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子どもと法・21の管理人メモ RSSフィード

2018-08-15

[] 戦後73年 消えぬ記憶 句に込め - 東京新聞(2018年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000124.html

https://megalodon.jp/2018-0815-0931-27/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000124.html

終戦記念日に復活した「平和の俳句」には、73年前の戦争を生き抜いた人々からも、多くの句が寄せられている。平和への祈りを込め、17文字に忘れられない光景がつづられた。

神奈川県厚木市高橋和男さん(81) 涙の告白「殺すつまった」

叔父帰国「人殺した」としゃくりあげ 

「こう正座して。手を膝の上に置いて」−。鉛筆でラフな絵を描きながら、神奈川県厚木市の元会社員高橋和男さん(81)は記憶をたどった。終戦の翌一九四六年夏ごろ。当時、一家が住んでいた福島県中国北部から戻ってきた叔父の薫(かおる)さんが、ポロポロ涙を流しながら言った。

「俺、殺すつまった」「俺、人殺すだ」

当時九歳だった高橋さんは「目の前で血を見たんだな」と直感したという。「遠くの人を撃ったり、自分の命も危ない場合の言い方と思えない。(薫さんは)まだ二十代前半。おとなしい性格だった。上からの命令で、相手は捕虜か民間人だったのか。そのへんは分からない」

長男だった高橋さんの父は召集はされたが、前線には出ずに終戦を迎えた。父の弟のうち海軍駆逐艦に乗った次男ソロモン海戦で亡くなった。四男は海軍特攻兵器・特殊潜航艇の乗組員だったが終戦で出撃せずに済んだ。「前線から帰国したのは三男の薫叔父ただ一人。父たちとまとう雰囲気が違っていたことを覚えています」

周囲の親戚は口々に「戦争だもの」「しょあんめーしさ(しかたないさ)」と叔父を慰めていた。

普通の大人たちが、人を殺すことを「仕方がない」と言うようになるのが、幼心に刻まれた戦争の姿だ。日本人も、米国人も変わらない。「戦争になると人は常人でなくなる」。叔父の苦しみを思い、平和への願いを句に込めた。 (山本哲正)

東京都小平市・内海琢己さん(93) ためらい抱え日没後の帰還

生きて来し想ひ噛(か)み締め学徒兵

一九四五年七月、陸軍の「特甲幹」(特別甲種幹部候補生)と呼ばれる学徒兵だった内海琢己さん(93)=東京都小平市=たちは突然、熊本に集められた。課されたのは、米軍本土上陸を想定し、爆薬とともに戦車の底腹部に飛び込む猛特訓だった。

広島師範学校在学中の同年三月に召集を受けた。十九歳だった。激励会で贈られた日の丸の寄せ書きに、父は「皇国 男子の誉」とつづった。「死ぬのは怖くなかった」という。

前線に出ることはなく岡山県の予備士官学校終戦を迎え、郷里の広島県尾道へ。生きて帰ったことを一刻も早く両親に知らせたい思いはあったが、人目を避けるように山に登り、薄暗くなってからわが家に帰った。

「何か晴れがましいような形で帰っていくわけにはいかなかった」。多くの兵士が戦死した。句に投じたのは、同じ運命にいたはずの自分が今こうして生きていることへの思い。日暮れを待った当時のためらいもよみがえってくる。

「今も、学徒兵時代の夢を見るんです」

戦後に師範学校を卒業し五十二年間、高校や大学などの教育現場を歩んだ。  「教え子たちを戦場に送ってはならない」と心に期してきたという。「自分はどうすべきかを考えていくのが大事なんだと思う」と結んだ。 (石川修巳)

[] 戦場はむごたらしい 建築家・元海軍士官 池田武邦さん(94) - 東京新聞(2018年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000140.html

https://megalodon.jp/2018-0815-0932-26/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000140.html

太平洋戦争マリアナ沖、レイテ沖、沖縄海上特攻という三つの海戦を生き延び、戦後は建築家として霞が関ビルの設計に携わった元海軍士官の池田武邦さん(94)=東京都東久留米市終戦記念日に合わせて本紙の取材に応じ、「戦場はむごたらしかった。『壮烈なる戦死』なんて華々しさはなかった」と戦場の凄惨(せいさん)な現実を明かした。

フィリピンレイテ沖海戦では航海士として乗った軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」が米軍に猛襲され、艦橋が血の海に。「船が揺れるたび床にたまった血が右へ左へと流れる。その生臭さと硝煙のにおいが入り混じる。もげた腕や足はバケツの中に入れられ、死体はすぐ腐敗し、惨憺(さんたん)たるものだった」

沖縄を目指した艦隊特攻で矢矧は戦艦大和とともに撃沈された。顔に大やけどをし、黒い重油の覆う海で漂ううち、不意に「畳の上で横になりたい」と実家が恋しくなった。一家だんらんする茶の間の風景が脳裏に浮かんだと振り返った。

戦前戦中は言論や情報が統制された。「玉砕するのが当然と思い、降伏なんて発想はなかった。考えが偏っていた」。戦後、日本の敗戦理由を検証し、自ら設立した日本設計では、建設に関する情報を集めるシステムをつくり、対等に意見を言い合えるようにした。

自衛隊を明記する九条改憲の動きや、集団的自衛権行使を認める安全保障関連法の成立については「命がかかっている問題だから国民の納得できるプロセスが必要。ごまかして進めるのは一番よくない」と考える。そして「あの戦争の歴史が教育の場でしっかり教えられず、犠牲が生かされてない」と訴えた。

<いけだ・たけくに> 1924年、静岡県生まれ。海軍兵学校卒業後、巡洋艦「矢矧(やはぎ)」に乗り組み、マリアナ海戦レイテ沖海戦沖縄海上特攻に出撃し、生還。49年、東大建築学科卒業。67年に日本設計事務所(現・日本設計設立霞が関ビル新宿三井ビルなどの超高層ビルのほか、ハウステンボスなど環境共生型テーマパークの設計に携わった。

[]<象徴天皇と平成>(下)平和希求 背中で語る 父の実像追い 続けた慰霊 - 東京新聞(2018年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000138.html

https://megalodon.jp/2018-0815-0933-30/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081502000138.html

終戦前後の混乱の中、一九四六年に中学生の学齢を迎える皇太子だった陛下の教育をどう進めるかは待ったなしの課題だった。

専用の教育施設を設ける構想もあったが、陛下学習院中等科に進む。指導陣に米国人バイニング夫人や元慶応義塾塾長の小泉信三が迎えられた。学友の明石元紹(もとつぐ)(84)は「二人から、他者人権を尊敬することで敬われるということを教わった」と、今につながる象徴天皇像の原型を見る。

四九年四月、高等科一年になった陛下広島を訪れた。学友、栄木(さかき)和男(84)の父で東宮侍従を務めた栄木忠常(故人)の日誌には、現地で陛下が述べたお言葉の要旨が残る。「(原爆投下)当時の話を聞き、同情に堪えない気持ちで一杯」「人類が再びこの惨劇を繰り返さないよう、固い信念と覚悟を養いたい」。かつての「軍国少年」の面影は、既にない。

日本が平和国家の歩みを始めると、戦争の記憶は昭和天皇陛下の父子に影を落とす。学習院初等科から机を並べた橋本明(故人)は本紙の取材に、若いころの陛下が「木戸幸一日記」と、元老として昭和天皇の助言役だった西園寺公望の元秘書、原田熊雄(故人)の証言をまとめた「西園寺公と政局(原田日記)」を熟読し、「『原田日記のほうが詳しい』と話していた」と証言していた。

両書とも戦争責任軍部にあることを示す証拠として東京裁判に提出され、昭和天皇免訴につながった。橋本は「陛下はこのプロセスを通じて、父は軍国主義者なのか、平和主義者なのかを勉強し、平和を愛する人と納得した」と分析し、「おやじを理解するために、息子の方が努力した」と付け加えた。

陛下皇太子時代の会見で「平和国家、文化国家という言葉をもう一度かみしめてみたい」と語った。即位後は戦後五十年の長崎広島沖縄、六十年のサイパン、七十年のパラオなど慰霊の旅を続けた。元宮内庁幹部は「花を手向け、頭を下げる姿を示すことで、国民に忘れてはいけないと背中で語った」と話す。

「嫌な時代でしたね」。陛下は作家の半藤一利(88)やノンフィクション作家の保阪正康(78)ら在野の歴史家御所に招き、近現代史を学び続けてきた。皇后さまも交えたその場は、誰からともなく当時の思い出話になる。

ある時、半藤と保阪が満州事変などを例に「昭和天皇は戦線不拡大の方針だった」との見方を示すと、陛下は深くうなずいたという。保阪は根源にある思いを「父が積極的に戦争をしたわけでないという安堵(あんど)感が欲しい。だが現実に天皇の名の下に何百万人も死んだ。では自分はどうすれば良いのか、ということだろう」と推し量る。

八月十五日の全国戦没者追悼式。二〇一五年以降、戦争の記憶の風化と、戦前日本を正当化する風潮にあらがうかのように、「さきの大戦に対する深い反省」に言及し続けている。

「自分の思いに反して戦争で命を落とした人がいる。だからこそ、もう少し知的な行動で戦争を防げないか、と」。明石陛下の言葉にそんな強い思いを読み取っている。 (敬称略) (小松田健一、荘加卓嗣)

[] 終戦の日に考える 平和をつくるために - 東京新聞(2018年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018081502000168.html

https://megalodon.jp/2018-0815-0934-31/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018081502000168.html

きょう八月十五日は戦没者の方々を追悼する日であり、また同時にどうしたら戦争をなくせるかを考える日でもあるでしょう。二つの事例を引こう。

一つめは、核兵器に関することである。

英国アルゼンチンが戦ったフォークランド紛争ではこんなことがあったという。

英国駆逐艦シェフィールドが、アルゼンチン軍の発射したフランスミサイルエグゾセで撃沈された数日後の一九八二年五月七日フランスミッテラン大統領サッチャー首相から電話をもらったそうだ。

◆核持つ国の絶対優位

ミッテラン氏はかかりつけの精神分析医アリ・マグディ氏のところへ予約より遅れて到着し、言い訳した。

<すみません、先生。鉄のご婦人との諍(いさか)いを収めねばならなかったもので。我々がアルゼンチンに売却したミサイルのレーダーを無効化するコードを渡さなければ、四隻の原潜でアルゼンチンを核攻撃すると脅すんですから…核戦争を引き起こすなんて。私は引き下がりましたよ>(東京大学出版会UP4月号、長谷部恭男氏「巡洋艦ベルグラーノ撃沈 一九八二年五月二日」より要約)

