいなら関わりたくない」という奇妙な心理も発生する。良い人間関係が築けたと思った時ほどそう思う。次はうまく行かないかも知れないから。もちろんそんな心理は本末転倒で、誰かと一緒にいたいという気持ちの方が最初にあったので、また、関わり合いを避けていてはそもそも関係性が消滅してしまうので、……けれどそれなのに、積極的に人と関わり合いたいと思う時の僕は、大抵ちょっと向こう見ずになっていて、積極的と言うよりは図々しいので、その時ばかりは本当に嫌われてしまう、、ということが今まで何度もあったけれど、……時々おずおずと連絡を取ったり、人に会ったりする。会ったら会ったでやっぱり楽しくて、嬉しく思うけれど、同時に、疲れてしまうのと、自分が嘘を吐いているような気になってしまうのを、どうにもできない。これは、死ぬまでどうにもならないかもしれない。

普段、怖れの感情は、自分の持っている世界観を補強するよう、ほぼ自動的に働く。世界観、というのは僕の場合「今の生活の継続」という程度の意味だ。意識して、あることを考えると怖くなる、ということもあるけれど、大抵の時は勝手にいろいろなものを、感情は勝手に怖れていて、自分の意識上では漠然とした不安だけを感じ取れる。僕の場合、不安とは詰まるところ「人とできるだけ関わりたくない」という気持ちに起因している。世界観が怖れから成り立っている限り、不安は絶対に消えないだろう。つまり人を避けていて、人が怖い、という気持ちがある限り、不安は消えないだろう。
最近気付いたのだけど、仮に「だらだらしてばかりで、何もしていないから不安」という言葉があったとして、もし「だらだらして、何もしない」ということを主体的に選んでいるなら、不安にはならないのではなかろうか。そう言い換えたところで、もちろん何の解決にもなってはいないのだけど、つまり、「何かを避けている結果としての今の自分の状況」というネガティブな考え方を「今の自分の状況を自分で選んでいる(から結果として他のことはしていない)」と言い換えることが可能なら、不安ではなくなるのではないだろうか。そしてもし、自分が主体性を以て行動している、という意識を僕が持つことが出来たなら、もっと自信を持って、自然に人に応対出来るのではないだろうか……。どうしてそう思ったかというと、最近、自分の行動を日記に書き始めたことと、タイピングの回数を測り始めたことで、自分が何ひとつしていないわけではない、ということが確認出来て、別に今のままでもいいような気がしてきたからだ(「いや、よくないだろう」という意見は正しいとしても)。今のままでも良くて、しかも改善の余地が大いにある、と思ったから。外に出たければ、出てもいいし、部屋にいたいなら、いてもいい。「外に出たくないから部屋に籠もっている」という考え方には、何の利益もない。ストレートに「部屋にいるのが好き」と考えた方がいいと思う。出かけたい時には、もちろん出かけるのだし、出かけたくない時に自分を責めるのは全く無意味だ。
本当に何かを望むなら、それは得なければならない。劣等感で誤魔化してはならない。自分には出来ない、と思うことにメリットは無い。それは昔、親に言われて反発したことを、今また自分自身で繰り返しているだけだ。「もう無理だ」と人生の諸所で思う。「それは得られないだろう」と。僕にとって今得たいもののひとつは、例えば、書くことのできる時間だ。それは、まだ、得られていない。けれど、僕は、それを手に入れようとする態度、を自分で選ばなくてはならないと思う。そうすることは辛い。得ようとするほどに、得られないときの落胆は、大きいだろうからだ。それに怠くて、何にもやる気がしない時が多い。でも、毎日、少しずつ良くなることくらいは出来るだろう(予め予防線を張っておくけど、何も出来なかったからと言って、悪いことは何にも無いのだ。ただ生きていればいい。「ただ生きていればいい」と思える時が必ず来る。自分宛て)。例えば今日は、今、朝の六時で、もう25000回、タイピングした。それは、くだらないことかも知れないけれど、けれど、僕にしてはよく頑張っているのではなかろうか? 少しくらいは自分を誉めていいんじゃないか……というか、誉めた方がいいんじゃなかろうか? もちろん、人の役に立つことなんてまだ何もやっていないし、創作的なことのひとつも、出来ているわけじゃないのだけど。意味もなく自分を誉めることは、僕にはなかなか出来ないのだけど、努力したなら、それが自分の為だけにであっても、自分で自分を誉めた方がいい。そうすれば、今度は多分、もっと努力が出来て、努力が楽しくなるだろうし、そうすればいずれ、少しは生産的なことも出来るかも知れない。勉強したい。できれば計画的に。継続的に。

