民主主義と代議制は同じではない!


常々思っていたことであるが、日本の現状が「民主主義国家」であるというのは、たぶん間違いであろう。民主主義にもフランス的、英国的、アメリカ合衆国的、ラテンアメリカ的、アジア的、云々があるとすれば、日本的民主主義と言えなくもないかもしれないが。では、民主主義とは何か、これがまず問われなければならないだろう。

民主主義は、やはりフランス民主主義が原点であり、民主主義はフランス革命を起点としていると限定すべきだと思う。当時のフランス人民はなにをしたか? 武器(と呼べないものもあったが)を取って立ち上がり、専制君主をとらえ殺した。つまり、武力による圧政に対する反抗であり、武力による転覆=革命、これを人民が実行したのである。国軍、傭兵などの武力のプロではなく、パン屋、革職人、商店主、学生、一部の警察官などが、実行部隊の中心であったのだ。これが民主主義の原点ではないだろうか。もっとも、この民主主義の行為は、安定だけを望む保守派の人間たちを大いに落胆させはした。

フランスでこれが可能であった背景には、中世自治都市にみられるような「自治」とそれを守り抜くため武器の使用に市民が習熟していたことを挙げなければならないだろう。

人民は、各自の職業、あるいは職分をもっている。したがって、平時の政治には代議制というものが必要になってくる。しかし、代議制は、民主主義の一面でしかなく、しかも、この舞台には多くの技術や欺瞞が介在する。さらに、多数決の原理も方便にすぎないだろう。多数決によって与えられるauthority(権限・権力)は、もとより脆弱なものでり、むしろこのような権力が独裁に走る例が歴史上多々ある(たとえばヒットラー政権など)。それでも、このように危うい代議制が民主主義の一部であると言えるのは、いつでもauthorityは、人民の武力によって転覆されうるという裏打ちがあることが必要条件となる。

かつて、社会主義圏の国家は、ほとんど「***人民民主主義共和国」と名乗っていた。それには、それなりの根拠があった。つまり、新国家は人民革命の国家だという矜持がそう呼ばしめたのである。しかし、この矜持は多くは裏切られ、それぞれが独裁国家、あるいはソ連の代理国家となり、根底的な人民の武力による抵抗権が抹殺される結果に終わった。それを、再び覆し、民主主義を再興したのが、1990年代の東欧諸国革命であった。

このように「民主主義」を再定義して見ると、果たしてどのような国家が「民主国家」と呼びうるであろうか。かつてのフランスとかつてのアメリカ合衆国がそうであろう。しかし、これらを除くと民主国家は存在しないことになる。英国はどこから見ても民主国家ではない。

また、大戦後、日本は、アメリカ合衆国を模して「民主国家」になったといわれるが、本当はそうなっていない。まず、地域人民の「自治」がなく、決定的な点として、中央権力に対する武力による抵抗権がない。これでは、到底、民主主義とはいえないだろう。天皇制の護持の観点から、英国風の代議制が導入されたにすぎないというべきであろう。また一面、それが、戦前の政治体制にうまく接続できたからでもある。つまり、戦後の日本は片肺の擬似「民主主義国家」なのである。


では、我々は、これからも「民主主義」を求め続けていくべきだろうか。

小沢一郎氏は、日本を本当の民主国家にすることが夢であると語る。それは、官僚システムが独裁権力を掌握している現状へのアンチテーゼの意味合いが強い。つまり、人民の声・意志を代弁する政治家が代議制を通して本当の権力を掌握し、官僚システムを政治権力の手足にするという、政治のあり方を指している。しかし、これは代議制を通して実現可能であろうか。

代議制(これを民主主義と呼ぶ人もいる)を守るには、代議制の方法によらなければならない, と多くのしたり顔の評論家はいう。小沢氏もそのような考えであると、認識している。しかし、このような「常識」自体、代議制と「民主主義」の再検討を通して洗い直しが求められているのではないだろうか。

現実の日本で「民主主義」の芽を絶やすまいとする活動は、現在、とてつもない苦境に立たされている。以下に引用するブログ「反戦な家づくり」の記事がそのことを如実に示している。そして、ではどうすべきなのかという点も、戦略と戦術に分けて考え抜いている。(ただしその賛否は、保留しておく)