精神分析医の著作(日誌)にある話で電話の有無、内容は間接情報であって真偽はわからないが、ありえる話である。

そうだとすれば、核兵器は実際には使わないにせよ、核の力をもって英国は戦争を有利に導いたことになる。

過去の話にせよ、核の威力は絶大で、核保有国は非核保有国に対し絶対的優位にあるわけだ。

その威力は少なからぬ国々にひそかに核を持ちたいと願わせ、実際に保有国を誕生させた。

反核のうねり始まる

北朝鮮もその一つである。核の威力をもってアメリカを振り向かせ、独裁体制の保証という果実を得ようとしている。

それと正反対の世界的動向が非核保有国が集まって進める核兵器禁止条約である。核兵器の開発・保有・使用などを法的に禁止し、昨年国連で採択された。ただし各国の批准は進んでいない。

それでも核兵器に対する人々の考え方は、徐々に変わってきているのではないか。持つ・持たないの不公平、非人道性への倫理的拒絶、人類の破滅。サッチャー氏の逸話などは過去のものとし、核時代を非核の時代へと反転させる意思を世界は持つべきだ。そのうねりは始まっている。

もう一つは、私たち自身のことである。

敗戦の後、憲法九条マッカーサー司令官とともにつくったとされる首相幣原喜重郎は回想している。一九〇五年九月、日露戦争の講和直後のこと。

ロシアから賠償金もとれなかった講和を屈辱外交非難する東京日比谷の大会から流れた人々が、政府への反発から交番、電車を焼き打ちし新聞社も襲った。実際は政府には戦争継続の力はもはやなく、一方国民は徴兵と戦費のための増税で苦しんでいた。

当時幣原は外務省勤務で、講和全権の外相小村寿太郎から以下の述懐を聞いている。

小村には国民の反発は予期の通りだったが、故郷宮崎県飫肥(おび)の村に帰って驚いたそうだ。各所に小さなテーブルが出て酒が一杯ついである。小村の酒好きは知られている。一人の老人が小村の前にやってきて言った。

東京では大騒ぎしたそうですが、騒ぐ奴(やつ)らは、自分の子供を戦争にやった者ではありません。私は子供が三人あり、そのうち二人は満州で戦死し、残った一人も戦地におります。みんな犠牲になるものと諦めておりましたが、お陰(かげ)で一人だけは無事に帰って来ることと思います。全くあなたのお陰でございます」

老人は戦争を終わらせた小村の洋服にすがって泣き、同じ光景が二、三あったという(幣原喜重郎外交五十年」より)。

外交官の苦悩が語られ、同時に戦争のもたらす根源的な悲しみが語られている。

◆危うい耳に心地よい話

戦争は政府にとっては政治であり勝敗であるのだろうが、家族や個人には人の生死でしかない。

国家を主語とした威勢のいい話は一時耳に心地よいかもしれないが、注意せねばならない。近隣国への反感をあおる政治家の言葉はよく聞き分けねばならない。

戦争より外交である。武力より対話である。

戦争が多くの人の命を奪うのなら、外交は多くの人の命を救うといってもいい。

何も理想を言っているわけではない。反戦は普通の人々の現実である。国家を平和へと向けさせるのは私たちの判断と意思である。

[](筆洗)カミナリおやじ - 東京新聞(2018年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2018081502000141.html

https://megalodon.jp/2018-0815-0935-28/www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2018081502000141.html

子どもが悪さをすれば、他人の子どもであろうと叱りつけるカミナリおやじというものはその昔ならどこの町内にもいたものだが、最近は、聞かなくなった。地域のしつけ役であり、今から思えば、ありがたい存在なのだが、当時の子どもにすれば、やはりおっかなかった。

作家の平野啓一郎さんが『「カミナリおやじ」とは誰だったのか?』という文章の中で大胆な見方を示している。あのカミナリおやじとは過酷で悲惨な戦場体験によって心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症していたのではないかという指摘である。

ひどい戦場体験に苦しんだ平野さんのおじいさんがそうだったそうだ。心の不調によって時に感情が抑えきれず、爆発する。同じようにあのカミナリおやじたちとは「戦場のフラッシュバックに苦しみ続けた人々」だったかもしれぬと書いている。

事実は分からぬが、PTSDという言葉も適切な治療法もない時代である。戦争の狂気、恐怖が残した心の傷は手当てもされず、それがカミナリとなって現れたとしても不思議ではない。

終戦記念日である。人が殺し合い、憎み合う中では誰であろうと心はきしむ。その見えない傷は戦争の後も長く残った。

カミナリおやじがいたわしい。ひょっとして、あのカミナリの裏側にあったのは、決して戦をしてはならぬという苦しい叫び声だったのかもしれぬ。

[](私説・論説室から)戦後も引きずるもの - 東京新聞(2018年8月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2018081502000167.html

https://megalodon.jp/2018-0815-0936-48/www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2018081502000167.html

左目に穴が開いている眼鏡。弾は頭部まで達したが、分厚いレンズが緩衝となり、貫通はしなかった。眼鏡を掛けていなかったら即死だったろう、と軍医に言われた。東京都千代田区の戦傷病者史料館「しょうけい館」。こぢんまりしているが国立で、秋篠宮ご夫妻と長男悠仁(ひさひと)さま(11)も先月、見学された。

劣勢になった大戦末期、日本軍は傷病兵を後送することもできず、兵士らがあふれ返る前線の野戦病院では救護もままならなくなった。日本人犠牲者約三百十万人のうち約九割が一九四四年以降。病死や餓死も多かった。

兵士らを無残な死に至らしめた日本軍の特徴として、一橋大学院吉田裕特任教授は作戦至上主義や、極端な精神主義などを挙げている(「日本軍兵士」、中公新書)。

インド北東部への進攻、インパール作戦では「食料」の牛や羊まで連れての難路行軍で兵士らは疲弊し、約三万人が亡くなった。NHKの検証番組放送後、ツイッターでは「#あなたの周りのインパール作戦」とのハッシュタグも作られ、ブラック企業パワハラ上司になぞらえられる書き込みが寄せられた。

ワイツゼッカー元独大統領は、ドイツではナチ時代と戦後が断絶しているのに対し、日本は戦時中の伝統などが戦後も維持され継続していると指摘していた。

終戦から七十三年。あしき体質はないか。目をこらそう。 (熊倉逸男)

[] 収容者が入管提訴 「食べ物と靴、同じ箱に」嫌がらせ - 東京新聞(2018年8月14日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081402000253.html

https://megalodon.jp/2018-0815-0902-27/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081402000253.html

強制退去を命じられた中国人の男性が法務省の大村入国管理センター(長崎県大村市)に収容中、自分の差し入れ食物を職員がわざと靴と一緒に箱に入れたり「強制送還するぞ」と怒鳴りつけたりしたのは不当な嫌がらせだとして、国に百十万円の損害賠償を求め長崎地裁に十四日までに提訴した。訴えたのは非正規滞在のため二〇一六年二月に名古屋入国管理局収容後、センターに移送された林旗さん(33)。

提訴は六月二十八日付。訴状によると林さんは今年三月、差し入れの果物などの缶詰約十缶を確認したいと求めたところ、職員が箱に缶詰と共に、林さんが施設で使っている土足用運動靴を入れて持ってきた。昨年二月には林さんが職員に借りたペンを返す際、ふざけて一度引っ込めると職員が「俺を怒らせたらすぐに強制送還するぞ」などと怒鳴った。林さんの家族は日本在住。

入国管理センターは「訴訟に関わるためコメントできない」とした。

林さんは共同通信に「他の外国人も多くの嫌がらせを受け、泣き寝入りしている。密室の人権侵害収容者は無力。実態を多くの人に知ってほしい」と話した。

入管収容を巡っては拘束の長期化も国内外で批判され、国連の拷問禁止委員会が一三年に懸念を表明している。

[] 北大教授、戦時下に人体実験か 中国人から摘出の睾丸で - 北海道新聞(2018年8月14日)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/218181

http://archive.today/2018.08.14-053005/https://www.hokkaido-np.co.jp/article/218181

北海道帝国大(現北大)理学部の男性教授(故人)が1930年代、旧満州(現中国東北地方)で旧日本軍が捕らえた中国人から摘出した睾丸(こうがん)を使い、染色体を観察する実験を行ったことが、北大図書館の保管資料などで分かった。男性教授は日中戦争開戦直前の37年6月、実験結果を基に論文米国科学誌に寄稿しており、専門家は「被験者の承諾がなく、どの時代であれ許されない人体実験だった」と指摘する。

戦時下の大学の研究者による人体実験を巡っては、九州帝国大医学部で45年、米軍捕虜を生きたまま解剖し、殺害したことが分かっている。道内の大学研究者による人体実験は、ほとんど知られていなかった。

男性教授は小熊捍(おぐま・まもる)氏(1885〜1971年)。生物学遺伝学が専門で、30年に北大理学部教授に就任。37年から6年間は理学部長を務めた。

資料は小熊氏が39年に行った講演の速記録「人類の染色体」。旧厚生省発行の「民族衛生資料」に収録された。

小熊氏は講演で、遺体や病人から摘出した睾丸は染色体の観察に向かず、若く健康で生存している男性の睾丸が適していると指摘。「匪賊(ひぞく)(抗日武装勢力)を材料にしたらどうだろうか、どのみち匪賊は殺してしまふのだから」と述べた。

北大は北海道新聞取材に対し「研究を承知しておらず、回答を差し控える」とした。

小熊氏の札幌時代の自宅は旧小熊邸として知られる。北大退官後は国立遺伝学研究所静岡)の初代所長を務め、国内の遺伝学の第一人者だった。

2018-08-14

[][] 水位一時監視できず 第一原発1号機 - 福島民報(2018年8月14日)

http://www.minpo.jp/news/detail/2018081454336

https://megalodon.jp/2018-0814-1042-33/www.minpo.jp/news/detail/2018081454336

東京電力は十二日、福島第一原発1号機原子炉建屋西側にある地下水くみ上げ用の井戸「サブドレン」一本の水位が一時的に正常監視できなくなったと発表した。井戸内部に取り付けた水位計二個の固定金具が緩み、定位置より下がっていたのが原因。位置を戻し、監視を再開した。十三日にかけ、1〜4号機周辺にあるその他のサブドレン四十一本のくみ上げを停止して水位計を調べ、異常がないことを確認した。

