Hatena::ブログ(Diary)

ぱせりの本の森

2018-05-23

『ソロ』 ラーナー・ダスグプタ


ブルガリアの首都ソフィアのアパートに暮らすウルリッヒは、もうすぐ百歳になる盲目の老人である。

貧しく、隣人の援助を受けてやっと暮らしている。

最近、記憶も曖昧になってきているが、彼は自分の人生を振り返る。

これが第一楽章「人生」。

戦争や、くるくると変わる政権に翻弄され、彼の人生は失うことの連続だった。

彼が愛したのは音楽、化学。どちらも、ひどい仕打ちで断ち切られ、あきらめなければならなかった。

引き裂かれて失った、かけがえのない人々。親友、恋人、妻と小さな息子、そして、母。

いつのときも、「なぜ?」と問いかけたいほどに、彼はさっさとあきらめているようにみえる。あっさりと。

「おまえには本当に執着しているものがないみたいだ」

けれども、彼が生きていくこと、暮らしていくことは、それだけで精一杯の大仕事だった。

不穏な影は、いつでも彼の周りに踊っていた。政権の交代は、喜劇のようだった。


第二楽章「白昼夢」

第二楽章はブルガリアの過疎の村に一人暮らす青年と、グルジアのトリビシに生まれ育った姉弟と、二つの物語だ。

二つの物語はやがて一つに合わさる。

実は、これは、ウルリッヒが紡いでいる夢なのだ。

夢、といっても、そのリアルさは、第一楽章の現実を凌ぐほどだ。

三人の若者も、彼らを囲む人びとも、誰かの夢の中にしか存在しないなんて、どうして思うことができるだろうか。


第一楽章に出てきたこまごまとしたものが、別の形になって、別の意味をもって、第二楽章にもあらわれる。

例えば、人の名前。プラスティック。ビー玉。たくさんの薬瓶。音楽。ヴァイオリン!

まだまだ、たくさん。きっと見落としているものもたくさんあるけれど、こういう言葉を見つけ出すことも第二楽章を読む楽しみになっていた。

そうした言葉は、それだけ取り出したら、何の意味もないガラクタだ。でも、それらが一楽章と二楽章とを結び付けている、と思うと、途端に輝きを帯びてくる。

第一楽章であきらめたものたちが、これらの言葉とともに蘇る。

現実の世界であきらめてきたものを夢で補完する、夢で折り合いをつける・・・だけではない。

だって、夢の中の人々は生きている。夢を紡ぐウルリッヒ本人さえも思いもよらない方向に、奔放に駆けていき、思いがけないことが起こり続ける。

そう、彼らは生きている・・・

彼らは若い。彼らは、ウルリッヒの子どもたちだ。

同時に、どの子も、ウルリッヒ本人だ。(タイトルは『ソロ』。二つの楽章を合わせてウルリッヒひとりのソロ演奏なのだ)

自由に走り出した第二楽章の彼らがもっとも悲痛な思いに沈むときでも、暗く感じない。むしろおおらかな明るさに支えられているように感じる。


色とりどりのガラクタ言葉を中心に、二つの物語がぐるぐる回り始める。

しまいに、不思議な気持ちになる。どちらの物語が現実で、どちらの物語が夢なのか。

(いいや、どちらか、なんてことはないのだ、きっと。)

「実際に生きるのは選択した人生だけど、そこからはみ出た部分にも意味がないわけじゃない」

2018-05-19

『失われた手稿譜(ヴィヴァルディをめぐる物語)』 フェデリーコ・マリア・サルデッリ


1740年、アントニオ・ヴィヴァルディが多額の借金を残して死んだ。

債権者は、彼の手稿譜を差し押さえようとするが、彼の邸宅のどこにもみつけることはできなかった。

(持ちだした者と、読者だけが、それらがどうなったか知っている)

消えた手稿譜が世に現れたのは1922年。ファシスト運動たけなわのイタリア。ムッソリーニが頭をもたげてきたころである。

手稿譜をめぐる物語は、二つの年代(1740年と1922年)を起点にして、それぞれ流れ始め、やがて合わさって大きな流れとなる。

(それにしても、この目眩く物語がほとんど史実であり、主な登場人物もまた実在していたというのだから、驚いてしまう)


