kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

尾崎行雄(プロ野球・元東映フライヤーズ)死去

訃報を知ったのは昨日(14日)の昼休み、コンビニに張り出してあった夕刊紙の見出しによってだった。「尾崎行雄さん死去」とあったが、一瞬「ガクドウ」という名前が脳裏をかすめたのち、そういやプロ野球にもそんな名前の名投手が昔いたような、と思い返した。しかしその人の現役時代は全然知らないのだった。享年68と知って驚いた。なぜって同僚だった張本勲よりも若いからだ。張本勲なら現役時代から知っている。但しにっくき読売の選手としてだが。


http://mainichi.jp/sports/news/20130614k0000m050126000c.html

訃報:尾崎行雄さん68歳=「怪童」東映、日拓で活躍


 プロ野球東映、日拓(現日本ハム)で投手として活躍し、「怪童」の異名をとった伝説の豪速球投手、尾崎行雄(おざき・ゆきお)さんが13日、肺がんのため急死した。68歳だった。先月に体調不良を訴え、今月初めに東京都内の病院に入院していたという。通夜は18日午後6時、葬儀は19日午前10時、東京都荒川区町屋1の23の4の町屋斎場。喪主は長男力(ちから)さん。

 大阪・浪商高(現大体大浪商)で1年夏からエースを務め、3季連続甲子園出場を果たした。2年時の1961年夏の甲子園で優勝を果たした。その後17歳で高校を中退し東映に入団。1年目の62年には20勝を挙げて、球団初のリーグ制覇に貢献。新人王を獲得した。

 65年には27勝12敗で最多勝投手に輝いたが、右肩の故障もあってプロとしての活躍の時期は短く、73年に29歳の若さで現役を引退。通算12年で107勝83敗の成績を残した。

毎日新聞 2013年06月13日 23時59分(最終更新 06月14日 01時23分)


昔は高校野球プロ野球で投手を酷使するのは当たり前だった。記事にもあるように、尾崎行雄は1965年に27勝12敗、翌66年にも24勝17敗だったが、67年に6勝14敗と負けが込むと、その後は5年後の1972年に3勝をあげただけで、翌73年に29歳でもう引退してしまった。私がリアルタイムでプロ野球を見ている期間では、1972年に3勝していて、その時に尾崎の復活勝利を報じる新聞記事が載ったに違いないが、覚えていない。当時家でとっていたのは毎日新聞の大阪本社版だった。毎日はそのプロ野球との関わりの経緯から、かつてはパ・リーグの試合をセ・リーグ以上に報道していたように思うが、大阪本社版では在阪球団中心の扱いだった。もっとも尾崎は大阪出身のスター選手だったが。

活躍期間の短さでは権藤博(元中日)を思い出させるが、尾崎は権藤より最盛期の年間勝ち星が少なく、かつパ・リーグの所属で、早く球界から退いたことなどが重なって、名前が思い出されることも少なかったのかもしれない。毎日新聞の訃報記事に載っている写真を見ても、おそらく後楽園と思われる球場のスタンドはガラガラだ。現在の札幌ドームのファイターズ戦とは雲泥の差である。

「読売(あるいはセ・リーグ)にあらざればプロ野球に非ず」の時代に、指導者に酷使されて太く短い選手生活を余儀なくされた非運の名投手というべきか。謹んで故人のご冥福をお祈りする。

東京都議選の絶対得票率の変遷をプロットしてみた

昨日(14日)、東京都議選が告示されたが、今回から都議選の有権者となったので、過去の都議選の結果はどうだったのだろうと思って調べてみると、なかなか興味深いものがあった。都議選はどういうわけか国政の節目にあたる年に行われることが多い。特に元号が平成になってからはそうで、消費税が創設された1989年、政権交代のあった1993年、山一証券が倒産した1997年、悪しきコイズミブームが日本を席巻した2001年、やはりコイズミが郵政総選挙をやる直前の2005年、民主党が圧勝した政権交代選挙直前の2009年と続いた。