……
書くことには、数学的な能力が必要なことは、経験的に分かっている。それは以前、書けていた時の経験から。と言うか、僕は数学的な能力を使って書いてる、というだけかも知れない。ともかく、そう感じるのだ。単語毎には微妙な繋がりや方向性があって、規則があって、言葉はおそらく普通思われているよりはずっと不自由なもので、それを使って自由に泳ぐには、自分の文体を身に着ける必要があると思う。数学というか、チェスに近いかも知れない。チェスでは、自分の戦術、盤上の駒の力のバランス感覚、戦局の分岐・変遷への対応力が、しっかり身に付いていなくてはいけない。数学では駒の代わりに数字を、盤の代わりに論理を使う。言葉では単語と、やはり論理を使う。どれも、始まりがあって、流れががある。言葉では、始まりは、ひとつの単語やフレーズだ。そこから流れに乗るには、練習が不可欠で、僕はまだ練習が十分ではない。終わりはまあ、機械的に終わる。
言葉を自由に使うために数学かチェスをすることは有用だと思っていた。今でもそう思う。ただ数学は範囲が広すぎて、何処から手を付けたらいいか分からない。高校の数学はどうしたって死ぬほどつまらない(別に成績が悪かったから負け惜しみを言っている訳ではなく、成績はいい方だった。ただ、数学の楽しさが分かるほどには、数学に適正が無かったか、あるいはテキストが合っていなかったのかも知れない)。数学をやれたら、さぞ楽しかろうと思うのだけど。チェスにはずっと憧れを抱いている。でも対局する相手がいないと飽きてしまう。何か、それに類したものがあればいいのだけど。将棋は言葉とは違う気がする。もっと、建築に近いのではないか、と勝手に思っている。

数学もチェスも、僕は多分しないだろう、と思う。やるなら徹底的にやりたいからだ。友人も似たことを言っていた。何かを始めると、極めるまでやめられないから、だからやることを制限しているのだ、と。僕は絵も描かない。僕には色彩と構図を決める能力があると思う。それは僕には全く不要な才能なのだけど、描こうと思えば絵は描ける。……でも絵やイラストを見るのはとても好きだ。絵は、たくさんのものを秘めている。いつ見ても、新しい発見がある。例えば、ベーコンの絵は、僕の意識が生活の中にあるか、外にあるかで、全く違って見える。イラストはいつも、懐かしい気がする。絵やイラストが、書くための契機になることが多い。何か、忘れてしまった心の場所が、絵やイラストの中には残っていると感じる。いつもそれを感じられるとは限らないけれど、一度懐かしさを感じた絵は、手放さないようにしている。「くだらない」と判断する心は大体味気ないもので、温かい水の流れのような何かを感じられる時にだけ、本当にそのイラストや絵を理解出来ると思うから。理解とは認識とは違う。正確に言えば、確認作業とは違う。温かい、優しい心を感じられる時だけ、僕は何かに出会うことが出来る。例えそれが醜いものであっても、醜いものは醜いなりに、美しい。

