Hatena::ブログ(Diary)

ぱせりの本の森

2017-07-22

『容疑者』 ロバート・クレイス


ロス市警の警察犬隊に配属になったばかりのスコット・ジェイムズ巡査と、元・軍用犬、ジャーマンシェパードのマギーは、ともに、数か月前に、(一方は街路、一方はアフガニスタンで)銃撃戦に巻き込まれて相棒を失い、自身も死にかけた。心にも体にも大きな傷を負って出会った。

スコットとマギーがコンビを組み、徐々にかけがえのないパートナーになっていく様と、スコットの元相棒が亡くなった事件解決の過程とが、絡まりながら、物語は進む。


犬が出てこなくても、ミステリとして充分おもしろい、と思う。段々と真相にせまっていけばいくほど、幾つもの罠が周到に用意されていることに気がつき、この袋小路から出られるか?とどきどきする。

けれども、犬、いいえ、マギーとスコットのコンビのおかげで、この物語は、「おもしろいミステリ」以上(以上の以上の以上の…)物語になった。

犬と人とが、単体の犬・人、ではなく、二人になったとき、何かが生まれる、何かが始まる。その何かが、読んでいるこちらの心を高揚させる。

マギーとスコット二人のパートナーシップが、多くの素敵な見せ場をつくり、読み終えるまでには二人のことが名残惜しくてたまらなくなる。


プロローグは、マギーの元の相棒の死の場面だった。撃たれて死ぬ相棒のもとを、マギーは砲弾を浴びながら離れなかった。相棒には絶対服従の彼女が、最後の「逃げろ」「行け」というコマンドには従わなかった。

だから、マギーが、新しいハンドラー(というらしい。警察犬隊の相棒)のスコットから離れずに済みますように。二度と相棒と残酷な別れ方をしないですみますように。そればかりを気にかけながら読んでいた。

スコットに従い、その命令を忠実に聞き分け、危険な場面に出くわしても「あそび」「狩り」「仲間」という言葉が躍るのを、泣きたいような思いで読んでいた。


>甲高い声で鳴くクマネズミやフリーウェイを走る車の音、そんな耳になじんだ活気のある夜の音を聞き、ハツカネズミやオレンジや土や甲虫などのおなじみのにおいに満ちた大気を味わい、こうして床に意ながら、魔法の目を持つ体重四十キロの霊魂になったように、マギーは周囲の世界をパトロールした。

好きな描写である。

読みながら、静かな夜に目をさましている犬のなかに、わたしは滑りこんでいく、そして、目に見えないマギーの「霊魂」と一緒になって出ていく。普段なら絶対聞こえない音や、匂いの世界に分け入っていくような気持ちになる。

2017-07-19

『プラテーロとわたし』 J.R.ヒメネス

プラテーロとわたし

プラテーロとわたし


『プラテーロとわたし』は、小学生のころ、お世話になった先生にいただいた本でした。(岩波文庫版『プラテーロとわたし』(長南実訳)の感想にも、以前書きました)

でも、小学生だった頃には、この本の良さがちっともわからなくて、本箱に置いて、そのまま忘れてしまいました。何年もたってからふと手にしたのがきっかけで、その後、繰り返し読む、大切な宝ものになったのでした。

(長く品切れだったこの本が、2011年の夏、復刊されました。この本が再び書店の棚に並ぶようになったのはとてもうれしいことです。)


プラテーロは、ふわふわの毛のロバ。お月さまの銀の色をしている。

村の人たちは「はがねのようだね・・・」という。


詩人は、「プラテーロ・・・」と語りかける。

呼べば、鈴の音にも似た足取りで、かけよってくる。

ときどきへそをまげる。ふてくされたようにのろのろ歩く。

プラテーロの存在のすべてが、どこかはるかなところからやってくる、詩人への(自分への)穏やかで明るい共感のようだ。


>それはありふれた風景である。しかし、そのひとときはその風景を、なんとも不思議な、いまにも崩れそうで、しかも永遠に忘れられないものに一変してしまう。そのひととき、私たちは、住む人のいない宮殿に、そっと踏み入って行くような思いがする……
夕景によせた言葉だけれど、この詩集そのものが、そういうものなのだ、と思う。