東電によると、十二日午前十時十分ごろ、サブドレン一本の水位計二個の水位差に異常を示す警報が鳴った。同日午後五時三十五分ごろ、作業員が現場を確認すると水位計につながるケーブル固定具が緩み、通常より下の位置にずり落ちていたという。その後、定位置に戻し計測を再開した。

東電は実測などにより地下水位が原子炉、タービン両建屋内の高濃度汚染水位よりも高い状態を維持しており、汚染水は外部に漏れていないとしている。金具が緩んだ詳しい原因を調べている。

サブドレンの水位監視を巡っては、五月と七月にも関連設備に異常が発生し、一時的に監視できないトラブルが起きている。

[][] 首相「次の国会改憲案」 9条改憲優先度、争点に - 東京新聞(2018年8月14日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201808/CK2018081402000141.html

https://megalodon.jp/2018-0814-0904-35/www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201808/CK2018081402000141.html

安倍晋三首相は十二日、地元の山口県下関市での講演で、憲法九条の一、二項を維持した上で自衛隊を明記する自民党改憲案について「次の国会に提出できるよう取りまとめを加速すべきだ」と語った。九月の党総裁選や秋に召集予定の臨時国会に向け、改憲議論を進める考えを示した。総裁選に立候補表明した石破茂幹事長は九条改憲を優先しない考えを示しており、九条改憲の優先度が総裁選の主要争点となってきた。

自民党自衛隊を明記するなどの改憲四項目の条文案をまとめている。

首相は講演で総裁選について「党員の間で(改憲議論を深め、一致団結して前に進むきっかけとなることを期待する」と指摘。自衛隊明記に向けた「決意」を表明し「いつまでも議論だけを続けるわけにはいかない」と、改憲原案の国会提出に向け、まずは党内で早期に結論を出す姿勢を強調した。

石破氏は九条改憲について、戦力の不保持を規定した二項を削除する案を持論とする。一方で「国民の深い理解が必要だ」として、九条よりも参院選での「合区」解消や、緊急事態条項新設のための改憲を優先すべきだと主張する。

総裁選に立候補を目指す野田聖子総務相は、「未来志向観点から検討が深められるべきだ」として、早期の改憲に慎重な立場で、具体的な改憲項目には言及していない。 (村上一樹)

[]<20代記者が受け継ぐ戦争 戦後73年> 死の密林、闇夜を流浪 - 東京新聞(2018年8月14日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081402000117.html

https://megalodon.jp/2018-0814-0906-13/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081402000117.html

「私ね、若い子に話すのが怖いのよ」

じっくり話を聞こうとノートを開いた時、金子富子さん(81)がつぶやいた。

「平和な時代に、戦争の話なんて聞きたくないでしょ? 拒絶されそうな気がして…」

われわれの世代の「無関心」が怖いという金子さん。恐る恐る語るように、フィリピンミンダナオ島のダバオでの体験を振り返った。

当時のダバオはロープなどに使う麻栽培が盛んで、多くの日本人が住んでいた。太平洋戦争後期の一九四四(昭和十九)年、米軍フィリピン攻略が本格化し、八歳の金子さんは両親や姉弟ら十二人とジャングル避難した。

昼間は木の枝や麻の葉で作った小屋に身を隠し、数日すると闇夜にまぎれて移動した。食べ物は木の根っこや自宅から持ち出したかつお節など。母親は「体を壊さないように」と必ず火を通してくれた。

河原で洗濯中に米軍機に見つかった。パイロットの輪郭がはっきり分かるほど近くから銃撃され、足元に銃弾が刺さった。

ジャングルには病気や飢えで死んだ人が転がっていた。「お母さん…」。木に寄り掛かり、力なく漏らした少年兵。大量のアリがはい回る顔で眼球だけが動いていた。

「あの時は死んだ人を見てもかわいそうとは思わなかった」。日本の降伏で終わった逃避行。同じ集落から逃げ、一家全員が無事だったのは金子家ともう一家族だけだと聞いた。

     ◆

金子さんが話す隣で、同じダバオ生まれの山根寿美子さん(85)がうなずいた。二人は今、埼玉県所沢市に暮らす。知人を通じて数年前から交流を始めた。

山根さんは三人の妹と父親をダバオで失った。焼夷(しょうい)弾に肘を貫かれたり、爆弾で足の指をそがれたり。「みゆきにかずみ、それとまさみ。小さいのから死んだって聞いたわ」

ただ家族の顔は思い出せない。戦争前の三六年に家族と離れ、山口県で祖母らと暮らしていたためだ。

祖父が亡くなり、葬儀の時、祖母が「寿美子を預けて」とダバオから駆けつけた母にせがんだ。母は四歳の山根さんを残してダバオに戻った。「母はすぐ迎えに来るつもりだったと思う」

だが翌三七年に日中戦争が勃発。四一年には太平洋戦争が始まり、母は迎えに来ることができなかった。

離れ離れになって十年。戦後、生き残って帰国した母と再会しても「初対面のように感じた」。

戦争は母の命を奪わなくとも、心をえぐっていた。夫と娘たちの死を思い出すと「死んでくる」と泣いて家を飛び出した。ささいなことで声を荒らげ、時に暴力を振るう。恐ろしくて、憎かった。「死んだ子への愛が狂ったほど大きく、私への愛はそんなになかった」

九四年に八十歳で死んだ母。晩年は介護のため山根さんの元に身を寄せた。「本当に親子として時間を過ごせたのは最後だけよ」

      ◆

ジャングルで死と隣り合わせの生活を送った金子さんと、親子の絆を戦争に壊された山根さん。メモを取るノートはたちまち二人の体験と思いにあふれた。

取材からしばらくして金子さんが「言い忘れたことがある」と、当時の様子をびっしり書きこんだ手紙を送ってくれた。

「若い子に話すのが怖い」。その言葉は「若い子に伝えたい」気持ちの裏返しだと気付いた。

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<ダバオ> フィリピンミンダナオ島南部の州。20世紀初頭、麻の栽培のため日本人が入植し、ジャングルを開墾。1936年には在留日本人は1万4000人を超えた。41年に太平洋戦争が始まり、日本が米国植民地だったフィリピンを占領。45年3月、米軍ミンダナオ島に反攻上陸すると日本人に避難命令が出されたが、米軍砲撃や病死、餓死などで約5000人が死亡した。

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[] 終戦の日を前に 国家は国民を守るのか - 東京新聞(2018年8月14日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018081402000159.html

https://megalodon.jp/2018-0814-0907-13/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018081402000159.html

全国が焦土と化した終戦から七十三年。無数の犠牲者が出た。空襲から国民はなぜ逃げられなかったのか。そこから国家と国民の関係が見えてくる。

「空の要塞(ようさい)」と呼ばれたB29爆撃機が編隊で焼夷弾(しょういだん)をばらまいた。目標は木造の民家だった。東京では一九四五年三月の大空襲から終戦まで六十回を超える被害を受けた。死者約十万七千人。被災者は三百万人にも上った。

空襲は全国に及び、愛知では約一万人超、大阪では約一万三千人超の死者が出た。広島長崎原爆投下犠牲者は計約二十一万人。空襲による民間人の犠牲者数は四十一万人超といわれる。

◆「焼夷弾は手でつかめ」

東京大空襲・戦災資料センター」(東京都)の集計だが、軍事工場で亡くなった人は、軍人・軍属ととらえ除外している。例えば愛知県豊川市海軍工廠(こうしょう)では、勤労動員の学徒らを含む二千五百人が死亡したというが、四十一万人超の数字には含まれない。

なぜ、こんな大きな被害を受けたのか。なぜ、国民は事前に避難できなかったのか。疑問を解くカギが当時の「防空法」という法律だ。三七年にできた。敵国の空襲があった場合、その危害を防ぎ、被害を軽減するという目的で制定された。

「検証 防空法」(水島朝穂、大前治著 二〇一四年)に詳しいが、その本の副題は「空襲下で禁じられた避難」である。

法改正で国民はB29が到来する前に安全な田舎に疎開できなくなった。疎開を許されたのは、子どもやお年寄り、妊婦らだけだった。国民は都市からの退去を法で禁じられていたのだ。

応急消火の義務を国民に負わせていたからである。爆弾が落ちてきたら、その火を消せ。バケツリレーと砂で…。

◆「国民が死んでも…」

「バケツ五、六杯で消せる」「焼夷弾は手でつかめる」…。手袋でつかみ、放り出せというのだが、あまりに非現実的である。驚くべき非科学世界の中で、国民を消防に駆り立てていたわけだ。

それが不可能であるのは、科学者や軍も政府も当然、知っている。では、なぜ? (1)自ら臨戦態勢につく覚悟を植え付ける(2)「日本軍は弱い」という反軍意識の回避(3)人口流出による軍需生産力の低下や敗北的な逃避観念を生じさせないために「逃げられない体制」をつくる−。前掲書では、そのように説明している。

ならば、おびただしい死亡者は、国家に殺されたに等しいではないか。国家は国民を守るのか。大いに疑問が湧く。国家は国民の命でなく、国家体制を守ろうとしたのではないのか。

空襲被害では各地で訴訟が起きた。憲法学者水島氏は大阪訴訟で証人に立ったことがある。そのとき憲法前文を引いた。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」のくだりだ。次のように述べた。

<『政府の行為』とは何か(中略)まさに『国民なき防空体制』があった。国民が死んでもいいという極致にまで達してから戦争が終わった>

特攻」もそうであろう。志願の形だが「九死に一生を得た」ではなく「十死」を前提とするのは、まともな近代の作戦とはいえない。何千人という若者を死に追いやるだけではなかったか。

国民が死んでもいい、そんな戦争への反省から日本国憲法平和主義は生まれたのだ。そのことは重い。引き継ぐべき教訓だ。

安倍晋三首相の悲願は九条の改憲である。首相にどれだけ戦時下の国民を思う気持ちがあるか。「侵略戦争の定義が定まっていない」など、まるで戦争への反省が聞かれない。

原爆忌でも核兵器禁止条約に「不参加」と明言し、被爆者団体の怒りを買った。庶民目線はあるか。

「戦争ができる国」に進んでいる。集団的自衛権の行使容認しかり、安保法制しかり、特定秘密保護法しかり、「共謀罪」しかり…。強まる国家主義を恐れる。

首相の父・安倍晋太郎氏は東京帝大に入学するも海軍にとられ、滋賀航空隊に配属された。戦後は外相などを歴任するが、「輝かしき政治生涯」という伝記編集委員会の本などにこう記されている。

