成人18歳 20年にも 民法改正案、来年提出 - 毎日新聞(2016年9月1日) 

http://mainichi.jp/articles/20160901/k00/00e/040/239000c
http://megalodon.jp/2016-0901-1634-32/mainichi.jp/articles/20160901/k00/00e/040/239000c

法務省は1日、民法成人年齢を現行の20歳から18歳に引き下げるための改正案を来年の通常国会に提出する方針を固めた。改正法が成立した場合、施行までに3年間の周知期間を想定しており、早ければ2020年にも成人年齢が18歳になる。1876(明治9)年の「太政官布告」で満20歳になった成人の定義が変わる。
若年者の年齢条項がある200程度の法律に影響する。条文に「成年」の文言を含む法律はそのままでは適用対象が自動的に18歳に引き下げられることになるため、それぞれの所管省庁が引き下げの妥当性を議論する。例えば未成年者の馬券購入を禁じる競馬法については、農林水産省が馬券購入解禁を20歳以上から18歳以上に引き下げるかどうか検討することになる。未成年者飲酒禁止法未成年者喫煙禁止法少年法など適用対象を20歳未満としている法律は直接連動しないが、見直し論議が活発になる可能性はある。
民法成人年齢引き下げで、18、19歳が親などの法定代理人の同意なくローンやクレジットカードなどの契約が結べるようになる。ただ、高額な買い物をしても契約を取り消せないといったリスクも生じる。
法務省は(1)改正民法の施行日をもって18、19歳を一斉に成人年齢にしても支障はないか(段階的に施行した方が良いか)(2)施行までの周知期間(3年)は妥当か(3)施行日はいつが適当か(元日か4月1日かなど)(4)施行前の18、19歳の行為をさかのぼって成人の行為としないことに支障はあるか−−の4点について1日から30日まで国民の意見を公募する。少年法や喫煙飲酒、公営ギャンブルの年齢については意見公募の対象としない。
成人年齢引き下げの議論は、憲法改正の手続きを定めた「国民投票法」が07年に成立したのがきっかけ。国民投票の年齢を原則18歳以上とし、付則で民法公職選挙法の年齢条項も検討するとしていた。
法相の諮問機関、法制審議会は09年に「成人年齢を18歳に引き下げるのが適当」と答申。昨年6月には選挙権年齢を20歳以上から18歳以上に引き下げる改正公職選挙法が成立し、自民党の特命委員会は昨年9月、成人年齢も18歳に引き下げる提言をまとめていた。【鈴木一生】
民法成人年齢引き下げによる主な変化】

  • ローン契約→18、19歳で可能
  • クレジットカード契約→18、19歳で可能
  • 飲酒→18歳以上に認めるには法改正が必要
  • 喫煙→18歳以上に認めるには法改正が必要
  • 競馬、競艇、競輪→所管省庁が検討

この秋の新潟県知事選挙からの撤退について(泉田 裕彦知事) - いずみだ裕彦 後援会事務所(2016年8月30日)

http://www.h-izumida.jp/topics/20160830.html

12年前の知事就任時最初の職務は震災対応でした。県で制度設計が可能な復興基金などにより今日まで、復旧復興を進めることができました。その後、公約を元に作成した政策プランにより県政運営を進め、当時不安視されていた県財政を安定させることができました。


今、憲法を考える(4) 源流は自由民権運動 - 東京新聞(2016年9月1日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016090102000129.html
http://megalodon.jp/2016-0901-0923-46/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016090102000129.html

