kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「安倍晋三夫妻には子どもがいないから」という批判は最低の「筋悪」

これから紹介する記事に、強く共感した。

「安倍首相はお金もあるし、子どももいないから未来の景気なんてどうでもいい」 - 斗比主閲子の姑日記(2016年3月18日)

こんなブックマークコメントを見かけました(引用者註:NHKニュース「麻生財務相「消費税 予定どおり10%に」についた「はてなブックマークhttp://b.hatena.ne.jp/entry/topisyu.hatenablog.com/entry/ad_hominem_abusive からの引用)。

すごく根本的に、この人たちは未来の景気なんてどうでも良いのよ。死ぬまで十分な金はもう持ってるし、安倍さんは子供とかもいないし。

私は消費税増税を来年4月に行うのは得策ではないと考えている立場です。理由は何とでも言えますけど、別に経済の専門家でもないので、私の意見はあまり意味はないでしょう。数年前からクルーグマンスティグリッツが主張しているので、そうなんだろうと思っているのは大きい。

(リンク省略)

かつて、安倍首相は2014年にクルーグマンと会談したことで、2015年10月に消費税を10%に増税することを延期したという話がありました。

(リンク省略)

今回、消費税増税に反対しているスティグリッツをわざわざ日本に招聘したのも、同様に来年4月に予定されている消費税の増税を延期することを想定してのものかと考えています。

一方で、IMFは日本の財政健全化のために消費税は増税すべきだというスタンスなのもご承知のとおりです。

(リンク省略)

財務省はこういうこともあり消費税増税をするべきだというスタンスでしたし、財務大臣である麻生さんが予定通り来年4月に消費税増税を主張することには違和感はありません。

私が、そういう考え・ポジジョンであることをまずはお伝えします。

その上で、先ほど紹介した、

すごく根本的に、この人たちは未来の景気なんてどうでも良いのよ。死ぬまで十分な金はもう持ってるし、安倍さんは子供とかもいないし。

についてコメントします。

まず、個人が何をどう思おうと、それをどう表現しようと、脅迫等でなければ自由ですよね。だから、こういうことを書いてはいけないとは思っていません。現状の政治に不満があるからこそ出た発言だろうとも思う。

でも、これを言っちゃうのはかなり筋悪だと思います。特に、"安倍さんは子供とかもいないし"というところ。要するに、「子どもがいないこともあって安倍首相は未来の景気はどうでもいいと考えている」と言いたいということですよね。

筋悪だというのは、本人に子どもがいないことを理由に、だからダメだと言っちゃっても、本人としてはどうしようもないからです。この説明が分かりにくい人は、

  • 本人は『子どもがいない』から『未来の景気』はどうでもいい

というのの、『子どもがいない』の部分を本人がどうしようもないと思われるものに置き換えて、それに合わせて『未来の景気』の部分も修正してみると理解しやすいと思います。

  • 本人は『発達障害でない』から『発達障害の政策』はどうでもいい
  • 本人は『親がいない』から『介護政策』はどうでもいい

いかがでしょうか。理不尽ですよね。このやり方での批判がまっとうだとしちゃうと、そういう属性の人しかある政策には関与できないこと、それ以外の属性を持つ人の政治参加を排除することに繋がってしまいます。

だから、筋悪だと申し上げました。

ただ、綺麗事ではなくて実態として、自分が属したり、詳しいものに対して、人間が親近感を湧くというか、支援するというのはあるのはありますよね。だからこそ族議員と呼ばれる人もいるし、政治家や官僚へのロビー活動というのはどこの国でも行われます。

でも、批判する方法の一つとして子どもの有無を使うのは本当に筋悪だと思います。先ほどの話に加えて、特に今の日本だとヤバい。日本は生涯未婚率が高くなっていき、不妊治療をしている人も増加していますから、子どもを持たないではなく、持てない人がかなりいます。そういう人が見たらどう思うか。

(リンク省略)

そして、ご存じの方も多いように、安倍昭恵夫人はかつて不妊治療をしていたことも語っています。

(引用文省略)

