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kojitakenの日記

2011-09-11 「黒い正力亨」鹿内春雄の「業」

「黒い正力亨」鹿内春雄の「業」

まさか「9・11」に鹿内信隆・春雄親子について書くことになろうとは思わなかった。


はてなブックマーク - 右翼によるフジテレビ批判の底流にあるもの - kojitakenの日記 より。

hiruhikoando フジテレビ, 産経新聞, 政治

産経鹿内家の話は佐野眞一氏の『あぶく銭師たちよ』http://p.tl/RmTzに詳しい。 2011/09/08


また佐野眞一か、と思いながら、本屋で探してみた。近所の文教堂書店*1にはなかったが、神保町三省堂書店には置いてあったので早速買った。これで佐野眞一文庫本を買うのは、今年に入って6冊目(5作目)になる。


あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝 (ちくま文庫)

あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝 (ちくま文庫)


この本は、単行本初出が1989年(平成元年)。初出時の書名は、現在は副題になっている『昭和虚人伝』。佐野眞一にとっては正力松太郎は「巨魁」ならぬ「巨怪」で、鹿内信隆鹿内春雄は「巨人」ならぬ「虚人」なんだなと、タイトルだけで笑ってしまう。蛇足だが、読売ジャイアンツをアンチが「虚人」あるいは「虚塵」と表記するのは昔からのスタンダードだ。

鹿内信隆・春雄親子を取り上げたのは、6章建ての本書の5番目に置かれた「父子テレビの野望・鹿内春雄殉職」。初出は『文藝春秋』1988年6月号(但し単行本が出版された1989年に加筆されている)だから、鹿内春雄が同年4月16日に死んた直後のゴールデンウィーク明けには早くも発表されたことになる。佐野眞一も仕事が早い、と思いきや、佐野は春雄の死の2か月前から鹿内父子を取材していたとのこと。


序文から佐野眞一は辛辣だ。以下引用する*2

「新聞の生命はグロチックとエロテスクセセーションだ」というステキな文句を残し、日本で最初の民放テレビを開局した正力松太郎は、メディアの世界の確信犯であり、「魅力ある俗物」だったが、フジ・サンケイグループの鹿内信隆・春雄親子は「軽チャー」などという言葉で煙幕を張りながら、結局、企業の私物化に走った小物でしかなかった。


早くも「佐野節」が全開だ。佐野は、正力松太郎中内功、それに甘粕正彦など、自身が思い入れのある人物を引き合いに出して、いろんな政財界の有名人を「小物」呼ばわりするのが大好きだ。つい最近も原発の導入に絡んで、中曽根康弘正力松太郎と比較して「小物」と評しているのをさる雑誌で立ち読みした。


本文も、その書き出しから引き込まれる。以下引用する*3

 フジテレビの人気番組「オレたちひょうきん族」で、こんなギャグが流されたことがある。ポーカーの場面。一人が、同番組プロデューサー横澤彪の似顔絵を描いたカードを示し、「横澤のスリーカード」といって卓上のチップを総ざらえしようとする。すると、もう一人がそれを制し、「鹿内のワンペアー」といいながらチップを奪い返す。


右翼によるフジテレビ批判の底流にあるもの - kojitakenの日記 で紹介した明石家さんまのギャグは不正確で、正しくは佐野が書いた通りだったらしい。つまり、「鹿内のワンペア」が「横澤のスリーカード」に勝ってしまうという、フジテレビの「鹿内一族独裁体制」を皮肉ったところがミソだったのだ。なお、「横澤彪」の「彪」を「たけし」と読むらしいことは、このブログ記事を書くためにネット検索をかけて初めて知った。いや、今年1月8日に横澤が死んだ時のテレビ報道で知ったに違いないが、早くも忘却していた。それくらい、横澤彪とは私にとってどうでもよい人間だった。

私は「オレたちひょうきん族」という番組が大嫌いで、自分からは決して見なかったのだが、ある時実家で家族がこの番組を見ていた時、たまたまこのギャグを見せつけられて、あまりの不愉快さに鼻で笑ったあと鹿内春雄の悪口を口走った記憶がある。20年以上経った今、鹿内一族及び内輪ウケを視聴者に押しつけるフジテレビに対する不快感の記憶だけは強く残っていたが、ギャグ自体の記憶は曖昧になっていた。

佐野眞一は書きたい放題で、鹿内信隆・春雄親子を金日成・正日親子になぞらえ、「死者に鞭打つつもりはない」と書きながらビシバシと鹿内春雄を鞭打ちまくっている。以下引用する*4

