Hatena::ブログ(Diary)

ぱせりの本の森

2018-02-16

『がんぎの町から』 杉みき子

がんぎの町から―随筆集

がんぎの町から―随筆集


「山なす雪の下にすっぽり埋もれているときは、さすが事に慣れた雪国の民でも、この雪の消えるときがはたしてほんとうに来るのだろうかと、半ば本気で疑ってしまうこともある」ほどの高田の冬を、そこに住まう人々の冬を、ほとんど雪を見ないで過ごしてきたわたしなどが想像しきれるものではないと思う。

きっと事実や実感とは果てしない隔たりがあるのだと思いつつ、杉みき子さんの見せてくれる景色、人、思いを、懐かしいような気持ちで読んでいる。

懐かしい気持ちになるのは、自分の居場所とその居座り方・姿勢・好ましく思う方向に対する、共感や憧れのようなものだ。

遠いところに出ていくよりも、一つ所、高田という町に深く根を下ろし、日々移り変わっていく風景や人の景色を大切に胸に納め、思いをめぐらす言葉にほっとする。


著者が国立民族学博物館を訪れた際は、地球上の様々な民族の多種多様な文化を示す生活用具の展示を見ながら、雪深いところに暮らす民族はどんな雪道具を使っているのか、気になったそうだ。

防寒具としての衣類、はきもの、犬ぞり・・・「私などの持っている雪の生活の概念と、どこか微妙にちがう」と思っていたところ、東アジア館で、わらぐつやかんじきを見つけた時には「やっと自分の居場所を見つけたような、ほっとした気持ちになった」という。

それは、読書にも通じることだ。

教科書に載っていた中野重治『梨の花』に描かれたおだやかな正月は、著者にとっては「そんなばかなことがどこにあるかいや」の正月の描写であった。

逆に、見知った風景や地名に本の中で出会うこともある。たとえば、小川未明の小説や童話は、まざまざとその場所が、身近な場所として心に浮かぶのだという。

「物語の世界がまっすぐに心に流れ込んでくるよろこびが、ほとんど戦慄のように身に染みた」という言葉で表される格別の読書の喜びに、どきどきした。

自分の居場所を知る人は、そうではない場所や空気に対する「どこか微妙にちがう」ことに敏感であるし、そこに「なぜ」をみつけることができるのだろう。「微妙にちがう」ものに対する敬いもまた、知っているのだなあ、と思う。


重たい雪を雁木が支える町の舗道。通りのあちらの舗道とこちらの舗道を結ぶ雪のトンネル。トンネルを行き来する子どもたちの声は、雪の多さ(心配や見舞い)を挨拶にする大人たちを置き去りにして、弾む。

トンネルの向こうに見える店のぼんやりとうら悲しいようなあかりが、初夏には別の店かと思うほどに明るく広々と見えると言う話は、季節と光の魔法のようだ。


春には、妙高山に残雪が様々な姿を描きだす。

なかでも「はね馬」

時にひづめの音を聞くという。雪の白い馬が、山の中腹で楽しげに跳ねて踊る様が思い浮かび、読んでいる私も嬉しくなってしまう。(ああ、ひづめの音!)

「山は、何もしてくれなくてもいい。ただ、そこにいてくれるだけでいい。それだけで、人間にとってどんなに大きな力になっていることか」

山に囲まれた町を故郷にもつ私はひたすら、うんうんと頷く。


子どものころには、不思議なことも起こった。とりわけ一人でいるときには。

いるはずなのに、いない子。どこに続いているのかわからない竹やぶの中の線路(夜中に聞こえる汽車の響き)。バックミラーにかかった魔法。

ふと巡り合ったアジサイの小道には、その後、いくら探しても行きつけない。

雪ん子(座敷童子)については、彼らがいつまでも蓑帽子と藁沓でいるはずがない、と著者はいう。「私の子どものころ、雪ん子はマントを着ていた」・・・え? ほーら、お話が始まる。


