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創価薬王の集い このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2050-10-02 トップページ【創価薬王の集い】

【創価薬王の集い】

「薬王の生命健康ブログです♪」


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『健康』とは何か。その結論は『菩薩の生命』です。

人のために戦い続ける一――それが真の『健康』だと私はう。

ただ”健康食品“を食べ、自分のことだけ考えて、

安楽な暮らしを願う――それが健康だとはわない。

『健康』を象徴する薬王は、信に『殉教』した菩薩であった。

『戦う生命』それが『健康な生命』です。


法華経の智』第6巻47頁

2016-11-14 裏切りもあったけれど 孤独に唄うよ!

裏切りもあったけれど 孤独に唄うよ!

創価学会

D

Standing all over now

あきらめるな ついて来いよ

俺たちの長い旅 始まったばかりさ


Give me some lovin

おびえた目で 心配するな

ラストヒーロー 待ち望む声が 今も聞こえる

2016-10-19 グッド・バイ・マイ・ラブ

グッド・バイ・マイ・ラブ

それぞれの道でな。

D


グッド・バイ・マイ・ラブ この街角で

グッド・バイ・マイ・ラブ 歩いてゆきましょう

あなたは右に 私は左に

ふりむいたら 負けよ

2016-10-08 永遠の嘘をついてくれ

永遠の嘘をついてくれ

教義改定の前にwww

D

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく

放っておいてくれと最後の力で嘘をつく

嘘をつけ永遠のさよならのかわりに

やりきれない事実のかわりに


たとえくり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに

人はみな 望む答だけを聞けるまで尋ね続けてしまうものだから

君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

2016-10-03 体験談

体験談

f:id:kon890:20161003002826j:image

長年の慢性病で悩まされていましたが、

ある掲示板で、大仏のグリグリのとこ様の投稿を読みました。

それは「仏法と病気の関係性」といものでした。

その記事の中で「懺悔滅罪」の祈りを目にしました。

それを読み、なるほどそうだな!と思い、さっそく題目を上げあげました。


「仏法と病気の関係性」 

しかし、業病が出た場合は少し違います。

確かにご本尊に祈れば「罪として滅せざるはなし」なのですが、

なんでもかんでもご本尊に題目をあげれば、

過去世の罪がすぐに帳消しになるわけではありません。


盗んだ物や、危害を加えた人や物をそのままにしておいて、

ただ題目をあげて罪が消えるわけがありません。

盗んだものは元にもどし、危害を加えたら謝罪し、罪を償うのが道理です。


そうであるならば「病気を治してくれ」という祈りの前に、

まずは懺悔滅罪(ざんげめつざい)の祈りが先です。


過去の悪業や非礼をご本尊におわびし、

心新たに自行化他の題目(本門の題目)を実践することです。


自行の題目も、化他行の題目も実践しないで病気になったから「治してくれ」と

同志やご本尊にすがるのは、ただの乞食信心であり、単なるゴロツキです。


そうではなく病気を機縁として、

仏法の偉大さを教えてくれた師匠と同志に報恩と感謝を捧げ、

日々の弘教拡大の実践をしていくことによって、

重罪が転じて軽く受けることができるのです。


これが転重軽受の原理であり、そうして初めて宿命転換ができるのです。


仏法と病気の関係性】15/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

 