手稿譜は、人の手から手へと渡っていく。

とても覚えきれない大勢の人名は、巻頭の「主な登場人物」の一覧で確認しながら読んだ。

手稿譜は、その値打ちにより、長い時を生き続け、人の欲に翻弄され、数奇な運命を旅した。

手稿譜は語らない。

いいや、聞く力ある者なら、その身内に収められた音色を聞くことができる。


手稿譜を手にした多くの人間のなかには、そんな美声などどうでもよいと思う者、ただその値打ちを金に換算することしか考えない者も…多くいる。

その声を聞けないまま、その姿の美しさに畏れ入る者もいる。

美しい音声を聞いたつもりでいるのに、その声を聞こえるままに聞くことのできない者もいる。

関わった人びとは、それぞれの立ち場に立ち、愚劣な者は愚劣なりに、聡明な者は聡明なりに、純粋な者は純粋なりに、横柄な者は横柄なりに、力を尽くして関わってきた。


読みながら感じていたのは、手稿譜にもし心があったなら、もし口がきけたなら、自分の運命をなんと語るだろう、ということだった。

このような旅をし続けなければならない彼(彼女)が哀れだった。

そして、ただその声を聞きたい、と思った。ページを開いたときに、目に入るものが、美しい音楽に変わる瞬間を味わってみたい。そういう博識と感性があったらなあ。


消えていった英雄(二人。さらに二人、いや、むしろ四人。〜「出典に関する注記」による)に思いを馳せる。

その価値も知らないまま眠らされていた宝物が、貪欲な者たちによって貪り食いつくされる前に救い上げようとした英雄たちのことだ。

熱意と苦心と、その喜びに満ちた日々の美しさよ。


ファシズムの時代に入っていくのだ。

ごく普通の人がごく普通に、何千年も前からあたりまえにこうやって讃えてきたのですよという顔をして、熱狂的にファシズムへの快哉を叫んでいる時代なのだ。

昨日まで隣人であり、敬愛する師であった人たちが、そういう普通の人たちによって、日常を追われていく。


けれども、この時代のいわれなき迫害は、思いもかけないところにも及んでいることを物語は描きだしてもいるのだ。

やっとみいだされた宝物は、(丁重にもてなされながら)目に見えないところで(迫害者自身も気がついていないというのに)酷い仕打ちを受けているかもしれなかった。

(私たちはそのようににして、何をうしないつづけているのだろう。)

手稿譜、(心あるならば)いま安息しているのだろうか。

2018-05-16

『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』 内田洋子

モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語

モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語


「何世紀にも亘り、その村は本の行商で生計を立ててきたのです。今でも毎夏、村では本祭りが開かれていますよ」

というその村は、イタリア北部の山岳地帯にある過疎の村なのだ。

モンテレッジォ村。

本の行商人たちは、この村から、籠いっぱいの本を担いでイタリアじゅうを旅した。そのおかげで各地に書店が生まれ、〈読むということ〉が広まったのだという。

この話を著者内田洋子さんにしてくれたのは、ヴェネツィアの古書店の主人であり、彼もまた本の行商人の末裔だった。

この古書店がどんな店であったかといえば、

「本の山の裾から一歩ずつ登っていき、ときどきトンネルをくぐり抜けたり獣道に迷い込んだりする。本の尾根からのヴェネツィアの眺めは、店へ行くたびに変わった」(1章)

「照明で煌々と照らされ過ぎることなくまた暗過ぎず、広くもなく狭くもない店内に、二、三人ほどの客。そして店主。あとは本。しかも扱うのは古書だけだ。ときおり聞こえるのは、ページを捲る音くらい。」(2章)

ああ・・・。なんて居心地のいい本なんだろう!

美しい本だ。ほとんど1ページ置きくらいに挟まるカラー図版は、本と本売りの魅力を文章とともに語っている。


ところが、話はいきなり、地理と歴史になる。

本も本屋もどこいった?

