Hatena::ブログ(Diary)

ぱせりの本の森

2017-01-23

『古森の秘密』 ディーノ・プッツァーティ


森には、木の精霊、風の精霊、言葉を話す鳥たち・・・

森のものたちには、森のものたちの流儀があるのだろう。でも、それは人の世の必然や正義とずいぶん異なる。

物語は説明しない。そのため、この文章は、少し不安な気持ちにさせる。物語の不気味さを際立たせ、美しさをひきたたせる。

いつのまにか、なぜと尋ねたり解釈したり、を捨てて、その場面その場面をそのまま受け入れ、味わっている。

たぶん、この本の言葉にならない不思議が、そのまま森なのだ。私はこの本を読むことで、森に迎え入れられていたのだと思う。


真夜中の祭りで、豪快な風の精が人間の子ベンヴェヌートと声を合わせて歌う場面は、忘れがたい美しさだったが、

森で、精霊たちとともに過ごし、歌い、遊ぶことができる人間は、子どもだけなのだ。

大人になるとき、子どもは森で過ごしたことをすっかり忘れてしまうのだそうだ。


私には謎の人であったプローコロ大佐。

彼は大人(それも人生の折り返しを過ぎた)だけれど、森の精霊たちが見える、触れることもできるし、鳥や風と言葉を交わすこともできるのだ。

彼は、矛盾の多い人だ。彼自身が森そのものだったのかもしれない。

あるいは、彼は、頑なに子どものまま大人になってしまった人なのかもしれない。


子どものベンネヴェートは大人になる。プローコロ大佐は変わっていく。

人が人の流儀を身につけるにあたって、相容れない森の流儀は忘れなければならないのだろう。

でも、本当に忘れるのだろうか。

別のものに形を変えて、心の奥の深いところにあるような気がする。(そうだったらいいと思う)

森がときどき恋しいと思ったり、いつまでもそこにあってほしいと思ったりするとき、気がつかないまま、古い思い出に触っているのではないか。

そうして、気がつかないうちに森を豊にする手伝いをし、人もまた豊かさを重ねているのではないか。

去っていくことは、きっと悲しいことではないのだ、と思いたい。

2017-01-21

『緩慢の発見』 シュテン・ナドルニー

緩慢の発見 (EXLIBRIS)

緩慢の発見 (EXLIBRIS)


三度の北極圏探検に挑み、最後の旅の途上で亡くなった探検家サー・ジョン・フランクリン(1786−1847)には、この物語の著者シュテン・ナドルニーは特別の思い入れがあった。