「魔」や「業」による病は、生命それ自体の問題であり、結局、

自らの強い信心によって「病魔」を打ち破っていくしかないのです。


大聖人

「悪逆を犯した阿闍世王は、提婆達多や邪見の六師外道から

指導を受けていたので、仏には帰依しなかったのである。

ところがマカダ国に天変地夭が絶え間なく起こり、他国からは攻められて

事態は悪化していくばかりか悪瘡すら王の身に出て、国土は一時滅びるかにみえたときに、

王もにわかに改心し、仏の前にきて懺悔したのでその罪は消えた(趣意)」

(御書九三一頁)と述べています。


「懺悔」とは一般的に

過去の罪を悔いてお詫びするという程度に使われていますが、

この言葉はもともと仏法用語からきたものです。


仏法でいう「懺悔」とは二つの意味があって、


一つは過去に犯した罪悪を悔い改めて、仏や菩薩

また師匠や衆人などに公開してその内容を述べるということ。


二つは「端坐して実相を思え」と仏典(観普賢菩薩行法経)にはあって

実相を思うとは信力・行力にあたります。


つまり、阿闍世王の病が治ったのは、過去の罪を悔い改め、

正法弘通に精進したからこそ、病気を完治し、

さらに四十年も寿命を延ばすことができたのです。


大聖人

「小罪であっても懺悔しなければ、悪道を免れることはできないし、

大逆罪であっても懺悔すればその罪は消える(通解)」(御書九三〇頁)と断言しています。


病苦というものは、病気になった本人も、

その家族や周りの人たちも辛く悲しいものにさせます。

辛く悲しいからこそ治したいのは当然として、

何のために治りたいのか、治してこれからの人生をどう生きていきたいのか、

それを考え、答えを見つけて、ご本尊に訴えていくことも大切なのではないでしようか。


するとあれよあれよという間に事が進み、

良い医者にめぐり逢い、医師の紹介から紹介へと進み

あっという間に入院決定です(笑)

担当医は皇室関係の方を診察している名医でした。


入院日は8月15日の終戦記念日。

わたしは慢性病との終戦記念日と決めました。


入院期間はたったの二週間で終え、

長年の慢性病は、いとも簡単に改善してしまいました。\(^o^)/


そして退院日、わたしはその足で本部へと向かいました。

平和会館で報恩感謝の勤行・唱題をして、

金剛堂さんでお茶を頂きながら、


ふとビデオを見上げると、先生が!!!

f:id:kon890:20161003002826j:image

思わず「あ、ハイ!」と答えてしまいました(汗)


そして先生は「大丈夫!勝った!勝った!」と・・・。

わたしは本当に、病魔に勝ったんだと確信した瞬間なのでした!


10.2 世界平和の日/入信記念日に記する。

PS:ひさびさに昔の勤行本(長行)を開けると、10.2完治と記入されていた。


「希望の春風 励ましの記録」

https://www.youtube.com/watch?v=0khJuiKTNHg

2016-08-14 仏法と病気の関係性

仏法と病気の関係性

宿坊の掲示板より 投稿者:大仏のグリグリのとこ様

仏法と病気の関係性】1/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月26日(火)14時58分58秒  