今回この方のコメントを紹介したのはこの方個人にどうこう言いたいというより、ネットでちょっと検索しても同じようなことを主張している人をそれなりに見かけたのと、このコメントにたくさんのスターがついて人気コメントになっていたからです。

一般人から政治家に対してなら言ってもいいと思っている人がいらっしゃるのは分かるのですが、 政治家が政治家に対してこれを言っちゃうと炎上待ったなしですし、

相馬ヱミ子議員を戒告処分 「未婚の市長とは議論できない」大館市議会

女性都議への「早く結婚しろよ」「子供もいないのに」「産めないのか」ヤジは差別発言 - 斗比主閲子の姑日記

一般人が一般人に対して言ったら嫌われるか、避けられます。

仮に、個人の運営する組織にお金が入るように政治活動をしている人がいたなら、それは露骨な利益誘導だとして、贈収賄に限りなく近いと批判されてしかるべきでしょう。ただ、本人がどうしようもないことでもって、その人を否定するのは、たとえ相手が政治家であっても、好ましいものではないと自分は考えています。

「間然するところがない正論」とはこのことだ。本当にその通り。

蛇足をつけ加えると、現在の非正規雇用の人たちには、「収入が少なくて結婚できない」という人が少なくない。

そして、安倍晋三が政権に返り咲いて以来、雇用者数は増えている。正規雇用者は(年末のわずかな時期を除いて大部分が)民主党の野田政権だった2012年に比べて横バイで、増えているのは非正規雇用者だが、それでも今年1月で37か月連続、つまり第2次安倍内閣が発足した実質的に最初の月である2013年1月以来、37か月連続で増えている(総務省統計局の「労働力調査」参照 http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/tsuki/index.htm)。

たとえば、安倍政権になって雇ってもらえるようになったけれども、収入が少なくて結婚できない、という非正規雇用の若い人が、

すごく根本的に、この人たちは未来の景気なんてどうでも良いのよ。死ぬまで十分な金はもう持ってるし、安倍さんは子供とかもいないし。

というブコメを見てどう思うだろうか。

何言ってんだこいつ、と強く反発し、雇ってもらえるようになった時の総理大臣なのに、「子供*1とかもいないし」などと批判される安倍晋三に同情し、選挙では自民党に投票したくなるのが人情ではないか。

こんなことを言っているから「リベラル」や保守的な人たちに限らず、安倍政権批判派はダメなのだ。こんなことを言う「リベラル」に限って、累進課税で税金を「搾取される」とばかりに「苛政は虎より猛なり」などとぼやいて「隠れティーパーティー」ではないかと疑われる内田樹を信奉していたりするのではないか、などと勘繰りたくなる。

また、こんなコメントを批判せず傍観している(見て見ぬ振りをしている)「反安倍」や「リベラル」もダメだと思う。「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」という言葉をかみしめ、仲間内から出た「トンデモ」な意見こそ厳しく批判する姿勢が「反安倍」や「リベラル」には求められるはずだ。

その意味で、このブコメをエントリに取り上げて正面から批判したブログ主を高く評価したい。

*1:私は「子ども」と表記することにしているが、原文ママ

安倍晋三、「保育士に叙勲を」とトンデモ答弁(呆)

民主党と維新の党が野合して「民進党」(呆)ができることが決まったり、「反安倍」の人士が「安倍晋三夫妻には子どもがいないから未来の景気なんてどうでも良いのだろう」と言い放ったりなど、反自民・反安倍の相次ぐ自滅によって安倍晋三の独裁政治は強まる一方だが、その安倍晋三のしょぼさ、無能さ、そしてトンデモさを象徴するような一件。あまりにもアホらしいからリンク先のみ示す。論評する気にもならない。

自民党の今村雅弘よ、「演歌、歌謡曲」が「日本の国民的な文化」のわけないだろ(呆)

