映画『インターステラー』と藤子F作品

 昨年11月から公開されている映画『インターステラー』をようやく観ることができました。劇場サイズの映像と腹に響く音響で観られてよかった、と思える作品でした。
(以下、『インターステラー』の内容に触れています。ネタばらしの部分もありますのでご注意ください)



 本作は、クリストファー・ノーラン監督の新作というだけでも楽しみでした。そのうえ、事前情報に触れたとき、キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』などに拮抗しうるかのような本格宇宙SFという期待感を抱いたので、ぜひ観てみたいと思ったのでした。
 時間の相対性、ワームホールブラックホール、事象の地平線、重力の特異点など、物理学の知識が頻出します。こういう知識の描写・説明がなされるのは本格SF小説・マンガの世界ではすでオーソドックスの域でしょうけど、『インターステラー』のような大予算のハリウッド映画においてしっかりそういう知識を前面化させているのが素敵です。そうした知識内容があまりわからなくても物語の基本ラインは楽しめるよう作られているのもさすが。親子の絆を描いた“情”のドラマとして堪能できるのです。“理”が前面化しているかのような作品ですが、実は“情”の物語だったのです。良質のエンタメになっているのです。


 私は物語以上に映像面に惹かれました。宇宙の旅を疑似体験させてもらえるのですから。ワームホールブラックホールの映像化も興味深いです。5次元世界、などという我々の世界では認識できない光景を映像化してくれただけでも映像的価値を感じます。
 それから、プロジェクトに同行したロボットの魅力! 無機的な箱のような姿なのに人間味があふれていて、気に入りました。ダグラス・トランブル監督のSF映画サイレント・ランニング』に出てきたメンテナンスロボットの魅力に近いような気がしました。そのメンテナンスロボットのデザインは、『スター・ウォーズ』のR2-D2の原型になったとか。


インターステラー』で描かれたプロジェクト名は「ラザロ計画」といいます。ラザロは新約聖書の登場人物です。ラザロは一回死ぬのですが、イエスの力によって蘇生します。その逸話になぞらえて「死に瀕した人類を神(救世主)の導きで救済する」という意味を込めてラザロ計画と名付けたのでしょうかね…。
 ラザロ(Lazarus)とは、聖書の登場人物であるとともに、ハインラインの『メトセラの子ら』『愛に時間を』といったSF小説に出てくるキャラクター(ラザルス・ロング)でもあるようです。ラザルスは、ある事情から地球を脱出して宇宙で長大な旅を続けます。ラザロ計画という名称には、そちらの意味も込められているのでしょう。宗教性とともにSF愛を感じさせるネーミングです。



 すでに多くの人が指摘しているとおり、『インターステラー』は藤子・F・不二雄先生が描いた宇宙を舞台とするSF短編との共通性がいろいろと見つかる映画でもありました。とくに、『旅人還る』『一千年後の再会』『宇宙人』といったF作品を強く思い出しました。『大長編ドラえもん のび太の宇宙開拓史』を意識せずにはいられない場面にはニヤリ。
 というわけで、ここからは藤子ファン目線で『インターステラー』を語っていきます。


 地球上の大切な人と別れて遥か宇宙へ旅立つところや、相対性理論ウラシマ効果)やコールドスリープなどが出てくるところ、長期におよぶ宇宙の旅のすえ地球で別れた大切な人と再会を果たすところなどは、『旅人還る』や『一千年後の再会』と物語構造がかなり近いと感じます。この映画の原作が『一千年後の再会』と言われたらだまされるかもしれない、と述べている方も見かけたほどです。


インターステラー』で描かれた宇宙プロジェクト名は、先ほども紹介したように「ラザロ計画」です。F先生の『一千年後の再会』は「コロンブス計画」、『旅人還る』は「フダラク計画」、『宇宙人』は「オデュッセイ計画」でした。
 コロンブス計画やオデュッセイ計画というネーミングはその由来がピンと来るのですが、フダラクって何だろう?と長いあいだわかりませんでした。何年か前にようやく「補陀落渡海(ふだらくとかい)」から取ったのだと知りました(ご教示くださった方、ありがとうございます)。行者が小舟に乗って不帰の旅に出る捨身行のことです。南方の海の果てに「補陀落」なる浄土があると信じられており、そこへ向かってひらすら海を渡るのです。『旅人還る』で描かれたフダラク計画は宇宙の果てへの不帰の旅プロジェクトですから、まことに巧いネーミングです。
 ちなみに、和歌山には補陀落渡海を多く実践していた「補陀洛山寺」というお寺があるとか。こういう話をしていると、ちょっと行ってみたくなります。


