文学を遠く誰れて 小松左京

若気のいたりで文学を志してから、今年でちょうど二十年になる。しかし、そのうちの半分ちかくは「文学」というものから、はるかに遠く、遠ざかるために費されたようなものだった。最初の絶望は、大学の文学部で、いったい文学とは何であるのか、少しもおしえてくれない、という所からはじまった。今から思えば妙な時代で、戦争に対する道義的責任感から−−それも、戦争をやったという責任感と戦争に負けたという責任感が奇妙に交錯しているみたいだった−−ありとあらゆる「社会的権威」が、動揺動顛していた。その上、強力な政治的イデオロギイが、「われわれの社会の根源的罪」という概念をふりかざして、一切の外面的内面的秩序に断罪をせまっていた。こんな時代に、おとなが「教えること」に対する自信を失うのは当然で、激越で、辛辣な既成のあらゆるものに対する攻撃的口吻をもらしつづけなければ、知識人が生きていられないような時代だった。−−攻撃はたくさんあったが、考えてみると、「攻撃されているものにかわるもの」といえば、何もないが、攻撃されているものより、はるかに卑俗、凶悪、浅薄なものである場合が多かった。−−とりわけ、「文学」などというものは、そういった道義的動揺の時代には、とても正当な評価にもとづいて語れないのである。
 しかし、青春というものは、無いものねだりの時代で、誰も教えてくれなきゃ自分で見つけるまでだと、半分やけっぱちに決意した。−−そこではじめたのは、「文学」や、それを現象させている基盤である「社会」に背をむけ、どんどん遠ざかって行くことだった。うんと遠く離れれば、イデオロギイやモラルや「学派」その他のものの影響によって、上になったり下になったり、かくされたり、喧伝されたりしている「文学」というものの姿と、その本来的なあり方が見えてくるだろう、と思ったのである。単に文学だけではなく、それをうみ出し、与え、あるものはのこし、あるものは消し去って行く、「社会」というものの外縁、その「歴史的輪郭」を眺望したい、という欲求にかられ、やみくもに社会から遠ざかる精神の旅をつづけた。離れ出すと、際限がなくなり、一応そういったものの輪郭が見え出してから、なお、「人類」という生物集団の、自然および自然史の中にあるあり方が見たくなってさらに遠ざかり、次いで「生命」というものの宇宙史の中における位置、「地球」という惑星の、宇宙の中における意味などが知りたくなって、途方もなく遠くまで行ってしまった。
 そんな地点で、私はまったく偶然に、SFに出あう。−−こんな大気の稀薄な地点で、よくまあ生存できる小説があるもんだ、と、その時は一驚したものである。つきあってみると、それは決してミステリーの亜種や、科学技術文明時代における文学の鬼子ではなく、人間の認識の野が途方もなく拡大し、宇宙的時空のひろがりを自明の前提としはじめた時代における、文学の、まったく正統的な適応種であることが、次第にはっきりしてきた。−−それは、これまでの文学がその内部でぬくぬくとはぐくまれてきた「人間的社会」の外縁部、それをつつむ広大苛酷な「自然=宇宙」との接触面にうまれ、レンズのように、「人間的社会」を巨大な宇宙的時空の中にうつし出す。そのレンズの性能をさまざまに変化させることによって、あるいは正像を、あるいは倒立像を、あるいは巨大なものを小さく、小さなものを巨大にうつし出す。偏光フィルターや、紫外線放射や特種な染色法によって、人間社会の中では、絶対に見えない構造をも見えるようにするし、時には反転像もうつし出せる。−−逆に、人間社会の中から、宇宙空間そのものをのぞかせ、そこにまだ到来しない人類の「未来の姿」をうつし出しもする。SFが星新一のいうようにあらゆる分野から独立しているが故に、人間社会のあらゆる分野に接触できるというのは、それが人間的社会と、宇宙的時空の接触点に位置しているからであり、前者を後者の中に投影し、転回し、また展開する原点的な位置をしめているからにほかならないだろう。
 「文学は鏡である」といったのは、たしかスタンダールだった。「それは青空もうつし出すが、水たまりもうつし出す」と。−−近代文学の一方の祖であるバルザックは、その「人間喜劇」の中に、当時知られていた「人間社会」の、ありとあらゆるものをうつし出した。政治、経済、風俗、階級没落上昇のドラマ、犯罪、欲望、家庭、恋、歴史……。もし彼のとった方法が「リアリズム文学」の本流ならぱ、現在横行するその亜流末流文学より、SFははるかに文学の本流にちかい。それは、前にもいったように、人間の認識の基盤がバルザックの時代よりはるかに進み、宇宙的時空の中に拡大してしまった時代において、人間の行動と意識が関係するあらゆる局面を、巨細にうつし出しつつあるのだから。それは、小説の形をとりなから、決して十九世紀になって成立した近代小説のスタイルにとらわれず、その時点で成立した「文学」の概念から遠くはなれて、はるか古代−−ひょっとしたら先史時代から、「心と言葉をもった生物」であるヒトの社会集団に内在していた「文学の原理」にもとづいて、神話、実話、啓示、娯楽、ドラマなど、あらゆるパターンを自由にとりいれる。そしてまた、それは、科学によって獲得された認識との接触を通じて、「文学」を、宇宙的時空の中にすえ、それが人間の知的、精神活動の独自の領域であって、決して他の領域−−科学や行為−−に解消し切れない、一つの「原理」によってささえられていることを立証しようとしている。科学と文学は、おそらく人間の知的、精神的活動の二大原理であって、前者は、人間の知能に生得的にそなわった抽象化作用を通して、宇宙間諸現象の普遍性の発見へとむかい、後者は、生命の「原理的一回性」−−全宇宙史を通じて、厳密に同一のパターンの個体生命は、蛋白質の構造の組み合わせの数からみて、二度と生じ得ないという数学的証明にもとづく−−に依拠し、その個々の宇宙内実存が、「決して、普遍性の中に解消し得ない、独自の一回的な生の歴史を生きるという共通の運命−−にたって、「一回的な生の歴史の歌」をうたうことになるだろう。

