(筆洗)そしてかの国の市民たちの日曜日を憂う - 東京新聞(2016年2月8日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016020802000126.html
http://megalodon.jp/2016-0208-1055-38/www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016020802000126.html

一九四七(昭和二十二)年ごろの三十五円。現在の価値ならどれぐらいになるのか。同年公開の映画「素晴らしき日曜日」(黒沢明監督)は三十五円が一つのキーワードになっている。
終戦直後の荒廃した風景が痛々しい東京。それでも日曜日である。若い二人はデートに向かう。オカネはない。二人合わせて三十五円。コーヒー一杯五円という説明があるので三十五円は感覚的には今の三千五百円ぐらいか。その額で日曜日を楽しもうとする。
焼け跡、孤児、ヤミ商売の貧しき時代である。女の靴には穴が開いている。
男は道端の吸い殻を拾っている。「惨めだ」。男はつぶやく。
それでも映画はその「すかんぴん」の日曜日を素晴らしいと描く。今は苦しい。それでも希望と夢を信じ前を向く二人に「素晴らしき」というのである。何より戦争は終わっている。
北朝鮮が「長距離ミサイル」を発射した。終戦直後とは比較にならぬほど物質的には豊かな昨日の日曜日である。だが日曜日の穏やかさなど簡単に吹き飛ぶ可能性があることを嫌でも意識する出来事である。
先月は核実験を行っている。貧しくとも戦争は去った当時とは逆に、恵まれてはいるが、その実、もろく不安定な日曜日。そしてかの国の市民たちの日曜日を憂う。ミサイルはいくらか。食糧ならどれぐらい買えるのだろう。「素晴らしき日曜日」が来る日を。

映画「素晴らしき日曜日」(黒沢明監督)

貧困家庭 食で助けたい フードバンク、行政介さず直接支援へ:東京 - 東京新聞(2016年2月7日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201602/CK2016020702000134.html
http://megalodon.jp/2016-0208-1059-06/www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201602/CK2016020702000134.html

貧困を見過ごせず、自ら行動を始めた狛江市の主婦、田中妙幸(たえこ)さん(62)が立ち上げた「フードバンクを考える会」が七日、NPO法人の設立総会を開く。今後、貧困家庭に直接支援するなど活動の幅を広げる方針という。
フードバンクは、個人や企業から寄贈を受けた食料を、生活が苦しい家庭などに届ける活動。昨年十一月に全国組織「全国フードバンク推進協議会」が設立され、注目されている。
田中さんも「困っている人を放っておけない」と、昨夏、フードバンクを考える会を作った。市の機関に相談に訪れた生活困窮者が求めれば、行政から連絡を受けて食材を届ける仕組みを確立。これまで二十四世帯に四十回近く、お米や缶詰、レトルト食品などを届けてきた。
だが、活動を通して、多額の借金を抱えている場合など、公的機関との接触を避けたり、助けを求められなかったりする貧困家庭の人々にも出会った。田中さんは「本当に困っている家庭にこそフードバンクを知ってもらい、利用してほしい」と話す。
NPO法人の申請には設立総会の開催が必要とされ、申請から数カ月後に都の認証が得られる見込み。法人化後は、さまざまな市民団体などと協力して、行政を介さずに直接連絡を受ける相談体制を確立する方針。資金管理を強化し、より広く活動できる団体を目指す。
夫の究(きわむ)さん(64)の協力も得ながら支援の輪を広げたいという。田中さん夫婦は「社会で支え合い、貧困を解決したい」と話し、気持ちを新たにしていた。
(木原育子)

<どう向き合う少年犯罪(3)> ひとり親 孤立させない:神奈川 - 東京新聞(2016年2月6日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201602/CK2016020602000146.html
http://megalodon.jp/2016-0208-1100-59/www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201602/CK2016020602000146.html