「演歌は日本の伝統」を掲げる議員連盟に「?」演歌は1960年代に生まれたもの、みだりに「伝統」を使うな!|LITERA/リテラ(2016年3月17日)より

「演歌は日本の伝統」を掲げる議員連盟に「?」演歌は1960年代に生まれたもの、みだりに「伝統」を使うな!
【この記事のキーワード】新田 樹
2016.03.17


「日本の国民的な文化である演歌、歌謡曲をしっかり応援しよう」

 今月2日、今村雅弘元農林水産副大臣によるこんな挨拶で、演歌や歌謡曲を支援する超党派議員連盟「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」の発起人会合は開かれた。

 この集まりには、歌手の杉良太郎氏も出席し、「演歌や歌謡曲は若者からの支持が低い。日本の良い伝統が忘れ去られようとしている」と発言。日本の伝統である演歌を守るべきであると強調した。今後、この会では、各議員の地元選挙区で開かれるカラオケ大会に演歌歌手を呼ぶ活動を行うなど、振興策を打っていく予定だという。

 演歌は日本の伝統──、今ではごく当たり前のように用いられているこのフレーズだが、ちょっと引っ掛かるものがある。果たして本当に演歌は日本の伝統なのだろうか?

(リテラより)

記事の冒頭に書かれた、「日本の国民的な文化である演歌、歌謡曲をしっかり応援しよう」なるトンデモ発言にまず吹き出した。これを言い出した今村雅弘というのは1947年生まれ、つまり来年で70歳になる御仁だ。

なぜ吹き出したかというと、リテラの記事も指摘していないのだが、演歌は実は日本の伝統的な文化でも何でもなく、そのルーツは韓国にあると、ずいぶん昔に聞いたことがあったからだ。ネット検索をかけてみると、李成愛が「カスマプゲ」をヒットさせたのが1977年で、チョー・ヨンピル(趙容弼)が紅白歌合戦に出場したのが1987〜90年の4年間。この後者の時期に、「演歌のルーツは韓国」と聞いたのだった。YouTubeで李成愛の「カスマプゲ」を聴いてみたが(当時から知っていたはずだが、好きではなかったせいか全然覚えてなかった)、まさに「ど演歌」だった。念のために作詞・作曲者を確認してみたが、作詞が鄭斗守(日本語への訳詞が申東運)、作曲が朴椿石と、全員が韓国人だ。「カスマプゲ」は文句なく韓国の歌だった。蛇足だが、私の視聴した動画には、結婚のために芸能界を引退して日本を去ることが決まった李成愛の日本の長州、もとい聴衆に対するお別れの挨拶が収録されていた。韓国に帰ったのかと思ったが、Wikipediaで確認すると、

李成愛は人気の絶頂にあった1978年突如引退を表明し、米国の大学で教える韓国人と結婚した。

と書かれている。アメリカに渡ったようだ。この挨拶が(保守的な人生観も感じさせたが)なかなか感動的で、李成愛は「一番近い隣同士の国」である日本と韓国の有効を訴えていた。私は「昔は良かったなあ」とはほとんど思わない人間なのだが、李成愛が引退した1978年(高校生だった)は例外的に良い思い出が多い年で、その中にはヤクルトスワローズの優勝が含まれる*1。この年は日中平和友好条約が締結された年でもあり、世界における日本の地位が実質的には戦後もっとも高かった時代だ*2日中友好も日韓友好も、日本の国力が高かったことを背にした日本人の自信に基づくものであって、それが弱まった現在は、自信を失った日本人が、排外主義的な右翼国家主義者の政治家や論者に自らを同一化させつつ、嫌韓嫌中を叫んでいる姿をさらしていることには、「みっともないから止めてくれよ」としか思えないが、連中の火に油を注いでいるのが総理大臣の安倍晋三なのだから処置なしである。

リテラからの引用に戻る。

 ポピュラー音楽研究を専門とする輪島裕介氏は『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社)のなかで、作家・小林信彦氏の文章を引き、その認識に対し疑問を呈している。

