Hatena::ブログ(Diary)

ぱせりの本の森

2017-09-20

『座敷童子の代理人』 仁科裕貴


作家生命(?)崖っぷちの妖怪作家、緒方司貴は、原稿を書くため、遠野の旅館に逗留する。幼い頃に宿泊したことのある旅館である。

その旅館の名は迷家荘。座敷童子が現れることで有名な旅館であったが、数年前に火災にあい、その後、すっかりさびれてしまった。

司貴は、道に迷い、迷家荘の裏の童子神社で不思議な少年に出会う。

彼は、旅館がさびれたのは疫病神の仕業だといい、それを探すのを手伝って呉れないか、と司貴に頼むのだ。


迷家荘は、昔から、妖怪や神様たちが宿る旅館でもあった。

宿の人々は、実際に自分の目で見ることは出来なくても、見えないお客様を見えないまま、大切にもてなしてきたのであった。

司貴は・・・しかし、なぜか、ヒトの見えないものが見えてしまうのである。

童子、河童や二股しっぽの狐と、司貴とのやり取りが楽しい。

彼は、旅館の中居の和紗さんと妖怪たちの仲介役でもある。そうして、旅館で起こるちょっと困った事件を、妖怪たちの助けを借りながら(貸しながら)解決していく。

妖怪がらみではあるけれど、れっきとした日常のミステリだ(と思うよ、だいたい^^)

事件は解決する。なあんだ、そういうことだったのか、と思う。

いやいや、問題は「何が起こったか」「何がみつかったか」という、形あるものではないのだ、とすぐに気づかされる。

そこにからまって離れない、忘れられそうなもの、目に見えないものを掬い上げれば、おもいがけない景色が見えてくるのだ。


読むほどに、旅館の関係者たちが(人も妖怪・神様も)個性的で素敵なファミリーに思えてくる。

だけど、この平和なファミリーのどこに、疫病神はいるのだろう・・・

エピローグまで読んで、あっ、あっ、あっ、と声を出す。

そうなの、タイトルの『座敷童子の代理人』ってそういうことだったんだねって。

そして、別れがたくなります、迷家荘と。

2017-09-17

『帰還兵はなぜ自殺するのか』 デイヴィッド・フィンケル



イラク戦争に従軍した兵士たちに取材したノンフィクションである。

>彼らは爆弾の破裂による後遺症と、敵兵を殺したことによる精神的打撃によって自尊心を失い、悪夢を見、怒りを抑えきれず、眠れず、薬物やアルコールに依存し、鬱病を発症し、自傷行為に走り、ついには自殺を考えるようになる。そうなったのは自分のせいだ、と彼らは思っている。自分が弱くて脆いからだと思っている。まわりからいくら「あなたのせいじゃない、戦争のせいなのだ」と言われても、彼らの自責の念と戦争の記憶は薄れることはない。 (訳者あとがき」より)

名前入りで、あるいは名前なしで、一人一人の「今」を描写していく。そのあまりの息苦しさ、あまりの暗闇の深さに、言葉を失くす。

彼らは戦争から帰ってきた。生きて帰ってきたのに。

すっかり変わってしまった人を、家族は迎え、戸惑い、苦しみ・・・家庭は壊れていく。


元兵士たちは家族にさえ(家族だから?)話すことをためらうような戦争を経験してきた。

民家を襲撃し、老人や母親、子どもまでも殺し、そのあげく上からあっさり「ターゲットを間違えた」と言われた。

戦闘中の相手が抱えていたのは黒髪の女の子だった。相手もろとも、その子を撃ち殺した。

死にかけた戦友を抱えて歩くうち、自分の口の中は、流れ込んでくる友の血でいっぱいになっていた。

殺すことを怖れ、そのうち殺すことが得意になり、殺すことに何も感じなくなり、感じなくなった自分を嫌悪した。

・・・きっと本当の戦場は、言葉にはできない。「おまえに何が分かる」と怒鳴られるかもしれない。


政府も自殺防止に向けて動き始める。

これまで陸軍で精神衛生の問題が最優先事項だったことは一度もなかったという。戦うことが最優先事項で、医療においては、負傷兵を戦闘に戻すことだった。

しかし、自殺者数の増加に伴い、精神的な問題を放っておくことはできなくなったのだ。

(けれども、皮肉な見方をすれば、政府のケアは、戦争を続けることの正当性を守るための方便のようにも感じてしまう。)