NPO法人リトルワンズ代表・小山訓久さん(39)
私たちのNPO法人は、ひとり親家庭の支援や子どもの貧困問題に取り組んでいるが、今回の川崎中一殺害事件では、子どもを持つお母さんなどからさまざまな声が寄せられた。
シングルマザーの八割が働いていると言われ、この割合は先進国でも高い。ただ非正規で働く人も多く、仕事を二つ三つ掛け持ちしている人もいる。子どものために一生懸命働けば働くほど、今度は子どもと会う時間が短くなる。シングルマザーは一日四十五分ほどしか子どもと接する時間がないというデータもある。
仕事に忙しく、職場と家の往復で、行政や地域の目が届かないケースがある。生活や子育てに悩みがあっても、相談する相手も少ない。行政に相談に行くにも平日になかなか休めず、どこの窓口か分かりにくくてハードルが高いと感じる人もいる。
そうした家庭や親を孤立させてはいけない。役割分担が大切で、行政が届かない支援は、私たちのように経験やスピードのある民間団体を活用してほしい。
私たちがケアしているシングルマザーは現在、東京都内を中心に約千三百人いる。「これからの生活が不安」「どうしていいか分からない」などの相談をメールで受け付け、先輩のシングルマザーがボランティアで対応する。「お金がない」などの相談は私たちスタッフが応じる。子どもがいる家庭への支援はのんびりしていられない。ネットであれば早く対応ができる。
空き家を利用した住宅支援や就労支援のほか、毎月の交流会やイベントなどを開いて、生活に必要な情報を提供する。お母さん方のネットワークができ、家の外にも味方がいることを感じてもらえる。
川崎の事件を機に、家庭や地域や行政のあり方を見つめ直そうという動きが出てきたのはとても大事。誰かのせいにして非難するのは簡単だが、そうではない。ひとり親や貧困の問題はいろんな原因が絡み、とても複雑で重層的だ。みんなが「自分は何ができるのか」を考え、とにかく悩む親や家庭を「独り」にさせないことが大切だと思う。 
(聞き手・横井武昭)
<こやま・くにひさ> 1977年、東京都生まれ。オレゴン大学心理学部卒。テレビ番組制作などを経て、2008年にひとり親支援の団体を立ち上げ、10年にNPO法人リトルワンズを設立した。現在は、同法人代表理事で、本業はプランナー。
問い合わせは、同法人のメール(info@npolittleones.com)へ。

<どう向き合う少年犯罪(4)> 子どもと地域 出会いを:神奈川 - 東京新聞(2016年2月7日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201602/CK2016020702000153.html
http://megalodon.jp/2016-0208-1104-07/www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201602/CK2016020702000153.html

◆「寺子屋」活動で触れ合う 宮越隆夫さん(68)
川崎の中一殺害事件のような悲劇を防ぐために、地域は何ができるのか。特効薬はないと思っている。子どもたちに寄り添う地域を目指し、愚直にたくさんのことを続けていくしかない。
例えば、川崎区の市立臨港中学校は一九九〇年代前半、荒れていた。校内暴力や事件が繰り返し起きて、新聞にも載った。
その名残が少なくない九八年、PTAや町内会、学校の先生などで中学校区ごとにつくる「地域教育会議」が臨港中の学区にもできて、事務局長になった。最初に取り組んだのが「地域と子どものいい出会いの場をつくる」こと。
まず中学生に祭りのみこしを担いでもらった。担ぎ手が少ない中、やんちゃな子も歓迎された。怒られてばかりの子が必要とされて褒められた。夏休みには商店などで体験学習をしてもらった。「中学生が来ると明るくなるし、よく働いてくれる」と評判になった。
すると、夏休みに公園で爆竹や花火をしたり、たばこを吸っていた子が減った。学校への苦情も止まった。つまり、子どもがやりがいのある楽しいステージをたくさんつくれば、悪いことをする気持ちは小さくなる。そこにすぐ来ない子だって、同年代の子が楽しそうにやっていたら、のぞきに来る。だから続けることが大切だ。今も体験学習は続いているし、東日本大震災の被災地へのボランティアにも行くなど社会と関わる活動が広がっている。
私たちの地域では一昨年から、小学生らを対象に「地域の寺子屋」活動をしている。住民らが放課後の教室で勉強を教えたり、休日には多摩川の干潟探検などいろんな体験の場を用意したりする。今の小学生が中学生になるころ、一人一人が自分の考えをしっかり持って生きていく子になってくれればいい。
今の川崎の街は、緑や遊び場が少なく、子どもにとって生きづらいのかもしれない。マンションがどんどん建って人口が増え、地域のつながりが薄くなっている。だからこそ都市に生きる子どもたちが生き生きできる舞台を用意したい。自分の存在が認められて、非行なんかしなくても楽しいよと思える地域にしたい。
中学校の卒業式で、ある生徒が言った言葉が忘れられない。「地域は私たちにとって、ひとつの大きな家です」。これからもそう言ってもらえるように頑張りたい。 (聞き手・横井武昭)
=おわり
<みやこし・たかお> 1947年新潟県生まれ、川崎市川崎区在住。3人の娘を川崎で育てた。91年、市立渡田小学校のPTA会長。98年から臨港中学校区地域教育会議の事務局長となり、住民らと青少年の地域での活動支援や教育に取り組んでいる。川崎区地域教育会議の副議長も務める。本業は土木建設業。

