ジョン・バクスターの「映画におけるSF」を読んで 岡俊雄

 創刊当時の「SFマガジン」に二年ほど、SF映画に関する連載記事を書いたことがある。あとで単行本にまとめる約束で書いていたのだが、その時点になって読みかえしてみると、どうにも不満だらけで、全面的に手をいれなければ恰好がつかないものであった。結局、この単行本化をすっぽかして、早川書房の皆さんに御迷惑をかけるやら、切角、期待していただいた熟心なSF映画マニアの方がたにも失望をさせるということになり、いまでも申訳ないと思っている。
 この単行本化の計画の挫折は、ひとえに資料不足に原因するものであった。ことにふるい作品のデータ不足、一九五○年代にはいってからのSF映画の興隆期に実に多数の作品がつくられたし、日本で上映されたものは多分、その半分もない。そういうわれわれの眼にふれていない作品のことが、満足できる程度の調べがつかないということで、行きづまってしまったからであった。
 一九六〇年代年の後半になって、イギリスやアメリカでも映画関係の単行本がひじょうに多く出るようになった。(五○年代からフランスとイタリアの出版が盛んで、その影響がイギリスからアメリカヘと拡まったと見られるようでもある)この新しい映画文献の企画の方向は、理論書や入門書よりも、特定のテーマをもったモノグラフィーが多いというのもひとつの特色になっているので、誰か、SF映画をテーマにした本を書かないかな、と思っていたら、昨年春に、イギリスから、ジョン・バクスターというひとが、「映画におけるSF」 "Science Fiction in the Clnema" by John Baxter を出した。ロンドンの出版で、この数年来、二十冊ばかり出ている”インターナショナル・フィルム・ガイド”シリーズの一冊で、16X13.5cmという変型版で二四○ページちょうど。この本は昨年秋に、アメリカのへーパー・パック・ライブラリー版が出ている。この方は、ポケット・プック・サイズで、頁数はほとんどおなじ、収録されている写真も同様である。イギリス版が一五シリング、アメリカ阪が一ドル二五セントだから、洋書を扱っている書店では大体、千円前後で入手できる。このニ冊をくらべてみると、内容はまったく同じで、イギリス版はどういりわけかアメリカで印刷されているのだが、写真版の鮮明さではイギリス版の方が優っている。
 著者のバクスターというひとについては、全然わからないが、アメリカ版の表紙に、「月世界旅行」(メリエスの一九〇二年の作品)から「二〇〇一年・宇宙の旅」までのSF映画の諭評−−と謳っているように、SF映画史のようなものである。内容は全部で十六章にわかれていて、その扱いはなかなか、オーソドックスである。この本にどんなことが書かれているかということをこまかく説明するスペースはないけれど、巻末にのっている主要作品目録には、一五七本の作品の制作国・スタッフのクレジット・俳優などがかなり詳しく記載されて、同時にこのリストが作品のインデックスもかねている。
 この作品目録のなかに、日本映画は、「他人の顔」「ゴジラ」「モスラ」「ラドン」の四本だけだが、こういう日本映画の選択だと「砂の女」をはじめ、海外で問題になった日本映画がもうすこし加えられてもいいような気がする。ピエール・ブノアの小説「アトランティード」は三回映画化されていることは映画史をかじっているひとなら、大てい知っているはずだが、このリストでは一九三二年にG・W・パプストのつくった作品だけはいっていて、もっと出来ばえのよかった、ジャック・フェデェの「女郎蜘蛛」はのっていない。ルネ・クレマンの初期のシュールレアリスティックな「眠るパリ」(一九二三)をいれているのに、「カリガリ博士」がぬけていたりする一方、デイヴィッド・リーンの「超音ジェット機」がリストにはいっているのは、どういうわけだろう、という気もする。「超音ジェッ卜機」をSF映画のなかにはめこんだ例はおよそきいたこともない。
 大体、SF映画について何か書くとき、一ぱんむずかしいことは、どのへんまでをこのジャンルに扱うかということである。広義にはファンタジー映画から、ゴシック・ロマンの伝統をうけつぐ恐怖映画までをひっくるめてしまう傾向は見られるのだが、ジャン・リュック・ゴダールの「アルファヴィル」をヌーヴェル・ヴァーグ的なSF映画とすれば(バクスターもこの作品をいれている)、広い意味で、「サンダーボール作戦」や「ゴールド・フィンガー」も加えなければならなくなるだろう。
 SF映画にはっきりした定義づけがなされているものか、どうかということは非常に困難だけれど、そのへんのポイントをはっきりさせないと、本当にいいSF映画論を展開させ得ないのではないかとも思う。筆者が、単行本化で挫折したのは、資料不足のこともあったけれど、毎月の連載のときには、あまり深く考えずに書いていたその問題を、もっと整理しなければならないと思わせられ、なかなかうまくまとまらない、という勉強不足のためでもあった。
 しかし、バクスターは、ふるい作品をかなり丹念にしらべているところも見うけるし、筆者の知らない映画がずいぶん出てくるので、大へん参考にもなった。SF映画マニアは一度は目をとおしておいた方がよいと、おすすめする次第である。

