「秘密保護法」と沖縄の「自衛隊基地化」


秘密保護法による「秘密」とは、防衛(国防)と外交関係の国政事項を主なターゲットにしている。もちろんそのカテゴリーは極めてあいまいである。しかし、二つの事項が中心であるかとは間違いないだろう。

そこで、遠い将来はさておき、現時点で何が中心的なターゲットになるだろうかを想像してみる。外交に関しては、外務省の外交力の弱さ、その人的ひ弱さを考えると、外に向かって「機密」にしておく価値のある情報など外務省は持ち合わせていないことは、容易に想像できる。。反面、国民に「秘密」にしておかねばならない情報は、いっぱいあるに違いない。つまり、国民に知れると、外務省自身が叱責されるような案件である。筆者の狭い見聞から判断しても、外務省関係の人物は、失敗が露見すること、その責任が個人に降りかかってくることを極度に避けようとし、過剰反応を示す。それを避けることに全神経を集中しているのではないかとさえ思える。(実はこの状況は、最近の日本の組織の基本になってしまっているようだ)。

次に、防衛(国防)機密に関しては、最新鋭武器の秘密も考えられるが、それは「秘密」足りえないと思われる。現時点で、戦闘機などの新鋭機は日本では生産していない、それらは輸入品だ。よって、その構造・能力などの情報は、関心のある国はとっくに入手しているに違いない。通常兵器は、国内生産品もあり、こちらは機密の価値のある情報もあるかもしれない。

防衛(国防)に関する「秘密」は、なんといっても、その重要性からも、その緊急性から見ても、沖縄基地に関することであるに違いない。しかし、沖縄軍事基地=米軍基地とみなし、すぐに「日米安保」を想起するのは、ちょっと想像力に欠けるのではないか、と思える。

沖縄基地に関し、秘密保護法に基づき今後「秘密」が増えていくだろう。その「秘密」のベールの背後で、沖縄軍事基地の「国軍」(現自衛隊)基地化が、着々とするめられるのではないか、という想像力を持たねばならない。安部自民党によって、社会のファッショ化のボタンがすでに押されていることを看過すべきではない。

もちろん、沖縄の国軍基地化そのものは、別の視点から論じられるべきである。しかし、それが、秘密保護法を背景に秘密裏に、なし崩し的に進められるとすれば、それは政治問題化しなければならないだろう。たとえ、秘密保護法に基づく拘束に直面してもである。政治家の力量が試されることになるだろう、また、マスコミの立ち位置が決定的に明らかになるだろう。

この論点を取り上げた記事が、「東京新聞」のコラムに現れた。「秘密保護法 言わねばならないこと」というコラムである。それを以下紹介しよう。

【秘密保護法 言わねばならないこと】(11)
沖縄への恫喝では 

社会学者 田仲 康博氏
2014年1月21日

 沖縄の基地問題との関係から見ると、なぜこの時期に特定秘密保護法を成立させたのか。早速、昨年末に仲井真弘多(なかいまひろかず)知事が普天間飛行場を移設するため名護市辺野古沿岸部の埋め立てを承認し、県内移設容認に寝返った。沖縄から見ると「もうこれ以上、基地問題について何も調べるな」という恫喝(どうかつ)に見える。

 基地問題で、東京のマスコミが使う「移設」という言葉自体がまやかし。県民が求めているのは普天間の「撤去」。「移設」と言った瞬間に、どこかに移す場所を設けなくてはならないという論理になる。

 他方、尖閣諸島問題で、「沖縄県の」と強調されるようになった。沖縄が危ないと刷り込まれ、多くの国民はやはり沖縄に基地がなくては、と思ってしまう。政府のメディア戦略もシナリオ通りに推移している印象で、集団的自衛権の行使容認、憲法九条改正へと進み、自衛隊が国軍化されることが最も恐ろしい。

 基地問題の根幹は、日本政府がどう考えているか。沖縄には、実は米軍基地よりも多く自衛隊基地がある。辺野古に造りたがっているのは米軍なのか、日本政府なのか。いずれ米軍が去った後も、辺野古の基地は国軍の基地として県民の脅威であり続けるのではないか。この法律が問題なのは、こうした疑念について自由に発言できなくなること。秘密にアクセスすれば未遂でも、教唆でも罰せられる。さらに恐ろしいのは、その種の「危険な」情報にアクセスしなくなること。そして、そのことに疑問すら起きなくなること。

 アルジェリア独立運動を主導した思想家フランツ・ファノンは「無知とはモノを知らないことではない。疑問を発せられない状況のことだ」と言っている。そんな無知な大衆をこの法律は目指している。

 たなか・やすひろ 1954年、沖縄県生まれ。国際基督教大上級准教授。社会学の視点から沖縄の諸問題に取り組む。

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