ザッカリー・ビーヴァーが町に来た日

ザッカリー・ビーヴァーが町に来た日ザッカリー・ビーヴァーが町に来た日
キンバリー・ウィリス・ホルト
河野万里子 訳
白水社
★★★★


30年、いえ、もう40年近い昔。ベトナム戦争の頃のアメリカ。舞台はテキサスの田舎町アントラー
大人も子どもも知らない顔はまずない、という本当に田舎の町。
そこで暮らす少年トビーは、親友のキャルとうろつき、憧れの女の子の前で不器用になり、とうさんの手伝いをしたりもしながら、まあまあ、普通に暮らしている。
普通、というよりは、少し退屈な日々。「テキサス州アントラーは、なにも起きない町だった」という一文から物語は始まるのですから。
だから、コーヒーショップ「デイリーメイド」の駐車場に、中古のサンダーバードが、クリスマス用のイルミネーションで飾られたトレーラーを引いてやってきたときは、町中があんなに興奮したのです。
人々は、2ドル払って「世界一太った少年」、292キロのザッカリー・ビーヴァーを見るために行列を作ったのです。

普通、退屈、なにも起きない、と書きましたが、実はそれは見せ掛けのこと。それぞれがそれぞれになにかを抱えこんでいるのです。
例えば、主人公トビーにしてみても、母親は、歌手になる夢を追ってナッシュビルに行ってしまいました。
キャルの兄(トビーにとって憧れの兄貴)ウェインは、徴兵されてヴェトナムにいます。
そして彼らをめぐる大人たち、友人達、みんなそれぞれに背負っているものがあり、人には言えない悩みがあり、・・・それだからこそ、やさしいのでした。
懐かしくて切ないような郷愁に満ちた空気。そしてそこに子どもの日々がある。なんでもない、といいながら、なにかがあり、人々がいて、町がある。
一つ一つの事件、ひとつひとつの思い出が、少年トビーの目を通して語られると、こんなに透明に切なく見えるものなのか。悲しみも切なさも、怒りさえも、ここではひたすらに愛おしいのです。

さて、この物語のなかで、人々の興味の中心にいるのがザッカリー・ビーヴァーです。
彼の後見人であり興業主ポーリーは、公演(?)が終わると、ザッカリーをトレーラーに残したまま、サンダーバードに乗ってどこかへ出かけてしまい、その後、何日たっても帰ってきません。
最初は、単なる好奇心からザッカリーに、トビーとキャルは近づいていきます。
ザッカリーは鼻持ちならない嫌なやつでした。しかし、どうしても気になって仕方がない存在。トビーは好奇心旺盛なキャルに半分引っぱられるようにしてしつこく彼のところに通います。ザッカリーもまた見た目とはちがう存在でした。人を圧するような巨体の中に臆病に、ほんとうの彼がひそんでいました。
そして、やがて友情が生まれます。
ザッカリーを中心に駆け回るトビーたち。そうするうちに、さまざまなものが見えてきます。社会も、世界も少しずつしっかり見えてきます。人が見かけよりもずっと深いのはあたりまえですが、その深みが、「人って捨てたものじゃないじゃない」って思える形で見えてくるのがいいな。
町の人たちの押し付けがましくない優しさも・・・。

子どもたちも素敵なのですが、大人たちがまたとびきりいいのです。特に「ボウル・ア・ラーマ」の経営者フェリスとリーヴァイ保安官が好き。
それから引退した裁判官(認知症になってしまっている)をトビーがキャッチボールに誘う場面が印象に残っています。ボールを投げあいながら、相手にボールを受け止めさせることを考え始めたトビー。実際に受け止める裁判官。なんと素敵に象徴的な場面であったことか。トビーのもやもやした思いがふっきれて澄み切っていくような。繋ぎたいと思いながら繋げずにいた人へ勇気を出して、そしてちゃんと受け止められるボールを投げようとしていた。次の場面につながる清清しさに胸が一杯になります。こうして少年が大人になる。
どうにも好きになれなかったミス・マーティ・メイが最後に見せてくれたアレで逆転してくれたのもびっくりですてきでした。
圧巻は「てんとう虫」です。

>ぼくは思った。ザッカリーの言ったとおりだ、と。綿畑って海みたいだ――。
一面緑の海です。そこに無数のてんとう虫・・・色が洪水のように、鮮やかに目の前に広がる。
そして、思います。退屈な町なんてないし、退屈な子ども時代もないのだと。