Hatena::ブログ(Diary)

ぱせりの本の森

2017-04-26

『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』 中原一歩


料理研究家、小林カツ代さんのレシピは、毎日の食卓やお弁当箱の中で、これが小林カツ代さんの、とはっきりと言えないくらいに、あたりまえに家庭料理の定番になっているのだ、と思う。

どんな料理と合わせても、違和感なくまざりあってくれる、ちっとも特別に見えないのに、ほんとうにおいしい料理ばかりだった。

カツ代さんのおかげで、わが家の食卓もどんなに豊かになっただろう。


カツ代さんはレシピも残してくれたけれど、名言ともいえるような言葉もたくさん残してくれた。

この本にはそうした言葉がたくさん出てくる。

たとえば、「家庭料理はレストランの料理に引けを取らない確立した分野である」など。


わたしには、「おいしい料理を作ることは大切だが、それよりも、おいしく食べることのほうが何倍も大切だ」という言葉がことさらに心に残った。

「おいしく食べる」ために料理をするのだ。

小林カツ代さんには、たくさんの時短料理のレシピがあるけれど、時短であっても「手抜きをしたことは一度もない」という。

それは、「おいしく食べる」ために料理を作るのだ、という前提があったからこその言葉だったのだ、と頷く。

おいしく食べよう。おいしいものを作ろう。おいしいものを作ることはこんなにも楽しいのだ。

たとえば、冷凍食品を利用しても、市販のソースを利用したとしても。


「カツ代は人一倍『いのち』を大切にする人だった」と著者は書く。

「だからこそ、カツ代は台所から社会問題を提起し、時には厳しい叱責もいとわなかったのだろう」と。

「いのち」は、この本のあちらからもこちらからも、いろいろな形で、いろいろなエピソードとともに浮かび上がってくる。

料理すること食べることは命に繋がる。

小林カツ代さんのレシピの根底に流れているのはきっとそういう思いなのだ。

2017-04-24

『ビリー・ザ・キッド全仕事』 マイケル・オンダーチェ

バラバラに書かれた詩と詩の間を散文で繋ぐようにして書かれた「小説」なのだ。

語り手は、「おれ」であったり、「わたし」であったり。各「おれ」が同一人物という保証はない。

舞台も時代も、前後ばらばら。さっき死んだ男が、次の章ではぴんぴんしていたりするのだ。

慣れるまで戸惑う。いやいや、最後まで戸惑っていたけれど、この惑いは楽しかった。

霧の中をさまよいながら、ビリー・ザ・キッドという伝説の男を伝説とはややずれた方向から、しかもぼんやりと眺めているような感じで、そのぼんやりさ加減が心地よい。


作者あとがきに、こんな風に書かれている。

>二年間にわたって詩、散文、架空インタビュー、歌、断片を書いた末に得たと分かったのは、コラージュのために集めた素材を入れたカバンとでもいうような原稿だった。
そう、コラージュ。ある人物を浮かび上がらせるためには(もちろんどのように浮かび上がらせたいかにもよるけれど)きっちり書かれた小説よりも、寄せ集め・切り張りのコラージュのほうが、ふさわしい場合もあるのだ、と思った。


ビリー・ザ・キッド。

殺すか殺されるかの開拓時代の無法者。

あるときはやんちゃないたずら坊主、憎めないトリックスターのよう。

彼の仲間たちには良き友で、周辺の人々にとってはガキ大将みたいな存在か。

女たちには、その笑顔は魅力的にうつったことだろう。つぶれた鼻や、反っ歯さえも魅力的に。


しかし、今、読み終えて、もっとも鮮やかによみがえってくるのは、友人ジョン・チザムの居間だ。チザム家のリビングに集った友人たちの群像。

後に保安官としてビリーにとどめを刺すことになるパットと、ビリー本人がそこにいる。ことさらに会話を楽しむそぶり無く、ことさらに気の合ったそぶりを見せるでも無く、ただ寛いでそこにともにいる。ほかの大勢とともに。その居間の光景が鮮やかな映像となり、心に残る。


