『絵本を深く読む』 灰島かり

絵本を深く読む

絵本を深く読む


子どもの本の翻訳者であり、研究者である、灰島かりさんが絵本の深いところまでおりていき、隠されたメッセージを読み解いていく。
数えきれないほどの絵本を読み、文献にあたり、作家にあい、その絵本が生まれた場所を訪ね…そうして、広げて見せてくれたその読みは、本当に深くて!


たいていは、その作品の全体に、あるいは細部に、どんなメッセージを隠したかなんてことを、作者自身は語らない。
読者はだから自由に読んでいいのだと思う。(誤読することも大いに許されているのだと思う。)
そのうえで、時に、こういう深い読み解きに触れると、はっとする。
自分の大切な友達がよりいっそう愛しくなったり、思いもしなかった読み方を教えられ、つくづくと見直したりしている。


たとえば、「成長を占う旅」の章。絵本を「少年の場合」「少女の場合」に分けて考える。
少年は冒険のために「森」へ行く。「森」へ行って「クマ(かいじゅう、大男)」に出会うことになっている。
少女はあまり森へ出かけない(女の子には森は危険だから)が、やはり「森」に相当する場所に出かけていく。ただし、女の子が出かけるのは「おつかい」のためなのだ。女の子は「クマ」には出会わない。未知の場所に出かけることが冒険なのだ。
冒険を通して子どもたちは成長する。少年はヒトとなる。でも、女の子が冒険によって、なるのは「小かあさん」だ。
たとえば、マリー・ホール・エッツの『もりのなか』『わたしとあそんで』、モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』『まどのそとのそのまたむこう』、
それぞれ少年、少女を主人公にした絵本の読み比べ、読み解きの鮮やかなこと。気にもとめなかった絵のなか、文のなかの小さな引っ掛かりが、大切なサインに変わっていく。


けれども、時代とともに、絵本の冒険は変わってきている。上記の解釈だけでは収まらなくなってきたことを頼もしくも面白くも思う。
ポストモダン」と呼ばれる一連の絵本が登場してくる。
著者は、ポストモダン絵本を「進歩や理想という『大きな物語』の終焉を迎え、『成長』という子どもの本最大のテーマにゆらぎを差しこんだもの」と定義する。
例えば、ジョン・バーニンガムの『アルド』。ラストシーンの先に何があるのかを、考えずにいられない。願わずにいられない。ずっとずっと。


著者のあとについて深く読んでいけばいくほどに、どの絵本にも、わからないことが沢山あることにも気がついてくる。
むしろ「わからない」ことが、絵本に幅をもたせ、その世界に深い奥行きを感じさせる。
著者は、「わからないこと」にいい加減な解釈はしない。こういうことではないか、と自身の読み方を披露しながら、あなたならどう読む?と読者に問いかける。
それだから、この本は、考え考え読む。読んでいるうちに、本そのものが深い「森」に変わっていくような気がする。


著者の絵本の読みこみについていくことは「森」への冒険の旅みたいだ。
その「森」に「クマ」はいるのか、いないのか。
いる。と思う。
たとえば、「ポストモダン」と呼ばれる絵本たちは、子どもの奥深くに眠る「クマ」に、起きよ、起きよ、と呼びかけているようにも思えるのだ。
目覚めたクマは何ものなのか、子ども(読者)をどうしようとしているのか、されようとしているのか、わからないから不気味でもあり、楽しみでもある。


これから生まれる新しい作品を期待しながら、著者は、「…その後を自由な読み解きのまなざしを持って、追いかけ続けることを、わたしの終わらない旅の楽しみとしたい」と結んでいる。
「終わらない旅」という言葉を反芻しているとなんだか元気になってくる。(今は、遥かな場所で旅を続けておいでだろうか)
私も、拙いながらも、読むことを楽しんで暮らしていきたい。