インターステラー』のラザロ計画は、滅びかけた人類を救うのが目的です。その意味で、『宇宙人』で描かれたオデュッセイ計画に近いです。コロンブス計画やフダラク計画の場合は、人類が可能な限り宇宙の遠いところへ到達することに意義を見出すプロジェクトで、宇宙飛行士は地球へ帰らないことを前提に旅立ちます。とくにフダラク計画の場合は、実利実益ではなく、ロマンやフロンティアスピリットに立脚しています。作中では、この途方もない計画の動機が、以下のように説得力を帯びて語られます。

山あれば山にのぼり、極点があればこれに到達し、深海のきわみにまで足跡を印すのが人間であります。直接の利益は問題ではない。そこにあるから行くのである。
そして、この未知に挑む心こそが、人間が人間であることの強力な証しなのです。
現在、人類に残されている未知の世界は宇宙です。太陽系近辺の数個の恒星系しか我われは訪れることができない。たかだか十光年の範囲にすぎない。
一千億個の島宇宙の、そのひとつにすぎない銀河系の、そのまたほんの片隅をはいまわっているにすぎないのであります

 そのように宇宙のほんの片隅の片隅をはいまわっているにすぎない人類が、井の中の蛙状態を脱して宇宙の果てを観に行こう、そのために宇宙飛行士は地球へ帰らないことを条件とする…というのがフダラク計画です。精神面重視のプロジェクトなのです。
 この点で、「人類を救う」という実効的な大目的があって、主人公が必ず帰ってくると娘に約束して宇宙へ旅立つ『インターステラー』とは対照的です。
 とはいえ、『インターステラー』のラザロ計画も、もう地球には帰れないかもしれないリスクの高いプロジェクトです。帰ってこれないかもしれないからこそ、必ず帰ってくると約束せねばならなかった、という側面もあるのです。宇宙船内のシーンで、地球に帰ることを前提に行動しているかに見える主人公が他の乗組員から非難されるくだりも見られました。
『旅人還る』との関連で言えば、『インターステラー』で主人公たちの宇宙船に同乗するロボットも見逃せません。『旅人還る』における“チクバ”の役回りを思わせるのです。というか、どちらも『2001年宇宙の旅』の人工知能“HAL 9000”を原型としているのでしょうけど(^^



インターステラー』で描かれた未来の地球では、人類が元気を失っています。開拓者や探検家や発明家などはもう必要がない。それどころか(多くの人はまだ気づいていないながら)滅びるのを待つばかりの状態にありました。その状態は、『老年期の終り』で描かれた“人類の老年期”のムードにちょっと似ている気がしました。



 5次元世界から本棚を通して“自宅の娘の部屋”を覗き込んだ主人公が過去の娘に必死にメッセージを送ろうとするシーンは、『ノスタル爺』で土蔵に閉じ込められた浦島太吉が過去の自分らに「抱けえっ!!」と訴えるシーンを彷彿とさせます。
 氷に覆われた惑星に漂着して座礁した宇宙船が映し出されたときは、『宇宙船製造法』のワンシーンとイメージが重なったりもしました。



 ある地点と他のある地点の距離がいくら離れていてもワームホールを通れば瞬時に2つの地点を行き来できる…。その現象を、紙を折り曲げることでわかりやすく説明しようとするシーンが『インターステラー』にありました。それと、宇宙の彼方の5次元世界と自宅の娘の部屋とが隣接するかのようにつながったシーンも見られました。この2つのシーンでは、『のび太の宇宙開拓史』を思い出さずにはいられませんでした。



 こんなふうに、『インターステラー』は藤子F作品との共通性をかなり感じさせる映画だったのです。藤子ファンの欲目ですが、藤子F作品の影響を受けているのではないか…と思ってしまうほどでした(笑) じっさいは、F先生もノーランも共通のSFを愛好している、といったところでしょうか…。


 
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