ブログ「反戦な家づくり」 http://sensouhantai.blog25.fc2.com/

2013-12-02(Mon)
安倍晋三に取り憑いているもの

日本版NSC、特定秘密法案、集団的自衛権辺野古基地のゴリ押し(恫喝)、参院選が過ぎて以降、とくに今国会が始まってからの安倍晋三の暴走ぶりは激しいものがある。

その一因は、国民が完全にナメられているということ。
どんなことをしても怒らない。酷ければ酷いほど選挙に行かなくなる。行く人は自民党に投票する。
そう確信しているから、法律も憲法も民主主義も常識もどうでもいいのである。
そうした重石を踏みにじる快感に打ち震えるような今の自民党がある。

ゲル石破の「デモはテロと変わらない」発言など、民主主義を蹂躙できる喜びがあふれ出しているではないか。
その後撤回したと言うが、その言いぐさたるや「(デモがテロの)全ての要件を具備するわけではないので撤回する」と言うのである。
厳密にはテロではないと言っているだけで、「本質においてあまり変わらない」という自らの言葉はまったく否定していない。もちろん謝罪など毛頭する気はない。

「絶叫デモはテロ行為」 石破幹事長 市民活動、テロと同一視
2013年12月1日 東京新聞

石破氏 秘密保護法案反対デモは「テロ行為」 その後“撤回”
2013.12.1 産経

ゲル石破にしてみれば、秘密保護法案についてこのことを突っ込まれると面倒くさいから撤回しただけだ。
一応選挙で選ばれる政治家が、このようなことを平然と言ってのけるのだから、もはや日本の民主主義は枯れ果てたということだ。

沖縄自民党への切り崩し、というか恫喝も激しいものがあった。

社説[菅・石破発言]沖縄への露骨な恫喝だ
沖縄タイムス 11月20日

もとより選挙のために県外移設を掲げた沖縄自民党だったのかもしれないが、それにしてもゲル石破や菅義偉、そして安倍晋三のここ2ヶ月ほどの暴走ぶりは後先かまわずという印象をうける。何かに怯えているような・・・

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ここ2ヶ月ほどで話題になっていることと言えば、東京オリンピック徳州会事件だろう。
そして、その交点に猪瀬直樹の5000万が浮上した。

なぜこのタイミングで発覚したのか。ある意味借用書すらない口頭だけのカネの動きが表沙汰になったのか。
11月20日に猪瀬の政治資金収支報告書が公開され、その翌日に「複数の関係者の話」として5000万のことが発覚している。

猪瀬直樹知事に徳洲会が5000万円提供 強制捜査後に返却
朝日新聞 2013年11月22日

どう考えてもタレコミである。
こういう不自然な流れがあるときは、まず裏があると思って間違いない。動揺する安倍晋三らに対する恫喝なのではないか。

ではいったい安倍晋三が何に動揺するというのか。
有権者など意のままだとナメ切っている連中が、いまさら動揺する必要があるのか。そのヒントが、ここにある。


統一協会勝共連合の機関誌である。今年の3月号の表紙だ。

統一協会の表紙を飾る男がこの国の首相だということ自体、ものすごい話であるが、ここで問題にしたいのは、この号の巻頭論文である。

一部引用する

自ら拓く同盟強化の道

オバマ大統領の原点は、内政におけるリベラルと外交における対話路線である。第二期政権の国家安全保障チーム(国務、国防、CIA長官)の陣容が明らかになった。「世界各地への軍事介入に対して懐疑的な見方で一致」(「インターナショナルヘラルドトリビューン」紙1月10日付)しており、「外国に米兵の足跡をあまり残さない」方針で一致しているという。(略)

 米国国家情報会議(NIC 大統領のための中長期的分析を行う機関)が昨年12月10日、「グローバル・トレンド2030」を公表し、話題となった。その内容は、米国が圧倒的な力を誇った時代が終わる一方で、中国も成長が穏やかになり世界に覇権国家はなくなる。そして日本は人口減が響き、衰退が続く、などの予測が記されている。(略)