今年で公布七十年を迎える日本国憲法。改正を目指す「改憲」論者は、占領軍によって押し付けられた憲法であることを、改正を必要とする根拠に挙げるが、本当に押し付けだったのだろうか。
敗戦から二カ月後の一九四五年十月十五日発行の「東京新聞」(現在は本社が発行)一面トップに「憲法改正」と題する評論記事が掲載された。筆者は鈴木安蔵氏。後に静岡大や愛知大などで教授を務めた憲法研究者だ。
三日連続で掲載された評論記事で、鈴木氏は「日本国家の民主主義的建設」や「日本民族のより高次な発展」のためには大日本帝国憲法を全面的に改正する必要があり、改正の意見が「広く国民の間から、溌剌(はつらつ)として」展開されることが望ましいと主張している。
この連載からほどなく、鈴木氏は元東京帝大教授の高野岩三郎氏の呼びかけで民間の憲法制定研究団体「憲法研究会」に参加する。
研究会には早稲田大教授の杉森孝次郎社会学者の森戸辰男両氏のほか、馬場恒吾、室伏高信、岩淵辰雄各氏ら当時の日本を代表する言論人も名を連ねていた。
憲法研究会は二カ月間にわたって議論を重ね、四五年十二月二十六日、憲法草案要綱を発表した。政府の憲法調査会の改正草案よりも一カ月以上早く、新聞各紙が一面トップなどで大きく報じた。
統治権は国民より発す」と国民主権を明示し、天皇に関しては「国民の委任により専ら国家的儀礼を司(つかさど)る」と象徴天皇制に通じる内容だ。「法の下の平等」や「男女同権」など、現行憲法と共通する条文も列挙している。
この案は一民間の案にとどまらなかった。連合国軍総司令部(GHQ)にも提出され、GHQによる憲法草案の作成に大きな影響を与えたことは、多くの証言や資料から明らかになっている。
鈴木氏は明治期の自由民権運動活動家、植木枝盛の私擬憲法東洋大日本国国憲按(あん)」を発掘し、分析したことでも知られ、憲法研究会の憲法草案要綱の作成に当たっては、自由権を規定するなど進取的な植木案をはじめとする私擬憲法や諸外国の憲法を参考にしたことを明らかにしている。
現行の日本国憲法がGHQの影響下で制定されたことは疑いの余地はないが、そのGHQの草案には日本の憲法研究会案が強い影響を与えた。しかも、その源流が自由民権運動にあることもまた、紛れのない歴史的事実である。

「加波山事件」本質に迫る 会誌の創刊号発行 遺族らに聞き取り重ねる:茨城

http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201609/CK2016090102000166.html
http://megalodon.jp/2016-0901-0944-05/www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201609/CK2016090102000166.html

明治時代、自由民権運動の高まりの中で起きた加波山事件を研究している筑西市市民グループ「自由民権加波山事件研究会」が、創刊号となる会誌「自由立憲政体の魁(さきがけ)」を発行した。会長の郷土史家桐原光明さん(68)は「加波山事件は爆弾を製造するなど、過激な面が強調されるが、青年たちが社会正義を築こうと志した自由民権運動の本質でもあったことを伝えたい」と話す。 (原田拓哉)
加波山事件は、一八八四(明治十七)年九月、政治結社自由党急進派の若い志士十六人が、自由民権運動を弾圧した栃木県令・三島通庸(みちつね)らの暗殺を企てて蜂起。しかし、失敗して加波山桜川市石岡市)に立てこもり、山頂に「圧制政府転覆」「自由の魁」などの旗を掲げた。鎮圧された後、七人が処刑された。山頂には旗立石が建立され、処刑された活動家らの名前が刻まれている。
研究会は、事件勃発から百三十年の節目の二〇一四年に発足した。会員らは、筑西市桜川市に住む当時の自由党幹部らの遺族を訪ねたり、遺跡を調査したりしたほか、各地の自由民権運動の研究会とも交流を重ねている。
会誌のタイトルは、事件を企てた首謀者らが記した檄文(げきぶん)「完全なる自由立憲政体の造出」を参考に決めた。
創刊号は、加波山事件の引き金の一つともなった福島事件(喜多方事件)を取り上げている。三島が福島県令だった時代、農民に対する労役や自由民権運動への弾圧に反発して一八八二年、自由党の党員らが蜂起した。
研究会は、地元の顕彰団体の会員らとも交流を深めてきた。事件に関与した人たちが“政治犯”扱いされ、最近まで位牌(いはい)に戒名がなかったり、遺族たちの見合いが破談になったりするなど、冷淡に扱われてきたという。創刊号では「遺族との交流」と題し、こうした事例も紹介している。
会誌は筑西市内の図書館や公民館に寄贈した。希望者には三百円で販売する。
問い合わせは桐原さん=電0296(24)6450=へ。

