KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

佐伯胖『「学び」の構造』

「学び」の構造

「学び」の構造

村井実(http://d.hatena.ne.jp/kogo/20051031http://d.hatena.ne.jp/kogo/20050718)、沼野一男(http://d.hatena.ne.jp/kogo/20050817http://d.hatena.ne.jp/kogo/20050816)と来て、佐伯胖先生の登場です。1975年の出版。

1975年あたりというと、行動主義心理学から認知心理学のスイッチ時期にあたっており、認知心理学の論客としての佐伯先生の面目躍如たる文章が刺激的ですが、必ずしもスキナーダメというのではなく、一回り大きな視点が取られていることがわかります。

しかし、私にとっての、この本からの収穫はそういうことではなく、

ある人が『自発性を教えるにはどうしたらいいですか」とわたしに質問したとしたならば、私は次のように答えるまでである。つまり、子どもはつねに自発的なのではないですか、「学ぶ」ということが「自発的」でなく生じると思いますか、といい、(中略)「自発性」というのは、子供が正しく学びを進めている<状態のあらわれ>(傍点)なのであって、そのことだけをポツンと「身につけさせる」ことなどできるわけがありません、というであろう。

という、これまで何度か取り上げてきた「自発性を教える」というパラドクスの解が提示されていたということです。ああ、そうか「自発性」というのは、風邪をひいたときの熱のような「あらわれ」であって、自発性だけを(そして熱だけを)単独で発生させることなどできないということなんだ。とすれば、自発的にやっているように見えるかどうかということこそが、教育が成功していることの証拠になる。それこそを教育研究者は評価するべきだと。自発性を直接求めても、自発性を生じさせることはできない。それは村井先生のいう、「子どもが自発的に振る舞うようにする」指導であり、ペテンであると(http://d.hatena.ne.jp/kogo/20050718)。

すっきり。いや、でもこの次のステップが大切なのですがね。それはまた別の機会に。

もうひとつ、重要なことを主張しています。「教育の科学化」ということと同時に「科学の教育化」が必要だということです。教育というのは「こうあるべきだ」ということを求めているのですが、それと同時に、それ以上の何か別のものになる可能性を常に含んでいるということです。そうでなければ縮小再生産になってしまいます。科学の教育化というのは、「AをBによって説明する」だけではなく、「AをB以上のものとして説明する」ということです。

ここまでくると、自然科学がよって立つ「原因論」から、それとは別の世界観「目的論」まであとわずかという感じがします。科学の教育化されたものは、科学でいられるのでしょうか。