毎月、自殺防止会議が開かれる。帰還兵のためのさまざまなケアのシステムがある。

だけど、それはほんとうに有効なのだろうか。役に立っているのだろうか。

自殺を企てる元兵士はあとを絶たない。医療施設はいっぱいだ。


帰還兵はなぜ自殺するのか・・・この「なぜ」に答えはない。(何億もの「なぜならば」が戦場にはあるだろう)

「終わりのない罪悪感。私が理解できる唯一の理由はそれです」

たくさんの人々が、今も見えない敵に脅かされながら、一日一日をやり過ごしている。彼らの戦争はいつ終わるのだろう。いつか終わるのだろうか。

「しかし戦争が終わって三年が経っても、彼らはいまだに戦場にいて、戦争をしている。」

2017-09-16

『身の上話』 佐藤正午

身の上話

身の上話


古川ミチル。23歳。地方都市の書店に勤めている。

長く付き合っている恋人がいる。

どちらかと言えば地味で、堅実な女性の印象。

けれども、実は二股かけたもう一人の恋人がいて、その人を見送るつもりで出かけた空港から、ほぼ衝動的に彼と一緒に東京行きの飛行機に乗ってしまうのだ。

勤めている書店の休み時間の出来事で、しかも同僚たちに頼まれた「おつかい」の途中でもあったのだけれど・・・


「言うなれば、ここでもミチルは人を見誤っていたのです。正しく見ているつもりが実はそうではなかったという・・・」

見誤る、というなら、ミチルだけではなく、読者もまた、見誤り続けている。

そもそもミチルという女性が、読んでいるうちに、最初にもったイメージからどんどん変わっていく。最初からそういう人間だったのか、状況の変化によって、変わってしまったのか・・・

そして、ミチルの目で見た、ミチルのまわりの人間たちの、真の顔がわからなくなってくる。

最初にイメージした顔の造作が、読めば読むほどぼんやりとした霧に変わっていくような不気味さを味わう。

ぞっとする事件も起こるが、そちらに関わるミステリではない。

何より、この文章の柔らかさ丁寧さが、不思議で。落ち着かなくて。

これは、いったいなんなのだろう。


この本のタイトル『身の上話』

古川ミチルの話が延々と続くのだけれど、身の上話って、そもそも、当人が自分自身のことを語るものではないだろうか。

しかし、最初に、この話の語り手は、自分のことをミチルの夫だと名乗る。

夫が妻の身の上を語る? それにしては・・・

この語り手の「夫」について、不審な思いが消えない。この人はいったい何者なのだろう、とずっと思っていた。


最後まで「人を見誤っていた」と感じることをやめられないまま。

でも、最後の「感じ」が、読書中ずっと想像していたのとはずいぶん違うものであることに驚く。その驚きが、静かに余韻へと変わっていく。

2017-09-15

『子らと妻を骨にして ―原爆でうばわれた幸せな家族の記憶』 奈華よしこ, 松尾あつゆき, 平田周


平田周さんは、俳人である祖父・松尾あつゆきに、かわいがられた記憶がなく、祖父が笑った顔も見たことがなかったそうだ。

祖父が残した30冊の日記を読み、祖父がなぜ笑わなくなったのか、しだいにわかってきた、という。

祖父の日記・俳句とともに、祖父の人生を振り返っていく。


長崎に原爆が落とされて、松尾あつゆきは、妻と三人の子を失う。

目の前で死んでいく子をどうすることもできずに見守った事、正気を失い苦しんで死んでいった妻を看取ったこと.

トタン板の上で焼かれた三人の子の骨はわずかだったそうだ。

体格のよい妻を火葬にするには、何度も木をつぎ足さなければならなかったそうだ。

骨壺は植木鉢だった。三人の子の骨が一緒に入った鉢と、妻の鉢とが並ぶ。

そのあげくの「終戦の詔書」は信じたくなかった。「それならなぜもっと早く降伏しない!」―慟哭だった。

「降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾(さか)りつ」 (あつゆき句)