被爆地の学生、ドイツの戦争遺跡を訪問 「負の歴史を伝える意識が強い」 - 東京新聞(2016年9月1日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201609/CK2016090102000108.html
http://megalodon.jp/2016-0901-0938-51/www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201609/CK2016090102000108.html

【ベルリン=垣見洋樹】日本と同じ第二次大戦の敗戦国ドイツは負の歴史とどのように向き合っているのか−。被爆地の広島、長崎の学生が三十、三十一日、自国の加害行為を展示するベルリン市内の戦争遺跡を回り、記憶継承の実情を学んだ。
世界的に知られるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団コンサートホールの脇に、人種的優生思想を唱えるナチスが何万人という障害者を安楽死させたことを示す記念碑と展示がある。
「街の真ん中に負の遺産が残してある。後世に歴史を伝える意識の強さを感じる」。世界の核兵器の現状を学ぶ若者グループ「ナガサキ・ユース代表団」に加わる長崎大四年の河野早杜(はやと)さん(23)は、自国民による残酷な行為を隠さず示した展示を食い入るように眺めた。
昨年、米ニューヨークの国連本部であった核拡散防止条約(NPT)の再検討会議に派遣され、非政府組織(NGO)会合で日本の歴史教育の現状を発表。長崎県人でも、現在の核保有国や核弾頭数をよく知らない現実にもどかしさを感じ、ドイツの取り組みを学びに来た。
ドイツで平和活動に取り組む若者と対話し「歴史をよく知っていて、自分の意見も持っている。教育や身近にある歴史遺跡の効果でしょう」と語った。
祖父が被爆者の広島市立大四年の川田亜美さん(21)は被爆地の歴史を伝えるサークルに所属。昨年、オランダのアンネ・フランクの隠れ家で、戦争の加害国側のオーストリア青年のボランティアと出会い、戦争遺跡が加害国側と被害国側の交流の場になると実感した。「アジアの戦争遺跡も中国、韓国の若者とともに学ぶ交流の場にできるのではないか」と語った。河野さんは卒業を控え「学んだことを後輩に伝え、平和活動の継承、拡大に役立てたい」と語った。

軍事研究助成18倍 概算要求6億→110億円 防衛省、産学応募増狙う - 東京新聞(2016年9月1日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201609/CK2016090102000117.html
http://megalodon.jp/2016-0901-0939-54/www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201609/CK2016090102000117.html

防衛省は三十一日、過去最大の総額五兆一千六百八十五億円に上る二〇一七年度予算の概算要求を発表した。一六年度当初予算比2・3%増。このうち、企業や大学に対し、軍事に応用可能な基礎研究費を助成する「安全保障技術研究推進制度」予算として、一六年度の六億円から十八倍増となる百十億円を要求した。資金提供を通じ「産学」側に軍事研究を促す姿勢を強めた。(新開浩)
この制度は、軍事への応用が期待できる基礎研究を行う機関に、最大で年約四千万円の研究費を三年間助成する内容。制度が創設された一五年度は三億円の予算枠に百九件の応募があり、九件が採用された。一六年度は予算を六億円に倍増したが、応募は前年度の半数を下回る四十四件に減少。採用は十件だった。
応募が減った背景には、主に大学での軍事研究の拡大に対する研究者の警戒があるとみられる。新潟大学は昨年、学内の科学者の倫理行動規範に「軍事への寄与を目的とする研究は行わない」と明記。京都大は今年、学長らでつくる部局長会議が、軍事研究に関する資金援助は受けない従来の指針を再確認した。
一方、自民党の国防部会は五月、軍事研究費の助成制度を百億円規模に増額するよう提言。多額の武器開発費を投じる中国への対策が必要だと強調した。これを受けた今回の大幅増要求により、防衛省は一七年度以降、研究テーマ一件当たりの助成費の増額や研究期間の延長を目指す。
これまでに助成対象となったテーマは、レーダーに探知されにくいステルス性能が期待できる新素材の開発や、海中での長距離・大容量通信を可能とする新型アンテナの研究など。
◆軍事費増やす構図
<大学の軍事研究に反対する「日本科学者会議」事務局長の井原聡東北大名誉教授(科学史)の話> この助成制度は、民生にも役立つ技術を研究するという名目で、軍事費を増やすシステムだ。研究者を大金でからめ捕るやり方は許し難い。助成額を大きくすることで、減少した応募件数を増やす狙いではないか。