SFまがい 久野四郎

 流石に近頃はSFといっても新製品普及協会と間違える奴はいなくなったが、若い年代は一応別として、あまりSFを読んでますという人達は多くないようだ。NASAの努力の結果として、SFなることばが多くの人々に理解された割には、パッとしないといわれている。
 しかし、考えてみれば、それはある程度他の分野でも同じことがいえるのではなかろうか。例えば推理小説ブームといわれる時代があり随分騒がれもし、どの雑誌にも一本や二本の推理小説が載るようになったが、これがいわゆる本格的推理小説かどうかという点になると、いささか異論があるところだろう。推理小説風に味つけをした風俗小説とでもいうぺきものとして扱うべき作品が多いような気がする。そして、それはそれとして、いいのではないか。
 本格的ということぱの定義にもよるが、これは一般文学の世界についてもいえるのではなかろうか。純文学といわれるものがどれほどの人達に読まれているかを考えて見れぱ、決して多くはあるまい。読書人口の大半は、いわゆる中間小説といわれるものを愛好しているといっても、異論ではなかろう。どの分野でも「本格的」なものの愛好者は意外に少ないものだ。
 SFが読まれない。SFが普及しないというとき、我々は本格的なものを考えているのではなかろうか。SF風に味つけをした風俗小説などというものは、あまり議論の対象になっていないような気がする。しかし、一頃ブームとなった山田風太郎の忍者ものにしたところで、考え方によってはSF風に味つけをした時代物といえぱいえるだろう。あらゆる分野で「SF風」に味つけをしたものが現われてもいいのではなかろうか。
 アメリカのSFを考えるとき、スベースオペラが果たした役割を除外するわけにはいかないだろう。現在日本で訳されて出版されているものは、ましな方で、当時書かれていたものの中には、だいぶひどいものが多かった(というのは野田宏一郎氏の受売り)のだがそういうものから入門した連中が、どれだけの貢献をしたかはいうまでもない。カリフォルニアやテキサスを火星や木星に移しただけの宇宙ウェスタンや騎士物話りのシリウス版や美女のヌードがふんだんに出て来るロケット物が、はたして正確な意味でのSFといえるかどうかは別として、少なくとも底辺を拡げるためには大きな力となっていることは否定できないだろう。日本でも宇宙三度笠や、火星座頭市があってもいいし、銀座の女給と箱根にしけ込む代りにルナシティーの女の子と、あたりにしけ込む小説があってもいい。とにかく、あまり固く考えない気楽なものが欲しい。
 もちろん、この全集をお読みになっている諸賢は本格的なSFファンだろうから、そんな生ぬるいSFが、いくらブームになったからといっても、あまり意味はないとお考えの方が多いだろう。しかし、ピラミッドの頂点を高くするためには、底辺を拡げなけれぱならない。ピラミッドの頂点だけが虚空に浮んでいる図などは、正に一般庶民にいわせれぱ「SF的j である。
 本格的なものを支持する人口からいえば、SFは決して少なくないファンを持っていると思う。例えば純文学の雑誌「文学界」や「群像」よりは「SFマガジン」の発行部数のほうがはるかに上回っているだろう。こういうファンは、それこそ中核隊であって、いくら生ぬるいSF風小説か多くなったからといっても、中心がこれらのファンにある限り行き先不明になることはあるまい。
 それでは、具体的にどういうものかいいかということになると、あまり自信のあるものがない。しかし、SFや推理小説というものは日常性を超えたところに価値があるのではなかろうか。時間旅行にしたところで、反重力にしでも、ベムにしても、我々の超体験のもの、未体験のもの、少なくとも日常生活でザラに起きるわけでないものをテーマにしたものがSFであり殺人とか、ぬすみとか、少くともまともな市民の日常生活ではザラに体験できないものをテーマにしたものが(しかも完全犯罪というこれまた起こりそうもないものを)推理小説だといえるだろう。
 とすれば、これらの分野は、いわぱ古来の怪談に近い役割を果たしているのであり、その点からいっても、もっと気楽に書いた作品が出ても許されるのではなかろうか。一部の専門家しか書けないもの、熱心なファンしか読めないものばかりでは拡がるべきものを狭い分野にとじ込める恐れがある。しかし、筒井氏や小松氏の精力的な仕事の中に、私は大いなる可能性を見ることができる。やがて、特にSFと断りがきをつけなくても、あらゆる分野にSF的要素が入るのが当然ということになるだろう。肩書きに「SF作家」と入らず、ただ「作家」と書かれるようになったとき、はじめてSFが地についた発展をとげたといえるのではなかろうか。