ビリー・ザ・キッド。

最初から最後まで、私が見たビリーは遠景であった。後ろ姿であったかもしれない。

ビリー自身が、容易に捕まえさせてくれなかった。作中の(架空の)インタビューで、インタビュアーに「ミスター・ボニー」以上の呼び方を許さなかったビリーに相応しい。

それと、もう一つ。

うまく言えないのだけれど、生きている彼が、死の世界の住人(生きているけれど、すでに「死」に捕まっている、というか)として描かれているからではないか。

最初から最後まで、一刹那一刹那が、死につつある時間のきらめく欠片なのだ、と感じる。

21歳の短い生涯だった・・・ああ、そんなに若かったのか、ほとんど少年じゃないか、と驚いている。

2017-04-22

『ネザーランド』 ジョセフ・オニール

ネザーランド

ネザーランド


チャック・ラムキッスーンが殺害された。

チャックは、ハンスがニューヨークで暮らしていた頃に出会った友人だったのだ。


同時多発テロ後の二年間を過ごしたニューヨークを、ハンスは回想する。

妻レイチェルが幼い息子ジェイクを連れて出ていった。

物騒な町で、心許せる友もなく、明るい展望は何もなかった。

ハンスは、ニューヨークのホテルで一人暮らし続けるが、

仮暮らし故、そこに生活感はちっともなくて、足元が心もとない印象。不安をかきたてる。


妻がハンスに語る言葉は理路整然としていて、その一言一言だけを取り上げれば共感できることばかりなのだけれど、

これが、ハンスという夫に向けられたとき、彼女のほんとうの気持ちが急に霞んでしまう。

彼女の言葉は、それも本心であるにもかかわらず、今このとき、「言葉」は、夫に対する本心を隠す盾の役割をしている。

彼女の気持ちの中に夫を立ち入らせないための盾。そして、彼女の気持ちが夫と通い合うことを拒絶するための盾。


孤独なハンスは、胡散臭いチャックに惹かれていく。

チャックがハンスを利用しようとしているのを、ハンスは敏感に感じとっている。

それなのに、チャックの中には、不思議な誠実さのようなものがある。そこに惹かれずにいられないのだ。

それは、多弁に語られる言葉とはかけ離れた感覚。

妻の言葉と同様、チャックの言葉も意味がないのだ。


言葉をここまで無残に意味ないものにしてしまえることに、愕然とする。

そして、意味ない言葉たちの向こうにある「意味あるもの」が見えないことに(見せてもらえないことに)苛立つ。


ハンスのまわりには移民たちがいる。

これだから差別なのだ、偏見なのだ、と線引きが明瞭でないところに滞るもやもやが、空虚さ、諦めという言葉と結び結ばれ、音もなく降り、積もっていく様子を連想させる。

テロよりも、ずっとずっと前から少しずつ積もり、気が付いたときには、まちじゅうにあふれ始めていたのだ、という感じ。

そうした空気のなかで、人は多弁になり、ますます言葉は虚しくなる。

やがて、当たり前に物を考えることができなくなっていくような、

動作も緩慢になり、簡単な身の処し方さえも分からなくなっていくような…


そういうニューヨークの片隅で、ハンスがよりかかるもの。

ウェディングドレスを着た「天使」と野球帽をかぶった未亡人との夜ごとの語らいは、頭のイカレタ三姉妹のよう。

外国で一瞬、袖振り合った女との思いがけない再会。

雑多な民族の集まりであるクリケットのチームメイトの寡黙さ。

幻想的でけだるいような風景が、ものいわぬ画像が、言葉より確かなものに思えてくる。


「・・・それでおしまいだ。この話はな。あるいは始まりかな」

物語は常に終わる。そして、常に始まるのだ。

2017-04-17

『嵐電 RANDEN』 うらたじゅん

嵐電―うらたじゅん作品集

嵐電―うらたじゅん作品集


11作の短編漫画を収録した作品集です。


昭和三十年代、四十年代。

えんとつが林立する大阪の工業地帯の、ヘドロの川と噴煙の霧の町。

桜の花びら舞う京都太奏映画村。

東京神田の路地裏の四畳半。

与那国島、雨ふる冬のサトウキビ畑。

・・・・・・

あ、懐かしい、と感じる。

懐かしい、という気持ちは不思議だ。

どの景色も知らない、共感できるような体験もない、人もいないのに。

空気の匂いだろうか。時代の匂いだろうか。

登場人物たちの思いの断片が、ふと思い出の中の自分のどこかと掠ったように感じるからだろうか。