下記のグラフにプロットしたのは各政党の絶対得票率(政党の得票率に選挙の投票率を掛け合わせたもの)の推移である。

これを見ると、自民党は1965年から1977年までの間、絶対得票率が上昇していたが、80年代以降はずっと低落基調にあることがわかる。また、共産党公明党は定評通り堅い固定票を持っているが、それでも両党とも長期低落傾向にあって、共産党は1973年、公明党は1985年がそれぞれピークだった。

1965年の都議選で得票率は2位ながら第一党になった社会党は、以後支持率を急落させたが、1989年に消費税に反対して参院選で圧勝した時だけ突出した得票があった。そのバブル的な得票をさらに規模を大きくして20年後に繰り返したのが前回都議選における民主党だった。

一度だけのバブルなら日本新党があった。一度しか都議選を戦っていないので、グラフでは点で表示されているだけで見づらいが、1993年の都議選で絶対得票率6.2%だった。このうち多くは1989年の都議選で社会党に投票した人たちが流れてきたものと見られる。

そして、社会党にも細川護煕・七党連立政権にも新進党にも裏切られた人たちは、1997年の都議選では棄権をもって報いた。この年の都議選の投票率は40.08%だった(都議選の最低記録)。同様の投票率低下は2005年にも見られた。この年の都議選の投票率は1997年に次いで低い43.99%だった。東京都民は、その直後に「刺客戦法」などの「小泉劇場」に興奮させられることになろうとは夢にも思わず、都議選の時点では小泉純一郎にも匙を投げようとしていたと見られる。面白いことに、民主党政権交代を遂げる直前の2009年の都議選では、2005年と比較して自民党の絶対得票率が上がっている。それでも自民党が都議選に負けたのは、2005年よりも10ポイント以上も上がった投票率の票の多くが民主党に流れたからだった。

その民主党バブルは今や完全に弾けている。少し前までは、前回民主党に投票した有権者の一部は棄権して投票率を下げるものの、一部は日本維新の怪などの「第三極」とやらが民主党から流れた票を吸収すると見られていた。1989年の社会党バブルが弾けたあとの1993年都議選における日本新党の再来になるかと見られたのだ。しかし、橋下が大コケしたためにその可能性もなくなった。維新の怪の獲得議席はほとんどないのではないか。橋下は、地元・大阪ではともかく、東京では20年前の日本新党にも遠く及ばない微小なバブルしか生成できずに終わりそうだ。そして、橋下の没落と同時に「国政政治家としての石原慎太郎の終焉」もはっきり宣告されよう。

間違いなく投票率は下がり、バブリーに票を集める野党がないと見られるために、議席自体は自民党が大幅に伸ばし、「自民圧勝」と報じられる結果になるだろう。しかし、自民党の絶対得票率自体はさほど伸びないのではないかと思われる。

なお、グラフに「小沢」とあるのは、1993年の新生党、1997年の新進党、2001年の自由党を指す。つまり、自民党または民主党に属していなかった時代に小沢一郎が属していた政党の総称である。1993年から2001年までの間、「小沢党」の支持率はじわじわ上昇していたが、新生党新進党および自由党の都議選における獲得議席はずっと「0」であった。つまり、細かく見れば都市部(東京)でも小沢一郎の支持率が微増していたとはいえ、しょせん小沢一郎は「都市型」ではなく「農村型」の政治家だったということだ。その小沢が嘉田由紀子と組んで「日本未来の党」を結成して臨んだ昨年の衆院選では、都市部の「脱原発」票を当て込んでか、同党は地方にはほとんど候補者を立てず、千葉県などに大量の候補者を立てる「都市政党型」の戦略に拠ったが、これは大変な間違いだったといえるだろう。ネットの「小沢信者」は地方よりも都市部に多いと思われるが、彼らは票に結びつく存在ではなかったのである。そのことを理解できずに己を過信した小沢一郎の政治生活における最大級の失敗が「日本未来の党(への潜入)であった。今回の都議選ではその旧「日本未来の党」を乗っ取ってできた「生活の党」も候補者を立てているようだが、果たしてどのくらいの得票になるのか見ものである。

間違いなく確信できるのは、1993年新生党、1997年新進党、2001年自由党と続いた「小沢党」(除く自民・民主)の「都議選獲得議席ゼロ」の伝統を「生活の党」も必ずや受け継ぐであろうことだ(笑)