音楽は感情そのものだ。感情とは何か? 僕は長年無感情なままだから確かなことは言えないかもしれない。感情は世界を丸ごと包んでいる。感情が動く時、僕は僕が全体的に世界の向こう側へ移動する、と感じる(幸福な世界と不幸な世界は別の世界だ)。
夢見ることが出来ない。僕は僕を投げ出せないから。もし僕が僕を投げ出せたなら、僕は精神の世界に生きることが出来るだろう。
感情の世界で、音楽は全てだ。音楽は生そのものだ。ただしまた、理性の衝動が音楽だ。衝動を起こすまで、理性を働かせなければならない。論理は高揚する。
僕の人生は感情を失ってから始まった。つまり音楽を失ってから。僕が僕を抱え込んだ時から。
僕が今書いているのは、僕が感情を取り戻すまでの道程だ。まだ、先は見えない。けれど、僕には音楽が戻ってくるだろう。
僕に出来るのは日課をこなすことだけだ。一日四万回打鍵すること。薬を時間通りに飲むこと。それから……、それから。何か音楽に関わることをしたい。本当は数学もチェスもしなくていいと思う。最初から、音楽をすればいいんだ。でも、僕は音楽を感じることが出来ない自分に直面したくなかった。昔感じることが出来ていた音楽を、今では上面しか感じることが出来ない。
規則があって、論理があって、流れがあって、終わりがある、というなら、音楽こそがまさにそれなんだけど・・・。今は、出来そうにない。ギターには毎日触っているけれど。ラップトップで、MacBookで音楽を作りたいな。ギターででも作曲出来るけれど、ギターは今はまだ伴奏楽器としてしか使えないし、僕は伴奏楽器としてのギターしか弾くつもりがない。つまりリズム・ギターしか弾く気がない。英語で歌いたいんだ。

語学は念入りに勉強したい。ただし、それは、日本語が書けるようになってからだ。今は、やらなくてはならないことをこれ以上増やしたくない。逆に、書けるようになったら、一日に四万回も打つ必要性を感じなくなるだろう(けれどこの習慣は長く続けたいな)。精神の活発性が、まだ十分ではない。頭の中に、どうしても覚めない部分があるみたいだ。睡眠時にも、どこか一部が目覚めていて、その部分だけ死に体に疲れているみたいだ。

希望を失いたくない。疲れると、すぐに、もう何もかもが駄目だと思ってしまう。何もかもに懸念を抱いてしまう。薬には大分助けられている。薬も、少しずつ減らしていければいいと思う。でも完全に薬抜きで生きることは、もしかしたらとても難しいかも知れない。リチウムは、いい方に効いているのかどうかはよく分からないけれど、効いているのは感じられる。悪い薬では無いのかも知れない。きちんと飲み始めてからは、今すぐ死ななければならない、と切迫するほどの自殺願望は、あまり起こらなくなったからだ。自殺の防止のために飲んでいる。
ストラテラは、ともかく最初は効かないというイメージを持っていたし、コンサータよりも、単に効能が弱いだけの、存在意義の弱い薬、だと思っていたけれど、よく考えてみると、これで効くのなら問題ないし、最初のイメージ通り、全然効かなかったとしても、別に今より悪くなるわけではないのだ。僕は急いでいる。いつも早く治りたいと思っていて、即効性のある薬があるなら、当然そちらの方を処方して欲しいと思う。けれど、まあ、少しずつ良くなってきているのだから、待とう。僕には自然な治癒力が備わっているし、いっとき非常に悪くなっていたのは、僕の考えすぎる傾向が悪い方向に一直線に働いたからだと思うから、今度はそれを良い方向に使えばいい。

僕がノイローゼの状態にあった時、言葉を読むと大抵の場合、胃が重くなった。美しいと感じる言葉を読むと、胃は軽くなった。どんな言葉を美しいと感じるのか、基準は自分にも不分明で、特に胃が痛くなったのは聖書だ。でも、今は聖書を読んでも、別に胃は痛くならない。絵を見ても大抵の時、胃が重くなった。それから音楽を聴いても。神経が相当に過敏になっていたのだと思う。それから、強い偏見を以て、創作物に接していたと思う。そしてそのことを、意識ではどうすることも出来なかった。今でこそ僕はベーコンの絵が大好きだけど、ノイローゼの状態にある時(正確な期間は分からない。大まかに言って2014年から2016年にかけて)、ベーコンの絵を見ると、本当に吐き気がした。なんて気持ち悪い絵なんだ!、と思って捨てようと思った。けれど捨てなかったのは、自分の感じ方の方を異常だと思ったからだ。