私の歩いてきた一本道 森優

 私にとって、SFとは何か。といっても別に大上段に振りかぷるつもりは、毛頭ない。元来が非論理的なザハリヒな人間だから、どうもそういうことは苦手である。ただ、私はいまSFの編集業にたずさわっている。SFのおかげで私の一家は路頭に迷わずにすんでいる。筒井康隆氏が、いつかこの月報欄で書いておられたが、もしもSFがなかったら、まさにこの世は闇。だから私にとって、SFが何を意味するのか、たまには考えてみなけれぱパチが当たるというものだ。
 もちろん、私がこの商売にはいったのも偶然ではない。来しかたをいま振り返ってみれぱ、物心ついたころから現在まで、歩いてきた道はほとんど一本道だった。まるでわき道がなかったかのように、私はわき目もふらず、その道を歩いてきた。
 幼い時分の私は、人一倍夢想家だった。もって生れた性格もあろうが、赤ん坊のころ父が異常なほど神経質で、汚れた息がかかるからといって、母以外どんな親しい知人だろうと、他人には抱かせなかったという過保護ぶりが、私の精神形成に大いに影響したにちがいない。もっとも父の話では、私が日赤の病院で生まれた時体重が標準の三分の二足らずで、医者に「この子は十日と生きられません」と宣言されたほどひ弱だったらしいから、無理からぬこととも思えるが。
 小学二年の時栃木に疎開した私は、都会者ということでイジメッ子の好餌となり、ますます自分の殼に閉じこもるようになる。画家だった父の血をひいたのか、昼はスケッチブックを日記代りに書き散らし、未明や賢治や『ピーターパン』の夢想の世界に耽溺し、父のもっていた画集をこわごわ開けては、フリードリヒやアルチンポルドの怪奇幻想の空間にのめりこんだ。夜はフトンの中が何よりの避難所で、やわらかいフトンのうねりがそのまま山や谷と変り、そこに私は空想の車を走らせ人を闘わせて楽しんだ。毎晩のように隣のお姉さんを白い裸にひんむいで殺す、甘美で病的な空想にふけり、母がもし明日死んだらという考えに怖気をふるって忍び泣く、感受性の強い少年だった。
 戦後の混乱期に父の画を買ってくれる人などいるはずもなく、私の一家はひどい貧窮にあえいだが、それでも父は、本だけは何とか金を工面して買ってくれた。父かあたえてくれたのは『青い鳥』から『クオレ』まで子供向けの名作ならなんでもという無方針さだったが、私はその中から敏感に好みの幻想怪奇的なものばかり選びとって耽読した。それでも足りずに、父に禁じられていた少年冒険小説や講談本のたぐいも読みあさったが、ここでも好みはおのずと出て、『敵中横断三千里』や『赤穂義士伝』などはまったく受けつけなかった。
 この極端な好みの偏向は、昔ほどではないが今でも続いていて、小説なら私の好みに合うのは、ポー、ホフマンなどロマン派の幻想文学あたり、自然主義的傾向のものは外国・日本を問わず退屈で読み通す根気がない。現代作家だったら、どちらかといえぱヌーヴォロマン的な作品がいい。小さいころから親しんだ絵画も、高校時代から目を開いた音楽も、すべて好みはロマンチシズムからシュールリアリズムに至るものがほとんどだ。
 要するに、精神分析的にいえば、少年時代の私は、他からの制約に縛られて身動きもできぬみじめな現実に代えて、他人の構築した起現実的な世界の中で、自我をとりもどそうとあがいていたのだった。
 こうした傾向は、高校時代、受験にはさほど必要でもない天文学、古生物学、考古学へ熱中したことにも現われている。このような科学分野への傾斜が、ロマンチックな幻想芸術への陶酔と結ぴついて、SFへの嗜好を育くんだのは、いわば必然的なプロセスであった。