現代の医学における治療技術は目覚ましいものがあります。

精密な技術を必要とする臓器移植や脳手術やバイパス手術、

また病気が起こる病原菌の存在をつきとめ、それを駆逐する戦いを通して

人間はあらゆる病気を克服してきました。

しかし、その一方で病原菌を殺す薬剤は副作用というリスクもあり、

かえって病原菌の抵抗力を強め、果てしないイタチごっこを繰り返しているという悲劇もあります。

だからといって医学を否定するものではないし、

人間が開発した偉大な医療技術は大いに利用すべきものだと思います。

また、釈尊の時代は?耆婆(ギバ)?という名医が活躍していたし、日蓮大聖人も門下の四条金吾

医術の心得があったことから、金吾の調合する薬を用いられています。

大聖人は?病?について経文や論釈を通し、

病の起こる原因をさらに一歩深く思索して問題解決の方途を教えました。

ここでは病の起こる原因と病気に対する仏法の考え方を見ていきたいと思います。

そもそも人間が病気になるのは体の不調や不摂生、また病原菌などがその原因であることは確かですが、

仏法では生命自体に病を起こす原因を持っていて、それが病気となって現れることがあると説いています。

つまり、病原菌などの外的な原因のほか、その人の生命自体にある内的な原因で病気になることがあり、

その原因を究明し、根本的に解決する方法は仏法以外にないと説いているのです。

たとえば、貧困、家庭不和、精神異常、思想の乱れ、人が人を殺し合う戦争なども仏法では病であると説いています。

これらは医学だけではどうしても治せない大きな病です。

極端な言い方かもしれませんが、

病を治すのはあくまでも人間の持つ自然治癒力(生命力)が主体であって、

医学はその手助けをすることに主眼が置かれ、人間自体の生命力を強くし、

病原菌に負けない、また発病しないようにすることが根本課題なのだと思います。

その意味で正しい仏法を根底にしつつ、医学を用いていけば、医学は偉大な効果を発揮することと思います。

グリグリは決して医学専門家ではありませんが、医師の本当の願いは治療ではなく予防にあると想像します。

たとえ病気になっても負けない、それよりも病気にかからないようにするのが最も大切なことです。

そして医学の持つ力を十分に駆使して、その理想を実現する根本の基盤が仏法の生命哲学だと考えます。

仏法と病気の関係性】2/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月26日(火)14時59分41秒  

御書には

「譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし」(九二一頁)

とあります。

私たち仏法者が心得なければならないのは、医療専門家ではない限り、

病気を治療するのはあくまでも医師の仕事であって、

私たちができるのは?信心の指導?だということです。

たまに勘違いしている人もいますが、信心指導をおろそかにして、

治療法などを詳しく話したとしても根本的な解決にはなりません。

相手の悩みの根源を見抜かないで安易な指導をした場合は、

悩みが解決するどころか、かえって相手を苦しませることにもなります。

そういう意味でも指導する立場の人間は、まず自らがしっかり題目をあげ、

我見ではなく、つねに御書を依文として信心の指導を心がけることが大事だと思います。

さて、大聖人御在世当時、太田入道という門下が痛みを伴う病気にかかり、

それを手紙で報告したのに対する御返事(太田入道殿御返事)があります。

この手紙のなかで大聖人は太田入道が病気になったことについて

「一度は嘆いたが、再びは悦んだ(通解)」(御書一〇〇九頁)と述べています。

つまり、初めは世間一般のうえからは悲しんだが、仏法で見たならば一歩深い意義があり、

これによって仏法をさらに深く学ぶことができるからであるということです。

大聖人は経典や論釈の文を引用し、

特に天台の摩訶止観(次から止観)に光を当てて、病気の本質を解明していきました。

仏法と病気の関係性】3/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月26日(火)15時00分30秒   編集済

天台は止観のなかで「病の起こる因縁を明かすのに六種類ある。

一には四大(地・水・火・風)が順調でないゆえに病む。

二には飲食が節制されていないがゆえに病む。

三には坐禅が正しく調(ととの)わないゆえに病む。

四には鬼が便りを得るゆえに病む。

五には魔の為すところゆえに病む。

六には業の起こるゆえに病む(通解)」(同頁)

と述べています。

因縁の?因?とは結果を生ずべき直接的な原因です。

?縁?とは因を助けて結果に至らしめる外的・間接的な原因ということです。

一切の現象はこの因と縁が和合して生滅を繰り返しているのです。

では、この六つの病の起こる因縁を見ていきましょう。

■一、四大(地・水・火・風)が順調でないゆえに病む。

仏法では宇宙の構成要素を?地・水・火・風?の四大と捉えていて、

人間もまたこの四大から構成されていると説いています。

つまり、四大とは色法(物質、形や色のあるもの)を構成する四種の元素・要素のことで、

自然の運行や身体の構成要素が乱れていることから起こる病です。

人体を構成する

?地?は、固さやものを保持し作用することをもって自性とし、筋肉・骨・歯・爪・髪などはあたります。

?水?は、湿りけやものを摂(おさ)めて集める作用を自性とし、血液やリンパ液がそれにあたると考えられています。

?火?は、熱さやものを成熟させることを自性とし、人の体温にあたります。

?風?は、動きやものを生長させる作用を自性とし、人の呼吸などです。

その四大が順調でないことから起こる病気とは、

たとえば、発熱・ねんざ・筋肉痛・疲労・熱中症などがそれにあたると思います。

仏法と病気の関係性】4/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月26日(火)15時01分10秒  

