2009-06-17
■「社会の論理」を持ち込む人々
「ゼミを何とか改善したい」みたいなことをここのところ結構主張してきて、それはそれなりに賛同を得られるようになってきていた。どの集団にもいいところと悪いところがあるだろうと思う。うちのゼミは、活発な議論が行われるところや、上から研究テーマを強制されることはないといったところは長所だと思うが、できの良くない発表をしてしまうと参加者(主に教授や先輩)から袋叩きにあうことがあって、それが原因でゼミと距離を置く学生が毎年数名出るといったところは短所だと思って、改善を志してきた。
勿論研究を目的に集まっている集団なので、研究ができない人間の居心地が悪いのは仕方ないことだと思うけど、一応教育機関なので、「駄目なやつは切り捨て」みたいなことが許されるのかどうかについては議論があっていいと思う。できないからこそできるようになりたくて院の門を叩くという場合もあるだろうし。最初からできる人間を欲しがるのは研究所とかの論理であって、できない人間をできるようにしてこそ院の存在意義もあるのではないかと考えていた。
そしたら、こないだある後輩(元社会人)から、「社会ってそんなもんじゃないですか?」と言われた。社会に出たらできない人間は叩かれて当たり前で、それに耐えられなければその場を去ったほうがその人間のためだと言う。自分自身もそういう環境で生き残ってきたし、下の人間に対してもそういう論理で接してきたそうだ。僕はその話を聞きながら、納得すべき点はあると思うと同時に、「ああ、またか」と感じていた。「『社会』を持ち込む人々」だと思った。
「社会では通用しないぞ」と息子を怒鳴りつける父親、「お前の考え方は社会に出たら否定されるから今のうちに何とかしたほうがいい」と就活中の友人にしたり顔で説教する内定者、そして教育の場に社会を持ち込む元社会人。僕はここ数年そういう人々と戦ってきた。彼らの言っていることはもっともだと思いつつも、何か釈然としない思いをずっと抱えてきて、彼らの言い方が僕の感覚では「さすがに失礼にあたる」と感じたときは反論もしてきた。というか、こういう話をする人々は例外なく「感じが悪かった」ので、基本的には衝突してきた。
また、この後輩とも衝突するのかと思うと気が重くなった。もう、彼らが「社会」とやらをよその場に持ち込みたいというのなら、そうさせてやってもいいかなという気がしてきた。そのぐらい、「社会では通用しない」という論理を大事にする人間は多い。
ふと、彼らはなぜ社会の論理を使いたがるのだろうと思った。高校を卒業して5年ぐらいしてから会った友人は、本来楽しいはずの飲み会の場でいかに自分が社会で苦労しているかを延々と語り、「みんな同じぐらい苦労している」と言った僕を怒鳴りつけた。「俺は社会で死ぬ思いをしている人間を多く見てきた。社会に出ていないお前に何が分かる。」目を見開いて怒る友人を前に、僕は閉口せざるをえなかった。惨めな思い、悲しい思い、そして少しの怒りが交錯していた。
社会の論理をよそに持ち込もうとする人々にとっての共通点は、言うまでもなく、彼らはその論理のほうが都合がいいということだ。「社会では通用しないぞ」と言う父親は、自分は社会で勝ち残ってきたという自負がある。リストラされたばかりの父親はあまり息子にそういうことは言わないかもしれない。「ああ、親父は通用しなかったんだね」と嘲笑されたら目も当てられない。「俺を見て学べ」と思う人間が、自分が勝ち残ってきた世界の論理を、他の世界にも持ち込もうとする。
「社会では通用しない」という考え方がそのまま問題あるとも言えない。そう考えてみることのメリットも存在するだろう。ただ、僕がこの考え方にどうも納得できないのは、主に2つぐらいの理由からではないかと思う。1つめ、その人の言う「社会」とやらが本当に我々の生きるこの社会の論理を反映しているのか?ということ。2つめ、彼らがこういうときに持ち出してくる「社会の論理」は、多くの場合「理不尽さ」を含んでいる。例えば、内定を2つもらって、片方に断りを入れたらお茶をかけられただとか、取引先と待ち合わせをしていたときに、先に部屋に入り座っていて、先方がついた際に立ち上がって挨拶をしようとしたら、「座って待つとは何事か」と殴られただとか。
彼ら自身もそういう経験を不愉快に思っているはずなのに、いつのまにか「社会とはそういうものだ」と感じるようになり、その世界を生き抜く自分を誇らしく思うようになり、他人にもそれを強制するようになる。僕は以前、そういう彼らの行動を、「自分が縛られていれば他人も縛られて欲しいと思うのが人情だ」と書いた。結局、そうやって一面理不尽な「社会の論理」は再生産されていく。
「虐待の連鎖」という概念がある。虐待を受けて育った母親が、自分の子どもにも虐待をしてしまうという現象だ。虐待が明るみに出たとき、なぜ自分が苦しんだ思いを子どもにもさせるのかと問われた母親は、「それ以外の子どもとの付き合い方を知らなかった」と答えたという。虐待を受けて育った母親は、自分の親を憎みつつも、逆境を乗り越えて生き抜いてきた自分を誇らしく思うようになる。下手をすると、「あれはあれで良かった」とすら思うようになる。そして、自分の子どもにどうしようもなく腹が立ったとき、期せずして自分の経験を子どもにもぶつけてしまう。
教育の場とは言え甘いだけでは成立しないので、時として「社会で通用するかどうか」ということを考えてみるのはいいことだと思う。ただ、できるならば、ここまで書いてきたようなことを自覚した上で「社会の論理」を使ってみて欲しいと思う。悪しき慣習の再生産は、当人たちの無自覚から起きてる場合があるということだ。
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