1979年の「各務三郎による植草甚一のテキスト批判」の検証(本題 その3)

随分、間隔が空いてしまったが・・。


1979年の「各務三郎による植草甚一のテキスト批判」の検証(前提)
http://d.hatena.ne.jp/kokada_jnet/20091006#p2
1979年の「各務三郎による植草甚一のテキスト批判」の検証(本題 その1)
http://d.hatena.ne.jp/kokada_jnet/20091006#p3
1979年の「各務三郎による植草甚一のテキスト批判」の検証(本題 その2)
http://d.hatena.ne.jp/kokada_jnet/20091007#p4
上記を受けての、検証の続きである。


また、検証対象とする各務の文章を引用する。

クリスティーの『象は忘れない』における十数年まえの夫婦心中について「夫と妻のどっちがさきにピストルで相手を撃ったんだろう。こんなに魅力のある難問も珍しい」と平凡な謎(ただし心中事件は現実に少ない)に無邪気に感嘆したり、今さらのようにクリスティー作品における会話の流れについて感心したりするのをみれば、氏がそれまでクリスティーを読んだことはないのではないか? とかんぐりたくなる。『運命の裏木戸』におけるクリスティーのユーモア(それもダジャレや楽屋落ち)に感心されたんじゃかなわないし、これら晩年の作品における冗長な会話を高く評価する姿勢も理解できない。
氏の博識ぶりは世評に高い。『象は忘れない』Elephant Can Rememberの題名について「それはたぶん四十年以上まえになるがエセル・ライナ・ホワイトが『象は忘れない』(Elephant Don't Forget)というサスペンス小説を書いているからにちがいない。そうしてこの作品はアメリカでは出版されなかったから邦訳に使った『象は忘れない』でかまわないわけだが……」と断定。ホワイトのAn Elephant Never Forgets(1937年)は、翌年、アメリカのハーパー社で出版されたらしいが、それはさておき、〈象は忘れない〉という言葉は、もともと象の記憶力のよさに関連する慣用句みたいなものなのだ。


ここで批判対象とされているのは、「ミステリマガジン」74年4月号の植草の連載コラムの第1回「こんどのクリスティーはどうだろうか」である。
関連する部分を引用してみる。

銀座のイエナ洋書店で本を買っているとき、新入荷書のところにアガサ・クリスティーの「運命の裏木戸」(Postern of Fate)が三冊かさねて置いてあるのか目についた。
そのとたん『こいつからいきたいな』と読まないうちからきめてしまったのは、このまえの「象は忘れない」と比較したくなったからである。ぼくは長いあいだクリスティーぎらいだった。といって「そして誰もいなくなった」には感心した一人だが、それからあとがいけない。たいていのクリスティー作品は途中で読むのをやめることにした。その理由は文章がやさしすぎるし、なんだか中学生に舞い戻ったような気がしたり、こんなものに引っかかっていたら、もっといい作品がゴロゴロころがっているのに読む時間がなくなっちゃうだろう。マイケル・イネスの難解な文章と取り組んだり、レイモンド・チャンドラースラングが多くて強烈な表現にぶつかっているほうか、ずうっと刺激があるじゃないか。戦後しばらくはこんなミステリの読みかたをしていたので、クリスティーぎらいになり、彼女の存在も無視してしまった。

そもそも、こう書いているのに、各務が「氏がそれまでクリスティーを読んだことはないのではないか? とかんぐりたくなる」と批判しているのが、おかしい。植草は、クリスティーは嫌いでほとんど読んでなかったと、はっきり書いているではないか。


さらに、植草のコラムの引用を続ける。

ちょうど昨年のいまごろだったが、やはりイエナ洋書店にクライム・クラブ版の「象は忘れない」(Elephant Can Remember)が「運命の裏木戸」とおんなじ場所にかさねて置いてあった。
それを見たとき読みたくなったのは、なぜ題名を「象は思い出すことができる」としたんだろう。それはたぶん四十年以上まえになるがエセル・ライナ・ホワイトが「象は忘れない」(Elephant Don't Forget)というサスペンス小説を書いているからにちがいない。そうしてこの作品はアメリカでは出版されなかったから邦訳に使った「象は忘れない」でかまわないわけだが、そんな好奇心が手つだってページをひろげさせることになったのだった。

ホワイトの作品の正しい題名が「An Elephant Never Forgets」であるのは、愛蔵太さんも確認されているように各務の指摘が正しい。「元ネタ」と植草が言っている作品名が間違えている上に、「象は忘れない」という英語の慣用句までわからない。であれば、植草はかなり、ひどいと思えるが・・。


ところが、さらに調べてみると、各務も「象は忘れない」をきちんと読んでいないと思われるふしもあるのだ。
「象は忘れない」の原書刊行は1972年。ハヤカワポケミスでの翻訳刊行は1973年である。


クリスティーが執筆した最後のポアロ作品である「象は忘れない」は、探偵作家のミセス・オリヴァが、12年前の夫婦の「心中事件」について聞かされ、ポアロとともにその真相を調査していく物語である。
この作品中から引用。

「象は忘れない」とミセス・オリヴァは言った。「ご存じかしら、子供たちが小さいときから聞かされるお話? ある男が、インド人の仕立屋なんですけど、象の牙に縫い針かなんか突き刺したんです。ちがうわ。牙じゃなくて、鼻ですよ、もちろん、象の鼻です。そして、そのつぎその象が通りかかったとき、口いっぱい水をふくんでおいて、仕立屋に頭からぶっかけたんですって。もう何年も会わないというのに。象のほうは忘れていなっかたんですよ。憶えていたんですね。そこですは、要点は。象は憶えている。わたしたちがやらなきゃならないのは…わたし、どこかにいる象と連絡をとらなくちゃいけませんわ」

このようにミセス・オリヴァは、事件のことをよく覚えている関係者を「象」と呼び、その「象たち」に次々と会っていく物語になってゆく。「象」というキーワードは、この後も作品中に何度も出てくる。
この部分を各務が知っていれば、「植草は本当に『象は忘れない』をきちんと読んだのか。それが慣用句であることは作品内に詳しく書いてあるのだし、ホワイトの作品と直接関係がないことは、当然わかるはずだろう」と批判すべきなのではないか。


もう一度、整理してみると・・。
植草が「Elephant Can Remember」という書名を見た時点では、まだその本を未読なのだから、慣用句だということを知らなければ、ホワイトの本を連想してもおかしくはない。
だが、その本の中身を読めば、バッチリと「象は忘れない」というのが有名な慣用句だと説明がされている。


それを、イエナの店頭で見た際の印象のまま、コラムに書いているのは・・ヒドイといえばヒドイけれど。読者としてどう受け取るべきか。
前回も書いたが、植草のキャラクター性(口語調のスイングするような文章)もあり、このような間違いを知ってもあまり腹がたたない。「おっちょこちょいな人だなあ」という印象を受けるのだ。


(「象は忘れない」や「運命の裏木戸」の具体的な内容についての検証は・・、さらに、次回に続く)