■二、飲食が節制されていないがゆえに病む。

これは飲み食いに節度がないという意味です。

飲みすぎや食べすぎ、また偏食や無謀なダイエットは身体に良くないのは当然です。

止観には「節度ない飲食は多くの病気を作る原因にもなり、五臓(内臓)の妨げになる(趣意)」とあります。

■三、坐禅が正しく調わないゆえに病む。

これは座って行う坐禅の修行が調和していないという意味ですが、

身体の動作や呼吸、また精神の集中が乱れている状態をも含まれます。

止観には「心が慢心になり怠けていることによって、魔がそれに付け入り、

背・脊髄・関節が痛くなる病気で最も治りにくい(趣意)」と述べました。

広い意味で言えば、日常の姿勢の悪さや運動不足、またそれとは逆に肉体を酷使することによって起こる病のことです。

■四、鬼が便りを得るゆえに病む。

?便りを得る?とは?付け入る?という意味ですが、

鬼が身体に付け入って病の原因になるという意味です。

仏法でいう?鬼?は、人の功徳や生命を奪い、天変地異や社会・思想の混乱などを

起こす原因になることから、病原菌などによって起こる病気(ウイルスや細菌などによる伝染病)と考えられます。

止観には「四大五臓は鬼ではない。もし四大五臓に入れば鬼病と名づける(趣意)」とあります。

考えてみれば、さまざまな病気が起こる原因は、

なにも六つのうちの一つだけをもって病気が決まるのではなく、

六つの因縁が複雑に絡み合って引き起こっているのではないかと考えます。

つまり「これが原因で病気になった」というような単純なものではないということです。

たとえば、医師は患者の症状を見て、その原因がどこから来ているのかを突き止めようとします。

?お腹が痛い?と訴えた患者に対して、いつから痛くなったのか、痛くなる前には何を食べたのか、

どう痛むのか、時々痛みが治まるのか、それともずっと痛いのか等々――。

医師は患者の話をよく聞いてその原因を導き出し、治療や予防を試みようと努めます。

それでも分からなければ、今度は科学的に精密検査をして原因を調べます。

それと同じように人間の?悩み?というものは千差万別であり、

その悩みの内容や背景をよく聞かずして信心指導などできるわけがありません。

先ほども述べましたが、まずは相手の話をよく聞いて、それでも分からなければ、

経験豊富な先輩に聞くとか、御書に求めるとかの方法を用いて、

その後に何らかの対処やアドバイスをすることが重要だと思います。

仏法と病気の関係性】5/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月26日(火)15時01分54秒  