〈〈演歌は日本人の叫び〉
 といった文章を見るたびに、ぼくは心の中でわらっていた。わらうと同時に、いったい、いつからこういう言葉が通用するようになったのか、いや、いつ発生したのかと疑問に思っていた。
(略)
 昭和三十年前後に登場した三橋美智也は民謡調歌謡曲三波春夫浪曲調歌謡曲であり、その時点では誰も演歌とは呼ばない。こう見てくると、〈演歌〉そのものが見当たらない。一九六〇年代のどこかで発生したとしか、言いようがない〉

 1948年より刊行されている『現代用語の基礎知識』(自由国民社)に「演歌」の項目が立てられたのも70年版からであり、それ以前にこの言葉は載っていない。このことからも現在親しまれている「演歌」が果たして本当に「伝統」なのかどうか疑問が生まれる。

 ただ、「演歌」という言葉自体はそれ以前からあった。「演歌」という単語が生まれたのは明治時代にまで遡る。自由民権運動の流れのなかで、政府が公開演説会を取り締まりの対象としたために、規制を免れるべく演説を「歌」のかたちで展開したのが「演歌」であった。この「演歌」は、政権批判や社会風刺を歌うものを指し、恋や酒を歌のテーマとする現在の「演歌」とはまったくの別物だ。そしてこの「演歌」は元号が昭和になるころには衰退。忘れ去られた音楽となっていく。

 では、なぜそれから時を経て「演歌」という言葉が復活し、現在のようなかたちで「演歌」というジャンルが生まれるようになったのか。それには、このジャンルが生まれた60年代後半という時代が大きく関係している。この時期、ポピュラーミュージックの世界は、グループサウンズ、フォーク、そして、後のニューミュージックへとつながっていく「若者音楽」大変革期の最中であった。

 これらの音楽の台頭により、それまで「都会調」「浪曲調」「日本調」などと呼ばれ区分けされてきた古いスタイルのレコード歌謡と、ロックやフォークなどの新しい音楽との間に乖離が生まれ、結果、旧来のレコード歌謡はすべてまとめて「演歌」というひとつの言葉のもとにまとめられることになる。その裏には、古いレコード歌謡を「リバイバルもの」としてプロモーションしたいレコード会社の思惑があった。

 現在、ロックもフォークもアイドルも、昭和期にお茶の間を賑わせた音楽ならジャンル関係なくすべてひっくるめて「昭和歌謡」というカテゴリーにおさめコンピレーションアルバムなどが盛んに制作されているが、これと似たような現象が当時も起きていた。その結果、「演歌」という忘れ去られた言葉が意味を変えてリサイクルされたのである。

 なので、一括りに「演歌」といっても、そこに厳格な音楽的基準はなく、民謡や浪花節のような日本的な音楽も含まれれば、ムード歌謡のようにジャズの影響を色濃くもち、かつての音楽界ではむしろモダンなものとして受容されたものまで混ざっている。

 たとえば、「古賀メロディー」と称され、現在では演歌の基礎をつくったと評価される古賀政男だが、彼の音楽的な素養となっているものも西洋音楽の知識やクラシックギターの技術である。

〈いまでは「演歌」の典型的なサウンドとみなされる《影を慕いて》などに特徴的なギター奏法も、開放弦を活用しながらベース音と和音と旋律を同時に演奏するクラシックギターの技術に基づくもので、当時はギターやマンドリンの響き自体がモダンなものでした〉

 また、「演歌」というジャンルがいかに雑多な出自をもっているかの一例が「こぶし」である。演歌らしさを特徴づける最も大きい要素である「こぶし」だが、これは浪曲において使われる歌唱法で、ジャズはもちろん民謡調の歌手も用いない歌唱法であった。なので、「演歌」というジャンルに一括りにされた当時「こぶし」をまわす歌手は主に浪曲出身の歌手たちであり、「演歌」がジャンルとして成立した時には、クラシックなどの声楽的素養を誇っていた他の歌手から「下品」と批判されたりもしている。

