Hatena::ブログ(Diary)

ぱせりの本の森

2017-11-24

『シャルロットの憂鬱』 近藤史恵

シャルロットの憂鬱

シャルロットの憂鬱


眞澄と浩輔夫妻が初めて飼うことになった犬が、四歳のジャーマンシェパードの女の子、シャルロット。

だ、大丈夫かな?

・・・大丈夫なのです。シャルロットは引退した警察犬で、しつけはしっかりできているし、我慢もできる。

犬を飼うにあたって、いちばん難しいのは子犬のしつけなのだ、初心者で、おまけに共働きのきみたちはしつけができている成犬を飼うのがいい、と愛犬家の叔父に薦められたのだった。


かくして、真澄、浩輔とシャルロット、一緒の生活が始まった。

シャルロットは賢かった。

散歩のときには最初から横にぴしっと寄り添って人と歩調を揃えて歩いた。

滅多に吠えなかったが、たまに激しく吠えた。それは、自宅や近所の家に、空き巣や小火などの異常を見つけたときだ。

けれども、賢い、ということはズルを覚えるのも早いということ。この家では、警察犬の頃のように、言いつけを全部守らなくてもいいのだ、ということをすぐに理解する。

眞澄も浩輔もそれでいいと思っている。

おおむねいい子で、ときどき悪い子のシャルロットの様々な表情は、読者のわたしをもメロメロにするのだ。


たとえば、休日の散歩に同行する眞澄と浩輔の顔を交互に見上げ、まるで笑っているような顔になること。――楽しいねえ、楽しいねえ。

とびきりの犬の笑顔が目に浮かぶ。

それから、思わずやりすぎてしまった不始末を見つかってしまった時のバツの悪そうな顔。

ぺろぺろと眞澄の顔を舐めて(ごめんなさい、もうしないから)

これもちゃんと目に見える。ううっ、その顔に、怒れるわけないじゃないの。耳の下をがしがし掻いてやりたくなってしまうじゃないの。

眞澄の叔父は言う。

「賢い犬は、こっそりと飼い主をしつけてしまうんだよ」

はたっ。

……

(うちもしつけられているんだろうか?)


シャルロットと暮らすようになり、夫婦ふたりきりの生活は一変する。

いろいろと生活に制約はできるけれど、もはやシャルロットなしの生活は考えられない。


そして、生活のなかに奇妙な事件が紛れ込んでくる。

たとえば、ある日空き巣に入られた。それなのに、なぜ、留守番のシャルロットは吠えなかったのだろう。

シャルロットがチワワに噛まれる、という事件も起こるが、その背景には意外な人間の思惑があった。

眞澄が迷子の柴犬を保護することになる。首輪の名前に心当たりがあるので飼い主はすぐに見つかるはずだったんだけど…。

子猫を保護したりもする。突然始まった近所の猫集会も謎だった。


過ぎてしまえば、事件ともいえないような事件だったよね、と思うのだが、間違えたらとんでもないことになっていたはず。

そして、どれも動物がらみの事件であるけれど、事件を起こすのは人間で、その影には誰かのどこかささくれだった思いがからんでいる。

巻き添えにされる動物たちこそよい迷惑だ。それなのに、しっぽを振って、寄り添って。

人の顔を見上げる嬉しそうな顔に出会えば、なんだか申し訳ないような気持ちになる。

2017-11-22

『あたしのクオレ(上下)』 ビアンカ・ピッツォルノ

あたしのクオレ(上) (岩波少年文庫)

あたしのクオレ(上) (岩波少年文庫)

あたしのクオレ(下) (岩波少年文庫)

あたしのクオレ(下) (岩波少年文庫)


