憲法公布の日に ワイマールの教訓とは - 東京新聞(2018年11月3日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018110302000164.html
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きょう十一月三日は日本国憲法が公布された日だ。世界史に目をやれば百年前、ドイツでワイマール憲法が誕生する契機となった事件の日でもある。
ドイツ海軍は英国海軍に制海権を握られて、海上封鎖にあっていた。第一次大戦の末期のことだ。ドイツ北部の軍港は敗色が濃厚で、もはや水兵らは厭戦(えんせん)的な気分になっていたという。
戦艦は港に眠ったまま。潜水艦の攻撃も成功の見込みはない。それでも海軍司令部は大決戦を挑むつもりだった。攻撃命令が出た。まるで特攻作戦である。ところが、大勢の水兵が命令を拒否してしまった。
改憲は社会契約の変更
水兵はただちに拘束され、キール軍港へ。軍法会議で死刑が予想された。緊張した空気の中、仲間の水兵らが釈放を求めた。そして、一斉に武装蜂起−。「キールの反乱」と呼ばれる、一九一八年十一月三日の世界史的な事件だ。
ドイツ海軍の戦艦同士が大砲を向け合ったという。上官に従う艦と従わない艦と…。結局は水兵と労働者による評議会が形成され、キール市を支配下に置いた。
反乱の火はドイツ全域に拡大し、九日には皇帝ウィルヘルム二世が退位に追い込まれ、オランダに亡命した。帝政ドイツの崩壊。そしてドイツ共和国が誕生した。
帝政時代の憲法は鉄血宰相で有名なビスマルクらが制定した。だが、共和政へと国家の形が変われば新憲法がいる。それが一九一九年のワイマール憲法だ。つまり国民との社会契約が変わるとき憲法も変わる。
明治憲法は帝政時代のドイツ(プロイセン憲法を模範とした。戦後の日本国憲法も敗戦により、天皇主権から国民主権へと政体が変わったから、新たな社会契約として制定されたのだ。
自衛隊をなぜ明記?
日本国憲法は英国の「権利の章典」、米国の独立宣言や合衆国憲法、フランスの「人権宣言」などの思想を踏まえる。ワイマール憲法との類似点もある。
例えば生存権である。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の条文だ。その他、ワイマール憲法では主権在民や男女平等の普通選挙。教育を受ける権利しかり、自由権しかり、労働者の団結権もしかり…。
ワイマール憲法は当時、世界で最も民主主義的で、輝ける憲法だったのだ。「平和主義」の日本国憲法も今なお世界最先端をゆく、輝ける憲法だと考える。
だが、臨時国会安倍晋三首相は「自民党総裁として」と断りを入れ、九条改正を促した。持論は自衛隊の明記だ。「自衛隊員の正当性の明文化、明確化は国防の根幹だ」と答弁した。
不思議だ。自衛隊に正当性がないのか? 歴代政権は「合憲」と正当性のお墨付きを与えてきたではないか。国民の大半の支持がある。法制度も整っているのに。
九条改憲案が国民投票で可決されても首相は「(現状に)変わりがない」と述べ、否決されても「(合憲に)変わりがない」と過去に言った。ますます不可解だ。改憲の動機が空疎なのだ。
「平和主義」は戦後日本が国民との間で交わした最重要の社会契約である。しかも世界に、アジア諸国に向けた約束でもある。その社会契約を変更するには、説得できる理由がいるはずだ。
首相がこだわる真の理由は何か。まさか「改憲したいから」ではあるまい。「国軍化」への一歩なのか。歴代内閣が守ってきた専守防衛の枠を超え、集団的自衛権さえ使う国になった。自衛隊の任務の境界が不明確になった。海外の戦争にまで踏み込むのか。
平和主義を打ち壊そうとしているなら断然反対する。そもそも憲法改正には限界がある。立憲主義国民主権も平和主義も基本的人権も権力分立も、憲法の根本原理だから改正不能でないのか。
だが、憲法条文を無力化する方法が別にもある。緊急事態条項である。政府が「緊急事態」を宣言すれば、憲法秩序が止まる。
輝けるワイマール憲法がわずか十四年で事実上、機能停止したのも、この規定のためだった。ナチス・ドイツ下では「民族と国家防衛のため」を口実に国家緊急権が乱用され、保障されているはずのさまざまな自由が奪われ、ユダヤ人の大虐殺も行われた。
◆「国民のため」は要注意
自民党が考える改憲案には緊急事態条項も含まれている。為政者は権力を強めるためにさらなる権力を求める。だから条文で厳しく制約し、権力を鎖につなぐ。それが憲法の役割である。
ワイマール憲法を教訓にすれば、政府が「国のため」「国民のため」というとき、実は危険な兆候なのかもしれない。