毎日、結構な量の文章を書いているけれど、タイピングのスピードは、一向に速くならない。どころか、遅くなってきている気味がある。一週間前に、一秒間に4.7回打てていたのがピークで、今日は4.2回くらいしか打てない。秒間10打鍵を目指していたのに、今のところこれ以上速くなりそうな兆しだに無い。

午前10:10、四万回打鍵、今日の分は達成。あと、昨日の分の一万五千回が残っている。

うう、手首が痛くなってきた。やはり四万回当たりが妥当なのかも知れない。現在、午前十一時半。ご飯は、食べた。小説を書く感じを思い出したい。そして、詩を、書く感じを。僕は死を恐れていたんだな、ということが薄々分かってきた。

昼、眠ろうとするも、眠れない。何故か『ローズマリーの赤ちゃん』の、一瞬だけ赤ちゃんが映る(?)ところを思い出してしまって、怖くてうまく眠れない。僕はゾンビ映画やスプラッタ映画が好きなので誤解されがちなのだけど、ホラー映画は駄目なのだ。スリラーものも苦手だ。ゾンビやジェイソンやレザーフェイスは、画面の向こうのクリーチャーとして安心してみていられるけれど、悪魔ものや怨霊ものは、テレビを消した後も気配が残ってしまって怖い。というか見るのも怖い。掴み所がないところが怖い。「怨霊」という文字でさえ結構怖い。昔は「霊長類」という単語でさえ怖かった。

にしても、手首が痛いなあ。このまま続けると、腱鞘炎になってしまうかも知れない。無理は良くない。リストレストを使ってみようかな? それともキーボードを変荷重の、つまり打鍵感が軽い方に替えてみようか?

キーボードを取り替えた。慣れないので打ちにくい。変荷重というのは、キーによって押下圧(荷重)を変えている、という意味で、大体小指で打つ辺りのキーは30g、薬指は45g、中指と人差し指は55g、で打てるようになっている(だったかな?)。概ね軽く打てるのだけど、今まで使っていたのがALL45g荷重なので、つまり中指と人差し指で打つキーは、寧ろ今までより重くなっている。でもキーのストロークが浅いので、割と軽い感じがする。・・・キーボードを戻す。うーん、やっぱり押下圧が均一な方が個人的には好きだ。でもやっぱり結構重く感じられる。叩いている感じは、すごく気持ちいいのだけれど。ちなみに両方とも東プレ製で、キーボードをよく使う人は東プレ製のキーボードをしばしば使っている印象。次は、もし買えるならALL30g荷重のが欲しいな。変荷重を薦めている人が、どうも多いみたいだし、一番売れていそうな印象なのだけど。キー毎に押す強さが変わる、ってことに、居心地の悪さを感じる人もいそうな感じがする。僕がそうだから。キーに一貫性が無くて。さらにちなみに言えば、45g荷重でも、キーボードとしてはまあまあ軽い方。というか普通、という印象。決して重くはない。