ジョン・フランクリンの生涯を描いているが、評伝ではなく、これは物語である。

訳者あとがきには、「著者は、フランクリンという人物を描くために、いわば「緩慢」を「発見」したのだ」と書かれている。


ジョン・フランクリンは、緩慢な人間だった。

ごく普通に人々が暮らす時間の流れは、彼には早すぎてついていけないのだ。

そのために、子どもの頃は、「のろま」と馬鹿にされ、同年代の子どもたちには相手にされなかった。

しかし、ゆったりとした彼独特の時間の流れのなかで、深くじっくりとかんがえる人であった。

成長とともに、彼の個性を受け入れ、流儀として認める数少ない支援者の支えもあって、幼い頃からの憧れであった海に乗り出し、その個性を花開かせることになる。

ことに初めての北極圏探検で、バラバラに砕け散る直前の二隻の船に、危ういところで活路を開く件では、私は夢中になってページを繰っていた。

見せ場であるけれど、スピード感に惹きつけられたわけではない。この場面の空気は、とても静か。ジョン・フランクリンの「緩慢」という名の空気。

音も時間もとまったかのような静けさの中で、ジョンの思考がゆっくりと形を成し、しずしずと動きだしていく――


思い出すのは『ゾウの時間ネズミの時間』(本川達雄)で、

ゾウのような大きな動物とネズミのような小さな動物では、時間の流れ方が違うのだそうだ。

大きな動物の時間はゆっくり進む。小さな動物の時間は早く進む。

同じサイズの人間たちの中にでも、ゆっくりが得意な人も、早いことが得意なひともいるに違いない。

でも、同じ時計のもとに生活しなければならない社会では、それぞれの個性・流儀は考慮されることはない。

「・・・ロンドンでは、時間がどこか支配者めいていて、誰もが調子を合わせなければならない」

ジョン・フランクリンが海に居場所を見出すことができたのは、そして、自らの能力を思うさま発揮することができたのは、海には陸とは別の時間の流れがあるからだろう。

「どこか割れやすく、裂けやすいとはいえ、氷たちは沈着で、時間を超越しているように見えた。そういうものが醜いはずはない。ここではすべてが平和的だ」


しかし、成功した探検家として、名声と栄誉を得るのと引き換えに、彼の人生はどこか歪んできたのではないだろうか。

彼の妻ジェーンの言葉がひっかかる。

「・・・のろますぎるですって? いまはもう違うわ! 周りを見回してごらんなさい。あなたの速度は、まさに重要な人間が、あまり重要じゃない人間のあいだを動くときの速度じゃないの!・・・」

栄光と引き換えに、彼は持って生まれた緩慢を徐々に手放していたのかもしれない。

緩慢さゆえにたどり着いた場所だったのに、そこは、彼に、もはや緩慢でいることを許さなかった。

なんだか皮肉な気がして仕方がない。

2017-01-18

『ひみつの校庭』 吉野万理子

ひみつの校庭 (ティーンズ文学館)

ひみつの校庭 (ティーンズ文学館)


草太たちの小学校では、入学すると、それぞれが、校庭にある木をどれか一本じぶんの木と決めて、卒業まで観察ノートをつけることになっている。

この観察ノートが素敵だ。

どんなことを書いてもよいし、書かなくても良くて、投げ出しても咎められることはない。

提出の義務もないけれど、こつこつと続ければ、よいこともある。

小学生が、途中挫折しそうになったりもしながら、一冊のノートを、ひとつの植物の観察記録で埋める(強制されるわけでもなしに)ということは大変なことなんじゃないか、と思う。

ひとつの植物と、時間をかけて向かい合うことで、何か見えてくるもの、気がつくこともあるのではないか。

それは、子どもたちのその時のありようと結びついているはず、と思う。

それぞれのなかで、ノート一冊分の冒険をしている、とも思う。


とにもかくにも一冊書き終えて、ノートを校長先生に見せたら、続きを書くための新しいノートをもらえる。

それと、隣り合った秘密の庭に入る鍵も。

「鍵」というものには、深長な意味があるような気がして、ちょっとどきどきする。

主人公草太たちは小学五年生。子どもから大人へと体も心も大きく変わる時で、それぞれにとまどっている。

自分でも気がつかずに自分の中に埋もれさせていた痛みもある。

この鍵は、そうした彼らを次のステージへ向かわせる扉の鍵かもしれない。

そうして鍵をあけるところから、物語は動きだすのだ。


鍵をあけて入る秘密の庭では、たくさんの出会いが待っている。

不思議なことにも出会うけれど、それはほんとうに不思議なことだったのだろうか。

死んだように見えても次の季節には元気に息を吹き替えす植物、何千年何万年もの間生きながらえる植物などが次々に現れる物語を読んでいると、不思議なことが、当たり前のような気がしてくる。

人と植物の近しさに触れて驚く。

そして、やはり思う。成長すること、生きること、そして死んでいくことは、なんて当たり前で、なんて不思議なのだろう。


・・・ところで。

夏目漱石は、"I love you"を「月がきれいですね」と訳したとか訳さなかったとか(そんな話はでたらめ、とも聞く)

