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ぱせりの本の森

2017-03-15

『バルバルさん』 乾栄理子/西村敏雄

バルバルさん (こどものとも絵本)

バルバルさん (こどものとも絵本)


バルバルさんはとこやさんです。

腕のいいとこやさんであることも、律儀なとこやさんであることも、読んでいるとおいおいわかってくるのですが、何よりも「まいにち たのしく はたらいて」いるのがいいなあ、と思う。


バルバルさんの店に、ちょっと変わったお客さんが次々にやってきた日があった。

最初にきたのは、ライオン。

びっくりだけれど、とこやさんにくるライオン、どうしてほしいのか、言われなくてもなんとなく見当がつくではありませんか。

でも、次にやってきたワニは・・・ワニは何を求めてとこやさんに?

次々の変わったお客の変わった要望に、驚いたり、感心したり。

お客さんを大切にするバルバルさんのきまじめな応対がいいなあ。


おはなしの中の時間は、ゆっくりと流れる。

空気もなんだかおっとりとして、バルバルさんの店で髪を切ってもらいたくなる。

きっと、リズミカルなハサミの音が気もちよくて、安心してうとうとしてしまうかもしれない。


バルバルさんの顔の表情の変化は、あるかなきか、というくらいに、とても控え目に描かれる。

でも(だから?)、読み手には、そのおだやかな顔のなかに、いろいろな表情が見える。

静かな海で、のびやかに泳ぎ回っているみたいな感じで。


バルバルさんのとこやさんは、青い屋根と青い壁のお店だからかな、この絵本のいろあいは、全体的に青いのです。

今更ながらに、青い絵本だということにきがついて、驚いています。

確かに青なのだけれど、なんだか暖色のような気がするから。不思議な青です。

2017-03-14

『さよなら、シリアルキラー』 バリー・ライガ


空き地で他殺死体が発見された。

高校三年生のジャズは、現場の様相から、これは連続殺人だと確信する。

なぜなら、ジャズの父は、21世紀最悪の連続殺人鬼ビリー・デント(六年前に逮捕された)だから。

そして、ジャズは、父によって、家業(!)の後継者として、幼い時から殺人鬼としての英才教育を受けてきたのだから――


この作品を手に取ったきっかけは、スピンオフ作品『運のいい日』を先に読んだため。

登場人物たちの横顔を垣間見て、彼らのことをもっと知りたくなってしまったのだ。

ジャズ、親友のハウイー、ガールフレンドのコニー、保安官のG・ウィリアム。

素敵なあなたたちにまた会えて嬉しいよ。


殺人鬼の父のもと、ジャズが過ごした幼年期は、想像の域を超える。

父から離れて六年も経つのに、彼は、過去から追いかけてくる父の影に苦しみ、絶えず呼びかけてくる父の声を振り払うことができない。

自分は決して父のようにはならないという思いは、父のようになってしまうのではないか、むしろ本当はなりたがっているのではないか、との不安の裏返しだ。

父の胸で泣きじゃくる幼い日のジャズの姿と、「人を拷問して殺す殺人鬼でも、父は父であり、生物学的な本能のせいか、やっぱりそばにいると安心できた」という回想は、どんな猟奇的な場面よりもずっと残酷だ。

ショッキングな設定にもかかわらず、ジャズの思いは特殊なものではない。

感じるのは、苦い共感だ。これは、きっと「(心の中の)親殺し」の物語なのだ。


ジャズの母の思い出は、彼の無残な子ども時代の思い出の中で、唯一「よいもの」だった。

その母は幼い日に消えてしまった。

コニーはある日、こんな風に言う。「お母さんに置いていかれたから、だからジャズは怒ってる」

ジャズにとって、そして読んでいる私にとっても、これは思いがけない言葉だった。

彼が自分の人生を生きていくための大きなカギは、この「母の不在」なのかもしれない。「父の存在」以上に。

そんな気がする。


事件は解決するが…

なんとまあ、大きな引き出しをひっくり返してくれたことよ、と思う。

これは三部作の一作目だもの、二作目に繋がる何かがあるはず、とは思ったけれど、これ!

続きが気になって仕方がない!