PM0:30、リチウムを飲む。
ここまでで、まだ五万回打鍵出来ていない。
割とここからがきつい。

PM0:40、サイレースを1mg飲む。

手首が痛いのは、マウスを多く使うせいもあるかも知れない。安い、Amazonのロゴ入りのマウスで、品はいいのだけれど、若干、クリックするのに力が要る。キーボードで文字を打つ時、一般的なQWERTY配列だと、右手を左手の二倍くらい使うらしい。日本語を書く場合、大体。僕はスペースキーは大体左手の親指で打つのだけど、バックスペースキーやエンターキー、それからデリートキーや矢印キーは右手の小指で打つ。右手の小指が結構忙しくて、これが腱鞘炎の一番の原因じゃないか、とも思う(あとで確かめたら、バックスペースキーは薬指で叩いていた)。左手は、ZやWを叩くのが苦手だ。けれどZやWの使用頻度は決して高くないので、左手が痛くなるということは、あまりない。一番使うAのキーが左手小指にある、というのも不思議な配列だと思うけれど(それを言うなら英語で一番使うEのキーだって変な場所にある)、左手の負担が少ないのは有り難い。けど、もう少し右手の労を左手に負担させられるような配列は無かったものだろうか? 英語だとどうなのだろう? 寿司打だと、あれは多分わざと打ちにくい例文を作って選んでいて、特に左手の小指や薬指を集中的に攻めてこられると指が縺れてしまう。まあ、ともかく、この文に特に意味は無くて、問題提起も解決法の提案も新たな配列の考案も、する気は無くて、ただ何となく、変なの、と思っただけです。
親指シフトQWERTYとは違い、日本語を打つのに特に適した配列になっているのらしいけど、僕は今のところQWERTYで間に合っているので、個人的には親指シフトに興味はない。Dvorak配列にも、今のところは興味がない。QWERTYで僕は十分書けると言うことを、個人的に知っているからだ。つまり、QWERTYを使って、歌うように、踊るように、書けたという記憶が、僕にはある。基本的には、配列にはそんなに優劣は無いんじゃないか、って思っている。書けるなら、何だっていい。と思う。

ここまでで五万打鍵超え。この『タイプ数カウンター』は、僕に合っている。僕は微妙にスポ根的なところがあって、目に見える形で進捗状況が分かると、俄然やる気が出て、数字を維持したり、更新したりしたくなるのだ。ゲーム脳なのかも知れない。小学六年の頃、国語の時間に毎回漢字テストがあって、一枚のテスト用紙十問に全部正解したらシールを貰えて次に進める、というのを先生がやってくれていた。僕はシールを集めるのに文字通り夢中になってしまって、一回のテストで一度に三枚ずつ(もちろんそれぞれ違う)テストを配って貰って、シールを毎日三枚集めていたので、六年の終わりには、僕は二番の子の二倍くらいシールを集めていた。一分間テストで十問、三枚で三十問、名前も書かなければならないので、それはもう速く書いた。僕は名前の画数が、一見普通に見えるけれど、実は珍しいくらいに多い(57画、多分クラスで一番多かった)のをものともせずに書き走った。一年間の間、僕は一問だけ間違えた。それが「よろん」調査、の「よろん」で、僕は「輿論」と書いて×を貰った。「世論」は当て字で「輿論」が正解なのだと先生に一応抗議したけれど、こういう難しい間違いも格好いいかと思って、シールは貰わなかった。
そう言えば、その頃から、僕は鉛筆ではなくシャープペンシルを使っていて、小学校ではシャーペンを使うことは、普通、推奨されていないと思うのだけど、六年生の時の先生はそれを黙認してくれていた。有り難かった。僕は小学一年の頃から、出来うる限り、シャーペンを使っていた。使い捨て、というのがどうしても性に合わなかったからだ。小学入学前も、こっそり父が昔使っていたというシャーペンを拝借してきて使っていた。たしかぺんてるの、白いプラスチックのシャーペンで、とてもいいシャーペンだった。シャーペンだと、同じ、慣れたお気に入りのペンをずっと使える。鉛筆は、使うたびに芯はちびるし、長さが短くなって書き味が変わるし、いいところが何も無かった。(小学に入学した直後、父に千円のシャーペン(パイロットのスマッシュというシャーペンだ)を買って貰って、それを一日で壊してしまって、父に殴られた思い出がある。缶の貯金箱に小さな点のような穴が開いていて、その穴にペン先を何となく突っ込んでいたら、てこの原理でペン先の金属の部分が折れてしまったのだ。誤魔化そう、と思って、ペン先の無いシャーペンで書く振りをしていたけど、無理だった。大事にしようと思っていたし、壊す気は無かった。壊れて辛くて、しかも殴られ怒鳴られ詰られて、多分僕はきょとんとしていただろう。僕は上手な怒られ方、というのを遂に知らずにここまで生きてきた。いかにも殊勝げに後悔の念に涙を浮かべればよかっただろうか? 高専に落ちた時にも、父には「何故泣かない? 悔しかったら泣くはずだろうが。どこそこの誰某の息子は高専に落ちて泣いたらしいぞ。悔しくないということは、受かる気もどうせ無かったんだろう? やる気がないんだ。一度くらいはやる気を見せてみろ」などと言われて理不尽で、でも多分僕はまたきょとんとして、微笑んでさえいたかもしれない。その態度がまた父を逆上させると薄々分かってはいるのだけど、その時に適した表情というのを、どうしても纏えず、何だか僕は練習してない下手な芝居にアドリブで立たされているような感じがして、とにかく居心地の悪さばかりを感じるのだ。もちろん父に対して敵意なんか持ってなくて、ただ父が一生懸命怒っているのを、一生懸命真面目に聞こうと思いながら、多分間抜けな顔をしてしまうのだ。昔から。いつもそうだ。)ともかく、僕はシャーペンが好きだ。小学一年の頃から、僕は理想のシャーペンを探し続け、お小遣いの多くを、新しいシャーペンを買うのに使った。百本くらいは買ったと思う。百円のものから千円のものまで。そして16歳の夏、僕は遂に理想のシャーペンに出会った。ぺんてる5というシャーペンだ。それから15年、僕はぺんてる5以外のペンを殆ど全く使っていない。大学入試のときのマークシートの記入にもぺんてる5を使った。鉛筆を使わなければマークが読み取れないかもしれないという注意書きは無視した。16歳の時に買ったぺんてる5は複刻版で、僕は二本買ったけれど、すぐに品切れになった。オリジナルは1970年前後に作られたもので、僕はオリジナルをネットで探し求め、四本買った。五十年近く前のペンなのに、造りがしっかりしていて、バランスが良くて、内部の劣化ひとつ無い。16歳の時に買った複刻版の内、一本は壊れた。だから、今僕はぺんてる5を、五本所持している。五本あれば、多分、まあ一生使えるだろう。
……何だか随分、話がずれた。僕のスポ根的傾向について書こうと思っていたはずなのに。
早いことに、もう55000回打鍵した。終わってみると、案外あっけない。

