パパは何でも知っている〜「物知り博士」と「専門バカ」という二つの研究者像〜

[「専門家なのに知らないの?バカじゃないの?」]
最近、ある場所で本当にあった会話です。

ある人「矢野さんはベイズ統計学がご専門なんですよね?」
矢野「ベイズ統計学のある一分野で、モンテカルロフィルター(粒子フィルター)が専門ですが・・・」
ある人「ベイズ統計学マルコフ連鎖モンテカルロ法で使われるDeviance Information Criterionっていいんですか?」
矢野「それは専門外なので・・・」
ある人「え?ベイズ統計学者なんでしょ!?」
矢野「・・・・」

それから数分ほど経ってから同じ人との会話

同じ人「次回は矢野さんにマルコフ連鎖モンテカルロ法のご講義をいただければ」
矢野「いや、それは専門外なので、ちょっと・・・」
同じ人「そんなこと言わずに、講義してくださいよ」
矢野「モンテカルロフィルター(粒子フィルター)との比較としてマルコフ連鎖モンテカルロ法を取り上げてある程度の解説をすることは可能ですが・・・」
同じ人「いや、そんなんじゃなくて」
矢野「・・・(苦笑い。以後、会話はよそよそしく流れる)」

[末は博士か大臣か]
今では若い世代の研究者は大抵の場合、博士号を持っています。そのため、博士号を持っていながら常勤の職に就けない若い研究者は非常に多く、俗に「博士余り」などとも言われます。

さて、今日はその話とは少し違って、少し矢野の父の話をさせてください。父は戦前生まれなのですが、その世代には珍しく理学博士(具体的分野としては物理学)を持っています。今でも父とはよくこんな会話をします。

父「昔は、『末は博士か大臣か』とよく言われたもんだけど」(注:昔、利発そうな子供を誉めるときに「お宅のお子さん、将来は偉くなりますよ。末は博士か大臣かですね」という風に言うことがよくあったそうです)
矢野「今でも、大臣の数はすごく少ないから、大臣になるのは価値があるけど、博士の方は腐るほどいるからね」
父「時代は変わったねぇ」

[パパは何でも知っている]
父は僕が子供の頃、よくこんなことを言ったものです。

父「お父さんは何でも知っているよ。知らないこと以外は何でもね」(極めて真面目な顔で)

そんな父に僕はこんな風に言ったことを今でも覚えています。

矢野(幼少時)「『何でも知っている』なんて、お父さんの嘘つき!」

それに対して、父はよくニヤリと笑って言ったものです。

父「嘘は言ってない。嘘を言うのはいけないことだが、冗談を言うのはとてもいいことだ」

少し論理学をかじったことのある人ならば、「知らないこと以外は何でも知っている」というのは常に正しい、と分かると思います。確かに父は嘘は言っていません。

(余談)そんな父の影響か、僕は真面目な顔をしていきなり冗談を言うことがあり、ときどき「矢野さんは、いきなり冗談を言うから、どこまでが本当でどこからがジョークか分からないことがある」と怒られます。

[「何でもできる」奴は何もできない奴だ]
そんな父の影響を受け、大学と大学院(修士)では物理学を専攻した僕ですが、結局、自分には物理学者としての才能はないとあきらめ、一度は企業に就職しました。そして5年間の勤務後、「やっぱりもう一度研究をしたい」と思い、研究者の道に戻ってくることなりました。そんな僕に父はこんなアドバイスをくれました(父がくれたアドバイスは二つあり、どちらも素晴らしいものだと思うのですが、今回はそのうち一つだけを取り上げます)。

父「研究者の中には『俺はあれもできる。これもできる。それもできる』と自慢をする人がいるが、それはダメな研究者だ。なるなら『私の得意分野はこれだけです。でも、その分野なら誰にも負けません』と言えるようになりなさい。

しかし、ねぇ、お父さん。日本社会じゃ、それは通用しないんだよ。特に企業なんかじゃそうさ。「あれもできる。これもできる」「あれも知っている。これも知っている」って言って回らないとすぐに周りから「あいつは使えない」って言われちゃうんだ。

