廃校図書館、3099年夜 このページをアンテナに追加

2018-06-26

日記、メモ

6月26日、
昨日は早めに寝ようと思ったけれど、日付が替わるまで書きものを続ける。

午前0時30分、空腹を感じて、えびのふりかけとキムチとのりの佃煮(唐辛子のり)でご飯を食べる。それから冷凍していた食パンを解凍して焼いて、バターといちごジャムを塗って食べる。

僕は、体感時間が長い方なのかも知れない、と思う。「一週間なんかあっという間だ」と母は言うけれど、僕にはとてもそうは思えないからだ。

午前1時半、三十分ほど、横になったが、眠れない。

午前2時半、眠れない。眠れそうな感じはあるのに。
しばらくして、眠れる。

午前4時、どうしたことか、寝てもすぐに目が覚める。
しばらく書きものをする。

午前5時、うどんを茹でて、梅干しうどんにして食べる。ふた玉食べる。おいしい。
うどんを茹でられるということは、まあまあ調子がいいということだろう。煙草を吸うとふんわりとした気持ちになる。

今日は、何となくいっぱい書けそうな気がする。実際にペースが速いわけではないけれど、楽に書ける日は、何となく書いている内にどんどん打鍵数が伸びるのだ。

自然に生きられるようになりそうな気がする。今のこの浮ついた気分ではなく。ちゃんと心身がひとつである状態に、なれそうな気がする。

身体を動かすのがずっと億劫だ。でも身体を動かさないと、精神の活発性も失われるかも知れない。ううん、逆だ。精神が活発な人は、身体の動きも概ね活発だけれど、身体を多く動かしている人が必ずしも、精神も多く動かしている訳ではない。

何事にも集中出来ない。特に読書に全く集中出来ないのは辛い。頭が弱っているのだろうか? ぼんやりとする。

昼。この頃、昼ご飯を食べているのだっけ? あまり食べていない気がする。13時頃になって、少し落ち着いてくる。
まったりとしたペースで書いている。詩を書きたいと思うけれど、急がずにいよう。詩は、心から何かを感じたときにしか書けないし、また、書かないようにしていなくてはならないと思うから。短歌はいくつか書いた。

英語を勉強したい、と思う。まだ「勉強している」というほどには勉強していない。取りあえず買いそろえた英語の本をぱらぱらと読んでいる。英語の参考書(『表現のための実践ロイヤル英文法』)の例文が面白い。今やっているところの例文は“What are you tring to do? Or had I better not ask that?(何をしようとしているんだね。それともそんなことは聞かないほうがいいのかな?)”というもの。一体どういうシチュエーションなのか気になる。勉強をしていると、何もかも良くなっていく気がする。頭の隅々、特に言語野がぎゅんぎゅん呻って高速回転しているような気がする。ドーパミンがすごく出てきて。


(医師宛に書いていたメモ、一部)
『僕は13歳以後、文章表現という、氷細工のように迂遠で遠回しな、しかし固くて冷たくて僕の肌に合う、伝達手段を得た。そして、失った。ここ何年か、僕はまるで何も書けなかった。最初書けるようになった理由は分からないけれど、書けなくなった理由は、というか過程は、大体分かる。言葉は、とても個人的なものなのだ。凍り付いた夜空の高い、高いところから落ちてくる雨を、ビルの狭間でひとり、浴びている時のように。その時の、どうしようもなく心細く、誰かに会いたい、会って喋りたい気持ちのように。而して僕は数年間、頭が過熱していた。過熱したことの理由までは分からない。精神がひとつに纏まらず、いつも沸き立っていた。今もその傾向がある。でも今は大分心が、静かになってきた。沸き立って、どろどろになって、それが冷えて、固まって。その繰り返しでしか、僕は多分成長出来ない。成長したかどうかは、分からないのだけど。ぐちゃぐちゃになって、固まって、そして段々水に近付いて行くのだとは思う。

……雨が降っている。そういえばこの頃、雨がよく降っていた気がする。書いていないと、すぐ、そんなことも忘れてしまう。雨の音は好きだ。大気圏上層の氷窒素の化石の音。冷たい音だ。

