朽ちていった命―被曝治療83日間の記録

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)


>そして気づいたことは、こうだ。核戦争であれ核事故であれ、即死者はもちろん悲惨だが、生き残った被爆者たちあるいは原発事故や核事故の被曝者たちの多くが、大内、篠原両氏のように、数日ないし数週間、あるいは数カ月、地獄の拷問に等しい経過を経て死に至る人々が続出するということだ。さらに、それでも生き残った被爆(曝)者たちも、十年後、三十年後にがんなどを発症する人々が少なくないことを、歴史は示している。その過酷な事実を知らずに、核武装論などを言いだす言論人に、私は寒気を覚える。
巻末の柳田邦夫さんの解説からの引用です。
この本の感想を書くのに、これ以上の言葉を書けないような気がします。


幾つか、心に残ったことを書きとめておこうと思います。


1999年、東海村臨界事故で被曝した三人の作業員のうちの一人、
一時に20シーベルト(!)の放射線を浴びた大内久さんの83日間の戦いの記録ですが、
何よりショックだったのは、被曝七日目に確認された血液の異常でした。
骨髄細胞の顕微鏡写真に映ったのは、ばらばらに散らばった黒い物質だったという。

>大内の染色体は、どれが何番の染色体なのか、まったくわからず、並べることもできなかった。断ち切られ、別の染色体とくっついているものもあった。
染色体は「生命の設計図」と呼ばれるそうだ。その設計図が完膚なきまでに破壊されてしまったのだと。
たった一瞬、閃光をあびた。起こったことを理解する暇もないくらいの一瞬。痛くもかゆくもない一瞬。
それが、人間を内側からずたずたに引き裂く。
吐き気がしてきた。
見たこともないその顕微鏡写真の説明が、ほんとに鳥肌が立つほど恐ろしかった。
当時、なんでもなさそうに語り笑ったり冗談を言ったりしていた比較的元気そうに見えた大内さんだったけれど、
その外見が、この瞬間、ただの壊れやすい薄皮の入れ物にしか感じられなくなった。ひたすらに恐ろしかった。
この後、医療チームの昼夜を徹した努力、家族の祈り・励ましにもかかわらず、まるで急坂を下るように悪化していくのだが、
柳田邦夫さんの解説の言葉による「地獄の拷問」…まさに拷問!)
その様相の凄さ、辛さよりも、この、一番最初の「染色体が・・・」という描写がわたしには最も恐ろしかった。
人間の体に、たった一瞬で、こんなことができる怖ろしいものは放射線のほかにどんなものがあるだろうか。


そして、この事故が起こった背景は、会社をあげて、核の怖ろしさを認識していない、ということ。
狎れだろうか。
大切にしなければならない順序を大きく間違えている。
それは人ごとではない。
核って怖いね、と漠然と考えながら、原発なんてないほうがいいんだよね、と漠然と考えながら、
それでも、この便利な生活の中でのうのうと暮らし、この暮らしに狎れ、
流されていった自分自身の姿の鏡のようでもある。


医療に関わってきた人々、医師や看護師たちの葛藤も心に残る。
どう書いたらいいかわからない、ただ頭が下がる。
寝る間も惜しんで、肉体的にだけではなく、おそらくそれ以上に精神的に追い詰められながら、
さまざまな場面で、ずっと葛藤しつづけなければならなかった、
大内さん亡きあとも、ずっと自問し続けるスタッフに、ただ、頭を下げるしかないのだ。
そして、残酷な闘いを大内さんとともに戦ってこられたご遺族に、この手記の出版を承諾されたことに、
やはり、頭を下げるしかできない。


東海村臨界事故。
あれほどの事故をなぜ忘れて暮らしていられたのか。
最後の章「折り鶴」に託した大内さんの奥さんの手紙が心に残る。
「また同じような事故は起こるのではないでしょうか」
「同じような不幸な犠牲者を今度こそ救ってあげられるよう…」
だけど、まさか、こんなにすぐに、こんな形で繰り返されることになるなんて誰が思っただろうか。…皮肉な気持ちになる。


この記録を読む限り、放射線医療のスタッフ、これだけの専門家がそろっていながら、完敗(すみません、あえていいます)だったのだ。
放射線に人間の医療は勝ち目がない、手に負えないのだ。
それをどうやって救おうなどと言えるだろうか。
長崎広島に原爆が落とされて67年。
そのあいだに、いったいいくつの核の事故が起こり、いったいどのくらいの人たちが被曝したことだろう。
そして、福島の事故は収束していない。
この事故で被曝した(今も被曝しつづけている)結果、どうなるか、もしかしたらそれがわかるのは、
わかって苦しむのは30年以上先かもしれないのに。
安全だなんて太鼓判を誰がつくだろうか。
次の事故はいったいいつ起こるのか。どこで起こるのか。どのような形で、起こるのか。


少しずつ読んでいたこの本、読み終えた今日は8月6日。67年目の原爆の日だった。