祖父反戦・平和の人

海軍での役目は「特攻」。だが、山口に一時帰郷のとき、首相祖父・寛からこう言われた。

「無駄な死に方はするな」

安倍寛こそ戦前の反戦・反軍部政治家だったという。大政翼賛会政治団体から「非推薦」とされても衆院選に当選し、反・東条英機の姿勢を貫いた。

国民のためと称しつつ、戦争ができる国づくりとは何事か。平和主義を粗末にしないでほしい。

[] 勇姿忘れない  知事追悼の絵に反響  TOYOさん作 - 琉球新報(2018年8月14日)

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-781660.html

http://archive.today/2018.08.14-000841/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-781660.html

宮古島市出身で東京都在住のミュージシャン、TOYOさん(50)が描いた翁長雄志知事の絵が、ツイッターフェイスブックを通して広まり、反響を呼んでいる。TOYOさんは「命を削って県民や平和のために尽くした翁長さんの思いが、絵を通して受け継がれていけばうれしい」と期待した。

琉球料理屋やイベントなどで沖縄音楽を披露している。訃報に接し「居ても立ってもいられなくなって描いた」という。

絵のモチーフは、6月23日の沖縄戦全戦没者追悼式に喪服で参列した時の姿。希望を表現しようとやや顔を上に向け、優しげな笑みを浮かべた表情を描いた。

10日に公開した直後から反響があり、虹や知事の言葉を加えるなどして複数回投稿し直した。県民大会前に亡くなり、かぶることができなかった“美ら海色”の帽子も描き加えた。

「静かな表情の知事を追悼の気持ちで描いた」という絵には、メッセージが書けるように余白を設けたパターンもある。

ファミリーマートローソンセブンイレブンなどのコンビニエンスストアでプリントアウトでき、11日の県民大会や銀座で行われた追悼トワイライトキャンドルで参加者が掲げるなど、広く活用されている。

TOYOさんは「新たな基地施設を造らせないと、県民の先頭で闘った歴史に残る知事だ。今後も絵や追悼の曲を発信し、勇姿を忘れないようにしたい」と力を込めた。

2018-08-13

[](書評)唱歌の社会史 中西光雄ほか 著 - 東京新聞(2018年8月12日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2018081202000182.html

https://megalodon.jp/2018-0813-0908-54/www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2018081202000182.html

◆わかりやすさに潜む危うさ

[評者]伊藤氏貴(文芸評論家

世代を超えて誰もが口ずさむ歌を挙げるとすれば…「春の小川」「蛍の光」「故郷(ふるさと)」…。どれも小学校で習い覚えた「唱歌」である。しかし本書によれば、昔から変わらず歌い継がれてきたように思える唱歌にも、実はあやうい「歴史」がある。

「春の小川」の冒頭は「春の小川は/さらさら流る」だった。「さらさら行くよ」というように、全体が口語化されたのはいつ、なんのためだったか。戦後の民主化によるものではない。むしろ日米開戦と前後して、総力戦に向けた少国民養成のために口語教育を徹底する一環としてであった。わかりやすい歌詞は「戦争ファシズムの中で突然与えられたものだった」のだ。

ファシズムは、かように民主的な装いでわれわれの中に忍び入る。「蛍の光」の、戦後歌われなくなった三番、四番の歌詞には、唱歌としては例外的に地名が詠みこまれ、防衛線としての「千島」「沖縄」に出征する夫を励まし送る詞で全体が閉じられていたことを知る者が今どれくらいいるだろうか。

一方、冒頭部分を「兎美味(うさぎおい)しい」と、私ならずとも多くの子どもたちが誤解していただろう「故郷」は、特定の土地であってはならなかった。歌詞を吟味すれば、そもそも子どもに歌わせるべきものか疑問が生じる。「如何(いか)にいます父母」と語る主は、故郷に帰るに帰れない中年男だろう。「こころざしをはたして/いつの日にか帰らん」は、少なくとも歌が作られた大正の状況に即していえば「故郷喪失」を歌ったもので、「いつか帰ろう」ではなく「いや帰れない」という反語と解釈すべきなのだと本書は言う。

「兎」も「小鮒(こぶな)」もいない土地の出身であっても、国民として同じ「故郷」を思い浮かべるための装置としてこの歌は機能してきた。

お盆に帰る故郷があるとしても、そことは異なり、唱歌の「故郷」とは、実はどこにもない土地なのだと本書は教えてくれる。それは自らのうちのなつかしさが唱歌の持つあやうさと表裏一体であることに気づくことでもある。

(メディアイランド・2160円)

中西は日本文学研究者。ほかに大学教授、詩人新聞記者など7人が執筆。

◆もう1冊 

合田道人(ごうだみちと)著『本当は戦争の歌だった童謡の謎』(祥伝社黄金文庫

[](あの人に迫る)今井紀明 認定NPO法人D×P理事長:あの人に迫る:中日新聞(2018年8月10日)

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2018081002000260.html

https://megalodon.jp/2018-0813-0911-29/www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2018081002000260.html

◆若者の生き方に 幅広い選択肢を

十四年前、イラク武装勢力に拘束され、帰国後に「自己責任」と批判された青年を覚えているだろうか。十代で社会から否定され、対人恐怖症に苦しんだ彼は今、通信制定時制の高校生の支援に力を注ぐ。「自己責任の言葉で若者を切り捨てない」。そんな思いで活動する今井紀明さん(33)のもとには、多くの若者から悩みが寄せられている。

イラクで解放され、「自己責任」の言葉でバッシングを受けました。

街で突然殴られたこともあった。人と話したらやばい、外に出たらやばいと、徐々に自分を閉じていった。引きこもりは半年ほど、対人恐怖症は四年ほど続きました。手紙も百通以上来ました。「死ね」とか。差出人がどんな人か知りたくて、返信もしたし、会いにも行きました。事件から一年以上たってからですけどね。会ってみたら、普通の人ですよ。「不登校の娘がいて、あなたを否定することは娘も否定することだと気付いた。あの批判は何だったんだろう」と自戒していた人もいました。

−立ち直れたのはなぜですか。

人に助けられたからですよ。高校の担任が願書を書いてくれたおかげで大学に入れた。大学では、後に共同創業者になる後輩が支えてくれた。大学二年の終わり、「国民の半分に否定された気持ちが分かるか」とぐちを言うと、彼は「分からないけど、自分と向き合うしかないよね」って。そのとき、自分で変わらないと、一生このままだと思った。それをきっかけに怖かったけど、一人でもう一回海外に行き始めたんです。

あと、就職活動で吹っ切れた。最悪でしたけどね。面接も六十社ぐらい受けましたが、自分の過去を隠していたので、全然受からないんです。「どこでも役に立てないんだ」と、自己肯定感がどんどん下がっていきました。それで、もう過去を隠すのをやめようと吹っ切れてから、内定を取れた。そこからが僕のスタート。だから僕、止まっていた時間が長いんですよ。

−なぜ認定NPO法人D×P(ディーピー)の活動をしようと思ったのですか。

大学卒業直前、自宅で週一回、一年生の悩み相談会を開いていたんです。そのとき、大学生ってこんなに自己肯定感が低いのかと。「自信がない」とか「死にたい」とか。そんなこと思う必要ないよって。

その後、アフリカザンビアに三カ月行きました。たまたま学校の増築を手伝うことになり、現地の小中学生に英語を教えました。向こうの子は、人とのつながりもあるし、将来の方向性もしっかり語れていた。

それで、日本の方がまずいなと。日本は、豊かだからこそ、みんながSNS(会員制交流サイト)でつながっているからこそ、現実の関係性で困っている子や経済的に厳しい子が孤立していっている。しんどい状況にいる、コミュニティーに交わる機会がない、あきらめる。負のサイクルから抜け出すって大変ですよ。

経済的に厳しかったり、親から搾取されたり、いじめを受けたり。才能が生かされないのは、本人のためにも社会のためにももったいない。D×Pが目指すのは、若者が自分の未来に希望を持てる社会です。

D×Pでは、まず大人との信頼関係をつくる授業から始め、定時制高に設けた相談室やスマートフォンアプリの「ライン@」で就職相談に応じています。活動二年目から授業が学校の単位として認められるようになり、今では関西と関東、札幌で年間八百〜千人の子と関わっています。

今、卒業生やボランティア、スタッフなどが住める場所をつくろうとしています。家族だけで人を支えられないと思うので。例えば介護。自分の祖母も見ていましたが、今、家族だけで支えるのって相当しんどいですよね。子どもがいない家庭や独居老人も増えている。たぶん僕らの世代では、もっと増える。子どもがいる家庭も大変です。家族より大きな形で支える仕組みができないかと。何かあったとき、人とのつながりを生かし、失敗しても帰ってこられる場所を築こうと思っています。

−実際に支援した若者のことを教えてください。

例えば、先日カメラマンとして独立した子。彼は、六年間不登校だったんですが、高校一年から関わりました。写真集を出し、写真展を開き、企業でインターンして成功体験を積み、ウエディングの会社で働いた後に独立しました。

大学に進んだ子も多いし、障害がありながら正社員で就職した子もいる。まず大人との関係性を築き、社会で成功体験を積めたのが大きいと思います。

持病の発作が不安という定時制の子には、とりあえず「将来結婚したいか」と聞いて。「結婚したい」と言うから、「だったら稼がなきゃいけないよね。就職を目指してみようか」と。職場体験や見学を重ね、ようやく何社か受け、最後の一社に受かりました。

ツイッターに全国から相談が来るそうですね。

めちゃくちゃ来ます。虐待不登校起業とか。僕のツイッターに連絡が来すぎたので、ライン@で就職相談に応じるD×Pのアカウントを始めました。

きっと周りに大人がいないんですよね。学校しか行っていないと、よっぽど良い先生に恵まれたりしないと、本当に本人のことを考えてくれる大人ってなかなかいないですよ。親にも相談できない子や学校にも通えていない子だったら、もっと大変ですよ。