第二次世界大戦が終わったばかりのイタリアでは、小学校は(公立でも)男女別学で、飛び級も留年もあった。小学校なのに、停学や退学まであった。

聖エウフェミア小学校四年D組の仲良し三人組プリスカ、エリザ、ロザルバの一年間の物語です・・・というと、とっても楽しいお話を想像するのであるが、そうはいかない。

なぜなら、この年、彼女たちを受け持ったのが、スフォルツァ先生だったから。

前任校では厳しい指導が売りで、担任した四年生のクラス全員を飛び級させ、中学校の入学試験合格に導いた先生。親たちは絶大な期待を持って迎える。

しかし、子どもたちには(「ご機嫌取り」「猫かぶり」グループ以外?)地獄のような一年間が待っていたのだ。


クラスには、さまざまな家庭から子どもたちが集まっている。

大地主の娘もいるし、極貧の家庭に育ち、何度も落第して四年生に在籍しているような子もいる。

けれども、スフォルツァ先生の目には、町の名士の娘しか見えないようだ。


感受性の鋭いプリスカは、スフォルツァ先生の残酷で不公平なやり方を見聞きするたび、何度も隣の席のエリザに「聞いてよ」と激しく打つ心臓の音を聞かせた。

この先生のことを手っ取り早く知りたいと思うなら、先生が持っている、このクラスの座席表を見ればよい。

先生は、子どもの名前の横に、こっそりと親の職業を書き入れているのだ。地主、判事、弁護士、医師・・・八百屋、洋裁師、用務員。そして最も貧しい二人の少女については、その名前さえも記されてはいない。


ついに我慢の限界を迎えた三人は、なんとかスフォルツァ先生をとっちめてやりたいと思う。

当時の子どもが、先生を批判するということは大変なことだった。まして先生相手に戦いを挑むなんて周囲の大人に受け入れられるわけがなかった。

それで、いろいろと作戦を立てる必要があるのだ。

繰り出される様々な作戦は、大人から見たら、案外直球で、ほほえましいくらいに嫌みがない。(正直、本のこちら側から、少女たちに「生ぬるい!」と叱咤激励したい気分でした)

相手はしぶとくて狡猾だった・・・


読みながら、印象に残ったこと。

ある日、学校のの外でスフォルツァ先生を見かけたとき、プリスカの頭に一つの考えが浮かぶ。「ひょっとすると、先生自身がごきげんとりなのかもしれない」

子ども時代には、絶対的な存在だった大人。その絶対が崩れ、大人もこどもも、同じ人間なのだ、ということにプリスカは気がついた。大切な瞬間だったと思う。


もうひとつ印象に残るのは、先生が保護者会を開いて、「飛び級」について、親たちに説明する場面。

「飛び級すれば、子どもは一年得をする」と言う親たちのなかで、エリザの叔父のレオポルドは言う。

「ぼくには損をするようにしか思えません。小学校の五年生を経験できないわけですから」「子ども時代が一年、短くなります」

レオポルドおじさんの考える「子ども時代」が好きだ。このおじさんに育てられたエリザが羨ましいな。


各章と章の間には、プリスカによる創作童話が挟み込まれている。その章(時期)の中で起こった出来事を題材にして、ユーモラスなおとぎ話に仕立てている。これがとってもおもしろい。

読み手には、楽しい章ごとの振り返りでもあるが、心動かされるのは、子どもが、不快な現実を乗り越えるための手段として、体験したことを物語にしたててしまう、その逞しい想像力と筆力だ。

プリスカの将来の夢は、作家。きっとなれるよ。自分の子ども時代を題材にした作品で有名な作家になるよ。

2017-11-20

『終の住処』 磯崎憲一郎

終の住処 (新潮文庫)

終の住処 (新潮文庫)


彼と妻との結婚から物語は始まる。そして、彼と妻とが初老といってもよいような歳になったところで物語は終わる。

その間に、彼は何人もの女と関係を持ったし、妻は夫に十一年もの間、口をきかなかった。

彼は、会社員として、膠着状態の得意先に活路を開くべくアメリカに派遣され、長い年月を経て、ある成果を収めた。

そうだ、夫婦の間に娘も生まれ、育っていったのだった。

だけど、そういう具体的なことがらは、きっとどうでもよいことなのだ。二人の結婚生活の内容が全く別のことがらに書き替えられたとしても、何にも問題はない。

取り替えようのないものとして浮かび上がるのは、「疲れたような、あきらめたようなお互いの表情」なのだ。結婚した当初も、現在も、まったく同じ表情の二人。


結婚生活のなかで、ある日、彼は思う。

「恐らく妻は、彼と結婚する前から結婚後に起こるすべてを知っていた、妻の不機嫌とは、予め仕組まれていた復讐なのだ。」

続けて、

「この論理はあきらかにおかしい、因果関係が、時間の進行方向が逆転している。」

うん・・・

しかし、そういうこともあるような気がする。具体的に何を、ではなくて・・・

時間の流れなどとは関係ない、別の流れ(といっていいかどうか?)があって、そちらの法則に従えば、不思議でも何でもないような、いいや、だからこそ不思議といえるような・・・

