会社経営をはじめてから、もっぱら私服姿が多くなった。

会社経営をはじめてから、もっぱら私服姿が多くなった。





スーツを着る機会は激減し、それこそパーティーでもなければ

ネクタイをつけることさえ無くなってしまった。





家のクローゼットには、7着のスーツと2着のコート、

20本のネクタイが、淋しく掛かっている。




靴箱には、スーツ用の革靴が7足、冠婚葬祭用の革靴が

2足、これも淋しく佇んでいる。






思えば、サラリーマン時代はお洒落をするのが楽しかった。



最初にスーツを買いにいったのは20歳ぐらいの頃。

親父に連れられて近所の「洋服の青山」へ行き、

1着20,000円ぐらいの安スーツを3着ほど買ってもらった。



その頃は、スーツへのこだわりなど全く無く、ただ会社へ

行くときの制服といった程度にしか見ていなかった。




それから数年発ち、地元の食品会社へ転職することに

なり、銀行で5万円ほどお金を引き出して、また青山で

スーツを2着、自腹で買った。高い買い物だと思った。




これまでメディアで働いていた経歴を買われ、会社の

広告窓口を務めるようになったのだが、この頃に

お洒落に目覚めるきっかけがあった。





広告窓口という仕事は、主に広告代理店やメディア

営業マンとの付き合いだ。彼らは一様にお洒落な

服を着て、とてもセンスのいい立ち振る舞いをする。

それが鼻につくイヤな営業マンも数人いたが、

中には気持ちのよい性格の者がいて、すぐに親しく

なった。




そのうちの一人から、ある日、

「あなたは背が高いから、アメリカンスタイルよりも

イタリアクラシコのスーツが似合うと思いますよ」

とアドバイスされた。




その言葉の意味がまったく解らなかったので、

帰り道に本屋に立ち寄って、メンズファッションの

雑誌をいくつか買い込んだ。




それによると、スーツには主に3種類のタイプがあり、

ラインが太めで着まわしの良いアメリカンスタイル、

一般的なラインでカッチリ見えるブリティッシュトラッド、

カラダのラインに沿った細身のイタリアクラシコ

このように分かれるそうだ。



有名人を例に挙げると、

タモリアメリカンスタイル、島田伸助がブリティッシュ

トラッド、明石家さんまがイタリアクラシコ、といえば

おそらく解りやすい。




さっそくデパートへ行き、「ダーバン」という日本のスーツ

メーカーが、イタリアクラシコのスーツを多く作っている

ことを知り、けっこうな値段だったが、一着だけ購入した。



翌日、そのスーツを着て会社へ行ってみたところ、

複数の女性社員から褒められた。



アパレル業界出身の50歳代の取締役から、

「ダーバンを着ているじゃないか、僕もダーバンだよ」と

嬉しげに声をかけられた。





それからというもの、月末になると本屋でメンズファッション

雑誌を買うのが楽しみになってきた。



「ゲイナー」や「メンズクラブ」などを好んで読んだ。




イタリアクラシコのスーツを着るからには、中に着るシャツを

合わせるべきだ、ということが分かった。



シャツには、首の下の両襟の間のVラインが狭いものと

広いものがあり、イタリアクラシコの場合は広いものが合う。

安いシャツはVラインが狭いものが多く、Vラインが広い

ものを買う場合、1万円を下回るものはほとんど無い。



これもデパートのダーバンの店で、3着ほど購入した。




さらに、ネクタイの結び目の大きさ。両襟の間のVラインが

広いぶん、結び目をより大きく結んだほうがカッコいい。




ネクタイの値段はピンキリで、材質によって見た目の

美しさが大きく変わる。お金に余裕がなかったので

いいネクタイが買えなかったのだが、そんな最中に

昔から世話になっている先輩に会い、彼が着けている

高級なネクタイをジロジロと物欲しげに見ていたら、

「欲しいならやるよ」と無造作に手渡され、それ以来

週に5日は安ネクタイ、週に1日だけ高級ネクタイという

日々が続いた。高級ネクタイは「エルメス」のものだった。




革靴も買い替えた。細身のイタリアクラシコスーツには

細身の靴が合う。これは「タケオキクチ」のものを購入した。




その年の誕生日の日、例の広告代理店の営業マンから

「似合うでしょうから」と、一本のボールペンをプレゼント

された。「ウォーターマン」というフランス製のボールペン

で、これをスーツの胸ポケットに差した。





この頃から会社でも、「あの人はオシャレだね」という目で

見られるようになってきた。





社内でのポジションが高まってきた頃、会社の社長と

直接のミーティングを行なうようになってきた。



この会社の社長は地元でも有名なオシャレ社長で、

社交界で「イタリアンファッションを着たサムライ」と呼び名を

つけられるほどに服飾にこだわる人だった。




ある日、この社長の奥様から、

「社長があなたの服装を見て楽しんでるみたいよ」と言われた。



社交会でも知られたお洒落な社長の奥様なのだから、当然

男性の服飾に詳しい。社長が好きなスタイル、好きなブランド、

果ては社長のお洒落に対する概念といったことを教えてもらった。




"ネクタイは、それを着けている人より先に部屋に入ってくる"