■五、魔の為すところゆえに病む。

これは?魔?のしわざによって病が起こるという意味です。

止観には「陰魔・煩悩魔・死魔・天子魔」の四つの魔を挙げており

「魔の病というのは、鬼の病とは質が違う。鬼の病はただ身を病(なや)まして身を殺す。

しかし、魔の病は心を破り思想を破る。

これは邪念を起こして人の功徳を奪う鬼の病とは違い、

魔はさまざまな衣服、飲食、七つの珍しいものや、雑物を現す。

これらを受け取って歓喜すれば、魔はその心に入り病を起こす。この病は治りにくい(趣意)」とあります。

四魔(陰魔・煩悩魔・死魔・天子魔)によって起こる病はじつに深刻で

この病の最大の特徴は?正法の実践?を妨げることにあります。

「陰魔(おんま)」とは五陰魔ともいい、物質的な側面や

六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)から受ける心的作用、またそれによって

心に浮かべた意思や欲求を通して、信仰者の身体に病気を起こして信心を迷わせることをいいます。

たとえば、

信心や他の事は一切そっちのけで?ポケモンGO?に夢中になりすぎて、

事故に巻き込まれたり体調を崩したりすることもその一つです。

また「煩悩魔」の根本は、三毒(貪・瞋・愚)の煩悩のことを言います。

たとえば、お金もないのに遊びほうけて借金してでも高級ブランドを買いあさったり、

外面を気にするあまり過度のダイエットをしたり、

ギャンブルストーカーなど何かに依存している状態も仏法では病気と説いています。

死魔」は文字通り、自分自身が死ぬことによってその人の信心活動を停止させ、

また身近な人が亡くなることによって信心を迷わせる働きです。

「天子魔」は他化自在天ともいい、魔のなかでは最強の魔です。

これは一切の魔の働きを生む根源の魔で?第六天の魔王?のことです。

つまり、多くの民衆から仏のように敬われている者が正法を迷わせ、

正法信仰者に迫害を加えることによって?心や体?に起こる病です。

要するに、魔は衆生の心を悩乱させる働きをすることから、

本能的欲望や感情が乱れることによって起こる病気と考えられます。

以上が魔(四魔)のしわざによって起こる病です。

仏法と病気の関係性】6/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月26日(火)15時02分33秒  

■六、業の起こるゆえに病む

これは前世の悪業が原因となって起こる病のことです。

?業?とは身・口・意にわたる行為のことであり、

過去世の業を宿業といい、現世の業を現業といいます。

業には善悪の両面があって、善の業因は楽の果報をもたらす因となりますが、

悪の業因は苦の果報をもたらす因となります。

止観には「業病とは前世の業である。あるいは今世に戒を破れば、

前世の業が発動して業病が出ることがある。

そのことによって所犯があることがわかる。もし

殺害の業ならば肝眼(かんげん)の病である。

飲食の罪の業は心口(しんく)の病である。

婬欲の罪の業は腎耳(じんに)の病である。

妄語の罪の業は脾舌(ひぜつ、脾は循環器系)の病である。

盗(ぬすむ)の罪の業は肺鼻(はいび)の病である。

五戒をそしる業は五蔵五根(ごぞうごこん)の病が起こることもある(趣意)」とあります。

これを整理すると、

?殺害の業――臓器は肝臓、六根は目。

?飲食の業――臓器は心臓、六根は口。

?婬欲(みだらな男女関係)の業――臓器は腎臓、六根は耳。

?妄語(ウソをつく)の業――循環器系(血液やリンパ液など)、六根は舌。

?盗む業――臓器は肺、六根は鼻。

?五戒をそしる業――五臓(肝・心・脾・肺・腎)、六根は五根(眼・耳・鼻・舌・身)

となります。以上が病の起こる六種類の因縁です。

・・・・つづく

仏法と病気の関係性】7/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)08時43分43秒  

これらは病の起こる原因の違いによって立て分けたもので

原因の深さによってもその対処法は変わってきます。

たとえば、肝臓の病気を持つ人でもその原因が、

お酒を飲みすぎたことによって肝臓の病気になったのか、

それとも酒もタバコもせず、

健康に気を使っていた人が突然、肝臓の病気になったのか、

同じ肝臓の病気を持つ人でもその原因はさまざまです。

このように一応は六種類に立て分けていますが、

実際のところは本人が専門の医師に調べてもらい、

本人の話や信心状態をよく聞かないと正確な対処法はわからないということです。

また、御書には「人には二つの病があって、一つは身の病で四百四病あり、

二つは心の病でこれは三毒と八万四千の病がある(趣意)」(御書九九五頁)とあり、

止観には「四大はこれ身の病、三毒はこれ心の病」とあります。

?四百四病、八万四千病?というのは、

実際の数字というよりそれほど「多数ある」という意味だと思います。

身の病とは四大(地水火風)の不調和が引き起こす病気のことで、四大の質、量ともに

調和している時は健康ですが、そのバランスが崩れた時に病気になると考えられています。

四大の不順をもたらす原因としては、気候の変化、食物の過不足、生活リズムの乱れなどが挙げられます。

大聖人は「身の病はたとえ仏でなくても名医が薬で治療することによって治すことができる(趣意)」

(御書九九五頁)と述べています。

仏法と病気の関係性】8/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)08時44分28秒  

さらに大聖人

「身の病は医学によって治せるが、心の病は仏法でなければ治せない。

その理由は、心の病は?三毒?を基本として起こる病気だからである(趣意)」(同頁)