やっぱりうまく言えないけれど、きっとそういうものがあるのだろう。

そして、同じ表情を持つ彼と妻とは、きっと、本当は(二人の人間ではなくて)たったひとりの彼自身なのだ。もしかしたら、「妻」と呼ぶものは鏡に映った自身の姿かもしれない。


私は、先日読んだ『私の名前はルーシー・バートン』(エリザベス・ストラウト)を思い出した。

あの本を読んだときにしみじみと感じたのは、

人生のなかのある本当に短い時間の輝き(当事者以外にはわからない)が、その人の人生の前にも後にも、大きな美しい傘のように広がって、すっぽりと覆うようなことがあるのだ、ということだった。

その後の人生だけではなくて、それ以前の人生の色(「意味」ではなくて、もっと漠然とした、色、ふかみ)さえも、塗り替えてしまう、そういう一瞬があるのかもしれない、ということ。

『ルーシー・バートン』のそれは、どちらかといえば、光のような時間だった。

だとしたら、(光あるところには、影が・・・というではないか)この本『終の住処』のなかで、彼と妻(彼と彼)が浮かべる「疲れたような、あきらめたような」表情が、大きな翳りの色となって、彼の人生を覆っているのではないか。

なんとも滅入るような、それでいて惹きつけられるような、不思議な小説である。

2017-11-18

『こどもってね……』 ベアトリーチェ・アレマーニャ


見開きの右側はこどもたちの肖像(いろいろな時のいろいろな場面のいろいろな表情の子どもの顔!)

どの子どもたちも、はっとするほどいきいきしている。迫力がある。美しい(美しく描かれないから美しい)


見開き左側の白いページには文字。

書かれているのは、

こどもってね、ちいさなひと。

でも、ちいさいのは すこしのあいだ。

いつのまにか しらないうちに おおきくなる。

から始まる、美しい詩なのだ。


この絵本の中で私が一番好きなところは、小さなこどものまわりにはちいさなものがたくさんだけれど・・・って話。

だけど こどもってね、

とっても おおきな世界で いきているんだ

町をこえて はてしなく ひろがる世界。

かいだんは どこまでも どこまでも つづいていて、

バスにのれば 宇宙にだって いけるよ

そういえば。

おとなはになって、体は、こどものころより大きくなったし、いろいろなことができるようになったけれど、世界は小さくなってきたかもしれない。

(私はもう、箪笥を通って別の世界へ行くことはできないと思う。)


絵本を見ていると、絵の中のこどもたちから、嘗てわたしが出会った(すれ違った)あのときのあの子やこの子のあの表情が思い出される。

それは、……


少し大きい子どもが、自分より小さい子どものことをおおまじめに「これだから、子どもはさー」と言って溜め息ついた、その表情。


ザリガニ獲りに夢中になっているところに、「ぼくたち、道路のランドセルどけてー。轢いちゃうよー」と声かけられて、はっと顔をあげた子どもの、その表情。


いちにち不貞腐れていた子が、お迎えのママの胸にとびこんで「ままー。ぼくね、悪い子だったの、ごめんなさい」と、何かいわれる前に先手を打った、その表情。


真剣になると、開いた口の歯の間からついつい舌が出てしまう子が、習い始めの文字を一画一画懸命になぞるときの、その表情。


セロテープを貼りまくって工作が完成したところだろうか、ふうっと息をつきながら椅子に凭れかかった子どもの、その表情。


散歩中の犬に出会って「かわいいねー」という友達の横で、頭をそびやかして「サクラのほうがかわいい」とつぶやく子どもの、その表情。


この絵本の中にはたくさんの子どもが出てくる。どれも一人の子どもかもしれないし、数えきれない程たくさんの子どもの一瞬かもしれない。

どの表情も、おとなになると、なかなかみられなくなる。おとなは用心して、ひとのみているところで、きっとそういう顔をしないようにしている。

そんな顔をするあなたたちは、そんな顔をするから、こどもなんだよ、とわたしは言ってやりたい。

(でも、こども。ほんとに、おとなになっても「こころのなかは ずっと こどものまま」の人も少なからずいるんだから)