という、ある有名なデザイナーの名句をこの奥様から教わり、

さっそく、「タイ・ユア・タイ」というイタリアの有名なネクタイ専門

ブランドのものを2本ほど買った。




翌日、社長とミーティングしていると、さすがに目ざとく、

「良かネクタイば着けとるやんか」と博多弁で誉められた。





革靴を長く履いていると、足の甲の部分にシワがよってくるが、

これを防ぐために、革靴を履いていない間、シューキーパー

という木製の足型を革靴に入れておけばいい、ということを

社長に教わり、すぐに会社帰りにデパートへ駆け込み、

自分が持っている革靴の数の分だけ購入した。



1つが4.000円ほどして、かなりの痛手だった記憶がある。




スーツハンガーも同様だ。それまでプラスチック製の細めの

ハンガーに掛けていたが、これではスーツの肩のラインが

次第にくずれてしまう。人間の肩幅に近い、木製の太めの

スーツ専用ハンガーを使ったほうがいいと知った。

これは、「ながしおハンガー」というハンガー専門店を

ネットの楽天市場で見つけ、まとめて購入した。





これをきっかけに、楽天市場のメンズファッションのお店を

くまなく見渡すようになり、

「デパートや路面の店で買うより、ネットのほうが格段に安い」

ということを発見した。




ボーナスが出たので、いいブランドのスーツを一着だけ

買おうとして、地元中心街にある「プラダ」の路面店へ行き、

18万円もする高級素材のスーツを試着し、そのスーツの

型番とサイズをメモし、それを楽天市場で検索したところ、

「インポートショップ DERA DERA」という店で、まったく

同じ型番サイズのスーツが7万5千円で売られていたので、

迷うことなく即座に購入した。あれは望外の喜びだった。




イタリアクラシコのスーツを代表する「アルマーニ」や

「エルメネジルド・ゼニア」、「ヴェルサーチ」のブランド

スーツは、楽天市場を介することで、格安で買えた。



靴製品ブランドの「フェラガモ」は、楽天市場でも

値下がりしないブランドだったので、手が出せなかった。



だが、ことスーツやシャツに関しては、ボーナスのたびに

良い品質のものを購入することに成功した。




イタリア製ブランド「オリアーリ」のシャツの着心地は最高で、

夏場のクールビススタイルのときなど、歩くたびに柔らかに

揺れるので、見た目だけで会社の同僚達と一線を画した。




楽天市場では売られていない高級スーツも一着購入した。

イギリスを代表する紳士服ブランド「ギーブス&ホークス」の

スーツで、ライトグレー地に白の縦ストライブという、分かる

人には分かるシックなドレスデザインのスーツで、このスーツ

だけは会社行事やパーティーの席にしか着ないようにした。




冬場のコートも買うべきだったが、コートほど高いものはなく、

なかなか手が出せずにいたところ、父親から一着もらった。



父親が若い頃、ボーナスをはたいて購入したものらしく、

イギリスの有名ブランド「バーバリー」のコートだった。



これはかなり高級なものだったらしく、東京出張の際に

着ていったところ、友人から非常に羨ましがられた。





このように、スーツやシャツ、革靴には、かなりのこだわりを

もってそれなりの出費をしてきたが、どういうわけか腕時計

には全く興味が沸かなかった。おかげで全体の出費は

ずいぶん抑えられた。



プラダのスーツにエスメスのネクタイをしているのに、