就労外国人 入管法改正案 これで支援ができるのか - 毎日新聞(2018年11月3日)

https://mainichi.jp/articles/20181103/ddm/005/070/048000c
http://archive.today/2018.11.03-001142/https://mainichi.jp/articles/20181103/ddm/005/070/048000c

深刻な人手不足に対処するため、外国人労働者の受け入れを拡大する入管法改正案が閣議決定された。日本の外国人政策の歴史的な転換点になる可能性をはらむが、新たな制度案の完成度は低い。
政府があらかじめ指定した業種で一定の能力が認められる外国人労働者に「特定技能1号」「特定技能2号」という2種類の在留資格を与えるのが新制度の骨格だ。
1号は5年間の滞在が認められるが、家族の帯同はできない。一方、1号を経て試験に合格し、より熟練した技能があると認定される2号は、配偶者や子の帯同ができ、定期的な審査を受ければ永住が可能だ。
生活者の視点は後回し
祖国に日本の技術を持ち帰ることが役目の技能実習生が最長5年の実習を終えれば、無試験で1号の資格を取得できる。その場合、最長10年間単身を条件に働くことになる。その権利制限は審議の焦点の一つだ。
さらに、技能実習生については、長時間労働や違法に低い賃金を告発する声が絶えない。今年上半期だけで4279人の失踪が判明している。技能実習制度を土台にして新資格を整備するのは安定性を欠く。
また、2号について、どの程度の熟練度が求められるのかは未知数だ。1号、2号とも受け入れ業種は今後決まる。改正案には不透明な部分が多いと言わざるを得ない。
労働者は、地域社会で生きる生活者でもある。政府は受け入れの拡大に当たって、外国人との共生社会の実現を掲げた。だが、改正案からは、共生に向けた具体的な支援の中身が見えてこない。
生活インフラである日本語教育に誰が責任を持つのか。適正な家賃の住宅をどう確保するのか。どんな医療や福祉サービスを提供するのか。支援についてはさまざまな論点が存在する。
関係省庁や有識者で作る検討会が方向性を示すのは12月の予定だ。受け入れに伴う支援策は本来、セットで審議するのが当然なのに、来年4月の受け入れ開始という政府方針が先行し、検討が追いついていない。
どこが支援を担うのかにも疑問符がつく。法改正に伴う制度変更のかじ取り役は法務省だ。同省の外局になる予定の「出入国在留管理庁」が担当するのか。出入国の管理に目を光らせてきた官庁が、外国人労働者の立場で支援に当たれるだろうか。制度上、無理があるように思える。
共生社会実現への政府の姿勢が疑われるのは、外国人の受け入れ態勢の整備を地方自治体に丸投げしてきた歴史もある。
1990年に入管法が改正され、「定住者」が在留資格に加わった。血のつながりを根拠に日系ブラジル人らの在留が認められた。その結果、東海地方や北関東など製造業の集積地域で、資格を持つ外国人が急増した。日系ブラジル人は昨年末時点で19万人に上る。
負の現状直視してこそ
この間、国の住宅政策はなく、県営や市営の住宅が外国人入居者の受け皿になってきた。外国人にとって最も大切なのが日本語教育だ。国から明確な教育の指針は示されず、自治体が手探りで政策を進めてきた。
たとえば、住民の5%近い1万人超の外国人を抱える群馬県太田市は、外国人の子どもが入学する前に40日間、日本語や学科の内容を教える「プレクラス」という仕組みを独自に作り対応してきた。外国人に対し、どのような日本語教育ができるのかは結局、自治体の意識や財政事情に左右されてきた。
太田市を含む全国15の市町が2001年に「外国人集住都市会議」を作り、活動してきた。同会議は7月、共生政策が伴わなければ、日系人の急増の時と同様、地域社会の混乱が再び広がることになるとの危惧を意見書にまとめた。政府は真剣に受け止めるべきだろう。
特定技能という新たな在留資格がクローズアップされるが、制度外で働く外国人についても見て見ぬふりはできない。
たとえば、留学生のアルバイトで「週28時間以内」の法定上限を超えて働く人が大勢いるとみられている。一部の専門学校などが留学資格を得るための隠れみのになっているとの指摘もある。だが、こうした働き手が日本の労働現場を支えているのもまた確かだ。
国会は、外国人労働者が置かれた現状にメスを入れ、審議を尽くしてその教訓を生かすべきだ。

外国人労働者 見切り発車の閣議決定 - 朝日新聞(2018年11月3日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13752520.html
http://archive.today/2018.11.03-001436/https://www.asahi.com/articles/DA3S13752520.html