でも、

この山間の過疎の村が、なぜ村をあげて本を売ることになったのか、なぜこの村にイタリアの書店のルーツがあるのか、

それらは、当然湧いてくる疑問であり、その疑問の答えは、はるか遠くのほうまで探しにいかなければならなかった。

本売りの村の根は遠く深かったから。

しかし、中世にまでさかのぼるとは。

村は険しい山のなかにあるが、嘗ては交通の要であったそうだ。領主一族のファミリーヒストリーが紐解かれていく。この山の中にダンテも登場し、村が本を見出すまでの過程が丁寧に明かされていく。

なんてミステリアス。


そして、やっと本。本と本屋の話になる。

まるで冒険物語を読んでいるときのようなわくわくが胸に湧きあがってくる。

本の行商人たちは逞しかった。

イタリア中、ヨーロッパ各地に、ときにはアメリカまでも本を運んだ人びとの足取りに胸が熱くなる。

彼らは時には危険を冒して、文化の密売人にもなった。

独裁政権下に各地の革命分子たちへ禁書を運んだのも行商人たちだったそうだ。


モンテレッジォの行商人は本を(ほとんど)読まない。けれども、彼らが「これは売れる」と言った本は間違いなく売れたそうだ。

「本が好き」というけれど、売るのが好きなのと、読むのが好きなのは別ものだ。

「本」への愛の多様さに、世界が広がる心地がする。

「モンテレッジォ人たちがしないで、誰がする。文化は重たいものなのです」

彼らが運んだのは、本でありながらそれ以上のもの「文化」そのもの。

本を待つ人びとにとっての一冊の本の重さは、重量以上のものだったに違いない。


現在、村の行商人たちは、イタリアのあちこちに散っている。「書店」を営んでいる末裔たちは多い。

内田洋子さんを村に案内したのは、すでに村を離れてしまった(離れざるを得なかった)人びとだ。村を離れてもなおの、彼らの村への愛情の深さに驚くのだけれど、それは、やはりこの村が行商の村であり、彼らが行商人たちの子孫だからだろうかと思う。

行商人たちにとって、村はいつでも旅だつ場所、そして、いつかは帰るはずの愛しい場所なのだろう。

2018-05-11

『おらおらでひとりいぐも』 若竹千佐子


「何もかもが古びてあめ色に染まった部屋」だ。張られた一本のロープには、夏服冬服がごっちゃにぶら下がっている。干し柿までぶらさがっている。

そこかしこでネズミが徘徊する音か聞こえる。

そこで、七十四歳の桃子さんがひとり、お茶を飲みながら、「あいやあ、おらの頭このごろ、なんぼかおかしくなってきたんでねべか」なんて考えている。

桃子さんのなかにはたくさんの桃子さんがいて、それぞれ人格(?)をもっていて、東北弁でやたらしゃべりかけてくる。それぞれの桃子さん同士が、討論みたいなことを始めたりもする。

桃子さんは、大勢の桃子さんたちを「小腸の柔毛突起のよでねべか」という。柔毛突起みたいな衣装をつけた大勢の桃子さんが、本体の桃子さんの後ろでわさわさしている姿が目に見えてくる。舞台劇を見ているようだ、と思う。


桃子さんは、まだ若い時分に夫を病気で亡くしている。二人の子はとっくに家を出て、少し疎遠になっている。

気楽に訪問し合えるような知己もなく、一人でいる桃子さんの独り語りだ。

寂しい・・・

と簡単に言っちゃいけない。

寂しくなければ、開かない扉もある。

どこかの暗い奥のほうから、沸き上がってくる笑いが、何かに(何に?)自分を綱ぐ細い綱を、ぶちぶち切っていくようだ。

夫の死、子と自分が疎遠でいる事、遠い日の親と桃子さんの関係、故郷の山のこと、来た道行く道。

大勢の柔毛突起桃子さんたちは様々な方向から様々なことを言う。勝手なことを言う。それ全部桃子さんだ。

なんとなくしみじみとして手を打って終わりにしたいような会話(桃子さん同士の)の間から、ぎょっとするようなことをポロリというやつが飛び出す。

それを言ったら・・・と思わず引きそうになるその突起桃子の言葉を本体桃子は聞き逃がさない。

生活の忙しさや華々しさに流されて、蓋をして見ないふりをしてきたものがなかったか。蓋したものはなんだろう。なぜ蓋しなければならなかったのだろう。

大勢の桃子さんの声は、わたしのなかからも聞こえている?