そして、思う。

いまはまだ ねむりにつくまで 

やさしく みまもってほしいんだ

まくらもとに ちいさな あかりをともして

そのちいさなあかり、守ってあげたい。


この絵本、献辞までも味わい深い。

「きいろいわんこを忘れたことのない 大きくなったあの子へ」

2017-11-17

『あひる』 今村夏子

あひる

あひる


表題作『あひる』

知人が手放さなければならなくなってしまったあひるを引きとったのは、「わたし」の父母。

あひるが庭にいるようになると、近所の小学生が遊びに来るようになる。その人数も日々増えて、庭は、にぎやかになってくる。


この家の子どもたちはすっかり成長してしまい、ことに両親の秘蔵っ子だった下の子(「わたし」の弟)などは、実家とはずいぶん疎遠になってしまっていた。

父母は生活に張り合いを失くしていたのだろう。近所付き合いなども、あまりしていなさそうだった。

近所の子どもたちがあひるを見に来るようになってから、生活は一変。父母は毎日生き生きして、楽しそうだ。

しかし、それが、だんだん度を越していく。

父母はたのしんでいる。みんなよろこんでいる。でも、なんだか、変だ。

どこがどうおかしいのか、はっきり指摘できない奇妙なことがじわじわと進行していることが、ものすごく気味悪い。


まるで芝居のセットの中にいるみたい。父母は幸福ごっこをしているみたい。その姿は、気持ち悪いとともに、なんだかおかしくて、悲しい。


けれども、もっとも変なのは、

実はこの夫婦の娘である「わたし」だ。

「わたし」は、父母の生活を見ている。何かが進行していくのも見ている。危ない感じにも気がついている。

それなのに、傍観者のままなのだ。

消極的ながら、父母の「それ」を手助けして、支えてしまっている。

自ら目を塞いで、見たくないものは見ないことにしているのかもしれない。

その姿は、(一種の)狂気に駆られていく父母よりもずっと気持ち悪いし、怖ろしい。


併録の『おばあちゃんの家』『森の兄弟』は連作短編。

孔雀を見た、という言葉が連作のキイワードかな。ここは日本の田舎町。民家の近くには鬱蒼とした山があるけれど、さすがに孔雀はいないはずだ。

孔雀っていったいなんだ?

ここでも、気味の悪いものを見せられる。ある光景に、ある日常に、引きこまれる。

とっぷりと感情移入して読んでいたそれらの日々は、しかし本当に見えたままの世界なのだろうか。


たとえば・・・

みのりが大好きなおばあちゃんは、みのりにはとてもやさしい。

けれども、みのりの一家と、おばあちゃん(実は血のつながりはない)の関係はいろいろと複雑である。

おばあちゃんの家は、みのりの家の敷地の一角に建っていて、みのりがしょっちゅう入り浸っていることから、こじんまりしているけれど、さぞ居心地よいにちがいない、と思った。

けれども、おばあちゃんの家には最近まで窓がひとつもなかったこと、みのりの弟は「くさい」と言って寄り付かないこと、さらに森の兄弟の目からみたら、それは家ではなくて「小屋」にすぎないのだ、ということを知り、「あれ?」と思うのだ。

究極は、この一文。「このおばあちゃんが、一体何を考えているかなんて、みのりは考えてみたこともない」

…何を考えていたのだろう…ふと立ち止まってそう思うと、なんだかぞわっとするのだ。


自分の持って居る先入観や建前的な物の見方を揺さぶられるような感じがする。

私、何を見せられた? どういう気持ちで眺めていた? 

突然ひっくり返される風景に、苦い思いを噛みしめながら、何よりも自分の物の見方のあやふやさを思い知る。

わたしも、そこで、孔雀、見たんだよね・・・