関東大震災直後の朝鮮人ら虐殺 船橋、八千代で慰霊祭:千葉 - 東京新聞(2016年9月1日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201609/CK2016090102000174.html
http://megalodon.jp/2016-0901-0941-03/www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201609/CK2016090102000174.html

1923(大正12)年9月1日の関東大震災直後の混乱期、県内でも現在の船橋市八千代市などで、多くの朝鮮人が軍や自警団に虐殺された。長年、調査を続けてきた「千葉県における関東大震災朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」のメンバーで元高校教師の平形千恵子さん(75)は「地域の負の歴史を明らかにし、犠牲者を供養することが大切」と訴える。船橋市では1日、八千代市で4日に虐殺された朝鮮人の追悼慰霊祭が行われる。 (村上豊
関東大震災では地震直後から、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「暴動を起こしている」といったデマが東京周辺で広がり、住民が作った自警団などに朝鮮人社会主義者らが殺害された。軍や警察が関わったケースもあり、犠牲者は数千〜六千人に上ったとも言われている。
実地調査に加え、被害者の遺骨の発掘や慰霊碑建立などの活動をしてきた調査実行委によると、県内でも軍や自警団により船橋や八千代、市川、習志野浦安市などで三百数十人が殺害されたという。
船橋市では当時、北総鉄道(現東武野田線)の建設工事で多くの朝鮮人が働いており、現場の宿泊施設で寝泊まりしていた。震災後の混乱を避けるためなどとして、軍の施設や警察に連れて行かれる途中、自警団に殺害されたという。
船橋の小学校であった爆弾騒ぎ(実際は焦げた砲丸の模型)を巡っては、「朝鮮人が爆弾を持っていた」と周辺にデマが流れた。また、軍の通信施設が朝鮮人に来襲されるとのデマが伝わったとされる。
八千代市では震災後、近くにあった軍の収容所に東京から逃れてきた朝鮮人が保護されていた。周辺の村落に引き渡された後に、同様の被害に遭ったという。
朝鮮人虐殺を巡っては公的な記録がほとんど残っておらず、風化を懸念する声もある。
平形さんは「記録がないため、犠牲者の人数や名前が分からない」と調査の困難さを明かした上で、「軍や警察の関与があったかが明らかにされておらず、政府の責任などを含め、問題は解決していない」と指摘している。
追悼慰霊祭は一日午前十一時半から、船橋市の市営馬込霊園内の慰霊碑前で、在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)県西部支部の主催で行われ、八千代市高津の観音寺では四日午後二時から、寺と高津区特別委員会、調査実行委の共同で営まれる。

チャスラフスカさん死去 信念貫いた名花 日本に励まされ、支えられ - 東京新聞(2016年9月1日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/sports/list/201609/CK2016090102000118.html
http://megalodon.jp/2016-0901-0942-18/www.tokyo-np.co.jp/article/sports/list/201609/CK2016090102000118.html