と述べました。

三毒とは?貪・瞋・愚(とん・じん・ち)?の三種類のことですが、

具体的に言うと

「貪」とはむさぼるように愛する・溺愛・偏頗な愛情という意味です。

「瞋」とは瞋恚(しんに)ともいい、いかりのことです。

「愚」とは愚癡(ぐち)・おろか・無智という意味です。

つまり、人間の心のなかに渦巻く?三毒?をはじめとするさまざまな煩悩により

?心の世界?の調和が乱れることによって心の病が起こるということです。

たとえば、親が偏った愛情や溺愛で子供を育てると大抵の場合、

その子供はわがままに育ち、成長すると親に反抗するか、もしくは家庭内暴力に発展するか、

もしくは社会に適応できない大人に育つ可能性があります。

親は親で無智と愚かさゆえに、親自身がそういうふうに育てたとは思わず、

子供に対して怒り、グチり、自分の思い通りにならなくなって、

いつしか「うつ状態」に陥って苦悩する――。これなどは典型的な三毒による心の病です。

要するに?心の病?とは、生命の濁りによって引き起こす病であるとともに、

生命の濁りが原因となって身の病も起こる場合があるのです。

そして心の病が原因となって起こる身の病は、単に身体の治療だけでは

根本的解決にはならず、他の病気と同じ症状でも治りにくい状態が続くのです。

仏法では心の領域は広大であり、空間的にも時間的にも宇宙大であると説きます。

大聖人はこのような広大な領域をもつ心の病には「重々に浅深・勝劣に分かれている」(同頁)