 春雄の突然の訃報が流れる約二週間前の(昭和)六十三年(1988年)三月末、サンケイ新聞大阪本社幹部社員の急死が報じられた。新聞では急性心不全とされていたが、実は生駒山中での覚悟の縊死だった。

 自殺の理由は不明だが、六十二年六月、系列のテレビ局から突然サンケイ新聞への出向命令を受け、それ以来悩みをかかえていたためともいわれる。春雄の死に必ずしも同情的な声が集まらないのは、こうした社員たちの悲劇が繰り返されてきたためである。

(中略)

 こんな匿名の投書が舞い込んできたこともあった。

フジテレビ鹿内親子の取材で苦労しているようですが、関係者の口の固いのは、下手をすると消されてしまう危険があるからです。昭和五十一、二年頃フジテレビの経理担当役員がある日から姿を消し消息不明で今に至る迄姿を見た者はありません。殺されたという説、海外に拉致されたという説、マスコミ会社とは名ばかり、恐怖と暴力と親子とその取り巻きの会社です>


ところで鹿内春雄だが、私がこの男について持っているイメージは「黒い正力亨」である。正力松太郎の息子で先日死去した正力亨は、基本的に善人だった*5。しかし、鹿内春雄は父・信隆と確執劇を繰り広げた。エスカレーターで慶応大学に進学できる慶応高校時代の成績が悪い「落ちこぼれ」だった点では安倍晋三をも連想させる。父・安倍晋太郎や父方の祖父・安倍寛を内心では蔑みながらも母方の祖父・岸信介を今でも崇拝している安倍晋三は、母・安倍洋子の言いなりのマザコン男と言われているが、鹿内春雄も相当なものだったようだ。鹿内春雄の母・英子には父・信隆は頭が上がらなかったらしい。

頼近美津子は実は鹿内春雄の3番目の妻で、鹿内春雄はそれまで二度結婚している。最初の妻・佳代子は英子との折り合いが悪かった。以下佐野の著書から引用する*6

(前略)結婚生活は順調にいくものと思われたが、姑の英子と妻の佳代子の感情のもつれから春雄夫妻が鹿内家を飛び出すという破局を迎える。

 このとき、母親の英子は「家を出るなら財産は一切譲らない」と春雄に迫ったという。

 仮にこのとき春雄が決然として鹿内家を捨て、妻と添い遂げる決意を見せていたならば、その後の春雄の人生は全く変わったものになったはずである。

 だが春雄は、マザコン青年の見本を示すかのように、英子の意に添わなかった妻と別れ、おめおめと鹿内家に帰っていくのである。

 その後この一件は、夫婦の間で子供を奪い合うという泥仕合にもつれ込み、軽井沢で子供を奪い返しにきた佳代子を、春雄が車で引きずるという傷害事件にまで発展した。結局、二人の離婚が正式に成立したのは五十六年四月、五年半にも及ぶ調停を経てのことだった。

 当時、堀佳代子は「週刊文春」のインタビューに、次のように答えている。

「子供を奪おうとしたのは、血の通わない人ばっかりの鹿内家では、とてもまともには育たないと思ったからなんです」


こんな話を読むと、やはり佐野眞一が書いた小泉純一郎一家の話をいやでも思い出す。小泉純一郎にも「佳代子」という名の元妻がいて、夫婦の間で子供の奪い合いを演じた。私は5年前の広島原爆忌の日に書いた きまぐれな日々 小泉純一郎と安倍晋三と「女系」 で、佐野の著書から引用している。以下当該ブログ記事から孫引きするが、小泉純一郎一家を取り上げた佐野の本は現在では文庫化されている(下記)。


小泉政権―非情の歳月 (文春文庫)

小泉政権―非情の歳月 (文春文庫)


小泉家の血への強いこだわりは、純一郎の離婚後、親権をめぐって妻側と激しく対立したわが子の争奪戦にも現れている。元妻の宮本佳代子とごく親しい関係者によれば、小泉家は長男の孝太郎、二男の進次郎の親権をとっただけではまだ満足できなかったという。

「妊娠六ヵ月で離婚された佳代子さんが一人で三男の佳永くんを産むと、小泉側は親権を主張し、家裁での調停に持ち込まれました。その結果、ようやく佳代子さんが佳長くんを引き取ることができたんです」

(中略)

この関係者によれば、三男の佳長が、「父親と二人きりで会いたい」と涙ながらに小泉事務所に電話で訴えてきたことがあったが、その話を秘書官の飯島から伝え聞いた信子は、「血はつながっているけど、親子関係はない」と冷たく言い放ったという。