結局のところ、頭の良さは、感情に関わる問題なのだ。感情に関わるのは扁桃体だけではない。扁桃体が司るのは、寧ろ気分と言うべきものだ。感情には、全身と、そして世界全体が関わっている。
それはそうと、僕の脳は扁桃体が働きすぎているのだろうか? それとも扁桃体が縮小しているのだろうか? 不安神経症の場合は前者で、双極性障害の場合は後者であるらしい。つまり全く違う治療を要するということなのだろう。僕は強い恐怖を感じることが多い、と思う。今は以前ほどではなくなったが。恐怖を多く感じる場合は、扁桃体が働きすぎているらしいので、抗鬱剤を飲んだ方がいいらしい。逆に双極性障害の場合は、抗鬱剤が効きすぎて躁状態になってしまうことがあるという。一体僕の脳がどうなっているのか、正確に知りたい。
もし僕が14歳か13歳の頃に、正しく診察されていたら、僕の人生は今とは全く違ったものになっていただろう。誰も、本気には、僕を病気だと思っていなかった。父などは、まるで病気であることを、不名誉であるか、僕の精神力(?)の欠如の現れででもあるように捉えていたと思う。先に断っておくと、僕は僕の今の人生を、全く悪く思っていない。今の人生を歩んできたからこそ体験出来たこともあるし、出会えた人もいる。けれどもし、今まさに(昔の)僕と同じ苦しみを味わっている人(多分多くは少年)がいたなら、それはもう、治って欲しいと思う(僕は治ってはいない。こじらせていると思う)。精神科はもっと外科的になるべきだと思う。精神科は一般的に、精神論と当て推量に、薬の処方で体裁を取っているようなところがある。それは批判ではなく、仮に僕が精神科医だったとしても、多分、同じことしか出来ないだろう。この場合、精神科学はまだまだ未成熟な学問だ、と言えるのだけど、精神科の「患者」もまた、まだまだ未成熟である、と言わざるを得ないだろう。外科の場合は、患者は、医者の言うことを一方的に聞いて、一方的に腹を開かれて、後は寝転がっていれば、それでいい。療養が患者の勤めだ。自己診断は宛てにならないどころか、「自分は健康である」という思い込み、もしくは正反対の思い込みで、多分に自己診断にはバイアスが掛かってしまうので、多分有害でさえある。而して精神科の治療の場合、当然、患者が黙っているわけにはいかない。何事か、ともかく症状について語らなければならない。何か言わない限り診断のされようがないし、自分の苦しみを正確に語らなければ、その苦しみは治療されることがないだろう。しかし、それが難しいのだ。「自分の扁桃体は縮小しているように思える」という風に外科的な見地から自分の症状を医者に申告出来るような患者は存在しないし、また、何を話すにしても(精神科にあまり期待していないため、または治る気がないため)本気になれなくて、その(自分のことでさえ)本気になれない、ということがまさに悩みだったりするからだ。脳という内臓について、普通、人は自分自身の状態を知らない。それがどの程度通常(平均)と違うのか、人は自分では普通、絶対に知ることが出来ない(たまに脳腫瘍や、脳のある部分の肥大を自分自身で感じることが出来る人もいるらしいけど。)。
何事か、悩みはあるのだ。その悩みを治して貰いたい、と思うのだが、それを、うまく表現出来ない。誰でも、自分の苦しみは、特殊だと思うだろう。精神病の診断リストや症状の項目を見ても、当て嵌まると言えば当て嵌まると言えるし、また、どれも違うようにも思えるだろう。周りの人からは、気合いが足りないとか度胸が無いとか性格が悪い、と遠回しに、或いは直截に言われるだろう。そして言われた当人でさえ、もしかしたらそうなのかもしれない、と思うだろう。性格の問題、或いは意志の欠如の問題なのだ、と。自分の状態を、悪いなら悪いで、正確に見なければならないのだけど、まずその基準が無い。「明らかに」自分では何かがおかしいと思っても、それが自分の顔色に出るわけではない。例えば、「あまりにも疲れる」と思う。だから「あまりにも疲れる」と誰かに言ってみる。ほぼ必ず「私も疲れる」と返ってくる。「疲れるよねえ」と。自分では自分の疲れが度を超している、と思うのだが、それを分かりやすく提示出来るような証拠が無い。また、他人は他人で、各々がやはり、特殊な疲労と孤独を抱えているのだ。みんな自分が一番辛いと思っている。どちらの方がより疲れているか、識別する方法は永遠にない。誰もが、自分だけが疲れているような気がしているだろうし、そしてそれは正しいのだ。誰も、他人の疲れを自分の疲れとして感じられる人はいない。ストレスで、胃に穴でも空けばいい、と思う。その内、最初は熱心に真面目に自分の病状を説明しようとしていた患者でさえ、人に自分の状況を言葉で伝えるという徒労をやめてしまうことが多いと思う。
急な話だけど、もしかしたら人を殺せば自分の異常性が人に伝わるかも知れない。そして実際、重度の精神病患者は、殺人を単純な行為としてしか捉えない。例えば刺殺するなら、ただ肉に刃物を刺す、という行為としてしかそのことを捉えない。人が殺人を犯さないのは、肉に刃物を刺すのが嫌だからではない。では何故かというと、人は一般に、自らの世界観の中で、他人の肉体(生命)、というものの価値を非常に高い位置に置いているから、ということと、人と人が息づいている(その中で自分もまた生きている)人の生活を、敢えて理由を挙げる必要も感じないほど、大切に感じているからだ、と思う。また、個別の人を殺さないのは、その人が好きだから(当然殺された人とはもう話せない)、ということと、ほぼ本能的に(ただし本能ではない)、人の痛みを自分の痛みとして感じるからだと思う。殺人を犯した後の自分の社会的立場を考えて、殺人を思い留まる人も多いだろう。けれど、重度の精神病患者は、人を肉としてしか見ない。もっと正確には映像としてしか見ない。また、自分の生をもはやどうでもいいと思っているので、その程度に応じて、他人の生活もまた、どうでもいいものと見なしてしまう。また、人のことを好きになれないし、他人の痛みを感じる以前に、自分の、自前の痛みさえ失っている……。つまり、人を殺してはいけない理由が、殺人犯には残っていない。そしてそのことを、自分でも十分寂しく思っているだろう。自分を異常だと思う。異常さを伝えたいと思う。何故なら適切に異常さを表現されたときにだけ、異常さは異常なりに、居場所を得られるからだ。つまり、「自分は殺人を何とも思わないほどの異常者なんだ」ということは、殺人を犯すことで簡単に実証出来る。殺人を犯したとき初めて、異常者は「異常」という社会的に正常なレッテルを貼って貰える。……』


