魔利のひとりごと

魔利のひとりごと魔利のひとりごと
森茉莉
佐野洋子 画
筑摩書房
★★★★


毒舌家、上から目線だし・・・でも憎めない。
思わずくすっと笑ってしまうユーモアも独特で、わたしなんかとはテンポがちがう、独特のリズムで生活していらっしゃる。


安アパートに住み、共同の洗面所を使い、お風呂は銭湯に通う。
鴎外のおひざの上で揺すられ、蝶よ花よ、と大切にされたお嬢さんの晩年、と思うと、なんだか寂しい感じだけれど、
見てくれだけで判断しちゃだめですね。
この人は、今(当時)の生活を隠さないし、卑下したりもしない。見事なまでに。そして、その心は女王様のように豊かです。


どこでどんな生活をしたとしても、彼女の感性はゆるがない。
石鹸はサヴォンだし、「ヘンゼルとグレーテル」は「ハンスとグレエテ」でなければいけない。
だってそういうふうに聞いて育ったのだもの。
生活を楽しむ余裕があるのです。美しいものに見とれて空腹を忘れるような人なのです。
嘗て持っていたけれど失われた宝石について語る言葉はちょっと寂しい。
大切な宝石をついうっかり置き忘れてしまうくらいのぼんやりさんかと思えば、
きりっとした富士山よりも高いプライドの元で、がつがつした俄か金満家を小気味よく切ってくれたりもする。
「ヴェルモットの空瓶や、コカコオラの薄青い透明に恍惚(うっとり)する」茉莉さんが、
母のダイヤモンドの指輪を手放したことを嘆くのは
「私を深く愛してくれた祖父の手に触れたことのあるものを失う哀しみは、宝石を失う哀しみより大きい」からなのです。


無邪気に、「天からお金が降ってきたら素晴らしかろう」などとつぶやく。
全く卑しくないし、情けなくもない。
彼女が言う言葉はどんな言葉も世間様におもねっていない。
素朴にただ、そうなったらいいなあ、と思うだけで、どこか清清しく明るい。
そこに彼女の美学があり、わたしなどが感じる下賎な情けなさをはるかに超えています。


奥さんとお内儀さん」の章には、なるほど、とうなってしまう。
そして、茉莉さんは、いまや奥さんからもお内儀さんからもはるかに超越した「妖婆」となられたのではないかと・・・
(あの世でお怒りでしょうか、ごめんなさい^^)
そう、「妖婆」という章があります。
カメラと、写される自分とのあいだにいつのまにか妖婆が立ってしまう、という話はとってもかわいい。
このくらいの感性でブログの文章も書けたらなあ。
逆立ちしたって無理ですなぁ。


カポーティの「誕生日の子どもたち」を読んだあと、これを読んだものだから、
あ、ここにも彼のお仲間が・・・と思ってしまいました。
無垢な世界を持ったまま大人になった人ではないか、森茉莉さんは、と思うのです。
しかし、その無垢さに押しつぶされるようなへまはしない。
カポーティのそれが暗闇に輝く小さな灯なら、森茉莉さんのはこうこうと明るい。
ずれていようが、浮いていようが、それが何? 彼女なりの美学には絶対の自信がある。誇りがある。筋金入りである。
それは、幼いころからあふれるような愛情を浴びて、何をやっても「お茉莉がやれば上等よ」と、
かの鴎外とうさんに全面的に受け入れられて育ったのだから。
毅然として、さわやかでまぶしい。


そして、そこに添えられた佐野洋子さんの絵は、森茉莉さんの美学とそこにまつわる無垢さをちゃんと形にしてみせてくれる。
大人なのか子どもなのか、男なのか女なのか、まったくわからないあの不思議な裸のヒトが、どこにもかしこにもあらわれる。
天真爛漫な顔で。
森茉莉さんのなかにはきっとこういう表情のヒトがいる。佐野洋子さんのなかにも・・