PM2:00、少し眠っておこう。もう怖いイメージに悩まされたりはしない気がする。
PM2:40、眠れない。
PM2:50、カップヌードル(チリトマト)を食べる。

随分、遠い、回り道をしてきた、と思う。自分を超えたものがあるなら、死は怖くない。
All things must pass. 全ては過ぎて行く。

人は何で生きていくんだろう? きっと生活を超えた場所を知るためなんだ。生活もまた、それまでの長い長い道のりだ。僕は今、自分なんて手放せる気がする。全ては過ぎて行く。でも永遠に残るものもあるんだ。自分なんて何者でもない、と思い始めてから、自分を超えたものを、再び感じられるようになったと思う。ただ、全ては過ぎて行くんだ。そして永遠は、全てが過ぎ去ることに身を任せることの中にある、と思う。

PM5:00〜PM6:30、眠る。
起きて、アイスバーを四本食べる。いや、一本にしようと思っていたんだけど、美味しくて、やめられなかった。赤城しぐれ(赤城乳業)、という商品。

PM6:50、食べるラー油でご飯を食べる。
眠い。

今日は62000回も打鍵した。

PM7:10、ストラテラを飲む。

夜、二時間くらい眠る。

PM10:20、とても眠い。
今日はよく眠れそうな気がする。
……緊張するなあ。緊張すると、浮ついた気分になる。殆ど気持ちが悪いほどだ。
指の感じが、しっかりしてきた。いい傾向だ。
今日は眠ろうかな? それとももう少し起きていようか。
何にしろ今日はもうごろごろだらだらしていよう。眠るかも。
おやすみなさい。

BorisBoris 2018/06/23 15:08 見守ってるよ。

ko-yuhillako-yuhilla 2018/06/23 23:48 どうも、ありがとう。
俺はまあ、ぼちぼち、頑張るよ。

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