15:30、今日はもう少しで四万回叩ける。まだ今日は大分時間があるから、英語の勉強をしようと思う。

僕は自分の脳を回復させたい。もうODはしないだろうと思う。結局のところ僕は自分では今まで一度も薬をコントロール出来なかった。薬を母に管理して貰ってから、僕は、目に見えて精神状態が良くなってきた。さらに、適格に治療するために、出来れば脳をMRI(CT?)でスキャンして欲しい。他に、脳波を測るとか。まあ、そういう、外科的な検査を受けたい。もしかしたら慢性的な抑鬱感は器質的な問題かも知れないのだから。脳腫瘍は多分、無いだろうけれど(それさえも分からない)、特に扁桃体が肥大しているか縮小しているか、それくらいは知りたいし、多分、どこかにか異常はあると思う。多分。

音楽は感情そのものだ。それから言葉も。絵、アートワークも。分かる、というのは、感情が、分かるということだ。僕は、もしかしたら躁状態になりたいのかも知れない。でも、いつかは鬱になる、破滅的な躁状態には、もうなりたくない。普通に、元気になりたい。治りたいんだ。安定して、好きな人と一緒にいたい。

四万回、叩くと、虚脱感が訪れる。英語を勉強する前に、少し休もう。

……眠らないまでも、ちょっと横になったら楽になった。

18:00、英語の参考書を25頁進める。英語は好きだ。けれど結構疲れる。
18:30、リチウムを飲む。ついでに睡眠薬を飲む。
心が浮き足立っている。音楽も表面しか聴き取れない。言葉も上っ面しか読み取れない。小説を書きたい、詩を書きたい、と思うけれど、じんわりした孤独の世界に入れない。

感情の世界、集中した世界にはいりたい。

明日は病院の日だ。この一週間でしたことと言えば、いっぱい書いたことくらいだ。
日課をもう少し整理したい。書くことと、英語の勉強と、それから……、今からまた、少しずつ決めていこう。明日は特に言うことも無いなあ。薬も出来れば替えずにおいてもらおう。

今日は、午後八時前にして、もう眠いや。ご飯を食べようかな。
取りあえず、今日の日記はここまで。また書くかも。
おやすみなさい。

追記;この後、タン塩でビールを飲んだ。久しぶりのお酒。きゅうりの浅漬けとサヤエンドウのごま和えとレンコンの揚げ物とキムチでご飯を食べる。とてもたくさん食べた。お腹いっぱい。

歯を磨いて、眠ろう。

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