 このように、「演歌」は、グループサウンド勃興期に旧来のレコード歌謡を混ぜたことで生まれたジャンルであり、そこに正統的な「伝統」といったものが存在しないのは自明である。いや、60年代生まれということは、演歌は「伝統」どころかむしろ、ヒップホップやテクノほど新しくはないとはいえ、ロックやジャズよりも生まれた時期は「若い」ジャンルなのだ。

 このように、なんとなくのイメージで「伝統」と称されるものも、よく見ていけば「伝統」でもなんでもないことは往々にしてよくある。例えば、安倍政権は「伝統的家族観」といったものを盛んに主張しているが、当サイトで紹介した通り、その家族観も明治以降の日本に限ってのことであり、日本の伝統でもなんでもないと疑問が呈されている。

「伝統」という言葉を印籠のように出されて思考停止に陥ると、「演歌の振興」の名のもとに税金が国会議員のカラオケ趣味のために垂れ流される。いま我々に必要なのは、イメージとして語られる「伝統」をまず疑ってみることなのではないだろうか。
(新田 樹)

(リテラより)

この解説にはやや違和感がある。「演歌」という名前ができたのは1970年頃であっても、朝鮮半島で幼少期を過ごした古賀政男が作曲を始めたのは1930年頃からだからだ。リテラの記事には、

 たとえば、「古賀メロディー」と称され、現在では演歌の基礎をつくったと評価される古賀政男だが、彼の音楽的な素養となっているものも西洋音楽の知識やクラシックギターの技術である。

とあるが、そんなことを言い出したら、明治政府が導入した小学唱歌も、日本の音楽の伝統にはなかった「機能和声にもとづく調性音楽」であって、「西洋音楽の知識」なくして語れるものではない。ネット検索をかけたら、「Yahoo! 知恵袋」に「なぜ日本では西洋音楽ばかり演奏されるのですか? 」という質問があり*3、それに対して

機能和声にもとづく調性音楽は人類にとって最も麻薬性が強かったと言うことでしょう。
それを発見したのが西洋だったと言うことです。
もう行き詰まってしまいましたけどね。

という回答があった。これに尽きると思う。韓国の「トロット」だろうが日本の「演歌」だろうが例外ではない。学生時代の昔、本屋で現代音楽作曲家の柴田南雄(1916-1996)*4が書いた本をよく立ち読みしていたのだが、「機能和声に基づく調性音楽」の束縛からの脱却を目指していたであろう柴田は、世界中どこでも西洋音楽の侵食が観察されたとの研究結果を披露していた(書名は覚えていない)*5。先週、晩年にラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌いこなした本田美奈子について書いたが、本田美奈子の出発点は演歌歌手志望であり、「ヴォカリーズ」は甘い旋律とともに、実に不思議な和声進行を持つ、まさしく「麻薬的」な音楽だと、その楽譜*6を見ながら改めて思った。

子ども時代の思い出を語ると、人生で初めて「歌謡曲」というジャンル名と「森進一」という歌手名を同時に知ったのは、確か小学校低学年の遠足で行った先でのことだった。行き先の施設では、子ども向けの歌を何曲か流したあと、「おとなの人のために」とか称して森進一の歌を流したのだった。その時私は「歌謡曲」とは「火曜日の曲」のことかと勝手に思い込んだ。だからはっきり言えるのだが、司会者は「演歌」ではなく「歌謡曲」と言った。「演歌」とは言わなかった。だから、「演歌」という言葉が定着したのは比較的新しい、と言われても、それには違和感はない。

いずれにせよ、自民党の頭の悪い政治家の言う「日本の国民的な文化である演歌、歌謡曲」というのが噴飯ものの妄言である、ということについてはリテラの記事の著者・新田樹氏に全面的に同意する。

