『あの日とおなじ空』 安田夏菜

あの日とおなじ空 (文研ブックランド)

あの日とおなじ空 (文研ブックランド)


小学三年生のダイキは、夏休みに、おにいちゃんと二人だけで、沖縄のひいおばあちゃんの家に行く。
初めての沖縄。

>さんごのあいだをぬうように泳ぐ、色とりどりの魚たち。
どこまでも続いていく、さとうきびの畑。
写真で見てあこがれていた沖縄は、しかし、太平洋戦争の激戦地でもあった。


アメリカ軍は沖縄の島に上陸して、日本の兵隊たちと戦った。

>想像してごらん。小さな家の中に、かいじゅうが二ひき入ってきて、大げんかしたらどういうことになるか。
なんてわかりやすいたとえなんだろう。
「みんなを守ってくれる」「たのもしい、日本の兵隊さん」は、追い詰められ、みんなを守るどころか、暴力をふるい、ものを奪うものにかわっていく。
島の子どもたちまで急遽兵隊にされ、危険な仕事をさせられて、命をおとしていったという。


「マブイを落っことす」という言葉がでてきた。
マブイとはたましいのことだ、そうだ。
とても大切なものなのに、かんたんに落としてしまえるものなのだ、という。
そして、マブイを落とした人間はもうひとではなくなってしまう。
思い浮かべるのは、恐ろしいSF映画だ。地球外生物や細菌に寄生されて、見た目は人なのに、中身は恐ろしい怪物に変わってしまった姿。
SFなんかじゃなくて、何かに寄生されたわけじゃなくて、人はなんて簡単に人ではなくなることができるのだろう、とこの本を読みながら思っていた。
ひとではなくなった人間の姿がいろいろな形で出てきたし、どんなに簡単にそんなふうになってしまえるのか、それがまた、この本の子どもたちの姿から、疑似体験させられたような気がして、ぞっとした。
私は、このマブイの話が一番印象に残った。いちばんおそろしかった。かんたんに落としてしまえるマブイは、他人事ではなかった。
そして、強い力がマブイを落とせ落とせと迫ってくるのが、戦争なのだろう。戦争をしたい権力者たちにとって、兵隊たちのマブイはじゃまなものだろうから・・・


不思議な体験をして、思いもよらないタイムスリップをして、ダイキは、戦争の時代の沖縄を一瞬体験する。
不思議は、この島のマジムン(魔物)のキジムナーとダイキの出会いからはじまる。
ひいばあちゃんにマジムンの話をきいて「ヒカガクテキ」だといってマジムンの存在を信じようとしないお兄ちゃんと、キジムナーの存在を素直に受け止めるダイキ。
ダイキがキジムナーと出会ったことは大きな意味があるし、それが「マブイ」を手放さずにすむおおきな鍵になっているように思うのだ。
思いだすのは、二つの言葉。
ひとつは、(今読んでいる)『子どもの図書館』(石井桃子)の一節。

>…たとえば、このごろは、小学一年生くらいで、目に見えないものは、全部ウソだと思う子がでてきました。月にウサギが住むのはウソだといい、また、おとなのなかにも、そういう話は、現代の子どもには必要ないものだと考える人がでてきました。つまり、こういう子どもとおとなは、人間のもっているだいじな力、想像力を、自分の中から押しだしてしまっているのです。
もうひとつは、『サンタクロースの部屋』(松岡享子)の一節。
>子どもたちは、遅かれ早かれ、サンタクロースが本当はだれかを知る。知ってしまえば、そのこと自体は他愛のないこととして片付けられてしまうだろう。しかし、幼い日に、心からサンタクロースの存在を信じることは、その人の中に、信じるという能力を養う。わたしたちは、サンタクロースその人の重要さのためだけでなく、サンタクロースが、子どもの心に働き掛けて生み出すこの能力のゆえに、サンタクロースをもっと大事にしなければいけない。
目に見えないマジムンのようなものを見えないまま信じることが、落としやすい大切な「マブイ」を守り育てることに繋がるのではないか。
ダイキとキジムナーの出会いと交流がひときわ温かく明るく感じられた。


ひいばあちゃんは、ふたを開けることさえも苦しい記憶を生涯にわたって抱えて生きてきた。
そして、たくさんのひいばあちゃんたちが、今も沖縄で苦しんでいる。「島の形が変わるほどの爆撃」は形を変えて、今も続いているんじゃないだろうか。
島のマジムンたち、見守ってほしい。
大きく広がるガジュマルの木が、ひいばあちゃんの根っこから生えた大きな大きな未来のように思える。この木がくる年もくる年も安らかに枝を広げることができるように、と祈る。
その枝の先にダイキやおにいちゃんがいる。沖縄は遠くはないのだ。
あの日とおなじ空・・・
「おまえたちは、空に、美しいものを見せてやっておくれ」というひいばあちゃんの言葉を忘れないでいようと思う。