2ペンスの希望

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無意味の意味 深層の真相

きたやまおさむ北山修自切俳人も昔から好きだった。
目に留まれば手当たり次第に読んできた。
最新著作『コブのない駱駝 きたやまおさむの「心」の軌跡』【岩波書店2016年11月 刊】にこんな一節がある。(冒頭には「私の人生を素材にして、私が深層分析を行うという、珍しい「自伝」の試み」との自己解説もある。) かなり長いがお付き合いを。

大島渚、最大の駄作?
帰って来たヨッパライ」が大ヒットしたことを受けて、映画会社の松竹からそれをタイトルにした映画制作の企画がもち込まれます。
 私たちは大胆にも、監督として大島渚さんを指名します。大島監督はすでに、松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として、数々の実験的な傑作を生みだしていました。大島監督は、私たちの指名を受けてくれた。こうして、一九六八年三月上旬から、映画『帰って来たヨッパライ』(脚本は田村孟佐々木守足立正生大島渚)の撮影が始まります。撮影場所は、山口県下関市で、撮影期間は、わずか二週間足らず。すでに熱狂の渦の中にあった私たちは、それぐらいしか撮影時間をとることができなかった。
 大島監督が、私たちの指名を受けてくれたのは、おそらく、私たち若者を〝おもちゃ〟にして、映画の中で遊んでやろうという思いもあったのでしょう。当初は、ビートルズ初の主演映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』(一九六四年)のようなドタバタのロック・ミュージカルを構想していたようです。また私たちも、映画づくりの中で遊んでやろうと思っていました。しかし、結果的にはとんでもないことになってしまいました。
 ベトナム戦争への派遣を拒み、軍から逃げてきた兵士と、兵役を逃れ、彼に同行する大学生が日本に密航してくる。大学生活最後のバカンスで日本海に遊びに行った三人(私たち)は、海で泳いでいる。その間に、韓国人の二人は私とはしだの服を盗んで、私たちは彼らの服を着ることになる。そして、私たちは密航してきた韓国人と疑われ、日本の警察や私たちを身代わりに殺そうとする当の韓国人二人などから追われる――これが映画のストーリーです。ビートルズのようにファンの女の子に追いかけられるのではなく、警察や韓国兵士に追いかけられるとは‥‥。
 確かに、大島監督ならではの内容なのかもしれません。当時の朝鮮半島や日本をめぐる問題が、作品の背後に感じられます。しかし、『ア・ハード・デイズ・ナイト』にあるような無意味の精神が徹底されなくて、設定に意味がありすぎ、笑いのために仕掛けられた荒唐無稽さがあまりにも意味にとらわれてしまっている。
 実際、私たちは、大島監督とうまくコミュニケーションをとることができず、撮影にも積極的にのることができませんでした。
 なかでも、私たちと大島監督との対立を象徴するような出来事がありました。私たちの衣装として、現地の下関で調達してきたミリタリー・ルックの洋服が用意されました。ミリタリー・ルックというのも、いかにも、当時の大人が思い描く若者像という感じでした。私たちは、そんなの好んで着ない。ダサイ見かけに反発したのが、加藤和彦でした。しかも、背の高い加藤には、その衣装の丈が特に短すぎたのです。加藤はLLサイズでも小さいぐらいでしたから。
 加藤は、「こんな恥ずかしいものは着てられない!帰る!」と激しく文句を言った。すると、大島監督が激怒。「おまえたちみたいな若者が、日本をダメにしているんだ!」などと怒鳴る始末。この噛み合わない様子を見ていて、本当に空しくて、情けない気持ちになりました。カバンをもって帰ろうとする加藤。衣装のことなんかで、ケンカするなよと。
 いまから数年前に、久しぶりに、はしだのりひこに会って話した際、彼もこのときのことをよく覚えていました。はしだによると、この日の夜に、私といっしょに「もう辞めよう」と話し合ったと言います。
 二週間足らずの撮影で映画を完成させ、その月の末には公開という慌ただしさでした(一九六八年三月三〇日公開。同時上映は『進め!ジャガーズ 敵前上陸』)。
 映画の評判は散々でした。春休みの娯楽映画だと聞いて、子どもが観に来たのに、わけのわからない内容で泣き出した、などというクレームも来たと聞いています。あまりにも退屈で、大島ファンの私としても、やはり作品として出来がいいとは思えないものでした。
」(きたやま本には写真無し。
管理人が適当に挿入。)
思い返せば、4年前に「動画」をアップしていた。御用とお急ぎでない方はこちらもどうぞ ⇒ http://d.hatena.ne.jp/kobe-yama/20130227