三十日に亡くなった体操女子選手チャスラフスカさんは1964年の東京五輪で、日本人を華麗な演技で魅了して「五輪の名花」「東京の恋人」と愛された。自身はその後、日本に励まされ、支えられながら、信念を貫く人生を送った。
東京五輪では3つの金メダルを獲得したが、段違い平行棒でまさかの落下となった。選手村を訪れた熱烈なファンの男性から、家宝という日本刀を贈られた。「私は22歳。サムライの歴史も知りません。でも日本のことを学び、『刀には魂がある』と知りました」
刀を受け取った4年後、激動の人生が始まる。68年のメキシコ五輪を前に、母国チェコスロバキア(現チェコ)の民主化運動「プラハの春」をソ連軍の戦車が踏みにじった。民主化勢力が作った「二千語宣言」に署名し、当局は「署名を撤回しても公表しない」と巧みに翻意を誘ったが、応じなかった。
メキシコ大会で着用した黒いレオタードは抗議の証し。表彰台でソ連選手と並び、ソ連国歌が流れると、そっぽを向いた。
信念を貫く代償として、掃除の仕事で糧を得るなど、不遇の時代は長く続く。冷戦の象徴「ベルリンの壁」が崩壊した89年末、母国の共産主義体制がビロード革命で崩壊。革命の中心地だったプラハのバーツラフ広場で、民主化の立役者で後に大統領となる劇作家、故ハベル氏と群衆の前に立った。「その時沸き起こった拍手を忘れません。生涯で最もうれしい瞬間でした」
大統領顧問やチェコ五輪委員会会長を歴任した。「sakura1964@…」のメールアドレスが示すように、常に温かく支えてくれた体操関係者やファン、その精神文化も含め、日本と日本人をこよなく愛した。2011年の来日時には、刀の贈り主の遺族と都内で面会。東日本大震災の復興支援で被災地も訪問した。その際「東京五輪の開かれた幸せな時期を思い、それに支えられた。共産主義体制下でも日本から力を得ていた」と語った。
東京で2度目となる五輪開催が決まった1カ月後の13年10月5日、プラハ郊外にある自宅近くのレストランで聞いてみた。共産党の独裁体制が終わる保証などなかった時代、なぜ意志を貫けたのか。
「自分では正しいと信じていたから」。窓から差す陽光を受けながら言葉を返すたたずまいは、はっとするほど美しかった。 (前ベルリン支局長・宮本隆彦、滝沢学)

「平和の俳句」9月分選考 阿川佐和子さん「次世代に伝える力ある」 - 東京新聞(2016年9月1日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201609/CK2016090102000120.html
http://megalodon.jp/2016-0901-0943-13/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201609/CK2016090102000120.html

九月の「平和の俳句」は金子兜太さん(96)、いとうせいこうさん(55)とともに作家でエッセイストの阿川佐和子さん(62)が選んだ。「選評を書くのはすごく大変でした」と振り返る。
選考では「戦時中にまつわる句を読むとたまらない気持ちになった。実体験に引き込まれました」と言う。「戦後十年以内に生まれ、親や周囲から話を聞いた世代」。小学校には「特攻隊の生き残り」の先生がいた。父で作家の故阿川弘之さんは元海軍大尉。その故郷広島で、原爆のケロイドが残る人にも会った。
「窓を開けられるのは平和」という内容の作品に、阿川さんは「戦争の時は空襲警報が鳴って自宅の庭に掘った穴に逃げ込む日常があった。若い人には分からないだろうな」と語る。
「感覚の違いがどんどん深くなる中で、戦争体験の俳句を読むと『そうだったんだ』と気付かされる。平和の俳句には、記憶が薄れていく次世代に伝える力があるって思いましたね」

 

(記者の目)福島と熊本で取材して=宮崎稔樹(福島支局) - 毎日新聞(2016年9月1日)

http://mainichi.jp/articles/20160901/ddm/005/070/022000c
http://megalodon.jp/2016-0901-0945-25/mainichi.jp/articles/20160901/ddm/005/070/022000c