−昨年は、サハラ砂漠マラソンを完走しました。

走りたいと授業で話したら、生徒が「どうせあきらめるでしょ」と言うので、だったら走ろうと。寄付も集め、五百万円以上いただきました。

六日間で二百五十キロを、食料や水など十キロを背負って走りました。砂漠って足が埋まって全然進まないし、景色も変わらない。初日から足の裏の皮がむけて激痛です。荷物が重すぎたので二日目に食料を捨てたら、終盤に食料が足りなくなった。他の人にもらえないルールなので、低カロリー状態で走りました。気温も四六度とか。最悪ですよ。

でも、出て良かった。「あきらめなければ、何とかなる」と、卒業生にも話していたので。「のりさんのおかげで頑張ろうと思いました」って、生徒からめっちゃ言われました。

−今秋は、チリでアタカマ砂漠マラソンに挑戦するそうですね。

高度三千メートルの砂漠を二百五十キロ走ります。僕、いろんな人に関心を持ってもらいたいんです。D×Pの価値観はおもしろいから、仲間をつくりたい。いろんな人を巻き込みたいから、いろんなことをやっているだけなんです。

昨年度の予算六千五百万円は、ほとんどが寄付です。多くの方に支えられているおかげで、進学や就職以外の道を生徒に勧めることができます。就職か進学、という固定概念は、若者にはすごいプレッシャーです。それ以外の生き方をつくることで、希望をもって生きられるように価値観を変えたい。

−拘束事件後の経験が今につながっていますか。

他者や自分の苦しみ、引きこもっていた期間の長さ、人の支えの大切さ。そういうものを感じられたのが、あの事件からの四〜五年だと思います。あれがなかったら、他者のことを気にせず、自分のやりたいことだけをやる人になっていたと思うんです。いろんな人の生きづらさに触れられたからこそ、今のD×Pがあると思いますね。

<いまい・のりあき> 認定NPO法人D×P理事長。立命館アジア太平洋大卒。1985年、札幌市生まれ。高校在学中にイラク子どもを医療支援する非政府組織(NGO)を設立。その活動でイラクを訪れた2004年4月、武装勢力に人質として拘束される。解放され帰国後、政府退避勧告に反してイラク入りしたとして「自己責任」の言葉でバッシングを受け、対人恐怖症になった。大学卒業後、大阪専門商社勤務を経て、12年にNPO法人D×Pを設立。自分と同じように大人から否定された経験を持つ若者を支えようと、通信定時制の高校生のキャリア教育事業を展開する。運営資金の寄付を、D×Pウェブサイトで募っている。17年サハラ砂漠マラソン完走。

◆あなたに伝えたい

就職か進学、という固定概念は、若者にはすごいプレッシャーです。それ以外の生き方をつくることで、希望をもって生きられるように価値観を変えたい。

◆インタビューを終えて

取材に先立ち、通信制高校でD×Pの授業を見学させてもらった。ボランティアの大人と高校生がグループになり、自己紹介したり、自分の経験を話したり。スムーズに会話が進むグループばかりではないが、中にはいじめの経験を打ち明ける子もいた。大人との信頼関係を築くことを目指すこの授業は、相手を否定しない姿勢を大切にしているそうだ。

十代で世間に否定され、引きこもりを経験した今井さん。周囲に支えられ、そこから立ち直った経験のおかげで今があると語った。

多くの人に頼られる彼の姿を伝えることで、誰かを勇気づけられたらと思う。 (豊田直也)


2018-08-12

[] 女性 子ども 死体の山 佐世保空襲を経験・江島麗介さん(86) - 東京新聞(2018年8月12日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081202000124.html

https://megalodon.jp/2018-0812-1127-50/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081202000124.html

十三歳の少年は空襲のさなか、一人で家を守ろうとした。縁側から、隣町が焼けるのが見える。「うちも焼けるかも」。焼夷(しょうい)弾が落ちても火を消そうと、木の棒に縄をつけた「火たたき」をしっかり握った。

長崎県佐世保市の廃校の教室を活用した「佐世保空襲資料室」で、私は江島麗介さん(86)の話を聞いた。佐世保は私が生まれた街。再現された「火たたき」を手にしながら「これで本当に火を消せるんですか」と聞くと、江島さんは「無理でしょうね」と笑った。

降りしきる強い雨の中、一九四五(昭和二十)年六月二十八日の深夜から翌日未明にかけ、佐世保市の中心街が空襲に遭った。長男江島さんは母や弟、妹ら五人を防空壕(ごう)に残して家に戻った。「俺は国を守る。おまえは家を守れ」。そう言って軍の施設に向かった父との約束を果たすために。爆撃で街は昼間のように明るかった。

幸い、自宅も家族も無事だった。だが夜が明け、おじが空襲で亡くなったと聞き、走っておじの家に向かった。途中のトンネルが、わらのむしろで隠されていた。隙間から女性と子どもの死体が何人も重なっているのが見える。「前からも後ろからも空襲の熱気が来て、逃げられなかったのだろうね」。中に入る勇気はなく、引き返した。

数日後、近くの山で遺体を焼く手伝いをすることになった。親族らが涙ながらに遺体を運んでくる。大人が頭の方、江島さんが足首を持って遺体の山に放り投げ、よく燃えるように薪(まき)も投げた。「もちろん、気持ちが良いものではない。それでも、大人の命令だったので夢中でやりました」

梅雨の湿気で傷んだ数百もの遺体から異臭が漂う中、周囲にガソリンがまかれ、火が付けられた。底の方からじわじわ焼けていくのを見ていられず、その場を立ち去った。「人間の最後の哀れさを感じました」

   ◆

海軍の基地近くに住み、「軍国少年だった」という江島さん。緑の軍服が「格好良い」と陸軍に憧れ、中学に入学後すぐに陸軍幼年学校を受験した。不合格となり、翌年に再び受けようと考えていたところ、終戦。米軍が進駐し市役所星条旗がはためいた。「悔しかったよ。占領されたって思った」

長い間、「思い出すことがつらい」と戦争体験を話さなかった。中学教諭を退職した六十歳ごろ、自分より上の世代が亡くなっていくことに危機感を覚え、語り部を務めるように。毎年、空襲のあった六月末に小中学校で体験を伝えている。「子どもに伝えることで、自分でも『戦争はよくない』という思いが増してきました」。時に軽やかに、笑顔で体験を語ってくれるのは、七十三年の長い月日の流れがあってこそなのだと感じた。

   ◆

私が産声を上げた産婦人科の病院は、B29の編隊が飛んだ真下だった。私が部活動でサッカーに明け暮れていた十三歳の夏江島さんは遺体を焼く手伝いをさせられていた。多くの人が犠牲になり、復興した土地で私は生まれたのだ。

「人からされて嫌なことはしない。この単純な言葉を守りさえすれば、平和は保たれるんです」と江島さんは語る。どれだけの人が、それを守っているだろうか。ヘイトスピーチいじめなどの問題は、この「単純な言葉」で解決できる。一人一人の小さな意識が平和をもたらす。生まれた土地で、私は初心に戻った気がした。

佐世保空襲> 佐世保空襲犠牲者遺族会佐世保市によると、米軍のB29爆撃機141機が1945年6月28日午後11時58分、空襲を予告する「警戒警報」が鳴る前に襲来。翌29日未明までの約2時間、爆撃した。市内の約35%にあたる1万2037戸が全焼し、1242人が犠牲となった。同市では6月29日を「佐世保空襲の日」とし、毎年追悼式を行っている。

[] 広島で平和の誓い 天皇陛下「信念養う」 元東宮侍従、日誌に書き残し - 東京新聞(2018年8月12日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081202000120.html

https://megalodon.jp/2018-0812-1128-55/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081202000120.html

皇太子時代の天皇陛下の側近だった人物が、太平洋戦争終結前後の混乱期、陛下の教育について周囲が検討する様子を日誌に書き残していたことが分かった。本紙が入手した日誌には、陛下原爆投下から四年後の広島で語った、平和希求の原点と言える言葉も記されている。 (小松田健一)

日誌を書いたのは、栄木(さかき)忠常さん(一九〇九〜九五年)。東京帝国大卒業後、宮内省学習院事務官などで皇室にかかわり、終戦直前の四五年八月十日、陛下を支える東宮職の発足と同時に東宮侍従に就任し、五〇年三月まで務めた。

本紙は栄木さんの長男学習院初等科から高等科まで陛下の学友だった栄木和男さん(84)から、終戦前後の日誌の一部の提供を受けた。日々の業務や陛下の動静、側近たちの発言などが書き残されていた。

陛下学習院高等科一年だった四九年四月六日、広島市を訪問。日誌には「人類が再びこの惨劇を繰り返さないよう、固い信念と覚悟を養いたい」「私の責任をよく自覚して勉強と修養に努力していく」などと、地元青少年の前で述べたあいさつの要旨が書き残されている。公式の場で話すのは初めてだった。

終戦前後の様子もある。四五年八月十五日の昭和天皇の「玉音放送」は、疎開先の栃木県・奥日光陛下と同じ部屋で聞いたといい、側近らが涙ながらに放送を聞く様子を書いた。

二十四日には、今後の陛下の住まいと教育の地に長野県松代(現・長野市)が候補に挙がる。松代は戦中、政府中枢の移転を想定した松代大本営が建設されていた。忠常さんは「将来日本を興すべき青少年の教育場所としては健全なる田舎の剛健なる還境(原文のまま)に限る」「殿下の御教育地として適当」などと賛同意見を記した。

実際には陛下は十一月、奥日光から帰京し、四六年四月、現在の東京都小金井市に移転していた学習院中等科へ進学した。

四六年一月十七日には、四、五年後に英国米国へ留学する構想が記された。実現しなかったが、陛下は五三年に英国女王エリザベス二世の戴冠式へ出席、その機会に欧米十四カ国を訪問し、見聞を広めた。

◆人物像知る手掛かり

<瀬畑源(はじめ)・長野県短大准教授(日本現代史)の話> 今の天皇は側近の日記などが複数残る昭和天皇と異なり、文書となった一次史料が少ない。歴史的に重要な新事実は見当たらないが、当時皇太子だった天皇の周辺がどのような思いで教育に携わったのかや、天皇の人物像を知る手掛かりとなる。混乱期に前例がない中、自分たちが何とかしなければという職務に対する重みも感じる。

[] 週のはじめに考える 米騒動と新聞の役割 - 東京新聞(2018年8月12日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018081202000161.html

https://megalodon.jp/2018-0812-1131-36/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018081202000161.html