アメリカのSF ソ連のSF 伊藤典夫

 ソヴィエトSFの新しい世代が、若い作家たちの抬頭ではじまるのは、一九五六年から七年にかけてである。世界の最先端を行く英米SFの紹介は、六〇年代にはいってから始まり、まずレイ・ブラッドベリが、『資本主義的現実を否定し、マッカーシズムに抵抗する作家』として人気を得た。だが、それが堰を切る役目を果し、以後相当数の作品が出されているようだ。といっても二つの対立する陣営に属するSF関係者たちの意見が、率直に交換された例はほとんど知られていない。が、一九六五年のはじめごろだろう、ソ連共産党中央委員会の機関誌コミュニストにのったアメリカSF批判が、翻訳されてアメリカのファンタジイ・アンド・サイエンス・フイクション誌六五年十月号に掲載されることになり、批判の対象になった四人の作家−−アイザック・アシモフマック・レナルズポール・アンダースンレイ・ブラッドベリが−−同じ号に釈明文を寄せた。
 評論の筆者は、ソ連の中堅SF批評家コンビとして知られる、E・ブランディスとV・ドミトリエフスキー。両国のSF関係者たちの考えかたの差を知る珍しい資料として、このやりとりをかいつまんで紹介してみよう。はじめに評論から−−「アメリカSFに描かれた未来社会の最も著しい特徴は、その社会が前向きの発展に基づいたものではなく、すべて退化と衰退と腐敗と人類の破滅からなっている点だ。そして批評家や作家は、社会学的SFをアンチ・ユートピア小説の同義語としている。ポール・アンダースンの中篇『進歩』では、核戦争に生き残った人々が、過去から受け継いだ帆船や風車だけで繁栄と幸福を築きあげられると確信するが、作者もまったく同感らしい。多くの哲学者や社会学者にならってアメリカ作家が描くのは、未知の宇宙に対する人間の卑小さと、社会の進歩が幻想にすぎないという認識だ。
 現在の国家関係や、現代資本主義の内包する社会問題を未来に投影するのも、アメリカ作家がよく便う手である。旧態依然とした主従関係や植民地主義などをそのまま空想の惑星上に持っていき、帝国主義的な矛盾を展開させる。わが国で翻訳される作品を読むかぎり、アメリカSFの大部分は、非政治的であり、まったく無害な印象を与える。しかし現在、わが国で最も人気のあるレイ・プラッドベリにしても、もちろん彼のヒューマニステイックな傾向を否定するわけではないが、現代資本主義社会の暗黒面を痛烈に諷刺しながら、実は真の悪は、ブルジョワ社会の内部構造ではなく、科学技術の急速な発達にあるのであって、個人をおし潰そうとしているのはそれだと信じているのだ」
 評論は、アイザック・アシモフが、英訳されたソヴィエトSFアンソロジイの序文で投げかけた疑問−−アンソロジイ全体に流れる楽天主義は、アメリカに対するプロパガンダとして作為的に選ばれた作品ぱかりだからではないのか?−−を、いいがかりだと否定し、邪推するのはアメリカ作家の心が盲いているせいだと結論して終る。