2017-03-12

『海炭市叙景』 佐藤泰志

海炭市叙景 (小学館文庫)

海炭市叙景 (小学館文庫)


海炭市という架空の地方都市に住む(あるいは一時的に立ち寄った)人々を素描風に描いた短編集。

架空の都市とはいえ、ここは、作者の故郷である函館のことなのだそうだ。


イメージは、冬の曇天。

ある主人公はいう。「わたしはこの街が本当はただの瓦礫のように感じた」(『まだ若い廃墟』)

また、ある主人公はいう。「三十にならない前に、自分の人生が見えてしまって・・・」(『大事なこと』)

そして、ある人はこういう。「何かがほんの少しずつ狂いはじめているのだ」(『黒い森』)


ただもくもくと暮らしているさまざまな人々の、本当にさまざまな暮らしであるけれど、閉塞感が漂う。

先行きに、明るいものは見えない。

それでも、生きていくしかないじゃないか。昨日と同じように、今日も。ほかに何ができるだろうか。


そうした人々を眺めつつ、これは、やりきれない気持ちとは少し違う、と思っている。

曇天の空の色は、晴天よりずっと多彩ではないだろうか。わたしは、遥かに繊細なグラデーションを見せられているのではないだろうか。

そうして、この群像たちの閉塞感は、思いがけない道を通ってユーモアに通じているのかもしれない、と感じる。

小さな何か(とても希望とはいえないが、それだからよけいに心に残るもの)が灯るような気がするのだ。

たとえば、『まだ若い廃墟』の六時間…六時間でも六分でも、あるいは零分であっても、何も変わらなかったはずの、その六時間は、大切な猶予の時間であったはずだ。

私もまた、そうした「六時間」をずっと生きているのかもしれない、とふと思う。

それから、『衛生的生活』の啓介の、自分には見えていない自身の姿は、となりの席の青山が描写した通りなのだろう、と思う。確かにそうなのだろう。

けれども、それはほんの一部でしかないはずだ。啓介のモネやゴロワーズは、青山が見ることのない(その必要も感じないだろう)別の光りかたをして、わたしの胸に染みる。


海炭市からずっと離れた小さな町で、わたしも同じように暮らしている。海炭市には、わたしによく似た人が暮らしている。

2017-03-09

『ペーパーボーイ』  ヴィンス・ヴォーター

ペーパーボーイ (STAMP BOOKS)

ペーパーボーイ (STAMP BOOKS)


1959年。舞台は、テネシー州の田舎町。

この時代のアメリカの町は、子どものころの私の憧れだった。

大好きで、何度も読んだクリアリーやマックロスキーの本は、このころの物語。

少し大きくなって読んだブラッドベリ『たんぽぽのお酒』や、もっと大きくなって読んだマキャモン『少年時代』、そして、マッカラーズ『結婚式のメンバー』などから、無条件に感じてしまう郷愁は、アメリカにあこがれながら本を読んでいた自分の子ども時代への懐かしさだ。


それは、この本『ペーパーボーイ』の表紙の挿画を見て、胸に湧き上がってくる思いと一緒。

けれども、この時代は、今よりもずっと激しい人種差別の時代でもあるのだ。

バスの座席、動物園の入場制限、黒人にはいっぱいの制限があった。

犯罪捜査さえも差別があった。黒人同士の諍いには、白人の警察官は関与したがらなかったという。

『ペーパーボーイ』の主人公「ぼく」は、母親以上に大切な存在であるメイドのマームを思って心痛めるが、これほどに激しい人種差別がなかったなら、「ぼく」はマームと出会うことはなかったはずだ。


夏の蒸し暑さをやわらげる夕方の風がカーテンを少し揺らす。ポーチのブランコは、静まったまま。

この美しい平和な風景は、白人たちの(黒人に対する)差別によっても、支えられていたのだということを、まずは覚えておかなければ。


11歳の「ぼく」が親友のかわりに新聞配達をした夏、1か月間の物語だ。

「ぼく」は吃音者である。

思うように言葉が出ない苦しみ、伝えたいことを伝えられない苦しみが痛いほどに伝わってくる。

なかでも、優しい大人たちの無知からくる思いやりが、どんなに残酷に少年を傷つけるか。

「言葉」について、彼はきっと人よりもずっと深く考える。そして、自分が口に出す言葉を人よりもずっと深く吟味する。

「言葉がまったくしゃべれないのとしゃべれるけど意味がわかっていないのとではいったいどっちが困ったことなのだろう」


「ぼく」が夏の間に出会った忘れられない人々の中で、ひときわ印象的なのが、スピロさん。

スピロさんの言葉は、謎かけのようで、すぐに意味がわからない場合が多い。

たとえば、

「フィクションかノンフィクションか知りたいのならわたしが住まうこの世界において両者にちがいはない(中略)