ではね、こんなのはどうだろう。

小学六年生。「枯れてしまったアオノリュウゼツランの横から、あたらしいアオノリュウゼツランが生えてきたよ!」

緑の風が渡っていく。気持ちがいいことだ。

2017-01-13

『たんたのたんてい』 中川李枝子/山脇百合子

たんたのたんてい (新しい日本の幼年童話 8)

たんたのたんてい (新しい日本の幼年童話 8)


くりの木まちのげんきなおとこのこ、たんのたんたは、郵便受けからしんぶんをおとうさんのところに配達するのがしごとでした。

ところが、ある朝、郵便受けには新聞が入っていませんでした。代わりに入っていたのは、にんじん色の、デコボコ使いかけのチューブだったのです。

さて、新聞はどこへ行ったかな。このチューブはなんなのだろう。

事件発生、のようです。

たんたは、おたんじょうびにもらったばかりの虫メガネをとりだして、たんていをはじめました。


姉妹編『たんたのたんけん』で、望遠鏡と宝の地図(あと、いつまでもなくならないイチゴの飴)をもって、たんたが探検に出発したように、

『たんたのたんてい』では、虫メガネをもって、探偵になる。

道具は、子どもが、何かをはじめるための(なりきるための)わくわくする必須アイテムなのだ。


夏のおわりの早朝。

のんびりとした空気が漂う町。

たくさんのきれいな使いかけチューブが出てくる。

使いかけチューブを手がかりに家から家を訪ね歩き、探偵仲間はどんどん増えていく。

町の中をあちこち駆け回るうちに、じけんはかいけつするし、最後には、くりの木まちのきれいな地図ができていくよう。


私の知っている探偵の中で、たんたは、いちばん若い名探偵です。(きっとこの本で初めてミステリに出会う子もたくさんいることだろう。)

事件が解決したら、名探偵は、新聞配達にもどるのです。新聞配達の必須アイテムは、もちろんしんぶん。

2017-01-11

『きびしい冬』 レーモン・クノー


第一次世界大戦のさなかのパリ。

ベルナール・ルアモーは、愛したものすべて失っている。前線の厳しさも知っている。

そして、時局について考えることはあるけれど、それは当時の社会ではほとんど異端に近く、簡単に口にすることもできない。

ルアモーは、孤独だ。


彼は、大尉であるけれど、今は足を負傷して戻ってきているのだ。やがて足は治る。それまでの間はいわば長い休暇といえるかもしれない。

毎日何をするでもなくて町をぶらついている。

本当はいろいろな事件が起こっている。思わず「え?」と問い返しそうになることもあり、動揺する。

でも、それらは、ルアモーを置きざりにしてぐんぐん遠ざかっていくように見える。ルアモーは静かだ。淀んで静か。

この時局の重たい空気のせいだろうか。出来事は緩慢に流れていくように思える。だるい。だるさの間から低く鈍痛のようなものが滲みでる。


彼は女性たちに出会い、心惹かれ、近づくことを望んでいるが、同時に離れることも望んでいるように感じた。

どの女性たちとの未来も、立ち塞がれている。

この閉塞感に竿さすのは、一人の少女の存在だろう。

恋愛未満の、まだ大人ともいえないような少女の姿が、鮮やかに心に焼き付く。

ゴミ溜めのような環境、下卑た言葉、汚れたものを纏い、なんということもなくいる少女。

でも、内側からちらちらと覗いて見えるものは、眩しく清らかな何者かなのだ。

籠った空気を洗い流すような、おおらかさを感じる。


だけど、これはやっぱり長い休暇の物語だ。苦い休暇の。

ルアモーはまた前線に戻るだろう。

美しいものをみつけたとしても、大切なものをみつけたとしても、それはどこにもつながってはいない。

抱きしめても抱きしめても、抱きれないのだということを強く意識させられる。

夢の物語なのかもしれない。目覚めたら酷い現実に向き合うしかないことを知りながら見ている夢のよう。