突き刺さった言葉

ふと思い出して胸が苦しくなる言葉がある。
普段は思い出すこともないのだけれど、心に隙ができた途端にそれは蘇り襲ってくる。なんとも厄介な言葉たち。思い出してしまうたび苦しく憂鬱になる。いつになれば憂鬱にならなくなるのか、いつになれば忘れられるのか。忘れっぽい自分が今だに忘れていないのだから、相当深く突き刺さっているのだろう。


具体的にはどういう言葉かはここには書かない。書けば言った人が特定されてしまうかもしれないし、言った本人が気づく可能性もある。本人を責めるつもりはないし、おそらく言った本人は傷つけるつもりはなく、まさかそんなに突き刺さっているとは夢にも思っていないだろう。言われたほうだけがしつこくいつまでも覚えているのだから滑稽といえば滑稽だ。忘れてしまえば楽になるのに、どうして忘れらないのか。そんなに傷ついたのか。そんなにショックだったのか。元はといえば、自分が蒔いた種だというのに・・・。


そう、自分が蒔いた種だから、だから苦しい。自分にも悪いところがあり、相手ばかり責めることはできない。うまくいかなくなったのは、やむを得ない事情があり、自分ではどうしようもできない状況もあって、しかしながら、自分としてはそれまで精一杯がんばっていたということを認めてほしくて、しかしながら認めてほしい人に認めてもらえず、ゆえに傷ついたのだと思う。


傷ついた自分を可哀想だとは思わない。傷つけられたと被害者ぶるのは好きではない。わたしが勝手に傷ついただけだ。どんなに頑張っても認めてもらえないこともあるのだということを知って、少しは成長したかもしれない。


傷は傷のまま、傷を抱えたままでもまぁなんとかやっていけるものだと今のわたしは思っている。これから先もっとつらいことがあるかもしれない。でもおそらくあの突き刺さった言葉以上に突き刺さる言葉というのは存在しないのではないかと思う。否、もしかしたらあるかもしれないけれど、でもだからなんだというのだ。あるかもしれない。もしかしたらないかもしれない。あるかないかよくわからないようなそんな不確定なものに怯えてもしょうがない。不安は足をすくませる。自分で自分を動けなくしてしまう。不安で自分を縛ってしまわないようにしたい。


最後にまとめておこう。
思い出して苦しくなることもあるけれど思い出してしまったのだから仕方ない。思い出すのは心が疲れて弱っているサインなのかもしれない。
傷を抱えたままでもまぁなんとかやっていける。というかやっていくしかない。なんとかできることを、できることからやっていくしかないなぁと・・・。まぁ闇雲に不安がらず、これからもなんとかやっていこうと思う。