『ブレイスブリッジ邸』 ワシントン・アーヴィング

ブレイスブリッジ邸 (岩波文庫)

ブレイスブリッジ邸 (岩波文庫)


物語の語り手「私」が、ブレイスブリッジ邸に長逗留したのは、この邸の次男ガイと美しいジュリアの結婚式に出席するためであった。
「私」は結婚式に至る日々をゆったり過ごしながら、邸の内外の人たちの姿や、彼らの間に起こるちょっとした事件の顛末、村の催しなどを、客人の身分から、スケッチするように、書き留めていく。
大した事件がおこることもない。あるのは、いなかのゆっくりした時間の流れと、人々の行き来だ。
でも、それが長閑で心地よいのだ。
「私」があくまでも客人(余所者)に徹しているせいか、少しだけよそよそしい感じ(深刻な問題が持ち上がっているとしても、深入りしない)で描かれているのも、いいなあ、と思う。
人びとの動きを、遠くから、風景を見るように鑑賞しているようでもある。


そもそもの目的の結婚式なんかどうでもいいのかもしれない。
結婚する二人は、最初から最後まで、いつもそこにいるし、その身の上もちゃんと紹介されているのに、いつまでたっても親近感が沸いてこないのだから。
一方で、個々人の名前さえ不確かな使用人たちの活気と温もり、ジプシーたちの熱さのほうが身近に感じられるくらい。
領地に住み着いているミヤマガラスたちの暮らしぶりさえも、なんて生き生きと描かれていることか。
(わたしは、使用人たちのことを語るくだりが好きだ。アリソン・アトリーの『時の旅人』の台所の雰囲気を思い出して。)


ふっと、子どもの頃、地図を描くことが好きだったことを思い出した。
それは架空の場所の地図で、何日もかけて、何度も描き直したりしたりして、でも仕上げた覚えがない。
宝探しの地図にしようと思って描き始めたのだったかな。すごろくのようなゲームを作っていたのだったかな。
当初の目的は、あっというまに忘れてしまい、ただ細部を描くことが楽しかった。
この本を読みながら、この物語を味わうことは、子どものときの地図作りの楽しみに似ている、と思ったのだ。


人が寄り集まれば、あちらでもこちらでもなにかが始まり、なにかが終わっていく。
緩やかに進行する婚礼準備(あったのか?)のあいだにも、いくつかの恋が育ったり、終わったりのドラマがあり、それぞれに小さなお祭りのようでちょっとだけ華やかだ。


物語の終わりに、語り手「私」は、
「私が(この邸に)いま少し長く逗留したいという誘惑に駆られたのは、まだ古い英国的な特質の痕跡をいくらか残している人里離れた場所を見付けたという思いがあったからだ」と、いう。
「私」は、好ましく思う人やものごとを、ひとつひとつ愛おし気に数えあげ、それらがまもなく跡形もなく消えていくだろうことを惜しむのだ。
そういう文章を読んでいると、人びとや動物たちが織り成す日常のあれこれが、風景となって遠ざかっていくように感じ始める。
すべてが、美しい地図のようでもある。懐かしい地図のよう。