ふわーっととらえどころがないように見えるので、ふわーっと読んでいると、どきっとする描写や言葉に出会って、はっとする。


みんな遠くを見ている。遠いところにある何かを探しているような気がする。

四歳の女の子から若者たちまで、まだ見たことのない世界に、なにかを見つけようとしている。

老人たちは、自分の過去の記憶の中に、置き去りにしたものや見失ったものを、探している。

それから、亡くなった(戦争で不本意に命を奪われた)人のユウレイたちは、断ち切られた人生の続きを探している。

探し物がみつからない人々が、同じように探し物をする人びとに共鳴して、そこに小さな一期一会が生まれる。

その瞬間が、切なくて、愛おしいと感じます。


だけど、ほんとはそれ、そんなに甘ったるいものじゃない。ぞくっとするような凄みがある。

ここにいる人々は、地獄と現世の狭間みたいなところに探し物を求め、さまよっているのだから。

それなのに、それだから、かな、

人は染み入るようなやさしい表情をする。


高度成長期のまっただなか。上へ上へと駆け上がろうとする人びとも、そうはさせぬと竿さす人々も、みんなひたすら駆け足の時代だったのではないか、と思う。

駆け足の足音が入り乱れる町で、足音に呑まれることなく(吞まれようもなくて)佇んで留まる人たちがいる。

夜の運動場から「応答せよ、応答せよ」と、見えない信号を送る娘。

「親父の盃に毒を盛れ」とつぶやく青年。

戦争がまだまだリアルにのしかかっているのをどうしようもできないでいる人たちの思いや、言えなかった言葉、いつまでも待っている人のことなどが、ユウレイと溶け合って町を漂っているみたいだ。

リアルなのは生身の人間よりもユウレイのほうかも。


巻末の石津クミンさんの解説『深呼吸してじゅんは』もよかった。

この作品集が、作者の来歴と深く結びついているらしいことを知りました。

『深呼吸の必要』という映画の中から引かれた「(深呼吸しても)早くはならない。でも楽しくなるよ」を読みながら、

この本の登場人物たちも、深呼吸するためにこの本の中に現れたのかもしれないと、ふと思う。

大きく息を吸って吐いて、吐いた息がやさしいユウレイになって、空に舞い上がっていくような気がします。

2017-04-11

『もりのてがみ』 片山令子/片山健

もりのてがみ (こどものとも傑作集)

もりのてがみ (こどものとも傑作集)


寒い寒い冬、外で遊べない時、ひろこさんは、ストーブのそばで、夏のあいだ一緒に過ごしたともだちに手紙を書きます。

ともだちは、りす、とかげ、ことりたち、のうさぎ、もみの木。


ひろこさんが手紙を書くテーブルの上には、ノートの切れ端、はさみやのり、カラーペンなどなどが散らばります。

余白に、絵が描きこまれた手作りのびんせん。

形のさまざまな封筒にはカラーペンで描かれた宛名がわりの絵。

友だちとの夏の思い出にちなんだ絵柄の切手、消印のスタンプまで押してある。

眺めていると、笑みが浮かんできます。


それぞれに宛てた手紙は、一つ一つ物語があります。

ひろこさんと友だちと過ごした夏の思い出のエピソードなのです。

豊かな森の匂いがしてきそう。


見開きいっぱいに広がった制作途上の手紙や、おまけのこまごましたものたち。

それらを丁寧に仕上げていく製作過程もひとつの物語になっているのだと感じて、ひろこさんの凝った仕事にわくわくします。


各手紙の結びの言葉はきまっています。

「すみれがさいたら このもみのきのしたでまっています」

ちょこんと添えられた小さな紫色のすみれの花の絵が、友だちに差しのべられた指切りげんまんのマークみたい。


ひろこさんは、手紙が一通、仕上がるたびに、森のもみの木にさげに行くのです。

モミの木の豊かな大きな枝に守られて手紙がゆれる。

クリスマスツリーみたいに。

・・・森の友達は読んでくれるかな。返事をくれるかな。


片山令子さんと片山健さんのコンビが描く「子ども」が好きです。

そのページに描かれているのが、たとえほんのちょっとだけ覗く手の先だけだとしても、その向こうに、こどもの表情が見える気がするし、肌のぬくもり、匂い、息遣いまで感じる。

この子は、私のよく知っている子。そして、ここにあるのは、守られるべき「こどもがひとりでいるじかん」


我が家のまわりにも、スミレが咲き始めました。

スミレが咲き始めると、この絵本を読みたくなります。