最後の七月

最後の七月最後の七月
長薗 安浩
理論社


三人の小学四年生の少年が出てきます。
うち二人は、もうすぐ(この七月中に)引っ越していく。
この町は、大きな自動車部品工場でもっていたみたい。
でもその工場が立ち行かなくなってしまって、ぽつぽつと町を出ていく人たちが増えてきている。
彼らのクラスからもこの一学期間に次々と転校していき、教室の後ろは広くなってきていた。
そして、今度は、この二人の番だ、という。
もう一人の少年は、町の開業医の息子で、脳性マヒで、
からだが不自由なため、小学校にあがったときから、登下校のときの介助を二人の少年から受けていた。
二人が転校してしまったら、彼はどうするのだろう。
頭がよくて、口が悪くて、生意気で、今まで一度だって、「ありがとう」と言うのを聞いたことがない彼。
転校する二人の少年は、最後の最後にこの彼に「ありがとう」と言わせてやろうと決心します。


彼らの終業式、転校のあいさつをしてから、この町を去っていくまでのわずか数日間の話なのです。
夏です。
タヌキ山という里山があって、朝早く、ここでカブトムシやクワガタをとる。
青大将の抜け殻をみつけ、ムカデに小便をひっかけあう。
早朝の空気、森、子どもたちの汗のにおいと夏の草いきれ、入ってはいけない場所、内緒・・・みんな子どもの夏。
だけど、それは期間限定の二度とない夏でもあります。


この物語がすてきなのは、状況(?)をあまり説明してくれないこと(笑)
さらっとしていて、そのさらっとした文章から、子どもたちのこれから先のさまざまな不安がうっすらと透けて見えてくる。
最初は、二人の少年主体。
二人が昆虫採集するのは、昆虫を自分で捕りに来られないもう一人の少年への最後の誕生日プレゼントにするためでした。
そして、決して「ありがとう」を言わない少年に、「ありがとう」を言わせるため。
でも、十年間ありがとうを言わない子は、こういうことではありがとう、なんて言わないでしょう。
第一、ありがとうを要求する、って何? きっと何かしっぺ返しがあるのでは?


なぜ、ありがとうにこだわるのか、今になって。この「ありがとう」はいったいなんだろう。
もしかしたら、「ありがとう」を言ってほしかったのは別の目に見えない何か。
今までの生活と、少し先のこの地での未来(10歳なりの)と、彼らの日常が寸断される。
その悔しさやつらさ、先行きの不安などを抱えて、
でも仕方がないのだ、どうしょうもないのだ、と受け入れるしかなかった彼らのやり場のない気持ち。
この現実に甘んじることに対して、せめて、感謝の言葉くらい、ほしいと感じたのではないだろうか。
それは、友人でも親でもなくて・・・
目に見えない何かに対して、決して「ありがとう」なんて言わない何かに対してかもしれない。
物語は、もちろん、こんなこと何も説明してくれない、冷たいのです(笑)


二人の少年の日々が続きますが、そのあいだに、もう一人はもう一人なりの日々を過ごしていたのです。
それぞれに、別れていく。別れる前の「今」。
でもその先がちゃんとやってくる。
・・・そんなこと、具体的には何も語られないんです。でも、わかるんです。
そういうことでしょう、そうだったんでしょう、でも、作者は、物語は、何も言ってくれません(笑)


脳性まひの少年が出てきますが、だからといって、涙を誘うようなどんな言葉もない。
どんな状況であろうともがんばれ、というしらじらしい励ましもない。
それでも「甘え」という言葉にびくんとして、いきなり、頬を打たれたような気がした。
別れの先までちゃんと見こしていたもの、いないもの・・・
子どもなりの思いやりが、けなげなようで、実はかなり自分勝手なエゴであったり、ではそこに友情はないか、といえば、とんでもない、
もちろん相手への思いはあるわけで・・・
それがどうにもこうにも、ね。だから子どもなんだろうなあ、とも思う。
誕生日がくればティーンエイジャーじゃ、もう大人じゃ、と言う言葉は、ただの空威張りじゃなくて、ここにも悲壮な決意、覚悟がある。
それだから、ただ不安のなかで、なすすべもなくふわふわしているものには「甘え」という言葉は効く。


余分な言葉を極力排除して、
そうかと思うと、時に「それはどういう意味だろう」と思うようなあれこれの場面(とり?あれはいったい?)などが挿入されていて、
いまひとつ意味がわからなかったりするのですが、
それも突き放してあえて説明なしのこの本なら、これが自然なのかな、と思ったり。
そうして、ここから、読者は思うさま感じるように、と水を向けられた。


だから、最後に、笑いあう少年たちの肩越しに、あの箱の中身を覗き見て、そこから広がる風景を思い出す。
その風景から切り取られた理由や、それをすることの困難さや、そのほかの書かれていないあれこれを思い浮かべて、
わたしは自分だけが知っている物語にしてしまう。
(だけど、その物語は、きっとこの本を読んだたくさんの人たちと分かち合える物語。) 
それは、これから三人の前に広がる別々の未来、たぶん二度と重なることがないだろう三つの未来に対して、
「よし、来い」とでも言うような覚悟でもあります。
七月の猛暑の中で、なんだか元気になる。