明治百五十年の今年は「米騒動」から百年の節目でもあります。富山県で始まり、内閣を退陣に追い込んだ大衆運動に、新聞が果たした役割を考えます。

一九一八(大正七)年七月のことでした。富山県の魚津や滑川など日本海沿岸の漁村に住む女性たちが、米穀商などに押しかけ、コメの船積みをやめ、安く売るよう求めて、声を上げました。

米価は、日本軍シベリア出兵を見越した米穀商の投機的買い占めや売り惜しみで急騰、男性たちが出稼ぎで向かった北洋は不漁で残された女性たちは生活難に陥っていました。「女一揆」と呼ばれた米騒動の始まりです。

◆地元紙の記事を機に

この動きをまず報じたのは地元紙の「高岡新報」でした。続いて大阪朝日、大阪毎日両新聞が伝えて、全国に発信されたのです。

新聞報道とともに騒ぎは西日本中心に全国三百六十八市町村に広がります。工場や農村、炭鉱地帯で争議や暴動が起こり、示威行動は一カ月半以上も続きました。名古屋では延べ数万人が暴動に加わり、東京日比谷公園では数百人の人々が騒動を起こしています。

こうした動きに危機感を覚えたのが当時の寺内正毅内閣でした。

民心をなだめようと外米の緊急輸入や白米の廉売政策で米価の安定を図るとともに、救済のために天皇家財閥、富豪などから寄付金を募ります。

一方、騒乱鎮圧には警官隊に加え、軍隊も出動させました。二万五千人以上を検挙、七千七百人以上を起訴し、死刑二人、無期懲役十二人など、厳罰で臨みます。

寺内内閣は、騒動を報じる新聞にも圧力をかけます。八月七日付の高岡新報を発禁処分としたのに続き、十四日には水野錬太郎内相が全国の新聞に対して、米騒動報道を一切禁じます。

◆「報道禁止」に猛反発

これに激しく憤ったのが、当時の新聞記者たちでした。

本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ、名古屋新聞の小林橘川(のちの名古屋市長)は米騒動を「米価内乱」と位置づけ、寺内内閣の一連の措置を批判。「無能、無知、無定見の政府」に一刻も早い退陣を迫りました。

もう一つの前身、新愛知新聞で編集、論説の総責任者である主筆桐生悠々も筆を執り、八月十六日付新愛知朝刊は「新聞紙食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」との見出しの社説を掲載します。

「現内閣の如(ごと)く無知無能なる内閣はなかった。彼らは米価の暴騰が如何(いか)に国民生活を脅かしつつあるかを知らず、これに対して根本的の救済法を講ぜず」「食糧騒擾(そうじょう)の責(せめ)を一にこれが報道の責に任じつつある新聞紙に嫁し」「今や私どもは現内閣を仆(たお)さずんば、私ども自身がまず仆れねばならぬ」

悠々は寺内内閣の打倒、言論擁護運動の先頭に立ちます。八月二十日には愛知岐阜三重三県の新聞、通信各社の記者に呼びかけて、名古屋市内で「東海新聞記者大会」を開き、内閣打倒と憲政擁護、言論の自由を決議しました。

悠々の社説に呼応するかのように、内閣弾劾の動きは大阪東京などにも広がり、報道禁止令は実質的に撤回されました。寺内首相は九月二十一日に辞表を提出し、次に組閣を命じられたのが原敬です。爵位を持たない平民宰相、初の本格的な政党内閣の誕生です。

米騒動の始まりは女性たちの非暴力的な抗議行動でした。全国に広がるにつれて一部暴徒化しましたが、背景にあったのは第一次世界大戦による好景気を実感できず格差に苦しむ民衆の不満です。

戦後、首相の座に就いた石橋湛山は当時、米騒動に関し、東洋経済新報の社説で「政府がその第一任務たる国民全体の生活を擁護せずしてかえってこれを脅かしこれを不安に陥れた」と、時の寺内内閣を厳しく批判し、一連の騒動について「時の政治機能が旧式、不適、行き詰まりに陥れば、イツでも必然的に起こらねばならぬ重大なる性質、深甚なる意味を有する」と分析します。(「石橋湛山評論集」岩波文庫

◆国民の声伝える覚悟

米騒動は、人々の不満がジャーナリズムと結び付いて、時代の歯車を大きく動かした大衆運動でした。後に「大正デモクラシー」と呼ばれる動きの中心的な出来事であり、納税額に関係なく選挙権の獲得を目指す「普通選挙運動」にも勢いをつけました。

それから戦争の時代を挟んで百年が経過し、私たちは今、政権批判的な新聞との対決姿勢を強める安倍晋三政権と向き合います。

成長重視の経済政策で一部の者だけが富み、格差が広がる時代状況は米騒動当時と重なります。そうしたとき、私たち新聞は権力におもねることなく、国民の声を伝え続けなければなりません。その覚悟も問われる米騒動百年です。

[] 日中友好40年と議員外交 発展を後押しするために - 毎日新聞(2018年8月12日)

https://mainichi.jp/articles/20180812/ddm/005/070/003000c

http://archive.today/2018.08.12-023313/https://mainichi.jp/articles/20180812/ddm/005/070/003000c

日本と中国の両政府が平和友好条約署名したのは、40年前の8月12日だった。発効は10月23日だ。

条約は、日中友好を土台に「アジアと世界の平和と安定に寄与する」とうたっている。

経済関係や人的交流は深まったが、歴史認識安全保障の対立によって政治関係の停滞や悪化が繰り返されてきた40年でもあった。

1972年の国交正常化から6年後に策定され、米ソ冷戦下でアジアの秩序を大きく変えた条約だ。

交渉は難航したが、対立点を解消していく過程で重要な役割を果たしたのが、議員外交だった。

当時、自民党内は条約反対の親台湾派が強かったうえ、「全方位外交」を掲げる福田赳夫首相ソ連に配慮し、身動きがとれなかった。

このため、自民党親中派議員超党派日中友好議員連盟公明党幹部らがシャトル外交を展開して中国側の意向をくみ取ったという。

日本の対中外交も模索の時期だったのだろう。だが、議員や財界人の交流が活発化し、豊富な人脈を築くきっかけにもなった。

2012年の日本の尖閣諸島国有化後に悪化した関係は改善に向かいつつあるが、「正常な軌道」(李克強中国首相)に戻ったに過ぎない。

尖閣台湾に加え、中国の海洋進出や日本の政治家の靖国神社参拝が両国間のトゲとなり、政治関係を阻害している状況は変わらない。

10月に安倍晋三首相訪中し、来年6月には中国習近平国家主席の初来日が想定されている。習主席は国賓として招かれ、新天皇と面会する可能性もある。

首脳往来による関係強化は重要だ。ただ、気になるのは親中派政治家の引退が相次ぎ、対中人脈が先細りしていることだ。中国だけでなく、米国韓国ともそうだ。

安倍政権は近隣の中韓両国との関係を悪化させる一方、核戦力を強化し保護主義に走るトランプ米政権を強く批判してこなかった。

外交内閣が責任を負う。議員の過度な介入には弊害もあろう。しかし、条約承認などを通じ国会政府外交を監視する責任がある。

根深い問題を解決し、発展につなげるには、政府を補完する重層的な外交が必要だ。

[] 原賠法の見直し先送り まさかに備えぬ責任放棄 - 毎日新聞(2018年8月12日)

https://mainichi.jp/articles/20180812/ddm/005/070/002000c

http://archive.today/2018.08.11-210704/https://mainichi.jp/articles/20180812/ddm/005/070/002000c

原発の過酷事故で生じる膨大な賠償金のリスクに、これでは対応しきれない。

政府が、原発事故に備え電力会社に用意を義務づけている賠償金(賠償措置額)を現行の最大1200億円に据え置く方針を表明した。

福島第1原発事故では、賠償額が8兆円を超え、原子力損害賠償法に基づく措置額を大幅に上回った。このため、原賠法の見直し議論していた内閣府の専門部会は、措置額を引き上げることで一致していた。

だが、引き上げは電気料金の値上げにつながる。電力会社は、民間保険と政府との補償契約で措置額を手当てしており、保険料や補償料の増額が必要となるからだ。これを嫌う電力会社は国費投入を求めたが、世論の反発を恐れた政府は受け入れず、調整作業は難航した。

政府の補償契約の更新時期が来年末に迫っており、事実上の時間切れで引き上げは見送られた。

電力会社と政府が事故の賠償リスクの責任をなすり付けあう構図だ。そうした中で、原発の再稼働がなし崩し的に進んでいる。これでは、原発安全神話がまかり通った3・11前と何ら変わりがない。

政府は福島第1原発事故を受け、東電に措置額を上回る賠償費用を融資し、東電と大手電力が協力して返済する相互扶助の制度を作った。

原賠法は措置額とは関係なく、上限無しで電力会社に賠償金の支払いを義務づけているためで、新たな事故が起きた場合も、この制度を活用して対応する方針だ。

しかし、電力自由化でお互いが競争相手となる中、電力会社の相互扶助がいつまで続くか不透明だ。

電気事業法改正で、電力会社は国への届け出だけで解散ができるようになった。事故を起こした電力会社が経営に行き詰まって法的整理を選択すれば、賠償が滞る恐れもある。

政府は、原発を「重要なベースロード電源」と位置付け、原子力規制委員会の審査に合格した原発は再稼働を進める方針だ。その一方で、現状では、原発の過酷事故に対する賠償措置の枠組みが不十分なまま放置され続けることになる。

あれほどの事故を経験しても、まさかへの備えを強化しない政府や電力会社の姿勢は筋が通らない。

[](翁長知事 苦闘4年)バトン継ぎ前に進もう - 沖縄タイムズ(2018年8月11日)

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/297253

http://web.archive.org/web/20180811110414/http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/297253

衆院本会議代表質問で今年1月、野党議員沖縄で相次いだ米軍機の事故やトラブルを取り上げ、政府を追及した。

「それで何人死んだんだ」 議場にいた松本文明内閣府副大臣(当時)からヤジが飛んだ。

自民党議員の無知・無理解は県民の心をいてつかせた。

「何人死んだら動くのか」 住民の怒りの声を、当時、何人もの人から聞いた。

この一件を思い出したのは、翁長雄志知事が亡くなったというのに、政府が新基地建設に向け埋め立て地への土砂投入を実施する姿勢を変えていないからだ。

膵臓(すいぞう)がんに侵された翁長知事は、土砂投入を止めさせようと、東京での治療を勧める周囲の助言を振り切り、最後まで埋め立て承認撤回の機会を模索し続けてきた。

7月27日、撤回手続きに入ることを正式に表明し、その12日後の8月8日、生きる気力と体力をすべて使い果たして旅立った。

理不尽な基地負担を拒否し、命を削るように、政府と対峙(たいじ)し続けた壮絶な死だった。

政府は、そんないきさつを無視して、計画通り土砂投入を強行するつもりなのか。

■    ■

翁長氏は2014年11月の知事選で、辺野古反対の公約を掲げ、現職知事に10万票近い大差をつけて当選した。

直後の衆院選でも、4選挙区のすべてで辺野古反対を掲げる候補が当選した。保革を超えた新しい政治勢力組織化したのは翁長氏である。

安倍官邸自民党は翁長氏を敵視し、事あるごとにいじめ抜く。当選あいさつのため年末年始に安倍晋三首相菅義偉官房長官に会おうとしたが会えず、そのような状態が3月末まで続いた。

