『シンデレラはどこへ行ったのか ~少女小説と『ジェイン・エア』~』 廣野由美子

 

現代も読みつがれる、いくつかの古典的少女小説は、若い読者の心に希望を吹き込み、その人生まで変えてしまう何かをもっている。こうした作品群がどのようにして誕生したのか遡っていくと、『ジェイン・エア』とのつながりが見えてくるという。


『シンデレラ』は、
「女性は美しく素直でさえあれば、じっと待っていても、白馬に乗った王子様が迎えに来て幸せにしてくれる」話であり、そこから「シンデレラ・コンプレックス」という言葉も生まれる。


対して、『ジェイン・エア』(シャーロット・ブロンテ)の主人公は、
「孤児、もしくは孤児同然の恵まれない境遇に生まれ、美人でなくとも、自分の能力や人格的な強みによって道を切り開き、とりわけ学力によって頭角を現し、自己実現し……」という、新しい女性象なのだ。
その後、アメリカで生まれた少女小説若草物語』『リンバロストの乙女』『赤毛のアン』の主人公たちが、まさにこのタイプであるという。そこで、彼女たちを「『ジェイン・エア』の娘たち」と名付け、一作一作を見ていく。
ジェイン・エアの娘たち」の生き方は痛快だ。物語は読者への輝かしい贈り物のようだ。
だけど、それを手放しで喜べない物語が現れる。


ルーマー・ゴッデンの『木曜日の子どもたち(バレエ・ダンサー)』を取り上げて、著者は「ジェイン・エア・シンドローム」という言葉を使う。
この物語は、バレエダンサーを目指す姉弟の物語だけど、主人公たち以上に、著者は、彼らの母親に目をとめる。
(「ジェイン・エアの娘」になれなかった苦い思い出を抱えた)母親は、自分が果たせなかった夢を溺愛する娘に託し、娘を通して自己実現しようとする。娘に依存している。
娘の夢は、娘の内から出たものではなく、母から移植されたものだった。
鬼気迫るものが……と感じたのは、『木曜日の子どもたち』の母親にだろうか。それとも、母親を論ずる著者の文章にだろうか。そして、私自身の子育ての頃を振り返ってしまうからだろうか。


輝かしい物語であっても、そこにコンプレックス、シンドロームという言葉がついたら、別物になってしまう。読み手としては、気付き、ぼんやりとでも考える縁にしたい。


ジェイン・エアの娘たちのあとに、その子ども(物語)たちが生まれているのだろうか。それとも、どこか遠くから、まったく新しい姿の子どもが生まれているのだろうか。これからどこへ行こうとしているのだろうか。
読書は面白い。