と述べ、五重の相対を通して心の病の浅深・勝劣を論じました。

仏法と病気の関係性】9/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)08時45分6秒  

それらを簡単にまとめると、

そもそも生命の表層部に現れる煩悩(三毒)は、浅く弱いものもあれば、

心の奥深くから強烈に湧き起ってくるものもあります。

仏法はそうした人々の?煩悩(三毒)?の浅深に応じて、

浅い法から深い法へと重々の法門を立て分けて説いたのです。

浅い煩悩(三毒)ならば、浅い法でも治療できますが、

深層部から湧き出てきた深い煩悩(三毒)ならば、深く勝れた法でなければ治すことはできません。

たとえば、社会的・心理的ストレスによって起こる?怒りや欲望?が原因で、

心の調和が乱れたとしても、これらはまだ心の深層部までは及んでいませんから、

小乗のような劣った法でも調整し快復させることができます。

ただし、小乗教の浅く劣った教えに「執着」して大乗教に背くと、

その心の煩悩(三毒)が原因となって、さらに治療がむずかしい病(心の病)を生ずるのです。

小乗教に執着する人に起こる特有の心の病は、善良な人とは比較にならないほど

強い自我意識にとらわれた?利己主義?です。

これによって出てくる煩悩(三毒)は、

社会的・心理的ストレスによって起こる煩悩(三毒)よりも一段と強烈なものです。

たとえば、他者への瞋りは心身症(皮膚病・胃腸障害など)を引き起こします。

社会的・心理的ストレスによって起こる瞋り(心身症)はまだ根が浅いですが、

小乗教に執着した人が起こす瞋り(心身症)は根が深いのです。

この場合、どちらも病気(心身症)としては同じですが、病気(心身症)を引き起こしている

?瞋り?が、何を対象とし、生命のいかなる深さから出てきているかによって、

治療の易度は全く違ってくるのです。

つまり、小乗教に執着することによって起こった二乗心身症は、大乗教によって

利己主義を打ち破り、利他の精神に転換させない限り治すことはできないということです。

仏法と病気の関係性】10/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)08時45分40秒  

原理はこれと同じで、大乗教が絶対と思い込んで

法華経に敵対し、法華経よりも勝れているなどの邪見を起こせば、

極めて深刻な諸病を誘発してしまうのです。

それは部分による全体の混乱は、生命の調和を極端に破壊していく方向に導くからです。

ちなみに、涅槃経には阿闍世王の故事が記されていますが、

それによると、提婆達多にそそのかされて悪逆を行った阿闍世王は、その後、

強い後悔の念から熱を出して五十歳になる年の二月十五日に全身に大悪瘡(悪いできもの)ができ、

悪臭を放つため人々が近づくこともできない状態になり三月七日に死ぬと予言されました。

阿闍世王の母がいろんな薬をつけたが、かえって悪瘡が増えるだけで少しも軽くならなかった。

阿闍世王は母に対して

「この悪瘡は心から生じたもので四大の不調和から起こったものではないから、

世間の者がこの病を治せるといってもその道理がない」と言います。

阿闍世王の悪瘡はおそらく今でいえば、末期の皮膚ガンと思われます。

阿闍世王は自分をそそのかした提婆達多が生きながらにして地獄に堕ちたことを知り、

自身の悪業への後悔から仏法帰依し、仏の慈悲によって救われ、

その後、四十年も寿命をのばして釈尊滅後もおおいに仏法を宣揚し、

第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くしました。

仏法と病気の関係性】11/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)08時46分20秒  

さて、大聖人

「大乗教を信奉している人々でも、それが劣っているにもかかわらず、

我が宗は法華経よりも勝れているなどと言う人たちが多く出てきている。

もし権力者がこの誤りを用いれば、これによって三毒・八万四千の病(伝染病など)が起こる。

大乗教の人々が自らの依経をもって治そうとしても、かえって病はますます倍増し悪化する。

また彼らが法華経で治療にあたっても功力は現れない。なぜかといえば、

経は勝れてはいるが?行者が誤った者?だからである(趣意)」(御書九九六頁)

と述べています。

信心していても「身の病・心の病」で何年も苦しんでいる人がいます。可哀そうでならない。

しかし、一度ゆっくり立ち止まって上記の御文を自分に当てはめて考えてみてはどうでしょうか。

同志が御書や信仰体験(病気)を通してアドバイスした話を

しっかり聞いて、その通りに実践しているだろうか。

自我意識にとらわれ、利己主義になっていないだろうか。

御書根本・池田先生根本で信心している同志を軽んじてはいないだろうか。

我流の信心をしていないだろうか。

誰のせいでもありません。苦しんでいるのは自分自身です。

自分自身が自らの行動で治していくしかないのです。

まずそう決意して、医師に依存するのではなく、

医師の助けをかりながら病気と向き合うのが、もっとも健全なのだと思います。

仏法と病気の関係性】12/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)08時46分59秒  

では次に「遺伝」という角度から見ていきましょう。

?親の因果が子に報い?という言葉がありますが、

親から子や孫に体の形や性質が伝わる現象遺伝といいます。

血液型や体質が親から子に伝わる現象などもそうです。

生物学などは遺伝を体形、体質、性質などに関わる伝播を問題にして論じているのに対して、

仏法ではそこからさらに一歩深い性質や思想などの

いわゆる?生命の傾向性?にまで踏み込んで論じています。

また親子に限らず、兄弟、夫婦、さらには社会、世界という単位でも

一つの傾向性をもった生命が集まるという広げた概念を説いて、

それを「眷属」と呼びました。

遺伝と眷属の考え方の違いは、根本的には遺伝がその?仕組み、仕方?を述べているのに対して、

眷属はその?因果?を明らかにしているところです。

つまり、親から遺伝を受けた?仕組み?が明らかになっても、

その遺伝を?なぜ?受けなければならないのかは遺伝学では解明していません。

つまり「なぜ自分が病気に・・・・」という悩みは、遺伝学では解決しないのです。

たとえば、色盲で生まれたのは、その生命の過去の原因によって、

色盲という結果をもって生まれたのでありこれを?宿命?といいます。

その現れ方は「色盲になる遺伝子をもった親のところへ生まれてくる」という形になるのです。

色盲という病気が宿命であるならば、その宿命をどのように転換していくのか

ということになれば、これはもう遺伝学の分野ではなく、仏法の領域です。

そしてそれを完璧に解き明かしているのが、大聖人仏法(大生命哲学)なのです。

・・・つづく (たぶん夕方)