「アジアでの通常でない形の第二次大戦後処理により、歴史問題に関する不満が深刻化しつつある」「米国が孤立主義や経済力衰退で同盟国への関与を弱めた場合は、核武装に踏み切る国が出る恐れがある」と記されている
(引用以上)


統一協会は、オバマが中国と手打ちをして、むしろ日本を危険視するようになっていることに、危機感をあらわにしている。
統一協会は、日米韓の反共体制の尖兵となることでそのステイタスを政界をはじめとして確立してきた。
当然、資金源も壺売りだけのはずはなく、CAIなどの資金が軸になっていると思われる。

その統一協会にとって、オバマの対中和解、G2路線は致命的なものになる。
存立を脅かす大事件なのである。

そこで、オバマの路線に易々と従うのではなく、従来の(冷戦時代の)反共路線を維持すること、それをオバマに認めさせることを安倍内閣に迫っているのではないか。
大量の人材を国会議員の懐に送り込んでいる統一協会勝共連合のファイルには、うなるほどのスキャンダルが記録されているはずだ。これまではタダで使える便利な私設秘書だったものが、オバマ路線に従おうとする自民党議員に牙をむいているのだ。

オバマが求めているのは、TPPで日本の資産を吸い上げることと、アジア太平洋の米軍の下請けだ。要するに、米国の経済を立て直す、そのための負担を日本がしろ、ということだ。
しかし安倍晋三は、それを逆手にとって、アメリカが求めているよりはるかに独裁的なNSCや秘密保護法を作り上げ、米軍の肩代わりという名目でアメリカが望まない中国との緊張を煽ろうとしている。

この状況へのエージェントとして、オバマの分身とも言うべきキャロライン・ケネディが送り込まれた。
だから、ケネディ大使はお飾りではなく、かなり重要な任務を帯びて日本にやって来たと見るべきだ。敵が敵なので、ものすごく慎重にやっているけれども。なにせ、一つ間違えば暗殺されるということを、誰よりもよく知っているのだから。

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もちろん、統一協会の陰謀だけですべてが進んでいるわけではない。従来の自民党を支えてきた様々な国内利権をも巻き込んでいるし、何よりも、最初に書いたように有権者が全く無力であることで可能になっている暴挙である。
アメリカのために日本を食い尽くそうというオバマの政策ももちろん許し難いと思うが、今の安倍晋三の進む先は、それ以上に危険で悲惨な未来だ。

酷い未来と、とてつもなく酷い未来の、どちらを選ぶか、という選択肢が今私たちの前にある。

そういう選択肢しか残っていないのは、残念ながらそういう選挙をやってしまった私たちの自業自得でもある。とにかく、いくら泣き言を言っても始まらないので、この選択肢をどのように選び取り、どのように次の一歩を進めていくのか、判断しなければならない。

私は、今のこの状況下では、オバマケネディの路線にある程度載っていくべきなのではないかと思う。
乗っていくというか、オバマ路線と安倍路線の対立をより際立たせること、先鋭化させること、無難な言葉を慎重に慎重に選んでいるケネディに決定的な言葉を言わざるを得ないようにさせること、などなど、情けないけれどもガイアツを利用することを考えざるを得ないように思う。

その上で、もちろん、オバマは味方ではない。日本をアメリカ復活の餌くらいにしか思っていないはずだ。それでも、安倍やゲルや統一協会のごときが目指す絶望的な反共国家よりは、まだ反撃の可能性を残しながら生きていけるように思うのだ。

およそ元気の出るような話ではないが、カラ元気で何の根拠もない理想論を叫ぶよりも、長期的な戦略と現実的な戦術をきちんと区別して考えた方が、私はまだしも元気が出る。

これから日本が民主主義ってやつを自分たちの手で実現するには、おそらく20年やそこらはかかるだろう。
その長い道のりを、なんとかメンタルな意味でもフィジカルな意味でも絶滅せずに生き延びていくこと。そのための苦しい選択を、今私たちは迫られている。






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