2ペンスの希望

映画言論活動中です

温泉

数年前から、「映画温泉」という定期的な集まりを始めている。
今日はその発足時の趣意書を再掲する。

ゆっくりたっぷり、とっぷりどっぷりお風呂につかる様に、映画を満喫する。
温まったり、のぼせたり、時には、人生の垢落とし、命の洗濯も‥。
ホントは 「温泉」なんて 贅沢で高級そうな名前ではなく、
モット 日常的に「銭湯」と呼びたいところだが、
月イチではとても「銭湯」とは呼べそうにもない。
ソレデモ ゆくゆくは年中無休、毎日営業の地場・地元の「銭湯」
「お風呂屋さん」を目指したい。けど‥‥ 
「内湯」が当たり前になってしまった昨今、町の「銭湯」も廃れる一方だ。どこまで生き延びられることやら‥

軟弱だが、形を変えて何とか生き延びている。毎回新しい参加も増えて元気だ。
スタート時から変わらぬ基本方針がある。幾つかアトランダムに挙げてみる。

★「閉」ではなく「開」で。 サロン、クラブ、サークルではなく、集会、ライブ、カフェ(雑多、有象無象の出入り自由)で 行く。
★あらゆる世界に 基本となる背骨の技・技術と時代を超えて古びない(愛される)古典(スタンダード・ナンバー)があると思う。ことさらに、古典だとか、基本だとか言わずとも
フツーに娯楽・慰安として楽しめる映画がわんさか眠っている。騙されたと思って、昔の映画(ちょっと前の映画、ズーっと前の映画、生まれる前に作られた映画)を見直してみたい。  ということで、合言葉は、「古い」映画の新しい「発見」
★守備範囲は、戦前から1950年代〜60年代〜70年代中盤までの邦画が中心。
それは、映画が娯楽産業として輝いていた時代であり、19世紀末から20世紀にかけて誕生した世界の映画史的達成が、東洋の島国・日本の映画マーケットに結晶し《綺羅星の如き映画群》が居並ぶ稀有の時代である。
洋画・邦画を問わず、巨匠異才からプログラムピクチャーの量産監督までが、それぞれに切磋琢磨し、知恵を絞り、腕を磨いた時代が齎した成果(精華)を 味わい尽くす。
★ストーリーにひきこまれたり
サスペンスに息を呑んだり
スクリーンのなかの人々に興味を持ったり
性的興奮を味わったり、‥‥
★教条や教養の落とし穴にはまらぬよう、細心の注意をはらいながら、映画を堪能する。すなわち、骨までしゃぶる。
★青白い作家主義表現主義でなく、猥雑な豊穣・体験としての映画をこそ提供する。
★ 産業とともに 社会とともに、映画も変わる。
滅びるものは滅びに任せればよい。正直、その思いも強い。
しかし‥ともうひとりの自分が囁く。
闇のシートに包まれて味わう至福の安穏を、溶暗とともに始まるあの身体がむずむずするような快感の予兆・その恍惚の記憶を、若い世代にも伝えたい、と。

温泉の課題は、何といっても「映画」を面白がる若い人たちの掘り起こしだ。
彼らは 自分で選ぶ力が弱くなっているように思う。ジャンクフードに慣れ、噛み砕く力が落ちている?きれい好き、ご近所好き、そして結構忙しい。毎日あくせく。
仕方なかろう。年寄りが、お節介・余計なお世話をしても何も始まらないだろう。
なるようになるしかない。それでも「映画温泉」の言いだしっぺとしては、あれこれ考えている。
あまり熱くしないこと?あまり濃くしないこと? 
けれども、時には、ヒリヒリするような“熱湯”も浴びて欲しい。