kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「官僚支配批判」と「政治主導」の欺瞞

2007年から2009年にかけて民主党が躍進したのは、小泉・竹中の「構造改革」による格差拡大や貧困問題が「政権交代」によって解決されるのではないかという人々の期待ゆえだったと思う。事実、3,4年前には『週刊東洋経済』が北欧特集を組んだり、新自由主義を信奉していた学者が「転向」を宣言したり、散々に叩かれるようになった竹中平蔵の釈明のためにテレビ番組が組まれたりしたものだ。しかし、政権が交代しても民主党政府はいっこうに成果をあげられなかった。格差はいっこうに縮まらないし、民主党は、製造業への派遣禁止も、企業・団体献金の全面禁止も、取り調べの全面可視化も、何一つやらなかった。

取り柄がなくなった民主党だが、党内の反主流派(要するに小沢一郎一派)の言うこともすっかり様変わりした。看板だけはかつての「国民の生活が第一。」のままだけれど、格差や貧困のことはもはや何も言わなくなり、「官僚支配の打倒」や「政治主導」ばかり言うようになった。

これについて、確か誰だったか学者が「官僚批判は新自由主義のドグマ(教義)だ」と言ってなかったっけかなあと思っていたのだが、そんなところに下記の「はてなダイアリー」記事を見つけた。
2011-11-23


この記事は、野口雅弘著『官僚制批判の論理と心理』(中公新書, 2011年)の書評だが、記事から特に興味をひかれたくだりを抜粋する。

戦後の日本で官僚批判が大々的に展開されたのは、バブル崩壊後の1990年代あたりからであった。それまでは、官僚は「無能な政治家」に代わって日本を引っ張っていると言われ、一部を除いては、比較的高く評価されていたのだ。そのため、日本では、官僚批判や官僚制批判は最近のことと思われやすいが、実は、官僚制批判の歴史は古く、なんと官僚制という語の成立した18世紀中頃には始まっていたのだそうだ。つまり、官僚制とその批判は、歴史的には「ペア」で存在していたということになる。


前にも当ダイアリーで取り上げたことがあるかもしれないが、比較的最近、ある左翼崩れの「小沢信者」が「これからの政治の新しい対立軸は『官僚支配』対『政治主導』だ!」などと、さもものすごい大発見をしたかのように興奮してブログ記事を書いていたことを思い出して、笑ってしまった。「小沢信者」氏の「新発見」は、世界的にはなんと250年前から公知だったのだ(笑)。

テクノクラートによる「支配」は、どのようにして正当性を与えられるのか。それがハーバーマスの問題意識であり、この「正当性」を疑うことこそが、現在の官僚制批判の主流であるといえる。日本でいえば、「護送船団方式」で高度経済成長を実現できた頃は、その利益を国民も享受できたので、多少の利権や癒着があっても大目にみられていた。ところが、バブル崩壊でこうした前提が崩れたことで、いわば日本におけるテクノクラート支配の正当性が失われ、それが1990年代以降の官僚バッシングにつながったのだった。

こうなってくると、次に起きることはだいたい決まっている。官僚支配の正当性がゆらいだ結果、魅力的に見えてくるのが「小さな政府」であり、後に述べる「政治主導」である。新自由主義がこうしたタイミングで登場したのは、決して偶然ではない。「後期資本主義国家においては、経済へのいかなる政治介入も、市場の論理を踏みにじり、特定の人々の既得権をつくりだし、擁護するものに見えてしまう。これを回避するには、介入をミニマムにする、つまり『小さな政府』が有効な方向性として浮かび上がってくるというわけである。このとき『民意』は、容易にそちらの方向に誘導されていく。『より多くのデモクラシーを』という方向性と、『より小さな政府を』という新自由主義の共闘による官僚制批判は、『正当性』をめぐる争いに直面して、後者に絡め取られていくのである」(p.94〜95)


このくだりから思い出したのは、『きまぐれな日々』にいただいた杉山真大さんのコメント*1である。以下引用する。

何と言うのかな、誰もがネオリベに親和的だったりする歪んだ風潮の中では、どんな政治的潮流もハシズム的なものに収斂されてしまうとしか思えないんですね。個人的には(一部で持て囃されている)ベーシック=インカムも、この流れに吸い込まれるって気がするのですが・・・・・それこそ再分配ばかりか社会政策全体の放棄でしかないのに。

2012.01.04 12:48 杉山真大


ベーシック・インカムについての杉山さんの見解には、伊賀篤さんから反論をいただいているが、この記事ではその件には立ち入らない。ただ、「どんな政治的潮流もハシズム的なものに収斂されてしまう」というのは言い得て妙だと思った。杉山さんのこのコメントは、某所でも話題になり、同感だとの意見で皆うなずいていた。


再び『自治体職員の読書ノート』からの引用。

そして、同時に求められやすいのが、政治主導である。官僚に任せてばかりいてはダメだから、「われわれ」が選んだ政治家がきちんとリーダーシップをとるべきだ、という意見自体は、もちろん正当なものだ。しかし問題は、現在の複雑極まりない社会状況において、行政は「原理的に割り切れない、パッチワーク的な構造物たらざるをえない」(p.117)ことである。そこに踏み込んで「改革」をやろうとすると、「財源の問題に直面せざるをえず、またわかりやすい『公平性』では割り切れない、さまざまな『介入』に対して説明が求められ、試行錯誤をくり返さざるをえない」(p.116〜117)。そこには、必ず批判を受ける余地が生まれる。そして今の日本の社会状況、特にマスメディアの論調は、そうした「試行錯誤」を受容することはまず考えられない。思えば政権交代後の民主党が陥ったのは、まさにこの泥沼的な状況であった。

こうして、「強いリーダーシップやブレのない一貫性を求める政治家は、新自由主義に引き寄せられる」(p.116)ということになる。「対外的にはタカ派で、対内的には『小さな政府』を唱えるというのが、もっとも無理がない。こうすれば、決定の負担を縮減し、筋を通しやすい」(同)からだ。小泉元総理が絶大な人気を誇り、「みんなの党」が大きな支持を集めている理由が、ここに見事に読み解かれている。政治への期待に政治家が応えようとすると、その選択肢は必然的に「小さな政府」しかないのである。だがそれは、支持率と引き換えに、市場の暴力性に国民をさらすという「悪魔の取引」であるように思われる。むしろ著者が言うように、「ゴタゴタの不可避性に対する認識と、それゆえの我慢強さ」(p.117)をわれわれ一人ひとりがはぐくむ以外に、この状況から抜け出す手だてはないのだろう。


この記事で引き合いに出されているのは小泉純一郎と「みんなの党」だが、もちろん上記の指摘は橋下徹にも当てはまる。そして、「国民の生活が第一。」を看板にしながら、今では「官僚支配批判」と「政治主導」しか言わなくなった小沢一郎が「私の考えは橋下市長と同じ」と言う理由もよく納得できる。

新自由主義を撃とうという心ある人間は、今こそ「官僚支配批判」と「政治主導」の欺瞞を衝かねばなるまい。