天井に星の輝く

天井に星の輝く天井に星の輝く
ヨハンナ・ティデル
佐伯愛子 訳
白水社
★★★★


本が震え血を流しているようだ。読めといいつつ、触るなといっているようだ。
一行読むたびに、ことばがわたしを刺し貫く。
13歳の少女の叫びは、本当は、ことばにはならない。一番投げつけたい相手には決して投げつけない。投げつけてなんかやるものか。そして、怒りをくすぶらせて黙り込む。
これは、黙り込んだ子どもの叫び。つぶやき。黙っているけど、ほんとうはこんなふうに言いたかったのか――と、わたしは、主人公の後ろに、よく知っている子の顔をさがします。

とうさんはいない。かあさんはガンだ。
病気に蝕まれていく母さんを見るのは辛い。
祖母をはじめ、みんなが言う。「イェンナ、お母さんを大事にしてね。協力しないとね。お母さんはほんとうによくがんばっているのよ」
クソばばあ、なのだ。あんたなんかに言われたくない、そんなこと。わかったような顔でやさしく頷かれるのもごめんだ。
イェンナは13歳。「母さんが死んだらあたしは命をたつよ 自分の手で」で終わる詩を天井に貼った星の下に隠している。詩であるより、約束。暗い誓い、血と涙の代わりに噛み締めた言葉。
13歳の子から母に宛てたこんな言葉、本来出てきてはいけない。
母がうざい、と感じるころだ。クソばばあ、と感じるころだ。でも、そんなこと言えないのだ、思うこともできないのだ。
だから祖母にむかって言うしかないのだ。友達にあたるしかないのだ。先生にあたるしかないのだ。近所のひとにあたるしかないのだ。本当にぶつけたい思いを本当にぶつけたい人にぶつけることができないのだから。
いや、それさえもできなかったんだよ。
ただ耳をふさぐだけしかできなかったんだよ。
そして。壊れることさえもできなかったんだ。

イェンナのかあさんが元気だったら、二人はいつまでも仲良しではいられなかったかもしれない。
傷つくのはかあさんで、悲しい顔をするのはかあさんで、眠れない深夜のベッドで娘を待つのはかあさんで、涙をこらえて後ろを向くのはかあさんだったはずだ。
イェンナはそうしたかったはずだ。好きな人のこと、友だちのこと、先生のこと、将来のこと、スポーツをやること・・・不安でいらついて、「みんなうぜえよ」っていったり、本当はそういうことをもっとたくさん吐き出したかったはずだ。「母さんが死んだら・・・」なんて詩を書くかわりに。

わたしは親の目で読みました。
イェンナの怒りの言葉のひとつひとつが、その裏に隠された不安や寂しさ、苦しみが、胸に突き刺さってきました。
イェンナの気持ちがわかりすぎるほどにわかる、いや、このようにここに書き記されなかったら、絶対わからなかった言葉でした。
しかし、一旦、本のなかで吐き出されれば、イェンナの中に入って共にもがき、それと同時に、その言葉を向けられた大人として突き刺され、痛みを耐えるのです。
そして、自分の愚かさ、浅はかさ、などが浮き上がってくる。ああ、なんて愚かな親なんだろう、なんて愚かな大人なんだろう。
なぜ、こんなうそ臭い『優しい』大人になってしまったんだろう。
あの日あの時。数々のあの日あの時、わたしの子どもがわたしに向けた物言わぬ声の一つ一つが、この本のなかのイェンナの言葉に重なってくるのです。

天井の星は黙って見つめている。
本を読みながら、ひとりの親であるわたしは思う。こんなこと、こんなこと、自分の子どもにさせたくない、思わせたくない。
煮えたぎる思いとエネルギーを秘めたまま微笑み、暗い感情のほとばしりに対する罪の意識にさいなまれ、一人で心細い思いで泣くようなことは。どうかしないでほしい。
何より天井の星の裏側にあんな言葉を押し込めさせたくない、親のためにだけは。
抗うことができないこと――
この本は鞭だ。

作者自身が天井の星を持っていたかどうか知りません。星の後ろに言葉をしまっていたかどうか知りません。
でもあの星もあの言葉も、形はちがっても、きっと作者のなかにあったのだろう。ずっとずっと持っていたときがあったのだろう。じっと眺めていたこともあったのだろう。
そして、思い出のとげに刺され、きりきりと苛まれながら、普通の顔をして、くらしてきたのだろう。
でも、今、この本を書いたのだ。
別の星が生まれる。今、輝き始めた。