『ほしのこ』 山下澄人

ほしのこ

ほしのこ


>わたしは父に連れられ遠くの星から来たらしい。父がそういった。
「わたし」と父(父がいなくなってからは「わたし」ひとりで)打ち捨てられた古いバスや、浜辺の掘立小屋で暮らす。
学校に行ったことは一度もない。
父は右半身を動かすことができないが、釣りをすることが得意だった。「わたし」たちは、海から昆布や魚、山からきのこや木の実を集めて食べた。
「わたし」は小さい時には、村の子どもたちによく石を投げつけられた。子どもらは「当たったら50点、当たらなかったら0点」と点数を競いながら石を放った。


回想の物語なんだろうな、この少女も成長して、大人になったら普通の生活を送ることになるのだろうな、と想像しながら、読んでいた。
(普通の?)
しかし、読んでいるうちに不思議なことが起こり始める。
最初は、フーガのような巡り合いがあるのだな、と思った。
おや、この人はいったい・・・。
よく知っている人が、違う姿になって、繰り返し現れるような感じだった。
そのうち、現れたのではなくて、混ざり合っているのだ、と感じる。
「わたし」は「わたし」でありながら、同時に老婆であり、小さな子どもであり、猫でもある。右半身動かせない飛行士でもある。
いろいろな想念が、混ざり合い、練り合わさったり分離したり、どれが「わたし」で、どれが「おれ」なのかわからなくなる。
現実なのか夢なのか、別の世界なのかも、わからなくなる。
・・・どうでもよくなる・・・


不思議な物語だな、と思う。
読んでいる自分自身の意識さえも、物語の中の大きな意識の塊の中に混ざり合っていくようだ。
星になったみたい。
どういう物語か、ちゃんとわかっているとは言えないけれど、私が、感じているのは「いのち」のことだ。
この本を読み始めた時、あまりに惨め(と思えた)「わたし」がいつ「普通」に暮らせるようになるのだろう、と思ったことが、遠い昔のようにさえ感じられる。
なぜ、「わたし」のことを惨めだと感じたのだろう。「普通」ってなんだろう。
良いものを着て食べて、一寸だけ贅沢もして、教育を受けて、働いて、家庭を持って・・・そういうことは、「いのち」とは別のもの。たぶん、別の星のことなのだろう。
この物語の中にある大きな塊や、分離して飛び過ぎていくものたちから、大きな大きなエネルギーを感じる。原始のエネルギー。
「わたし」は言う。
「…からだが動かなくなるまで、この星で、生きる」
「強く生きる」とか「賢く生きる」「幸せになる」とか、そういうことじゃなくて、ただ「生きる」。「生きる」ものであるから「生きる」
「生きる」という言葉をまるで初めて見たようにも、感じる。