戦争の終わりは、原爆から生還した人たちの新しい苦しみの始まりでもあった。

職を失い、ただ一人生き残った長女を生かそう、死ぬのであれば二人一緒、の思いの看護の日々。

夜、亡くなった妻子に会える夢を見ることだけが楽しみだったという。


生きのこった松尾あつゆきの長女・みち子が平田周さんの母である。

みち子も手記を書いていた。

みち子の手記は、あつゆきの日記と、出来事が被る。しかし、その思いは、二人、ずいぶん違う。

亡くなった家族のことばかり話す父に、自分は生きていていいのかと、自問する。父にすなおになれないこともあった。

原爆は、家族の命を奪い、生き残った家族からも、大切なものを奪いとっていく。


取り上げられている俳句は、どれも、胸つかれるようなものばかり。その中で、いつまでも忘れられないのは、

「光が雪の雫が、此子ゆき子と名づけようかとも」

これは末っ子のゆき子の誕生に、詠まれた句。1945年1月24日。

新しい命への慈しみや祈りが込められた句と思う。

弾むような、それでいて、しんと心静まるような美しい句。

そのようにして、この世にやってきた命は、しかし、わずか七カ月後に無残に奪われる。

長崎原爆の死者は7万4909人。この数字の一つ一つが、光や雪の雫に祝福された命なのだ。

起こった恐ろしいことから振り返ってみれば、この句の美しさが、あまりにも悲しい。


最後にひとつ、平田周さんの句が置かれる。

消えてしまった家族一人ひとりの記憶が、今、松尾あつゆきの孫によって蘇り、家族が(新しい家族もともに)結びつけられるようだ。

そして、子から子へ。さらにその先へ。

「つながれた命、娘が手を合わせている」

2017-09-13

『すべての美しい馬』 コーマック・マッカーシー

すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)

すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)


生まれたときから馬に親しんできたが、そういう風にではなくあたかもかりに不運と何者かの悪意によって馬のいないおかしな土地に生まれていてもどうにかして馬を発見していたであろう
という風に馬に乗るジョン・グレイディ・コールは、テキサスの牧場で生まれて牧場で育った。

いま、牧場主の祖父が亡くなり、牧場は売られようとしている。16歳のジョン・グレイディにそれを阻止することはできない。

だから、彼は、親友のロリンズとともに、それぞれの愛馬に乗って家を出た。

ハイウェイを越え、川を渡ってメキシコへ。

生きる技術も力も持ち合わせた若者たちなのだ。

彼らを見ていると、私たちの暮らしの窮屈さを思い知らされる。ハイウェイを渡ることで、彼らは現代的な暮らしから、別の世界に渡り切ったのかもしれない。馬とともに生きられる場所を目指して。


鹿やウサギを狩る森。野生馬を馴らし、火を焚いて弁当を食べる地卓(メサ)。

道中思いがけなくできた道連れ。

メキシコの牧場で牧童として働く喜び。

最初から悲恋が予想される恋にはメキシコの近代史まで絡まって、おもしろい。

とんでもない事件に巻き込まれた時には果たして切り抜けられるのかと息を詰めた。

そうして、彼は、大人になっていく。


素晴らしいのは、馬と少年の関係だ。

少年が馬に乗るときには、二つの身体はまるで一つになったよう。

少年が馬の肌をなで、たたき、言葉をかけるとき、安らかな馬の体温や息遣いが伝わってくるようだ。

地卓(メサ)の上にいるまだ野生のままの馬たちは二本足で歩く人間というものをまだ見たことがなく彼のことも後の生活のことも知らないが、その馬たちの魂の中に彼は永遠に住みつきたいと思った

「馬たちの魂の中に彼は永遠に住みつきたい」というよりも、むしろ彼の中に馬の魂が住み着いているようだ。

残酷な無法地帯に囚われたときも、ここで彼を生き延びさせたのは、彼の中にいる馬の魂のような気がするのだ。

狡さ残酷さ、愛情や憎しみ、暗い怒りなどに翻弄されざるを得ない人間たちの物語があるから、馬と人との純な繋がりが、ひときわ輝く。


出会った人や馬たちの、一瞬一瞬が牧歌的ともいえる絵になって浮かび上がる。人は染み入るような笑顔で。

かけがえのない美しいもの、善いものが、ぽつりと胸に留まる。

そう思うのは、深い悲しみや痛みが伴う物語だからだ。逃げ場のない寂しさと隣り合わせだからだ。