普天間問題の原点とは何か。菅官房長官との協議で翁長知事は強調している。

「戦争が終わって、普天間に住んでいる人たちが収容所に入れられている間に土地を強制的に接収され、米軍飛行場ができた」

「自ら奪っておいて、それが老朽化したから、また沖縄県で(新基地を)差し出せというのは、これは日本の政治の堕落ではないか」

■    ■

官房長官との初会談では、菅氏の口癖だった「粛々と」という言葉遣い上から目線だと批判した。

だが、政府との議論はまったくかみあわなかった。政府は「司法での解決しか選択肢はない」として話し合い解決を拒否し続けた。

15年5月、沖縄セルラースタジアム那覇で開かれた新基地建設に反対する県民大会で翁長氏は訴えた。

安倍晋三首相は『日本を取り戻す』と言っているが、そこに沖縄は入っているのか」

辛(しん)らつな政府批判を続ける一方、集会に参加した県民に対しては「グスーヨー、マキテーナイビランドー」(皆さん、負けてはいけない)と鼓舞し続けた。

翁長氏は15年9月、国際NGOの発言枠を譲り受ける形で国連人権理事会で発言する機会を得、短い声明を読み上げた。

沖縄の自己決定権がないがしろにされている辺野古の状況を世界中から関心を持って見ていてください」

■    ■

超党派参議院メンバーが来県し、基地を抱える市町村長と意見交換したとき、ある参議院議員はこう語ったという。

「本土が嫌だと言っているんだから、沖縄が受けるべきだろう。不毛な議論はやめようよ」

翁長氏はこのような本土側の無理解とも向き合わなければならなかった。「魂の飢餓感」という言葉を使って現状を表現したこともある。

妻の樹子さんによると、翁長氏は当選時「万策尽きたら夫婦で一緒に座り込もう」と約束していたという。

翁長氏が政治家としてすべてをかけて守り抜いたバトンをしっかり引き継ぎ、広げていくこと−。

きょう11日、那覇市で予定されている新基地建設断念を求める県民大会は、そのことを確認する大切な場になるだろう。

[]<金口木舌>「海波を揚げず」。波が立たない「穏やかな海」から転じ、平和な・・・ - 琉球新報(2018年8月12日)

https://ryukyushimpo.jp/column/entry-780514.html

http://archive.today/2018.08.12-023838/https://ryukyushimpo.jp/column/entry-780514.html

「海波を揚げず」。波が立たない「穏やかな海」から転じ、平和な世を表す慣用句。故事に由来し、中国語で「海不揚波」と書く。平和を願う思いは対岸の人々も同じだ

中国福建省福州市にある琉球館に、この言葉が額で飾られている。2013年、尖閣領土問題取材で訪ねた際、現地職員が説明した。「琉球や福州の人々が往来する時の安全な航海への願いが込められている」

▼きょうは日中友好条約締結から40年。条約は互いに覇権を求めず、領土保全の相互尊重などをうたう。72年の日中共同声明では「すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えない」と国交を正常化した

15世紀ごろまでに設置された琉球館は、沖縄の人々の宿泊地として利用された。名護市辺野古の新基地建設をめぐる県と国の訴訟で、8日に亡くなった翁長雄志知事も意見陳述で触れた

▼古くからアジア交易する沖縄の将来像として、アジアの懸け橋になると唱えた。先月27日、辺野古埋め立ての承認撤回を表明した会見でも熱っぽく語った。最後の公の場で「アジア」と発すること14回

▼基地建設を強行する政府に「日本がアジアから締め出される」と危機感も示した。きのうの県民大会で、知事が座るはずのいすには辺野古の海をイメージした色の帽子が置かれた。青い海を荒波で白く濁らせてはならない。そんな声が聞こえた。

2018-08-11

[]<20代記者が受け継ぐ戦争 戦後73年> 満州敗走 母子救えず - 東京新聞(2018年8月11日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081102000136.html

https://megalodon.jp/2018-0811-1305-40/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081102000136.html

「円匙(えんぴ)でタコツボを掘ってね。ここが自分の死に場所になると思ったよ」

東京都江戸川区の稲川寅男さん(94)の自宅を訪れた私は、聞き慣れない言葉に少し戸惑った。入社四年目で初めてとなる戦争体験取材スコップ(円匙)で縦穴(タコツボ)を掘り、ソ連軍との戦闘を迎えた七十三年前の夏の体験に、じっと耳を傾けた。

一九四五(昭和二十)年八月九日、ソ連軍満州(現・中国東北部)に侵攻。関東軍歩兵第三七〇連隊に所属していた稲川さんは、牡丹江近郊で日本人開拓民の保護を命じられた。

十三日昼、縦穴に身を潜める中、ソ連軍の戦車がごう音と共に街道を進んできた。武器・弾薬は欠乏し、最新鋭の戦車に対抗できる状況にない。仲間たちが縦穴から飛び出し、爆弾を抱えて戦車に飛び込む肉弾攻撃を仕掛けたが、厚い鉄板に覆われた戦車が一瞬、宙に浮いただけだった。

十四日は、遮るものがない草原での銃撃戦。「ヒュン、ヒュン」。銃弾が顔の近くをかすめ、兵士たちが次々と倒れた。「稲川、本部に上がれ!」。丘の上にある本部との連絡係だった稲川さんは、上官の命令で伍長と交代して前線を離れた。翌十五日まで戦闘が続いた後、部隊は撤退。日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したことも知らなかった。伍長はその後、戦死したという。

      ◆

死と隣り合わせの経験は、平成生まれの私には想像ができない世界だった。

学校を出て会社員をしていた稲川さんは二十歳を迎えた四三年に徴兵され、ソ連との国境警備の部隊に配属された。「お国のために戦う自負があった」。だが、実際の戦闘では撤退を余儀なくされ、山の中を逃げ回った。

「前線で死んでいれば、こんなつらい思いをしなくて良かったのに、と悔やんでね」。やや早口で話す稲川さんがある場面を思い出した時、重い口調に変わった。

「助けて」。夜に山中を移動していると、ぼろぼろの和服を着た開拓民の女性と遭遇した。衰弱しきった様子で赤ん坊を抱き、かぼそい声で懇願された。「子どもだけでも連れていって」。だが、ソ連軍の追撃におびえ、食料も枯渇した稲川さんは数十人の兵士とともに立ち去った。

開拓民保護の命令、国のために戦う自負…。実際は自分の命を守ることしかできなかった。しばしの沈黙の後、稲川さんは続けた。「罪のない市民や下っ端の兵士が犠牲になる戦争は、やっぱりおかしい」

九月末にソ連軍に捕まり十一月にシベリア捕虜収容所に連行された。二年近く労働を強要され、四七年九月、引き揚げ船で京都府舞鶴港に戻った。帰還後、三つ上の兄の戦死を知らされ、無念さが込み上げた。

      ◆

取材の後、稲川さんに駅まで見送ってもらった。日差しが照り付ける中、「毎年夏になると、からっとした暑さだった満州を思い出すよ」とつぶやいた。

隣を歩きながら考えた。七十三年前の戦地で私は生き残れただろうか。女性と赤ちゃんを助けただろうか。個人の力量や思いなどを超えた戦場の残酷さ。想像すら難しいが、忘れてはいけない過去がある。「生きて帰れたことは運が良かった。平和に幸せに暮らせることがありがたい」。そう話す稲川さんの思いを、伝えていくことはできる。(大島宏一郎(26歳)整理部)

ソ連の対日参戦> 1945年8月8日にソ連日ソ中立条約を破棄して宣戦布告し、9日に満州(現・中国東北部)に侵攻。関東軍の大半が敗走した。当時の満州には約155万人の日本人が暮らしていたが、戦闘や病死、餓死などで約24万人が犠牲になったとされる。

      ◆

平成最後の夏。時代が移り変われば、昭和はさらに遠ざかっていく。それでも、上書きしてはいけない歴史がある。今年も若手記者たちが戦争の体験者に出会い、悩み、考えた。

◆ご意見・ご感想 お寄せください

メールはshakai@tokyo-np.co.jp。手紙は〒100 8505(住所不要)東京新聞社会部。ファクスは03(3595)6919。

[] 太平洋戦争 徴用船「まるで特攻」 92歳の元乗組員 - 毎日新聞(2018年8月11日)

https://mainichi.jp/articles/20180811/k00/00m/040/226000c

http://archive.today/2018.08.10-233630/https://mainichi.jp/articles/20180811/k00/00m/040/226000c

撃沈3度、死と隣り合わせ 仲間、いまだ海の底

太平洋戦争では、国家総動員体制の下、兵隊や武器などの輸送のために民間船が徴用され、多くの船員が命を落とした。徴用船の乗組員だった吉田香一郎さん(92)=大阪府吹田市=も、連合国側の攻撃によって乗っていた船が3度沈没し、多くの仲間を失った。「ほとんど丸腰で危険な海に出され、まるで特攻に行くようだった」と振り返る。

吉田さんは戦時中、日本郵船経理関係の仕事をしていた。しかし、戦局の悪化で船員が不足し、1944年1月に海上勤務を命じられた。当時はまだ18歳。戸惑いはあったが、「同じ年ごろで軍隊に取られている人もいるのだから、仕方がない」と受け入れた。

待っていたのは、軍人と同じように死と隣り合わせの仕事だった。海へ出るようになって約8カ月後。門司港(現北九州市)から中国上海に兵隊を運んでいたところ、潜水艦の魚雷を2発受けて船が沈んだ。救命艇で命からがら脱出すると、すぐに別の徴用船での勤務を命じられた。出航の度に不安になったが、拒否はできなかった。

