『リハビリの夜』 熊谷普一郎


>「障害」という体験は、ある社会の中で多数派とは異なる身体的条件をもった少数派が、多数派向けに作られた社会のしくみ(ハード、ソフト両方)になじめないことで主じる、生活上の困難のことである。それは少数派と社会との「あいだ」に生じる齟齬に起因するものであって、その発生原因を一方的に少数派へと帰責できないものだ。

脳性まひの著者(出産時の酸欠が原因で、脳の中でも「随意的な運動」をつかさどる部分がダメージを受けた。著者の体の状態は「脳の損傷が原因で、イメージに沿った運動を繰り出すことができない状態」と専門家は説明する)の体験を、著者曰くの「あなたを道連れに転倒したいのである」という導きのもと、文字によって追体験する。
追体験といっても、ごくごく一部にすぎないのだろうけれど、それでも、自分が多数派であり、多数派向けに作られた社会のしくみのなかで何不自由なく生きてきたのだ、という事を嫌ってほどに感じています。
自分にとってそれが、あまりにふつうで空気のようになってしまっているために、そうでない人の生きづらさが、わからない。今や、わかりたい、という言葉さえも傲慢で恥ずかしい。わかることなんてほんのわずかでしかないのだ。
もし、わたしがこのままの体をもって、少数派の人たちのために作られた社会の仕組みの中に放り込まれたらどうだろう。目線も変えなければならない。目線を変えるためにふだんの体の姿勢も変えなければならない。今まで使っていた体の器官(たとえば手とか足とか)を、ちゃんと使えるにもかかわらず封印され、自分にとってはきわめて不自然な別の器官を代わりに使え、できなければ訓練してその方法を習得しろ、それがこの社会のルールなんだ、と言われたらどうだろう・・・
多数派の仕組みに、少数派を一方的に順応させる、ということは、なんて残酷なのだろう。
そして、立場の違う人の生きにくさは、そう簡単にわかることはできないのだ。そう思うしかないのだ、と感じた。
この本を読むことはわたしにはかなりショッキングな体験でした。


前半、リハビリを続けてきた著者の、リハビリについて経験し考察したことを読みながら、じめっとした暗がりを感じていた。
全く形の合わない入れ物に入れられて、その形に合わせるように変形することを求められることもそうなんだけれど、それ以上に多数派から少数派を見る傲慢な目線が気になった。
多数派社会の中でのうのうと暮らし、ほかの価値観(?)に思いを馳せられない、多数派たちの「善意」の想像力のなさ、頑固さなども感じた。
リハビリの日々は、別の場面で、不健康なものを導き出しているように感じた。


じめっとした暗がりが開けたように感じたのは、著者が大学生になると同時に一人暮らしを始めたあたりから。
多数派向けの社会のしくみを変えることはきっと難しい。自分のからだの弱い部分を鍛えて(?)多数派に近づこうとすることは無理がある。
でも、様々な場で、様々な経験のなかで、多数派対少数派、と思っていた構造が、実は、だれもがみな少数派である、と気づく。お互いにお互いが補い合い続けなければならない、と気づく。読んでいて、はっと気持ちが明るくなった。
お互い――著者と読者の関係にもいえるかな。
たとえば、わたしは、この本に助けてもらった。今まで気がつかなかったことに気がついてショックを受けた。憤ったり恥ずかしいと感じたことも大切なことだった。
わたしは、著者に、こうして助けられた。わたしはこの本を受け取めることで、ほんのわずかでもお返しができているかな。双方向助け合えているかな。
わたしもまた、読者という意味で、小さな少数派に過ぎないのだ、と知ることはなんだか小気味よい、と感じた。


>解放と凍結との反復が他者へと開かれたときに、そこに初めて新しいつながりと、私にとっての世界の意味が立ち現れる。そして、他者との関係がほどけ、ていねいに結びなおし、またほどけ、という反復を積み重ねるごとに、関係はより細かく分節化され、深まっていく。それを私は発達と呼びたい。

多数派も少数派もなくなる。
一人の人間として、同じく人間であるわたしに、著者は、文字による体験を与えてくれ、このように声をかけてくれたのだ。