自分の居場所にしっかりと根を張り、どっしりと立つ人の文章は、凛と美しい。その根元に読者をいつでも憩わせてくれる大きな木のようだ。

2018-02-12

『ちいさないきものと日々のこと』 もりのこと+渡辺尚子

ちいさないきものと日々のこと もりのこと文庫1

編集:もりのこと+渡辺尚子 / 挿画:片桐水面 / 装丁:丹治文彦

発行所:もりのこと / 発行日:2018年2月1日


犬、猫、亀……

この小さな本のなかには、一緒に暮らした(家族として、あるいは、家の外で出会った)小さないきものたちへの15人の思いがつまっている。

もう会うこともできない、いきものの思い出や、今いっしょにいるいきもののことなど。


「うしなう」ということを、この本の全体から、感じた。

今現在、元気で自分によりそっていてくれるいきものたちは、いつまでもずっと一緒にいられないのだということを、人たちは日々のくらしのなかで意識している。

それだから生まれる慈しみ。

いきものに対してだけではなく、いっしょにいる時間に対する慈しみ。


私は、ずっと昔に死んだ犬のことを思い出した。

いつになっても、不意に思いだして、胸のあたりがぎゅうっとなる。

何年たっても、別の犬(この子も大事)とくらしていても……


この本のなかに、いなくなってしまったあの犬がいるわけではない。

でも、この本のなかに、その犬のことを思い出す私の気持ちの居場所があるように感じた。

15人の綴る言葉のどこに、どうして、そういう場所ができるのだろう。


「生きものとの暮らしは、さもない毎日が楽しいし、いなくなってからもまた、思い出すことがたくさんあって、良いものだと思う。」

あとがきの中にある編者の言葉。


日々の愛おしさを人一倍感じさせてくれるのは、ちいさないきものたちだ。

ちいさないきものといっしょに暮らすことを決めたとき、ひとは、その別れとも一緒に暮らすことを決めたのだ、と思う。

そういう思いが集まって、本のなかに柔らかい隙間をつくっているのかもしれない。

2018-02-08

『ダッハウの仕立て師』 メアリー・チェンバレン


第二次世界大戦時、ナチスの捕虜となり、ダッハウ収容所長の屋敷に監禁され、家事労働をさせられたイギリス人女性エイダ・ヴォーン。

もともと腕の良い仕立て師だった(そしていつかはシャネルのように自分の店を持ちたいと夢見ていた)彼女は次々にナチスの婦人たちの衣類の仕立てを命じられる。

彼女の仕立てる服は特権階級たちの評判を呼び、ダッハウの仕立て人と噂されるようになる。


エイダは洋裁師として、抜群に才能のある娘だった。確かな腕も、この上ないセンスももっていた。18歳のこれまで、ロンドンで着実に自分の足場を固めてきた。こつこつと…このまま歩いて行ったらよかったのに。

何が彼女の人生を狂わせたのだろう。

彼女は騙されてしまった。弱みに付け入られたのだ。

彼女の弱みは、野心。うぬぼれ、虚栄心? 18歳の少女は、才能はあったが、世情にも疎かった。


暗闇のアリジゴクのような場所の底に追い込まれて、囚われて、爪を立てても登れない砂の壁に囲まれて、じわじわと喰われていく様をイメージしている。

弱いものを食らうペテン師、戦争、にわかに権力を握った者たち、そして、公平とは言えない司法制度までが、彼女に食らいつく。

この若い女は、貪欲な者たちが欲しいままの(またはそれ以上の)モノを(まるで尽きることのない泉のように)提供することができる。できる、という理由で、彼らは、彼女を心から憎み、蔑んだのだ。


