津軽

津軽 (新潮文庫)津軽
太宰治
新潮文庫


三週間かけて津軽を一周している。
友人を訪ね、実家を訪ね、酒を呑み、津軽を語り・・・


津軽は、太宰治の故郷。
これの前に読んだ短編集『走れメロス』に収録されていた『帰去来』は、
長い間絶縁されていた故郷と和解にむかう明るさと喜びを感じたのだけれど、
こんどの旅は、どこか不安定で、つねにはらはらしました。
故郷を懐かしく思う反面どこか遠く、誇るかと思えば卑下して、
その故郷の中に、自分自身を合わせようとしているように見えましたが、うまくいっているようには思えませんでした。
子どもが大人の皮をかぶって、一生懸命背伸びして、自分の正体がばれないように無理をしているみたいだ。
そのためだろうか、自意識過剰に、人の顔色を気にしてばかりいるように思えた。
そうして、無理すれば無理するほど、浮いていくように感じた。
津軽を求めつつ、自分は津軽からはもうはみだしてしまっている、ということを確認する旅のように思えて、さびしく痛ましかった。


正直、途中から少し飽きてしまったのですが、最後にこんな再会をとっておいたなんて・・・はっと居住まいを正したくなりました。
彼が育ての母とも慕う、もとの女中(子守り)のたけさんとの再会でした。
もうすぐ、たけに会える期待で、最北の地の小学校の賑やかな運動会に行き着いた太宰治
ここのこの文が好きなのです。

>・・・行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されていたというようなお伽噺の主人公に私はなったような気がした。
そうして30年ぶりの再会を果たしたたけさん。
大げさな言葉は何もなく、二人ただ、並んで座って、黙って小学校の運動会を見ている。
黙っているけれど、ここが自分のいるべき場所だ、と感じている太宰治の、
この旅行記のなかで、唯一、手足も気持ちものびのびとした文章。
はらはらした緊張感はもうどこにもない。
一人のあどけない子どもに戻っているように思えるのです。
この人、ほんとに子どもなのかもしれない。
大人のふりをする必要がなくなって、すっかり正体を現してくつろいでいる、そんな感じ。
これは、ここへ行き着くための旅だったんだなあ、そしてわたしはこれを読むためにずっと読んできたんだなあ、とも思いました。


地方の名士である実家の父母や兄よりも、自分は、たけによく似ているのだ、ということを太宰治はここでつくづくと確認してもいます。
「自分は断じて上品な育ちではない」と太宰治は言います。
たけを育ての母と慕いながら、同時に、その庶民らしさが自分の中にあることを恥じている。
一方で、自分が名家の出であることを呪いながら、家そのものである父母や兄を強く求めてもいる。
そう思うと、育ての母に会う旅は、自分が極端に相反する世界を求めていること、そして、どちらの世界からも締め出されていること、
それを確認する旅でもあったのかもしれません。
それは普通に考えても、辛いだろう、苦しいだろう。不幸だろう。
「元気で行こう。絶望するな。」と書いているその言葉はカラ元気のよう。
彼の行く末を思うと、なんだか虚しいような気がして、余計にさびしい。