詩人が「プラテーロ」と呼びかけるとき、「ありふれた風景」は、確かに別のものに変わる。

詩人がプラテーロに語る「ありふれた風景」とは、こんなことだ。

春夏秋冬、一日のあらゆる時間、さまざまな天候のなかで、一刻一刻、田舎町の景色がうつり変わっていくさま。

この町に住む人々のこと。

季節ごとの祭りや行事のこと。普段と異なる一日に湧きたつ人々の印象は、まるで子どもの目で見ているかのように描きだされる。

詩人が子どもたちとたわむれる喜ばしい時間のこと。

とりわけ詩人と仲がよいのは、子どもたち、なのだ。それも、大人から半端なみそっかすのように扱われる子どもたち。

障がいや病気を持った子どもたち、貧しい人たち。だれからも顧みられないような人たちに心を寄せる。

小鳥や草花、動物たちのこと。あるときは剽軽に、あるときは、リアルな写実に徹して。

乱暴に扱われて壊れた道具のように死なされていく動物たちについての詩は、とりわけ印象に残る。


遠くから、夕方の鐘の音が聞こえる。

黒ずくめの服装で、ナザレ人のようなひげを生やした詩人が、灰色のロバに乗っていく。

その姿をはやし立てる、こどもたちの声「きちがーい。きちがーい」は、田舎道に響く心地よい音楽みたいだ。

2017-07-18

『レイミー・ナイチンゲール』 ケイト・ディカミロ

レイミー・ナイチンゲール

レイミー・ナイチンゲール


『明るく輝かしい道のり――フローレンス・ナイチンゲールの一生』という本は、図書館司書の先生が「夏休みに読んでごらん」とレイミーに勧めてくれたのだ。

この本が、三人の女の子の間を行き来するが、レイミーを始めとして、だれもこの本を読んでいない。フローレンス・ナイチンゲールがどういう人であるかも知らない。

この本から生まれるのは、でたらめなお話だったりする。

でも、この本は、なんだか頼りになるのだ。お守りみたいに。

そういう本の読まれ方(?)もあっていいのだと思った。


三人の女の子は、レイミー、ベバリー、ルイジアナ。

レイミーのお父さんは、ある日、女の人と駆け落ちしていなくなってしまい、レイミーは今、お母さんと二人で暮らしている。

べバリーの両親は離婚し、彼女も、お母さんと二人きりで暮らしている。

ルイジアナは両親を亡くし、盗みで生計を立てるおばあちゃんと暮らしている。

三人ともそれぞれ傷ついていて、現状を打破するために何かをしようとしている。

その何か、ときたら、突発的に見えるし、時々(いや、大抵)道義的にも、法的(?)にも、まずいことばかり。

でも、あえて、その言葉を呑み込む。彼らは、いつも大真面目。そして、とてもパワフルだ。

魔法は一つも起こらないけれど、彼女たちがここにいることに、何か魔力がはたらいているように思えてくる。

たとえば、猛烈なスピードで疾走するボロボロの(ドアさえ閉まらない)車の中でわらっていること。

たとえば、真夜中の坂道を三人でカートを押して進んでいくこと。

ルイジアナは、自分たちのことを「三勇士」と呼んだけれど、私は三人の若い魔女たちと呼びたい。


なんだか、大きな風船がふうううっと膨らんで(少し萎んでまた膨らんで)やがて、大空にそのまま飛び上がりそうな感じだ。

それは、なにがまちがっていたとしても、それを問題にするのは、とっても小さなことで、いっそ、うっちゃっちゃいなよ、と自分で自分に言ってやる。


少女たちは、ほんとうは「取り戻したい」と一途に思っていたのだ。

不覚にも失った大切なものは(それが大切であればあるほど)大抵取り戻せないものなのだ、と、大人ならわかる。

でも、わかってどうするのだろう。少女たちの周りの大人たちの萎れっぱなし具合を思うと、ため息がでる。

どんな形であれ、なんとかしようとじたばたする少女たちを応援したくなるのは、できるものなら、あのときにもこのときにも、そんなふうに行動したい、してみたかった、と思うからだ。


大人たちを飛び越えていく(であろう)娘たちを祝福したい。

遠く遠く飛んで行きなさいね。

2017-07-14

『子どもたちの階級闘争――ブロークン・ブリテンの無料託児所から』 ブレイディみかこ


正直に言えば最初、ガキ、ガキって、その言葉が不快だと思ったのだ。上を向いて、きれいなお空を見上げて、お気楽にそう思った。

「あんたたちは駄目なのよ。駄目なのよ。駄目なのよ。

 の、先にあるもの。

 そこで終わらない、そこで終わらせることができない何か」

と著者は書く。見上げてばかりいたら、決して見えないはるかな高みを、足元のもっと深いところに、見つけている。

「ふと見下ろせば、手足を思い切り伸ばして大の字になった子どもたちの姿は、地べたに落ちてきた星々のようだった。」


英国、ブライトンのアンダークラス(階級社会の末端にさえ組み込まれない最下層)や移住者の子どもを預かる無料の託児所で、著者は七年前にボランティアとして働き始める。

その後、ブランクを経て(ミドルクラスの保育園で保育士として働いたあと)再び、保育士としてこの底辺託児所に戻ってくる。

現政権の推し進める緊縮政策のあおりを受けて、今にも潰れそうなこの託児所を、著者は、皮肉をこめて緊縮託児所と呼ぶ。


「政治が変わると社会がどう変わるかは、最も低い場所を見るとよくわかる」と著者は言う。

「底辺託児所と緊縮託児所は地べたとポリティクスを繋ぐ場所である」と著者はいう。


「英国民がいかに底辺層を侮辱し、非人間的に扱っているか、そしてそれが許容されているか」

末端の底辺託児所においてさえ、アンダークラスの親たちは移民を差別するのだ。

年を経て、アンダークラスの子どもよりも、移民の子どもの方が多くなると、今度は移民の親たちが、英国人アンダークラスを差別するようになる。


国の政策・方針が変わる。左から右に揺れる大きな振り子みたい。

「(経済の転換により犠牲になる人々を)国畜として飼う」という言葉がでてくるけれど、振り子の先っぽ(下の階層)に行けば行くほど、人間は確かに家畜並みの扱いしかされていないのだな、と感じる。

