どうして学ぶのか。
どうして勉強するのか。
ということを考えたとき、まず思ったのは、
自分自身をもっと広く深くしていきたい
ということ。
狭い視野に囚われていたくない
というのもあります。
新しい経験、初めての体験というのは、本当に学ぶこと多いです。
他の人の考え方に触れることで、勉強になること多いです。
自分の視野の狭さ、中心性を最近も痛感したのは、NoBorderというお題回答型ブログに参加してすぐのことでした。なんと言いますか、この企画に参加してさまざまな刺激を受けています。(当初は逃げ出したい気持ちと、いつギブアップしてもおかしくないというかなり危ない状態だったのですが)
ココで、NoBorderをサバンナに、メンバーをハンターにたとえたのですが、そういう風に分析してみたり比喩してみることがわたしは好きなんだな、と。これはわたし的には新しい気づきであり発見でもありました。
その気づきや発見があるから面白い、楽しいとそう思うのではないかと。
まだまだ見えていない部分あります。自分の視点でしか見ていないことをもっと自覚しなければ、と思います。
いきなり他者の視点で見るというのは正直難しいです。しかしながら、自分の視点は狭く不十分で、だからこそ「知る」必要があるのだと思います。他者の視点を。
「この世界には学ぶべきものがもっとたくさんある」
「この世界には知らないことがもっとたくさんある」
そう思います。
「自分の世界が狭く中心性を帯びていること」それは決して悲観すべきことではなく、むしろだからこそ「外の世界を見よう」「知らないことがあるというのは知る楽しみ、面白さがあるんだよ」とそう自分に言い聞かせています。
さまざまなものを学び、勉強しようとしている人は大勢います。意欲的にインプットしアウトプットしている人をもっと見習いたいと思います。
知的好奇心をなくしたくない。
それはあります。
自分なんてまだまだだ。
それはずっと思っていたいです。
しかしながら、自己卑下するのでも自己否定するのでもなく、これからの「伸びしろ」の部分に重きをおいておきたいです。
こういった考え方は誰かに押し付けるものではなく、あくまでも自分に言い聞かせるため、書いていつでも読めるようにしておきたいから書いておくという類のものに近いです。
最後にもう一度。
どうして学ぶのか。
どうして勉強するのか。
その答えは人それぞれだと思います。その人それぞれの答えがあることこそが素晴らしいのだと思います。
自分の言葉で語れる人は強いです。自分の答え、軸を持っている人はブレないです。学びつつ、修正することもできる人、そんな人は良いなと思います。間違っていたら素直に修正できるような、そういう人でありたいな、と。