人はフィクションの中により多くの真実を見いだすものなのだ」


夏に出会った多くの濃い出来事のひとつ、重い「秘密」については、誰に相談しても、今の今、答えられる人はいないだろう。

そのことを「ぼく」は彼なりの方法で解決したのではないだろうか。「答え」であるかどうかは置いたまま。

それもスピロさんの言葉に繋がるんじゃないだろうか。

真実はきっと、フィクションとかノンフィクションとかとは別のところにある…


たくさんの解決しない問題を抱えながら、むしろ抱えていることに誇らしく胸を張りながら、少年は成長する。

その姿を見ていると、嫌なことやもやもやすることはたくさんあるけれど、明日はきっと良い日だ、と信じたくなる。

最後のほうで、「ぼく」がおとうさんとキャッチボールをする場面がある。

「ぼく」は、ボールとともに、四つの言葉をおとうさんの胸に手渡す。

その場面が、何よりもわたしには心に残った。

2017-03-08

『双眼鏡からの眺め』 イーディス・パールマン


あの人もこの人も、程度の差はあるにしても、自分とそんなに違わない暮らしをしているような気がする。

でも、その暮らしをつい双眼鏡で覗いてしまったら、細部にいたるまでいろいろな物が見えてびっくりしてしまうかもしれない。

一番びっくりするのは、見えないところの存在だ。壁などで仕切られて視界を遮られたところと、くっきりと見えすぎるところの差。

見えないところには、本人さえも気がつかなかったものが隠れているのだろうか。それとも故意に隠しているのか。あるいは突然その壁の影に何かが置かれたのか。

なにもかもがぼんやりとしているうちは気にもならなかったのに、なまじっか見えすぎる場所が現れたために、かえって見えない場所の存在感がのしかかる。


たとえば、『上り坂』の家族。ちょっとした事件を体験する家族の様子は、それの前とあとでは、見たところ何の変わりもないはずだ。

けれども、本人たちは気がついてしまった・・・違う風景に。

(さらに最後の一行で、もういっぺん、色が鮮やかに変わる。凍っていた物が、ふいに溶けたような感じで、見ている私の目にくっきりと残る。)


繰り返し出てくるテーマ(?)がある。

ユダヤ人、障害を持った子ども、老い。

それから、ジェンダーマイノリティたちの小さな痛みが、つかまえどころがないけれど、気配となって、そこここに浮遊している感じ。


自分の民族が迫害を受けたことは、個人が直接経験をしたわけではなくても、ひとりひとりにとって、消えない傷になっていること、触ればいつでも血を流すのだ、ということに、圧倒されてしまう。

『身の上話』のラストは、こたえた。「彼女」に、ぱっと背を向けられたような気がして、うろたえる。


作品のなかにあらわれる、いろいろな障害を持った子どもたちは、愛おしい存在だ。

「・・・囚われの身のテスが束縛されていないように見えて・・・」『テス』

「ラースは人を愛さない。結婚しない。驚くことすらしない。認識し、分類するだけ。さらなるラテン語の名前を学び、それをすべて暗記する。それは一種の幸せの形だ」『ジュニアスの橋で』

これらの目線は、あくまでも第三者の眼だ。子どもの存在のすべてに責任を負う保護者ではない(だから言える言葉かもしれない、ということを含めて)それを忘れてはいけない、と思う。

思うが、子どもを見守る人たちの言葉の賢さに打たれる。その子の見えない光に打たれる。


どきっとするものもあったし、なかには少しばかり気味が悪いものもある、時々、茫然としたりも。34の作品はほんとうにさまざまだ。

でも、どの作品も、主人公たちは、それぞれの人生をなんとかやっていこうとしている、誰の手にもつかまろうとせずに。

その姿はときどきとてもカッコ悪くて、素敵だと思う。わたしの愛おしい隣人たちだ。


『上り線』『規則』『双眼鏡での眺め』『ジュニアスの橋で』『自恃』が印象に残る。