金日成・正日、鹿内信隆・春雄、そして小泉純一郎・進次郎。どうして権力者はみな「血」(「世襲」)にこだわるのだろうか。


鹿内春雄は、1981年4月に堀佳代子との離婚が成立した翌月の同5月、平尾昌晃の元妻だった服部暁子と「バツイチ」同士の再婚をしたが、暁子はその翌年、なんと28歳の若さでくも膜下出血で亡くなっている。くも膜下出血は、日本人の約5%が持っているという脳動脈瘤を起こしやすい体質の人がかかる病気であり、若年者でも発症するのだが、若年者がこの病気にかかる場合、強いストレスに晒されたことが原因になる場合が大半だ。普通に生活していれば大きくならない動脈瘤が、強いストレスに晒されることによって大きくなり、破裂に至るのだ。その例は特に芸能界で目立ち、2004年には双子の女性によるデュオ「DOUBLE」のSACHIKOが25歳の若さでこの病気を発症して急死した例がある。服部暁子も、鹿内春雄との結婚生活で極めて強いストレスに晒されたに違いない。頼近美津子は3番目の妻で、結婚は1984年だった。

私はこれまで、頼近美津子鹿内春雄との結婚を視野に入れてフジテレビに移籍したものとばかり思い込んでいた。頼近のフジテレビ移籍は1981年であり、それまで頼近に好感も嫌悪感も持っていなかった私は、この移籍を機に頼近に反感を持つようになり、鹿内春雄との結婚でその反感は決定的に強まったが、基本的に頼近美津子が嫌いだったのではなく、鹿内一族が大嫌いだっただけの話だ。


鹿内春雄の業績だと思っていたフジテレビ視聴率ナンバーワン」にしても、実は鹿内信隆によって関西テレビに追い払われた村上七郎という人が布石を打ったもので、佐野眞一に言わせれば、

春雄はいわば議長就任祝いとして、村上からその手柄を横取りしたにすぎない。

とのことらしい*7


なにしろ鹿内春雄産経新聞の社員の47%にも当たる700人を大量解雇した非常識な労務政策をとった人間だ。そんな人間を私がかけらほども評価するはずはない。しかもこの男は巨利を貪りながら節税に励み、2005年に逮捕された堤義明から「節税」の手口を学ぼうとした。このあたりについては長くなるので紹介は割愛するが、興味をお持ちの方は佐野眞一の著書を直接参照されたい。

鹿内春雄の死後、父・鹿内信隆は間髪を容れずにフジサンケイグループの「議長」に復帰し、娘婿の鹿内宏明を議長代行に指名して後継者と定めた。しかし1990年鹿内信隆死去を受けた鹿内宏明の体制は1992年の「産経クーデター」によって瓦解し、「鹿内王朝」は終焉を迎えたのだった。

鹿内信隆・英子夫妻は、鹿内春雄夭折頼近美津子の責任だ、と思い込んだらしい。ネット検索をかけると、英子が西洋医学を嫌い、祈祷や漢方だけで春雄の病気(B型肝炎)を直そうとしたのが春雄の夭折の原因だという説が流れているが、真偽のほどは定かでない。だが、少なくとも頼近美津子より鹿内英子の方が春雄の夭折に大きく寄与したことだけは間違いないだろう。

鹿内春雄という男がここまで悪行を重ねていたことを私は知らなかったが、鹿内信隆の「正論」(極右)路線と鹿内春雄の「軽チャー」路線の両方を嫌っていた私は、鹿内春雄が死んだ時にも同情はしなかった。日常的にブログを書いている現在だったら、中川昭一死去の報を受けて、その死に弔意を表さないばかりか中川を批判した時に非難を浴びたと同じように、鹿内春雄を批判する文章を書いて一部の読者から強く非難されたに違いない。

鹿内春雄の死去から1か月も経たないうちに『文藝春秋』に発表された佐野眞一の文章に、「弔意」のかけらもないことを見出して、大いに意を強くした次第である。

*1神奈川県発祥の書店チェーン。かつて溝ノ口本店でさえしょぼい品揃えだったことを知っている私は、文教堂東京ばかりか全国に進出している現状に驚いている。香川県発祥の宮脇書店も同様だが。

*2佐野眞一『あぶく銭師たちよ! - 昭和虚人伝』(ちくま文庫, 1999年) 224頁

*3前掲書225頁

*4前掲書226-228頁

*5http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20110815/1313411802

*6前掲書244頁

*7前掲書256頁

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