 むろん、それまでにもすでに海野十三高垣眸などの科学冒険小説に接してはいたが、とても満足のいくものではなかった。当時はまだ、質の高い海外の現代SFはまったく邦訳されていなかったし、僅かに一部紹介されていたヴェルヌやウエルズも、田舎の高校生にはジュヴナイルでしか読めなかった。わずかに飢えを満たしてくれたのは、手塚治虫氏の『新宝島』から『ジャングル大帝』にいたる一連の新鮮なSF漫画ぐらい。その影響で漫画を書きはじめ、<漫画少年>への投稿漫画が連続人選したこともあって、一時は受験勉強をほうり出して、SF漫画家になろうかと本気で考えたほどの打ちこみようだった。
 その受験時代、一年の浪人中に、たまたま上京して古本屋で手に入れたのがハインラインの『人形つかい』だった。英語力涵養に好適と聞かされていたミステリの原書を探していたときに、ふと目にとまったのだ。さっそく読んではみたが、半分読んだところで物語の設定がおぼろげにわかった始末。今から考えれば俗語の多い文草だから、歯が立たなかったのもムリはないが、それではと次に文章のやさしそうなシェクリイとブラウンを買った。『人間の手がまだ蝕れない』と『天使と宇宙船』のニ冊がそれで、その時は知らなかったが、どちらもSF史上に名を残す作品ばかりだったからたまらない。安部公房氏のことばを借りれば、「日常を活性化し、対象化し、人間の意識を揺さぶらずにおかぬ」仮説に満ちたSFの魅力に、私はたちまちとりつかれてしまった。
 昭和三十二年、どうやら入試の難関を突破した私は、東京に定住したのをいいことに都内の古本屋めぐりを始めた。そんな過程で知ったのが、日本最初のSF同人誌『宇宙塵』に集まった星新一氏、柴野拓美氏らのグルーブだった。それはその後の私の人生を決める重大な契機となった。この人たちのおかげで、私はこの新らしい文学への大きな可能性をはらんだものに、生涯を託してもいいと考えるようになったからだ。
 SFは現実逃避の手段である、とよくいわれる。私にとっても、SFがたしかにそうした働きをもっていることを否定しない。しかし何より私にとって重要なのは、SFに接することによって、日常的な現実の中で溺死することから自分の精神を救い出せそうだからだ。いいかえれば、つねに新らたな発見の衝撃をSFから受けることによって、自己の存在を再確認し精神の老化から逃れることができそうだからである。SFの未熟さゆえに、いつもそうだとはいえない。幻滅を感じることも再三ある。しかし、私はもはやこの一本道から決して足をそらすことはないだろう。

翻訳者紹介

加島祥造(かしま・しょうぞう)
大正十二年東京に生まれる。
昭和ニ十ニ年早稲田大学英文科卒。
英米文学研究家。
主訳害
 コナン・ドイル『ロスト・ワールド』(早川書房刊)
 デイヴィッド・イーリイ『観光旅行』(早川書房刊)


深町真理子(ふかまり・まりこ)
昭和六年東京に生まれる。
昭和二十六年都立忍岡高校卒。
英米文学翻訳家。
主訳書
 シャーリイ・ジャクソン『くじ』(早川書房刊)
 アーサー・C・クラーク『渇きの海』(早川書房刊)


伊藤典夫(いとう・のりお)
昭和十七年静岡県に生まれる。
早稲田大学文学部卒。
英米文学翻訳家。
主訳書
 ブライアン・W・オールディス『地球の長い午後』(早川書房刊)
 カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』(早川書房刊)