なずな

なずな

なずな


「なずな」という名のせいだろうか、あっさりとした植物的な子だ、と感じました。
この子だけではなくて、この子を育てる伯父との関係も。
この子を囲む、近所の人たちの関係も。
なんというか、とてもお行儀がよいのだ。衛生的なのだ。きれいすぎるくらいに綺麗なのだ。
それでも、この心地よい記録(?)は、ずっとずっと読んでいたい、と思う。
この気持ちのよい人間関係のなかにずっとずっといたい、と思う。
だけど、現実には、なかなかありえないこともわかっている。
おとぎ話かもしれない。でも、おとぎ話が必要な時があるのだ。


なずなを伯父の秀一が預かることになった背景は、かなり重たい。深刻である。
そうして、この子の成長を眺めながら喜びながら、運命の理不尽さに加担しているような気がしてしまう。
真っ先にこの喜びを味わうのは別の人間であるはずなのに。
と、そう感じること事態が理不尽なのに。
また、町の開発を巡る、何かが起こっている。それはとても小さな足音でしかないのだけれど、
確かに聞こえる。あんまり愉快な足音ではない。
温かい関係に見える近所のあの人この人も、引きずっている過去がある。


世の中はなんでも悪と善に分けたがる。白黒半々くらいが、ちょうどいいんんだ
お医者のジンゴロ先生の言葉です。
なずなをめぐる明るい風景は、少し気持ちの悪い黒への抵抗であるかもしれない。
または、瑞穂さんの「汚い空気・きれいな空気」の話じゃないけど、
なずなという無垢な存在が、人々の心の空気清浄機の役割を果たしていることもあるかもしれない。
この子を抱いて外を眺めるとき、少しだけ、心が柔らかくなる。


なずなが主人公の生活の中に出現して、当然主人公の生活は一変します。
何よりも、彼の世の中の見方、物の考え方、さらには思い浮かべる本や詩までが変わります。

子どもをひとり連れて歩くだけで、慣れ親しんだ空間把握の基準点がずれてくる。(中略)子どもの感覚をつねに想像し、それにシンクロしていくことで、人生をもう一度生き直している気さえしてくるのだ。
人は、親になると同時に、「ぼく」や「わたし」より先に、子どもが「いること」を基準に境を眺めるのではないか。
たとえ些細な日々であっても、そのなかに身を置いて、言葉を重ねることでしか開けてこない景色がある。
些細な日々、という。
明日は忘れ去ってしまうかもしれないくらいの些細な日々の些細な瞬間を大切に生きること。
この世に今互いが存在していることのありがたさ。
だれかを生かすために手を貸しているはずなのに、その何倍もの贈り物をもらっている、という気づき。
それらすべてが些細な日々の内容(の一部)であることを大切に思う。