腕時計が無名のブランドというのはバランスが悪いねぇ」



と上司から指摘されたので、仕方なく、70万ほどする

カルティエ」の"贋物"を、ヤフオクで8千円で買って、

"これ、実は女性もので、しかも贋物なんだよねー"

と周りの笑いをとっていたほど、時計に興味が無かった。




まあ、実はこれは「ハズシ」というお洒落のテクニックで、

例えばシックなスーツにミッキーマウスのネクタイピンを

着けてみたり、ボタンダウンシャツの襟ボタンの片方を

外してみたり、シャツのカフスボタンを花柄にしてみたり、

そういう「クスッ」と笑えるポイントを作っておくわけだ。



自分の場合、腕時計に興味がなかったので、これを

「ハズシ」のポイントにしていたのだが、ここまで来ると

"お洒落のヒマつぶし"的なもので、ある程度の上級者しか

楽しめない技なのだ。



サラリーマン時代の4年間で、ここまで上達していた。




実際この頃になると、本屋で買うメンズファッション誌も

ゲイナーやメンズクラブといった入門誌を通り越して、

"ちょい悪オヤジ"の流行語を生んだ高級誌「LEON」や

渡辺謙あたりが表紙を飾る「メンズEX」を読んでいた。






そうこうしているうちに、サラリーマン時代が終わり、

会社を立ち上げ、身の回りのファッションは一気に

カジュアル路線に傾いていった。




スーツ姿の頃のファッション熱はどこへ行ったのやら、

デパートのブランド店へ行くことも減り、楽天市場

メンズコーナーを見回すことも無くなり、服を買う機会

そのものも激減してしまった。




現在、週7日間のうち、4日はジーパンカジュアル、

3日はランニングウェア、といった割合だ。




最近では、ユニクロの服の着心地の良さを知り、

上から下までユニクロ、という日もあったりする。

ちなみに、今日の上着ユニクロだ。






思えば、ファッション熱というのは、その人の環境や

精神状態に左右されるものなのだ。



若い頃は、友人や同僚からの影響を受けることが

強く、服飾を楽しむ心が豊かな状態だ。




また、スーツスタイルというものは、そのクオリティの

高さが、その人の第一印象の高低に影響を与える。

自分もそうだったが、若い頃は何かと背伸びをして、

手にした給料以上のものを求めてしまいがちだ。

今思えば、父親からもらったバーバリーのコート、

これはとても良いプレゼントだった。



生まれてこのかた、父親からもらったプレゼントの

記憶は、この1着のコートだけだ。






去年、友人に子供が産まれ、その子が先日、

1歳の誕生日を迎えた。



誕生日プレゼントを何にするか随分と悩んだのだが、

ふと自宅のクローゼットを開けてみると、そこに父親から

もらったバーバリーのコートが下がっていた。




この子が将来、スーツスタイルで仕事をするようになって

お洒落心が芽生えたとき、おそらく自分のように、給料

以上の背伸びをするかもしれない。そのとき、自分が父親

からコートをプレゼントされたように、誰かから嬉しい

プレゼントをもらったとしたら、この上ない喜びだろう。




そう思い立ち、その子の1歳の誕生日パーティーには、

子供服でもオモチャでもなく、「高級万年筆とポールペン」

をセットで持参し、"20歳を過ぎたら開けて良し"という

奇妙な条件付きでプレゼントした。





この子が2歳、3歳と誕生日を重ねるたびに、この奇妙な

条件の付いたプレゼントを贈っていくつもりだ。





END