人々は、有無を言う暇もなく、大きな振り幅に、滅茶苦茶に翻弄されているようだ。


「どんなプアでも、過去より未来の方がよくなるんだと信じられる人々の方が幸福度は高い。でも、それがこんな年齢層の子どもたちにまで当てはまるとは……」

「格差というのはあってしかるべきもの。金持ちと貧乏人はどの世界にもいる。間違っているのは、下層階級の人間がそこから飛び出す可能性を与えられていない社会だ」

著者の仲間たちの言葉を読みながら、息苦しくなってくる、閉塞感で。海を隔てた英国と、「地べた」がつながっているようで。

英国の地べたから、日本の地べたが眺められるような気がするのだ。

暗澹たる、なんて言葉さえも気楽な言葉に思える。


託児所の子どもを巡る状況は、悪くなっていく一方。

潰れかけた緊縮託児所はやがて、フードバンクにとって代わる。

地べたでは、いまや、託児よりも、今日・今を生き延びるための食べ物を確保することが先、ということか。

託児所がフードバンクになってしまったことは、保育士にとって「負け」なのか。


でも、こんな風にも思う。

どんどん悪い状況に落ち込んでいく、末端のさらに末端にいる子どもたちを、なんとか引き上げようとする人々がいる事はやはり救いではないだろうか。どんな形であれ。

綱引きの綱を持って踏ん張ろうとする人々がずるずると引き摺られていく様を思い浮かべるが、落ちてもなお、落ちきる前に支えようとする人々の踏ん張りも見える。

そのむこうに、「時代が変われば(託児所は)復活する」と笑う保育士たち――底辺の「凶暴なガキども」を支えてきた保育士たちがいることは。

2017-07-13

『ヒルベルという子がいた』 ペーター・ヘルトリング


町はずれにあるこのホームは、行き場のない子どもたちが、「つぎのゆくさきがきまるまで、とりあえず入れられている施設」だった。子どもたちが別の施設にひきとられるまでの一時的なこのホームに、ヒルベルはずっといる。

彼には引き取り手がいなかったし、そもそも彼に関わる大人たちは、彼の事をどうしたらいいかわからなかったのだ。


ヒルベルは病気だった。物心ついたときからずっと頭痛に悩まされていた。

頭が痛みだすと、むしょうにはらがたって、もうなにがなんだかわからなくなるのだった。

彼を診察した医師は、ヒルベルの病気はなおらない、といった。頭痛はどんどん進み、そのうちずっと病院で暮らさなければならなくなると。


ヒルベルは美しい声で歌をうたった。けれども、気が向かなければ絶対に歌わなかった。

ヒルベルは話すことが苦手だった。

ヒルベルは力が強かった。

ヒルベルは決して「ばか」ではなかった。


ヒルベルを嫌う人たちはたくさんいた。

ヒルベルを憎む施設の管理人ショッペンシュテッヒャーさんとの攻防を見れば、ヒルベルの賢さがわかる。

面白おかしく描かれていて、思わず微笑んでしまうけれど、どうして、子どもが、大人から理由のない憎しみを浴びせかけられ続けなければならないのだろう。


ヒルベルの突発的(にみえる)行動を、大人たちは「発作」と呼んだ。

でも、ヒルベル本人にしてみれば、彼なりの理由があったのだ。

「発作」という言葉ですべてを理解しようとする大人に感じるのは、この子どもに対する「無関心」だ。


河合隼雄さんは言う。

「何もかもわかり切っていて、常識通りに運んでいるように見えるこの世界に、ヒルベルの存在を許すやいなや、われわれはすべてのものが異なって見えてくることを感じるであろう。ヒルベルにいったい何ができるのか、などということをわれわれは思いなやむ必要などないのである。ヒルベルが、ただそこにいてくれるということ、そのことが計り知れない意味をわれわれにもたらすのである。」


ヒルベルがいた日々の、たくさんの思い出の中から、特に心に残る場面をひろってみる。

ヒルベルは、施設を抜け出して羊の群れの中にまじっていたことがあった。彼は、ヒツジを「ライオン」と呼び、話す。「…ライオンのいる、砂漠なんだ。そしたら、ライオンがやってきた。百万頭も。いっぱいかたまりになって。犬も。(中略)いいライオンばっかりだった。たのしかったなあ」

ヒルベルはカロルス医師に語る。「ぼく遠くへいきたい。遠くの遠くの、お日さまが作られる国へ行きたいんだ。そこで、お日さまを空に、はめこむから、明るくなるんだろ、ね。」

ヒルベルはほんものの家がほしかった。だから、洋服ダンスの中にいた。思うさま吠えて、美しい声で歌っていた。


(ペーター・ヘルトリングさんが亡くなったとのこと。懐かしい本を久しぶりに手にとりました。)