 これに対する四人の作家の解答のうち、アシモフのは、アメリカに住むロシア人の気がねだろうか、政治的な問題には触れず、些細な誤解の訂正だけ。マック・レナルズは、この評論の指摘が、アメリカSF全体を見わたした場合、ある程度当っていることを認めたのち、自分の作品が必ずしもそれにあてはまらず、逆にソ運を好意的に見た作品まであることを説明し、もっとアメリカSFをたくさん読んでから発言してほしかったとしめくくっている。さて、アンダースンだが……
共産主義が標榜する思想−−人間と、人間の運命は改善できるものであり、個人はすべてその改善に力を貸すべきであるという思想−−は、たしかに気高い」と彼はいう。
「だが問題なのは、共産主義が、より正確にはマルクスレーニン主義が、その思想を理論でも仮悦でも敬虔な願いでもなく、ドグマにしてしまっている点だ。さらにそれは、改善の正しい方法は一つしかなく、それはすでに発見されているとして、また一つのドグマを背負いこんでいる。哲学におけるそういったドグマの効果は、楽観主義を強制してしまうことだ。そうなれば当然、自由とそのドグマとのあいだに永遠に妥協しない抗争か起る。現にわれわれは自由ではないかというかもしれないが、本当に自由ならば、共産主義を堂々と否定しても許されるはずだ。もちろん、アメリカ人にそれに相当する自由があるとはいわない。過去においてもそうであったし、将来においてもそんな自由はないだろう。私がいいたいのは、二つの社会のありかた、その目標と価値観に違いがあることだ。共産主義社会では、人間を愚昧な猿類であると仮定することは許されないが、西欧社会ではそう仮定して楽しむことができるのだ。共産主義のドグマにとらわれない西欧のSFは、考えられるあらゆる状況を扱う。したがって楽観的な見かたのほか、悲観的な見かたがあることもやむをえない。ただ一言つけ加えれば、私の書いた『進歩』は、核戦争を不可避なものだといっているのではなく、人間はどんな目にあっても生き残ることができ、幸福を見出すことができるといっているのだ。じっさいには『進歩』は、楽観的な小説なのだ」
 ブラッドベリの解答は、レナルズやアンダースンのに比べれば短い。しかし全訳するスベースはとてもないので、ここではただ結論を引用するだけにとどめよう。
ブランディス、ドミトリエフスキー両氏の討論に対する私の反応は、悲しみだった。SFの目的は、私たちを過去の愚かさや、現在の愚かさや、未来の愚かさを、エンターテインさせながら私たちに教えることだと、それまで考えてきたからだ。私の願いは、一つ。私たちがお互いの作品をできるだけ偏見なく読み、それらが、ある一つの見かたを人びとに提示したいと心から願っている人間によって書かれた意義ある小説だと認識できるようになることだ。私たちはみんな馬鹿なのかもしれない。しかし将来も、馬鹿のままでいる必要はないだろう」

翻訳者紹介

飯田規和(いいだ・きわ)
昭和三年山梨に生まれる。
昭和三十年東京外語大学ロンア語科卒。
ソビエト文学研究者。
主訳書
 ホセ・ソレソ・プイグ『デルチリオン一六六』(新日本出版社刊)
 H・E・コプリンスー『電子頭脳の時代』(理論社刊)
 ユリアンセミョーノフ『ペトロフカ、38』(早川書房刊)