<千葉から語り継ぐ戦争>被爆70年体験集「会員の遺言に」 市内小中高や大学にも配布;千葉 - 東京新聞(2016年2月7日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201602/CK2016020702000159.html
http://megalodon.jp/2016-0208-1105-35/www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201602/CK2016020702000159.html

終戦前の一九四五(昭和二十)年八月に広島・長崎で被爆した会員三十二人でつくる「習志野市原爆被爆者の会」が、被爆七十年と会結成三十周年に合わせた体験集「平和への願いを込めて」をまとめた。投下二日後に広島の爆心地に入った入市被爆者で代表の山口誠雄(まさお)さん(74)は「被爆者も平均八十歳。体験集を出す機会は、今回がおそらく最後。会員の遺言として発刊した」と話す。 (服部利崇)
広島に原爆が投下された八月六日、三歳七カ月の山口さんは、六歳上の兄の疎開先の下見で、母親とお姉さんら三人と偶然にも爆心地から南約二キロの自宅におらず、運良く直撃を免れた。父親は出征していた。
山口さんらは二十キロ以上離れた場所にいて、「広島は大火災で全滅」と伝わる。自宅に残した祖母が心配になり、二日後の八日、家族で自宅に戻った。当時の原爆に絡む記憶はないが、「残留放射能の中、爆心地を通った。遺体や馬の死骸を避け、たどり着いた。自宅は焼けなかったが、爆風で屋根瓦はすべて吹き飛んでいた」という。
祖母は顔や首にやけどを負ったが無事だった。後に「水をください」と、大やけどの人たちが家に入ってきた様子を何度も聞いた。水をあげたら「おいしかった」と去ったという。
生きようと必死で水を求めた人たちの思いが刻まれた自宅で暮らしながら、山口さんは「苦しかっただろうな」とその後、思いを巡らせてきた。
自身に放射線障害は出ていないものの、貧血に悩まされ続けた。一九九四年に習志野市に居を構え、九八年に被爆者の会に入った。昨年、代表に就いた。
会は被爆六十年の二〇〇五年にも体験集をまとめた。その時は「直接体験がなく、遠慮して書かなかった」。しかし代表となり「存命の人も少なくなった」ため、家族からの話や敗戦後の生活苦などをつづった。
体験記を寄せたのは十七人。うち五人はこの十年に亡くなったため、前の体験集から再掲した。初の体験記は山口さんを含む三人。残り九人は前回の体験記に加筆修正した。市の補助金を活用し、昨年十二月に完成させた。
山口さんは「何の罪もない市民が原爆で命を奪われた。むごたらしい被害を記憶にとどめてほしい」と話す。次世代に引き継ごうと市内の小中高校や大学にも配った。A4判、六十四ページ。問い合わせは山口さん=電047(451)1490=へ。

外国から来た子どもたち、言葉や慣習の壁どう乗り越えた - 朝日新聞(2016年2月8日)

http://www.asahi.com/articles/ASJ1X5G0LJ1XUPQJ00X.html?iref=comtop_pickup_04
http://megalodon.jp/2016-0208-1107-31/www.asahi.com/articles/ASJ1X5G0LJ1XUPQJ00X.html?iref=comtop_pickup_04

外国から来た子どもたちは、日本語や学校生活の壁をどう乗り越えるのか。10代で来日した大阪の大学生2人にミナミの繁華街で話をしてもらいました。