2度目の沈没は「九死に一生」の体験だった。45年2月、重油を載せてシンガポールから日本へ航行中、ベトナム沖で、魚雷攻撃を受けた。衝撃と同時に船体が傾き、甲板にいた吉田さんは海に放り出された。

板きれにしがみついて南シナ海を漂った。一緒に浮いていた仲間たちは次々に力尽きていった。「眠ったらおしまいだ」。自分に言い聞かせて何とか意識を保ち、約10時間後に日本軍の艦艇に救出された。乗組員のほぼ半数の29人が、船と一緒に海に沈んだ。

終戦の1カ月ほど前には、関門海峡に仕掛けられていた機雷に船が触れて沈没。もはや安全な海域などなくなっていた。だから、終戦を知った時には心底ホッとした。「これで死ぬこともなくなったんだな」

戦後73年がたったいまも、多くの仲間の遺骨は海底に眠ったままだ。3度も船が沈められながら、自分が生き延びられたのは奇跡に近い出来事だと改めて思う。「狂気に支配され、命が軽んじられた。あんな時代が二度とあってはいけない」【岡崎英遠】

徴用船員、軍人より高い死亡率

1941年に日米が開戦すると、食料や資源などを海上輸送する船が不足した。このため政府は、あらゆるものを国の統制下に置くため38年に制定された「国家総動員法」に基づき、民間商船や船員の大半を徴用し、兵隊や武器の輸送まで担わせた。

公益財団法人「日本殉職船員顕彰会」(東京都)などによると、終戦までに約2500隻の商船が沈められ、漁船なども含めると7000隻を超える民間船が失われた。約6万人の船員が犠牲となり、そのうち3割ほどは未成年だった。死亡率は推計で43%に達し、約2割とされる陸海軍の軍人と比べても、生命の危険が大きい任務だったと言える。

顕彰会の岡本永興理事は「島国である日本は、拡大した戦線を維持するのも資源を確保するのも海上輸送が生命線だった。だが、まともな護衛も付けずに、徴用船を次々と危険な海域に送り出した結果、大きな犠牲を招いた」と指摘する。【岡崎英遠】

[] 文科省へ救済の要望書 東京医科大不正 参院会館で集会 - 東京新聞(2018年8月11日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081102000139.html

https://megalodon.jp/2018-0811-1308-02/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081102000139.html

東京医科大の不正入試で女子受験生が差別的な扱いを受けていたことに抗議する緊急集会が十日、東京永田町参院議員会館で開かれた。元受験生や支援者らでつくるグループのメンバーも出席し、文部科学省の担当者に同大への指導や救済策をただす要望書を手渡した。

要望書では、文科省としての今回の問題の受け止めや、差別防止に向けた今後の取り組みについても尋ねている。

文科省の担当者は今月二十四日までに、同大を含む全国の大学医学部入試を対象とした緊急調査を実施し、結果を公表する方針を説明した。

担当者は差別は許されないとの考えを示した上で、入試のやり方については大学の自治との兼ね合いで判断が難しい面があるとして「いろんな意見を聞きたい」と述べるにとどまった。

集会は市民有志でつくる実行委が主催し、約百三十人が参加した。

作家の北原みのりさん(47)は「何よりも優先されるべきは被害者の救済だ」と指摘。弁護士の打越さく良さん(50)は「女性の学問の自由を損なっている」と怒りをあらわにした。

集会の最後には、三年ほど前に同大を受験して不合格となり、別の大学の医学部に通う女性のメッセージを紹介。「問題の根底には医師の過剰労働がある。入試にとどまらず、医師の働き方についても改まることを願う」と女性の思いを代弁した。 (松尾博史)

[] 文科省の全国ブロック塀調査 命守るため早急に撤去を - 毎日新聞(2018年8月11日)

https://mainichi.jp/articles/20180811/ddm/005/070/137000c

http://archive.today/2018.08.11-040950/https://mainichi.jp/articles/20180811/ddm/005/070/137000c

ことは子供の命に関わる。早急に安全を確保せねばならない。

大阪府北部地震で、高槻市の小学生がブロック塀の下敷きになり死亡した事故を受けて、文部科学省が全国の幼稚園から高校まで約5万校を対象にした調査結果が公表された。

ブロック塀は全国の4割に当たる約2万校で使われていた。目視調査で、このうちの6割に当たる約1万2600校で高さや強度が建築基準法に適合しない危険な状態だった。

外観に問題がないブロック塀でも、鉄筋が正しく入っているかどうかなど、内部を確認していない学校が7割以上もあった。調査への報告や点検すらしていない学校も1000校近くある。

安全が最優先の学校であるにもかかわらず、危険な塀が放置されていることに驚かざるを得ない。

日本では全国どこでも地震が起きる。高槻市のような悲劇が、いつ起きてもおかしくない状況だ。

文科省は学校の耐震化を校舎や体育館といった建物や天井などを中心に進めてきた。ブロック塀対策が不十分だったことは否めない。

同省は3年前、学校の建物以外の耐震化ガイドブックを出したがブロック塀は入っていなかった。耐震化調査の対象でもなく、教育委員会や学校も注意が不足していた。

大阪地震を受けて、すでに学校から撤去した自治体もある。もはやブロック塀を別の材料にすることに議論の余地はない。植栽にしたり、軽量フェンスへ置き換えたりする対応をすぐに始めるべきだ。

アルミ板やネットフェンスなど比較的安価に設置することも可能だ。

自治体は早急に予算を手当てすべきだ。政府撤去費や代わりの材料を設置する補助金をさらに拡充するなど、自治体を支援する手当てを講じる必要がある。

児童生徒の安全確保は学校内だけではない。校外の通学路にどれだけ危険なブロック塀があるのかも丁寧に調べ、対応しなければならない。

ブロック塀が倒壊すれば、住民の避難や救護活動にも大きな障害になる。戸別訪問し所有者に撤去を促したり、軽量フェンスに替える費用を補助したりする自治体もある。

地域でブロック塀の危険について情報を共有したい。

[] 東京医大入試不正 得点調整は1校だけか - 琉球新報(2018年8月11日)

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-780096.html

http://archive.today/2018.08.11-041117/https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-780096.html

東京医科大の一般入試で女子受験者の点数を一律に減点していた問題は、組織ぐるみの裏口入学疑惑へと発展した。一部の受験生に点数を加えて合格者を不正に調整していたことを、弁護士3人で構成する内部調査委員会が認定したのである。

報告書によると、400点満点の1次試験で、2017年度は13人に45〜8点、18年度は6人に49〜10点を加点している。

入試委員会に採点結果を提出する前の段階で、リストに基づき不正加算した成績表を作成していた。得点調整が明るみに出るのを恐れたためだ。同窓生の子弟を増やすよう同窓会から圧力があったことも一因とされる。

依頼された受験生が合格した場合、大学に寄付金を納めてもらうだけでなく、前理事長、前学長が個人的に謝礼を受け取ることもあったようだ。大学のトップを窓口として裏口入学が行われていたことになる。

2次試験の小論文(100点満点)では少なくとも06年の入試から、現役、浪人、男女の属性による得点調整が繰り返された。18年度は全員に0・8の係数をかけたうえで、現役、1浪、2浪の男子に20点、3浪の男子に10点を加点している。女子と4浪の男子に加点はない。

報告書は、性別を理由とする得点調整を「女性差別以外の何物でもない」と指弾し、受験生に知らせないまま受験回数の少ない人を優遇した措置を「受験生に対する背信行為」と断罪した。

受験生が「試験の公平性を損なう行為」をすれば成績が全て無効になると募集要項でうたいながら、理事長や学長は不正を働いていた。内部調査委が指摘する通り「大学の自殺行為」にほかならない。

本当なら合格していたはずなのに不合格とされ、医師への道をあきらめた人がいたかもしれない。人生設計を狂わせた罪は大きい。

東京医科大は、得点調整で不合格にした受験生に謝罪し、希望があれば速やかに追加合格させるべきだ。彼らが被った損害についても補償が必要になるだろう。

医師は、高い倫理観と使命感が求められる崇高な職業だ。人の命をあずかる責任の重さから「聖職」と呼ぶ人もいる。

医学部入試医師になるための最初の関門である。不正な加点は、医師という職業に「裏口」を設けるに等しい。それによって資質に乏しい医師が量産されるなら、日本全体の医療水準を低下させかねない。

文部科学省は全国の国公私立大医学部医学科を対象に、入試の公正な実施に関する調査を始めた。男女別、年齢別の合格率を報告させ、大きな開きがあれば理由を示すよう求めている。得点調整は東京医科大だけなのか。他の大学にもあるのなら、根絶しなければならない。

[]<金口木舌>幼い頃の夏の夜、畳間に寝ていると、障子の向こうに雪女が現れる・・・ - 琉球新報(2018年8月11日)

https://ryukyushimpo.jp/column/entry-780100.html

http://archive.today/2018.08.11-041720/https://ryukyushimpo.jp/column/entry-780100.html

幼い頃の夏の夜、畳間に寝ていると、障子の向こうに雪女が現れる夢をよく見た。はっと目が覚め、怖くて眠れなくなった

▼大人になり、夜を美しく描く映画に出合った。ミッシェル・オスロ監督のアニメーション夜のとばりの物語」だ。舞台は古い映画館。好奇心旺盛な少年と少女が映写技師と共に、夜な夜なお話の世界を紡ぐ

▼情熱やアイデアで困難に立ち向かう愛の物語を、鮮やかな色彩と影絵で描く作品だ。不公平なことや暴力を許せないという思いが、物語を作る原動力というオスロ監督は、フランスに生まれ、幼少時代をギニアで過ごした。その体験が代表作「キリクと魔女」を作った

▼小さな男の子、キリクが生まれたアフリカの村は魔女の呪いで泉は枯れ、人々は苦しんでいた。大人たちが恐怖で動けずにいる中、キリクは「なぜ、魔女は意地悪なの?」と問い続け、村を救う

▼キリクの武器は、知恵と勇気と「なぜ?どうして?」という問い。小さな体で魔女に立ち向かう姿は、小さな島に大きな米軍基地を押し付ける政府に声を上げる沖縄の姿と重なる。オスロ監督は「直面した問題に自ら立ち向かうこと。私のヒーローたちはみんな自立している」と語る

▼11日に辺野古沖の埋め立て土砂投入に反対する県民大会が開かれる。明けぬ夜はない。恐怖や無力感で立ち止まらず、行動する勇気を共有したい。