*1:といってもその頃はまだヤクルトファンではなかったのだが、プロ野球開幕の日に「今年の順位予想だ」と言って紙にヤクルト優勝を予想する順位予想を書いて、それが的中したのである。家族には「ヤクルト、本当に優勝したねえ」と驚かれたが、それがのちにヤクルトファンになるきっかけの一つだった。なお昨年の開幕翌日にもヤクルト優勝を予想してこの日記に書いたが、それも当たった。別に毎年ヤクルト優勝を予想しているわけではなく、連続最下位に終わった2013年と2014年には悲観的な予想を書いた。図にのって今年もヤクルト連覇を予想するつもりだが、こんなふうに色気を出した時に限って予想は外れるものだから、今年のヤクルトは最下位かも知れない(実際今のセ・リーグはリーグ全体のレベルが低いので、どの球団がどの順位になっても不思議はない)。

*2:日本がバブル景気に乗っかってアメリカなどで好き勝手に企業の買収などに走っていい気になっていた1989年頃には、すでに日本の繁栄の土台は緩みつつあったと私はみている。中曽根康弘新自由主義政策に着手したあたりから、日本の弱体化が始まったと思われる。

*3:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1048077755

*4:柴田南雄は、同じ作曲家の武満徹や作家の遠藤周作、漫画家の藤子・F・不二雄と並んで、私にとって惜しまれる1996年の物故者だった。もう没後20年になるんだね。蛇足ながら、同じ年に亡くなった丸山眞男司馬遼太郎には思い入れはない(笑)。

*5:柴田南雄は理系の家系の人で、父親は高名な化学者だったが、柴田氏本人は一種独特の霊感とでもいうべきものを持った人だった。これは本当にうろ覚えなのだが、シェーンベルク晩年の弦楽三重奏曲について、音楽以外の形態で作られても傑作になっただろう、などという、ちょっと常人には想像もつかない発想に基づく表現をしたり、ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』のような内容の本が出てくることを、その出現前に予言したりするなど、その頃立ち読みしていた本は実に面白かった。あんなに面白い音楽の本は他に読んだことがないといえるほどなのだが、今では書名もわからないし本屋でも見かけない。たぶん絶版なのだろうが、買っておけば良かったと後悔している。

*6:http://shin-itchiro.up.seesaa.net/pdf/Rachmaninoff20Vocalise-e7803.pdf

松本清張の小説「不運な名前」にも「御一新」が出てきたよ

新進党、もとい民進党と民主・維新の野合新党名を争っていた「立憲民主党」を明治時代みたいで古くさいなどと腐していた某氏が推したのが「一新民主党」であり、それに対して私は、特に明治初期には維新を「御一新」と言った、「一新」の方が「立憲」よりもっと古いと言ったのだが、その「御一新」が松本清張の小説「不運な名前」に出てきたので、ここにメモしておく。


新装版 疑惑 (文春文庫)

新装版 疑惑 (文春文庫)


以下引用。

「(前略)藤田組贋札事件について出鱈目なことを書いたかの有名な尾佐竹猛氏すら、その事実を認めています。これは昭和十六年六月に発行された学術雑誌『明治文化』第十四巻第六号の中での尾佐竹氏の論文です。題して『熊坂長庵の建白』とあります」

 彼はコピーしたものを振りかざした。

「この建白書は、『明治二年五月、相州愛甲郡熊坂村の熊坂長庵から左の建白書があった』という書き出しで、建白書の内容が出ていますが、候文で読みにくいですから要旨をいうとこういうことです。この土地は僻村で、病院がなく、窮民が病気になっても死に到る者が多く、田舎の医者も医術が拙劣でこれを救うことができない。よって維新後の御一新につき御仁恤(じんじゅつ)をもって東京府が病院と貧院など御取立に相成たしと建白したものです。つまり長庵先生は今でいう無医村に公費の慈善病院を建立されたし、と請願されているのです。長庵先生は、中津村ではいまでも教育者として慕われているのです」

松本清張「不運な名前」(1981)より〜松本清張『疑惑』(文春文庫,2013)144-145頁)

つまり、「御一新」は明治2年(1869年)に熊坂長庵が書いた建白書に出てくる。「維新後の」という言葉も出てくるが、私の想像だが、「御一新につき」とだけあったのでは1981年の読者にはわからない人が多かろうと考えた松本清張が補ったものだろう。登場人物が「要旨をいうと」と書いてあるからほぼ間違いないと思う。