柔毛突起をぞろぞろ引き連れた桃子さんの言葉を読んでいるうちに、なんだか見えるものの色が変わってきたような・・・

そもそも東北弁。

土のなかから湧き出でるみずみずしい力に満ちた言葉、

あっけらかんとした明るさを湛えた言葉、

桃子さんの東北弁にはそんなイメージがある。


いきなり「マンモスの肉はくらったが」という言葉が出てきて面食らう。

それは、はるか昔(なにしろマンモス!)の桃子さんのご先祖のことだ。

ぞろぞろ、ぞろぞろ、とそのあとの時代に続く先祖たちの連なり。

なんて賑かなんだろう。賑かなのになんて静かなんだろう。なんて明るいのだろう。

もう幸せとか寂しいとか、そういうことはどうでもよくなる。ただ生きて生きて、あとのものにバトンを渡して行った先達たちの姿が輝かしく見える。

その尻尾のほうに桃子さんがいる。最後尾にいるのは、孫のさやちゃんか。

「春の匂いだよ。早くってば」さやちゃんの声で終わるのがしみじみうれしい。

2018-05-09

『ケイゾウさんは四月がきらいです。』 市川宣子(作)/さとうあや(絵)


ケイゾウさんってだれ?

ケイゾウさんは幼稚園の庭の鳥小屋に住むにわとり。

ケイゾウさんが、四月はきらいだというわけは、小さい組「ほしぐみ」に入ったばかりの子があちこちで泣いていたり、

大きい組「つきぐみ」になったばかりの子たちがしょっちゅうケイゾウさんの世話を忘れるからなのだ。

でも、今年の四月は特にきらい。

なぜなら、ケイゾウさんの家に、うさぎのみみこが一緒に住むことになり、きゅうくつになったから。

白くてふかふかのみみこは、こどもたちの人気者。ときどき子どもたちがくれるエサは全部みみこにいってしまう。


かわいい見た目にも関わらず、マイペースでなんだか要領がよい(というか肝が据わっているというか)みみこに、不器用な頑固者のケイゾウさんはふりまわされてばかりいる。

ケイゾウさんは、みみこなんかいなくなっちゃえばいい、と思っている。

やることなすこと、かちんとくるし、いちいち気になっていらいらする。

でも。このふたりの関係、緩急というか、なんだかいいのだ。

ほんとはどっちもどっち、かわいくないふたりなのだけれど、いっしょにいると、ふたりそろって憎めない。

なにしろ、ともにしょっちゅうエサを忘れられるし、子どもたちの善意(?)でえらい目にあわされたりするし・・・

苦労しているふたりなんだよねえ。


読んでいると、ふわふわと笑顔になってくる。

ようちえんの子どもたちにとって、ケイゾウさんやみみこは、園のごきげんな遊び仲間なのだ。

遠足や運動会もいっしょだし、お泊り会も節分の豆まきもそれとなくいっしょだし、

姿がみえなくなれば、みんなそろって、隣の林までもさがしにいくし、ね。

つきぐみの担任ももこ先生は大変そうだけれど。読み終えてふりかえれば、ももこ先生、いつも急ぎ足。「ケイゾウさんちょっと待っててね」「あんたたちっ、なにやってんの!!」

先生の怒鳴り声は馬耳東風、聞こえないとかえって淋しくなっちゃうくらい、のびやかに過ごす子どもたちはきっと幸せ。いいなあ、なんだか温かいなあと思う。


幼稚園の一年が、この本一冊でぐるり巡る。

ケイゾウさん、四月がきらいだけれど、三月もきらいだって。それから、みみこが・・・。だって。

そしてわたしは、ももこ先生とケイゾウさんとみみこのいる、この幼稚園がすっかり好きになっちゃった。