薔薇の名前(上下)

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈下〉

薔薇の名前〈下〉


難しかった。でも面白かった。
わからないことが多くて、感想を書けば、自分の教養の無さや読解力の低さやらを晒すようで恥ずかしい。
だけど、そんな中途半端な読みしかできないわたしでも、ほーっとため息をついて満足し、
同時に、これからも折々思い出しては「あれはどういう意味だったんだろう」とふと考えてしまうに違いない。
そして、ある日、ふっと日が射すように「ああ、そういうことだったのか」と気づき、再びの感動を味わうこともあるかもしれない。
そう思いながら、初読の感想を書いておこうと思います。


中世。
ベネディクト会の修道院に、
ウィリアム修道士と弟子の見習い修道士アドソが到着するところから物語は始まる。
この物語は、老いたアドソによる回想記なのです。
簡単に言ってしまえば、ウィリアムを主人公の探偵役にして、
ここで起こる連続殺人事件の謎を解くミステリ、ということになる。
・・・と言いきってしまうのはあまりに乱暴すぎます。実際ミステリだけに絞っても充分おもしろいのだけれど。
そもそもこれは小説? 小説を読んだのだろうか?



☆ごめんなさい。再読のための覚書も兼ねて、以下ネタバレの感想を書いてしまいます。
どうぞ、この本をこれから読もうと思っているかたは読まないでください。









男性ばかり大勢の登場人物のなかで、ただ一人の女性の最後がとても気になりました。
あきらかに無実であるのに、だれも、彼女を助けようとしません。
あの場で、それは難しかったかもしれないけれど、
できたかもしれないのに、
キリスト教徒であるのに、
だれも、まるっきり動かないのです。
殺人に加担した修道士を救おうとはするのに。
この時代だから? 男を誘惑し堕落させる者として女を見ていたから? 人として見ていなかったから?
それにしてもどうしても納得がいかなかった。
巻末の解説の中で、村上陽一郎氏の言葉が引用されていたが、
「あれは女の子だけれども、アドソが出会ったキリストというのが『薔薇の名前』だったんじゃないかなと・・・」
という部分を読んだとき、とても納得できた。
たぶん、そうだと思った。
この本のなかのただ一人の女性だったんだもの・・・
彼女、キリストという意味の符号だったのかもしれない。


そうして、キリストは、いろいろな姿で、いろいろな場所に現れていたのかもしれない。
そして、それを知らずに、登場人物たちは、それぞれの思いもよらない役割を果たしてしまっていたのかもしれない。


薔薇の名前、「文書館」の断面図をわたしは思い浮かべています。
上下巻、どちらの扉の絵も、この断面図なのですが、花弁が重なり合った大きな薔薇に見えないこともないのです。
まんなかの空白が花芯で・・・
この建物が擁した豊かな充実を、わたしはキリストそのものに重ねます。(薔薇はキリスト?)
この花の花芯の部分に、例の書が置かれていたことは、
異端な考え方(哲学)までも、一番奥深い場所に受け入れる、キリストの懐の深さ、広さ、と思いました。
いや、ちょっと違うかな。
ウィリアムが後に言う「人びとを愛する者の務めは、真理を笑わせることによって、真理が笑うようにさせることであろう」に繋がる。
一種の「笑い」だと思う。
キリストは笑ったか、笑わなかったか、という写字室での修道士たちの論争も思い出す。
キリストは笑わなかったかもしれないけれど、心のまんなかに「笑い」を持っていたのだろう。「笑い」を認めていたのだろう。
あの本のなかには「笑い」があったから。


知識を湛えた書は、光であり、「真理」に至る道である。
人々を幸福に導くための書であるはずなのに、
渇えから欲望が生まれ、独占、奢りに変わっていく愚かさに、がっかりした。
(自分は違う、と言いきれないのが情けない)


文書館は最後に焼ける。それもキリストの磔刑に重なります。
そうして、ここを狭量に封印し、守ってきた「彼ら」は、
もしかしたら、知らずにキリスト(文書館)を迫害する人々になっていたのではないか・・・


「何であれ、純粋というものは、いつでもわたしに恐怖を覚えさせる」
「反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛から生まれて来るのだ」
ともにウィリアムの言葉。
もしかしたら、遠い国の中世の修道院の話ではないのかもしれない。
キリスト教のみの話でもないのかもしれない。
今、わたしの、これだけは!と強く希うことを思い浮かべている。
思い浮かべながら、純粋すぎてはいないかい?性急すぎてはいないかい?と自分の腹に聞いています。


>一場の夢は一巻の書物なのだ、そして、書物の多くは夢にほかならない