父「研究者の世界は厳しい。一度、世に出れば、世界中の化け物みたいな天才や超秀才と激突しなきゃいけない。連中は手加減なんかしてくれない。凡人が、そんな連中と戦うには『あれもこれも』やってはいけない。本当に研究者として生き残りたいなら、たった一つのことだけやりなさい。そして、そのたった一つのことは世界の誰にも負けないくらいのつもりでやりなさい。そうじゃないと生き残れないよ。研究者の世界で「何でもできる」って奴は何もできない奴だ」

この話を聞いて、僕は今では父の「知らないこと以外は何でも知っている」という言葉は何でもできる、何でも知っているというタイプの人たちに対する一種のアンチテーゼだったのではないかと思っています。

[It's not my specialty]
さて、何年か前にJames Durbin教授ーー1950年にDurbin-Watson検定という有名な統計手法を提唱したことで知られる大統計学者ーーが日本に来たことがありました(ちなみにDurbin先生は今もご存命です)。

当時、Durbin先生は"Time Series Analysis by State Space Models"(日本語訳)という本を出版したばかりで、僕はその本がとてもお気に入りだったので、それを持ってDurbin先生を質問攻めにしました。そして、少し難しいある種の統計量について質問したところDurbin先生は僕にはっきりとこう言いました。

"It's not my specialty (それは私の専門じゃない)"

あまりにもはっきりと大きな声でDurbin先生がこう言ったので、周りの人は皆凍り付いていましたが、僕は非常に大きな感銘を受けました。

おお、統計学史にその名を残した大統計学者Durbinがうちの親父と同じことを言っているぞ!

ちなみに余談ですが、このすぐ後にDurbin先生は自分が「それは私の専門じゃない」と言った僕の質問に極めて正確な答えをくれました。質問に答えてくれたのはうれしいことなのですが、その時の僕は正直に言うと、父の言う「化け物みたいな天才や超秀才」の底力と自分の低い能力との落差から恐怖に近い感情を覚えました*1

[物知り博士の誘惑]
研究者には大別して「物知り博士」型と「専門バカ」型の二種類がいます。物知り博士型は「何でも知って」いて、「あれもこれも」できますというタイプ。それに対して、専門バカは「自分の専門分野以外は何も知りません。専門以外のことはできません」というタイプ。

個人的には物知り博士型も専門バカ型もそれぞれに意義があると思っているので、「どちらのタイプの研究者の方が素晴らしい」とか「どちらのタイプの研究者はダメだ」などという気はありません。僕自身ははっきりと専門バカ型の研究者だと思っていますが、だからといって他の人が物知り博士型であることが悪いことだとは思っていません。

ただし、今までの矢野の経験から言うと、日本社会では物知り博士型の研究者の方が好まれているようで、しばしば矢野のような専門バカは居心地の悪い思いをすることが少なくありません。実際、よく僕のところには「○○を教えてください」とか「××をどう思いますか」と質問しにくる方がおられるのですが、多くの場合は僕から「専門外なので分かりません」と言われてがっかりされるので、いつも大変に申し訳なく思っています。

正直に言うと、僕は研究者として有能からはほど遠いです。中学高校を通じて、僕の成績は下から数えた方がずっと早かったくらいです。そんな頭の悪い僕が研究者として生き残っていくには言わざるを得ないのです。

「それは私の専門じゃない」

[あとがき]
今日は久しぶりにエッセイっぽいものを書いてみました。このエントリー「パパは何でも知っている」は僕がblogを始めた当初から書きたかった内容で、今日はこのエントリーを皆さんにお披露目できるのは非常にうれしいです。このエッセイを少しでも楽しんでいただければ幸いです。ああ、それと僕のところに質問に来る人!僕が「専門じゃないんで」って言ってもそんなにがっかりした顔をしないで!

*1:「一生かかっても、この人の足下にも及ばないや」ってことですね_| ̄|○