なお熊坂長庵は実在の人物。以下Wikipediaより。

熊坂長庵

熊坂 長庵(くまさか ちょうあん、弘化元年(1844年) - 明治19年1886年)4月29日)は、医師・日本画家・教育者。藤田組贋札事件の犯人とされたが、冤罪による被害者ではないかと考えられている。戸籍名は「澄」(ちょう)。字は明澄、号は湘川。


生涯

相模国愛甲郡熊坂村(後神奈川県愛甲郡中津村、現愛川町中津)の豪農の生まれ。江戸で奥原晴湖に師事したと一部ではされているが、長庵と晴湖が江戸にいた時期が異なるため誤伝であると考えられるという。公立小学校救弊館(現愛川町立中津小学校)初代校長。明治15年(1882年)、一大疑獄である藤田組贋札事件の犯人として逮捕され、無期徒刑(無期懲役)を受け北海道の樺戸集治監に収監される。その4年後に獄死。長庵は冤罪の疑いが濃いとされている。

樺戸集治監近くの曹洞宗北漸寺には「弁天図」が残されている。

長庵の家にはその後東京裁判免訴となった大川周明が亡くなるまで居住した。現在「古民家山十邸」として無料公開されている。


文献

つまり松本清張には1981年の中篇「不運な名前」に先立って、1964年に短編小説を書いていた。熊坂長庵が冤罪であるとすると、陥れたのは長州閥の奴らということになるが(実際、小説にも書かれている通り長州閥井上馨が疑われているらしいが、小説を通して清張はそれに異説を唱えている)、明治維新以降今の安倍晋三に到る長州閥の政治家ども及びそれに連なる連中の悪行には際限がないと呆れるほかない。


さて、以下には松本清張の他の小説に関するネタバレがありますので、読みたくない人は読まないで下さい。

上記と似たようなパターンとして、松本清張が過去に書いた小説を作中人物の小説に置換し、以前松本清張自らが蒙った不運を小説にするということをやってのけた例がある。
なお、以下の文章について、下記サイトを参照した。
http://seityou-dasoku.jp/nsg/nsg_naze_harunoti_saisyunn_03.html

松本清張自らが蒙った不運を小説にしたのが、短篇集『隠花の飾り』(新潮社,1979)に収録された短篇「再春」だ。


隠花の飾り (新潮文庫)

隠花の飾り (新潮文庫)


「再春」によって作中人物の小説にされたのが、『文藝春秋』1958年1月号に発表されながら、トーマス・マン晩年の短篇「欺かれた女」(1953,日本語版新潮社,1954)に似ているとの指摘を受けて全集にも収録されなかったという「春の血」だ。しかしこの「春の血」は、清張最晩年の1987年に角川文庫から刊行された短篇集『延命の負債』に収録されているという(未読)。


延命の負債 (角川文庫)

延命の負債 (角川文庫)



清張は自らが蒙った不運について書いている。それを上記サイト経由で孫引きする。

「再春」は、わたし自身の苦い経験である。まだ小倉市(現・北九州市)に居たころ、家裁調停委員の丸橋静子さん(故人)から聞いた話を「文藝春秋」に「春の血」として発表したところ、トーマス・マンの「欺かれた女」をそのまま取ったといわれた。わたしは「欺かれた女」を読んでいなかった。「春の血」はわたしの小説集にも入れず、「全集」(第一期)からも削除している。

松本清張全集. 42. - 東京 : 文藝春秋, 1983.収録「着想ばなし(7)」より)

小倉の家裁調停委員氏が亡くなって、もう書いても良いだろうと判断した時期に、清張は自らの体験を小説にしたものだろうか。しかし、全集からも削除した「春の血」を、清張の生前最後に刊行された角川文庫に収録したことから、清張自身が「春の血」に多少なりとも自信を持っていたものと思われる。「春の血」も、似ているといわれたトーマス・マンの「欺かれた女」も未読だけれども、機会があれば読んでみたいと思う。