戦時に、敵の捕虜になる。敵の残酷さと、暗闇のなかの圧倒的な孤独が、肉体的にも精神的にも追い詰めていく。

エイダは後に語る。

「死はわたしのなかにありました。わたしは死を生き、死を吸い込んでいました…死は自分のなかにありました。自分のなかに」

死にとりつかれながら、なんとか生を作り出そうとすること、その生をなんとか守り抜こうとすることが、闇の中で彼女を支える、生かす。

生き抜け、生き抜け、とひたすら願う。丁寧に綴られる彼女の日々の恐怖は、芯に迫る。


戦争、捕虜として生き抜く過酷さ、ナチスの残虐さなども描かれるが、そういうことは背景に過ぎない。別の時代、別の場所にもエイダはいたはずだから。

ここにいるのは、ひとりの弱者。愚かだ、と思うけれど、責められるほどのものではないだろうに。愚かさは、少し形を変えたら、もしかしたら多くの人の身に覚えのあることでもあるだろうに。(・・・わたしはある。)

エイダはアリジゴクに落ちた。

そして例えようのない苦しみを味わった。

けれども、戦争が終わって解放されても、彼女はまだアリジゴクにいるしかなかった。

彼女が爪をたてても、たてても、サラサラとこぼれ去っていく砂は、人々の偏見、無関心、そして偏った法だ。

これは、小説だ。けれども、きっとたくさんのエイダが、本当にいた(いる)にちがいない。

2018-02-04

『椋鳥日記』 小沼丹

椋鳥日記 (講談社文芸文庫)

椋鳥日記 (講談社文芸文庫)


本の中を散歩するような読書だった。

あちらの町角、こちらの袋小路に迷い込み、あるいは森や水辺で佇む。お茶を飲みながら、景色や通り過ぎる人々をぼんやりと眺める。

そんな気持ちでいたら、いつのまにか、未読のページがなくなっていた。


小沼丹は五十三歳のとき、一九七二年四月より、早稲田大学の在外研究員として、半年間ロンドンに滞在した。(巻末解説:清水良典『「ロンドン」と「倫敦」』による。〜この解説が素晴らしい読み応えでした。)

そうか、一九七二年なのか。読んでいる間、この本の中の年代は、もっともっと昔のような気がした。あるいは、年代が曖昧な不思議な時間のように感じた。

それは、そこが「ロンドン」ではなくて、「倫敦」だからだ。

そして、今は文章の中であまり使われなくなった漢字たち(頗る、成程、此方、〜迄、心算、疎ら、覚束ない、随いて行く、這入る、草臥れる、点頭く、吃驚する、等々)が、頻々と現れるから。

わたしは、小沼丹というフィルターを通した、いつだかわからない時代のどこだかわからない遠いその町が、丸ごと好きになった。


下宿から見えるのは、荒れた感じのする庭だった。

その隅に、白い山査子(サンザシ)の花が咲き、淡紅色の石楠花の花が咲きかけていた頃、著者は、倫敦にやってきた。

すでに倫敦に暮らしていた次女と一緒に暮らす日常は、静かに流れていく。

親しく交わった人たちとの交流は、ほのぼのと和やかだが、食事に招待したりされたりは、ときに面倒くさくなってしまうらしい。

それより、ひいきにして過ごした酒屋や理髪店の店主たちとの語らいのさりげない様子、あっさりとした付き合いが心に残る。いい具合の間が感じられるから。

(別れ間近の日に、床屋の親父さんとその胸に抱かれた孫息子と一緒に撮った写真の話、もうちょっとでこの本を読み終える私にも、嬉しい贐になった。)


