『忘れられた巨人』 カズオ・イシグロ

忘れられた巨人

忘れられた巨人


アーサー王が世を去ったあとの時代。
人びとは、「忘れる」病(?)にとりつかれているようだ。
昨日おこったことも、ほんの数時間前のことも、なにやら記憶がおぼろなのだ。
もしかしたら、重く垂れ込める霧のせいだろうか・・・


老夫婦アクセルとベアトリスは旅に出る。
(いたはずの)息子の住む村へ、息子に会いに。
忘れの「霧」に包まれた彼らの旅は、頼りなくて、この本を読む私もまた霧の中を手さぐりでさまよっているような気持になる。
そもそも、老夫婦の息子はどこにいるのだろう、なぜ彼らのもとを離れたのだろう、何ものなのか、ほんとうにいたのだろうか。
そして、大海に浮かぶ小島のように、少しずつ見せられる記憶の片りんたちは、いったい何を意味するのだろう。
旅の道々、霧はいよいよ深まり、目的の場所は、そして旅の意味も、なんだかあやふやになっていく。
彼らの話(旅の当初の目的?)が微妙に変わってきて、読みながら、あれ、そうだったんだっけ?と首をかしげてしまう。
そして、ときどき、不思議な光がさっとさすように見えるものに、はっとし、驚く。
驚くのだけれど、なんだか、最初からそれは知っていたはずではないか、明らかだったのではないか、という気がしてくる。それなのに忘れていた? 本から流れ出てくる霧のせいか? 
なんだか奇妙な感じで、読んでいる。文字の霧の中をさまようように。


忘れる、ということを考える。記憶について考える。
過去の禍根を忘れることで保たれる平安もあるのだろう。
しかし、忘れてしまうせいで、何度も同じ過ちを繰り返すかもしれない。
そもそも、起こったことを正確に覚えていられる人間なんているだろうか。
記憶は事実そのものではない。同じ場所の同じ時間のことであっても、人によってまったく別の光景が見えたり、全く別の意味あいになったりするのだろう。
忘れたい記憶もあるし、いつのまにかいくつかの場面が合わさったり入れ替わったりしてしまうこともある。ふりかえってみれば、私の記憶も、霧の中だ。


そうではあるけれど・・・
少なくとも、誰かの意志により「忘れさせられる」ことと、自ら「忘れる」ことは、違う。
忘れさせられることで保たれる平安は、本当に平安なのだろうか。
忘れの霧のなかの人びとは、不安にとらわれているのではないか? 自分がどこから来た何者であるかということさえ忘れていることも、なぜこんなに忘れてしまうのかということもわからず、不安でいっぱいではないか。
まさに霧。霧で過去がみえないということは、目の前に断崖があっても見えない、ということではないだろうか。
この作品は、こちらに向かって問いかけているような気がする。
不安な平和を選ぶのか、(たとえ身を切られようとも)負の記憶も含めて責任をもって過去を引き受けるか・・・


最後の場面。
次の場面をどのように予想するのだろうか。いいや、そもそも、書かれていない二人の心境は、何を予想しているのだろうか。
次の場面がどうなるにしても・・・辛い場面になるとしても、その理由を彼はいま、覚えている。それは確かだ。