悲しみが伝えること
東日本大震災東京電力福島第1原発事故の被災地、福島県に新人記者として赴任して3年目の私は、2週間の日程で熊本地震を取材した。九州は出身地だが、被災者に受け入れてもらうのは想像以上に難しかった。被災地で取材を重ねながら、悲劇に見舞われた人たちにどう接すべきか自問している。答えは見つからないけれども、私の体験を記したい。
5000棟以上が倒壊し、20人の死者が出た熊本県益城町に入ったのは地震発生1カ月後の5月14日。被災地でのメディアの強引な取材がネット上で「マスゴミ」などと批判されていた。心ない同業者の行為への憤りと悔しさを抱えながら取材を始めた。
記者から目背け口つぐむ被災者
「頑張らんばね、熊本」。カーラジオから九州弁が聞こえる。長崎県で生まれ育った私にとって聞き心地の良い言葉。私も自然と九州弁が口をつくようになった。だが、カメラを提げて町を歩くと、すれ違う人たちは目を背けた。1階が潰れた家のベランダで洗濯物を取り込んでいた中年男性は言った。「記者の人に話すことはなか」。九州弁が胸に刺さった。次から次に来ては「家の中を見せて」「お気持ちは」と質問する記者にうんざりだという。
「自分の仕事が取材相手を苦しめているのでないか」。福島でもそう思うことが少なくない。今年1月、大震災発生から丸5年の紙面づくりに向け、取材に応じてくれる遺族を探していた時、津波で両親と祖父を失った高校3年生の男子生徒のことを知った。
高校の下校時に校門で待ち構え、声をかけた。世代が近いこともあり、漫画の話題で盛り上がった。だが、話が核心に迫ると彼から笑顔が消えた。「悲しさは消えない。震災の話は思い出したくないんです」。この後、私からの連絡に返答は来なかった。締め切りが迫り、「何とか記事にしないと」と焦りが先に立っていた。その2カ月前、自分が事故の遺族になった経験があるにもかかわらずだ。
昨年11月12日、長崎の祖母宅から火が出て、祖母が亡くなった。原因は不明だが、失火とみられる。すぐに長崎へ向かうと、毎年正月に親戚が集まる古い家は真っ黒な焼け跡になっていた。取材と同じようにカメラを向けたが、シャッターをどうしても切れなかった。
翌日の毎日新聞長崎面の片隅に記事が載った。「宮崎みよ」と祖母の名がある。私も福島で日々同じような記事を書いているのに、妙に重たかった。葬儀場で疲れ切った顔の父がつぶやいた。「警察に消防。こがん時に同じことば何度も聞かれるのはしんどか。もしマスコミの人も来たら、きつかったろうな」
苦しみ聞く仕事、絶えず内省的に
もやもやを抱えつつ取材に来た熊本。途方に暮れていると、犬を抱いた女性が歩いてきた。私はとっさにカメラをカバンにしまった。自己満足かもしれなくても、記者としてではなく、同じ九州人として接したかった。「犬、かわいかですね」と話しかけた。女性は「なかなか歩きたがらんとさね。動物も変化に敏感ね」と犬をなでた。
歩きながら話をした。女性は益城町の避難所のテントで暮らす中神由子さん(72)。大きなマスクをしている。「風邪ですか」と尋ねた。「そうじゃなくてね」。マスクを外すと顔に黒いアザがあった。地震でタンスが倒れ、直撃したという。笑顔で接してくれる姿に申し訳なさが募った。
中神さんは1人暮らし。自宅は半壊し、余震が怖くて避難したが、犬がいるので体育館に入らなかった。私は記者だと明かし、数日間、彼女の元に通って話を聞いた。配られるコンビニ弁当は脂っこく、喉が渇いて何度も夜に目が覚める。日中過ごすテントは気温が40度近くになる。好きな茶道の稽古(けいこ)にも行けず、散歩で会う「犬友」とのおしゃべりが楽しみ−−。被災者の苦境を伝えたかった。
「記事にさせてもらえんですか」。中神さんはしばらく眉をひそめた後「これも何かの縁かもね」と言ってくれた。数日後、愛用のサンバイザーをかぶってほほえむ中神さんの写真と「愛犬歩きたがらず」との見出しが付いた短い記事を載せることができた。
記者の仕事は人の痛みに触れることを避けて通れない。時に聞きにくいことを聞くのがメディアの大切な役割だからだ。そういう記事が世の中を動かすきっかけになることがある。だからこそ、私たちは「自分の都合ばかりを優先していないか」と、絶えず内省的であらねばならない。
掲載後、中神さんが声をかけてくれた。「しばらく連絡ば取っとらんやった友達から『記事みたよ』と電話もらい、うれしかった」。伝えるという仕事が誰かの幸せにつながると信じたい。