おもしろいのは、外国にいて、その土地なりの風物をみながら、日本のよく似た情景を連想するところ。

倫敦の月に阿倍仲麻呂を思い出したり。

電車を降りたプラットホームで「蕎麦を・・・」と思ったり。

倫敦の映画館で、吉祥寺の映画館で観た『アラビアのロレンス』を思い出したり。

巴里(パリじゃなくて巴里)への小旅行の折に、東京の赤羽についたようだ、と感じたり。


しみじみとうれしくなるのは、季節や時間によって移り変わる自然の姿をそのまま写しとったようなところ。

草花や木々のこと、鳥たちのこと。

パン屑で窓辺に呼んだスズメたちの様子。

侘しい庭の花盛りの木のこと。

雨あがりの倫敦の美しい街並みを電車の車窓から見ること。そうだ、雨の情景を読んでいると、ことにくつろげる。音もなく降りだす倫敦の雨。いつのまにか舗道が濡れている。


八つの章に分かれて語られるなかでも、心に残るのは、「老人の家」。

住宅街にあるかわいらしい外観の「老人の家」の佇まいを中心に、倫敦で出会ったり、見かけたりした老人たちの姿を描写する。

まだ認知症という言葉などない時代だった。

ちょっと謎めいた行動をする老人たちは、なんだか力強い。

気の毒とか、困ったとかいうより、周囲の人々は飄々と受け留めているような印象だし、当の老人はただ逞しくわが命を生きているように、わたしには感じられた。


才気と気品を感じる文章なのに、子どものような素直さや茶目っ気が混ざっているようで、思わず微笑んでしまう。

のんびりとした可笑しみを楽しませてもらった。


「倫敦では九月になると木の葉が散り始めるらしい」

山査子の花の季節から半年が過ぎて、「そろそろ引き揚げる潮時」を迎えたのだ。

潮時、という言葉もよい。

倫敦の空間から、今居る場所に、わたしも戻ろう。

2018-02-01

『ワニの町へ来たスパイ』 ジャナ・デリオン


CIAの工作員レディング(愛称フォーチュン)が、つい(!)殺してしまったその男は、武器商人の元締めの弟だった。

そのために、CIA二年分の工作が一分でぶち壊しになる、という新記録を樹立し、彼女自身は懸賞金付きで追われる身となった。

ちょうど良い塩梅に、彼女の上官の姪サンディ・スーは、大叔母の遺産を受け継いだばかり。フォーチュンは、サンディ・スーになりすまして、ルイジアナの(さも退屈そうな)田舎町シンフルで、ほとぼりがさめるまで静かに暮らすことを命じられる。それが、与えられた新しいミッションであった。


さぞや退屈な日々が待っているであろう、と覚悟して、フォーチュンは、シンフルにやってくる。

出会ったのは、馬に乗った化石のような保安官と、やたら反則切符を切りたがる保安官助手。

そして、キリストより年上であることは間違いない、おばあちゃんたち。

ほらほら、やっぱり、と思ったら大間違い。このおばあちゃんたちが・・・ただものではないのだ。

この町を牛耳るのは、町の婦人会シンフル・レディース・ソサエティ。その創設メンバーの生き残り(?)アイダ・ベルとガーティのコンビときたら・・・彼女達の会話・行状に、何度ふきだしたことか。吹き出すごとにどんどん彼女達が好きになり、あっという間に大ファンになってしまう。

そして、なんて爽快な気分にしてくれるのだろう。


目立たないように、おとなしく暮らさなければならないフォーチュンなど、あっというまに、彼女たちのペースに巻き込まれ(たぶん、喜んで巻き込まれたんだと思う)なんなの、いつのまにか良いチームじゃないの。


フォーチュンが、ここで目だないように暮らすことが難しくなったのは、家の庭で、愛犬(?)が人骨を咥えているのを彼女がみつけたせいだ。

それは、五年前に失踪した町の嫌われ者ハーヴィの骨であった。

では、その犯人は? どうやら、問題は犯人さがしではないらしい。

元気な老婦人たちは、なにか隠している様子・・・


小さな町である。

いろいろ胡散臭いこともあるけれど、決して憎めない、と思うのは、登場人物たちそれぞれが、それぞれのやり方で全力で何かを守ろうとしているから。

そのせいでことが複雑になっちゃうことがもしもあったとしても、それがなんだというのだろう。

「こんな友達がいたら、小国だって制圧できる」とフォーチュンは言う。納得である。


この物語、シリーズの第一作だそうだ。

ということは、この先、また、素敵なレディたちに会える、ということなのだ。

楽しみなシリーズの幕開けが嬉しくて仕方ない。