外国人労働者の受け入れを広げるための出入国管理法改正案が、きのう閣議決定された。
見切り発車とはまさにこのことだ。社会のありようを大きく変える可能性をはらむ政策である。政府はごまかしや言い逃れをやめ、真摯(しんし)な姿勢で国会審議に向き合わねばならない。
先立つ与党審査で、生煮えの提案であることが浮き彫りになり、3年後の見直し規定が急きょ追加された。無論この修正で問題が解決したことにはならない。それは、ここまでの国会でのやり取りからも明らかだ。
どんな業種に、どれくらいの数の外国人を迎えようとしているのか。この根本的な問いにすら山下貴司法相は答えられず、「現在精査している」と述べるのがやっとだった。
安倍首相も同様だ。移民政策への転換ではないのかとの指摘に対し、移民政策を「一定規模の外国人を期限を設けることなく受け入れ、国家を維持する政策」と独自に定義し、それには当たらないと繰り返した。
1年以上その国に住めば移民と扱うのが国連などでは一般的だが、首相は「違うから違う」と言うだけだ。そして外国人労働者の支援策については、「検討を進めている」にとどまる。
目の前の人手不足に対処するため、とにかく外国人に来てもらうようにする。だがそれ以上のことは説明できない。要はそういう話ではないか。
法案通りに新たな就労資格が設けられれば、日本で10年以上働く外国人労働者が生まれる。移民と呼ぼうと呼ぶまいと、外国人も、そして受け入れる日本人も、ともに安心して過ごせる未来像を、責任をもって示すのが政府の役目のはずだ。
だが法案を読み返しても、その姿は一向に見えない。法成立後に、簡単な手続きで改廃できる省令などで定める事項が、とても多いためだ。政府や産業界の意向次第でいかようにもなり得る不安定な受け入れ態勢で、就労先に日本を選ぼうという外国人がどれほどいるのか。そんな疑問もわいてくる。
与党審査では、治安悪化への懸念をはじめ、「いかに管理するか」という視点からの議論が多かった。相手は生身の人間だという当たり前の視点が、欠けていたと言わざるを得ない。
外国人受け入れの影響は、教育、社会保障、税、自治体行政など様々な分野に及び、法務委員会の手にあまる。多面的・多角的な検討ができる場を設け、熟議を重ねる必要がある。
今国会での成立ありきで突き進むことは許されない。

芸術の秋 価値観を揺さぶられて - 朝日新聞(2018年11月3日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13752522.html
http://archive.today/2018.11.03-001623/https://www.asahi.com/articles/DA3S13752522.html

競売で高値で落札されたばかりの絵が、多くの人々の目の前で切り刻まれる。しかも、絵を描いた当人が額縁にひそかに仕掛けていた細工によって。
英国の芸術家バンクシーのたくらみを報じるニュースが、先ごろ世界を駆け巡った。
素顔を明かさず、反権力のメッセージ色が強い、異才らしい企て。と同時に、そんな過激さやシニカルなユーモアを受け入れる、英国社会の気風もかいま見えた出来事だった。
さて日本はどうだろう。
美術館や劇場では様々な企画が催され、特色ある芸術祭も各地で開かれる。楽しみ方が広がる一方で、評価のものさしが観客の動員数や収益の多寡に偏っているきらいはないだろうか。万人受けを狙えば、結果として先鋭的・実験的な表現は居場所を探すのが難しくなる。
いま改めて注目が集まる1960年代から70年代前半にかけては、芸術の世界でも、社会に斬り込み、既成価値に異議を申し立てる試みがあふれていた。
赤瀬川原平(1937〜2014)もその一人だ。作品として発表した模造千円札を巡り、犯罪か芸術か、活発な論争を巻きおこした。裁判で有罪になったものの、多くの人が当たり前と思っている概念、守るべしと考えている規範を、遊び心たっぷりに揺さぶってみせた。
赤瀬川らに影響を与えた岡本太郎(1911〜96)は43歳の時、こんな宣言をしている。
今日(こんにち)の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない――。
自身、芸術とはみなされていなかったものに、光を当てた。縄文土器に美を見いだし、東北や沖縄など全国を訪ね歩き、人々の生活に根づく文化や芸術性の高さを紹介した。70年の大阪万博では、モダニズムの逆をゆく土俗的な「太陽の塔」をつくり、時代を超えた、人間の根源的な生命力をたたえた。
美術界から高い評価を受けることはなかったが、没後に見直しが進む。今年は太陽の塔内部の「生命の樹」の公開に20万人が詰めかけ、ドキュメンタリー映画の上映や回顧展もあった。近年の縄文ブームや、秋田のナマハゲのユネスコ無形文化遺産への登録(見込み)は、「時代が太郎に追いついた」との評の正しさを裏づける。
いつの世も、異端が時代を切り開いてきた。秋の一日、未知の作品世界のドアをノックしてみるのもいい。芸術の妙味は、自らの価値観が問い直され、変わる過程にこそ、ある。