仏法と病気の関係性】13/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)12時42分29秒  

話をもどします。

このように御書を通して?病?を見ていくと、病の根本原因を突き止めるのは

大変しく、非常に複雑な条件が絡み合って病気が発症していることが分かります。

そういう意味においては

「一、四大順ならざるゆえに病む」

「二、飲食節ならざるゆえに病む」

「三、座禅調わざるゆえに病む」

の三つは、病院へ行って治療すればまだ治る病気だと思います。

「四、鬼便りを得る」

「五、魔の所為」

にしても、近年の医学は目覚ましい進歩を遂げていますから

幾分の治療効果は得られていますが、まだ完全完治とはいえない状態です。

しかし

「六、業の起こるゆえに病む」

というのは医師ではどうすることもできません。

涅槃経には

「世の中に最も治しにくい病人が三人いる。

第一は大乗教を誹謗する人

第二は五逆罪を犯す人

第三は一闡提(いっせんだい)の人

このような三種の病人は病のうちで極めて重い(通解)」(御書一〇〇九頁)とあります。

一闡提の人とは正法を信ぜず、悟りを求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生のことです。

つまり、この三種が原因となって起こる病は極重病であると説かれているのです。

一般の人や、たとえ学会二世、三世、四世の人であっても、

それを知ろうと知るまいとに関わらず、

純粋に信心に励む人をバカにしたり迫害したりすれば、

その罪業は極めて深く重いために滅することはしいのです。

だからこそ、その悪業を原因として起こる業病は治しく極重病になるのです。

仏法と病気の関係性】14/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)12時43分9秒  

たとえば、今までさんざん学会悪口を言い、同志の悪口を言って、

好き勝手にしていた学会員やその子供が病気になると、

その人は組織の同志に向かって

「地区・支部で唱題会を設けて病気が治るように題目を送ってほしい、私も題目に挑戦します」と言う――。

それは別に悪いことではないし「病によりて道心はをこり候なり」(御書一四八〇頁)なのですから、

病気になったことによって今までの信心の態度を改め、新たに決意することは良いことです。

なにもわざわざ組織をあげて唱題会を開催しなくても、

それを聞いた同志は何も言わず一生懸命に題目を送ってくれます。

それが草創期から築きあげてきた学会の伝統であり同志愛です。

しかし、業病が出た場合は少し違います。

確かにご本尊に祈れば「罪として滅せざるはなし」なのですが、

なんでもかんでもご本尊に題目をあげれば、

過去世の罪が?すぐに帳消し?になるわけではありません。

盗んだ物や、危害を加えた人や物をそのままにしておいて、

ただ題目をあげて罪が消えるわけがありません。

盗んだものは元にもどし、危害を加えたら謝罪し、罪を償うのが道理です。

そうであるならば「病気を治してくれ」という祈りの前に、

まずは懺悔滅罪(ざんげめつざい)の祈りが先です。

過去の悪業や非礼をご本尊におわびし、心新たに自行化他の題目(本門の題目)を実践することです。

自行の題目も、化他行の題目も実践しないで病気になったから「治してくれ」と

同志やご本尊にすがるのは、ただの乞食信心であり、単なるゴロツキです。

そうではなく病気を機縁として、

仏法の偉大さを教えてくれた師匠と同志に報恩と感謝を捧げ、

日々の弘教拡大の実践をしていくことによって、

重罪が転じて軽く受けることができるのです。

これが転重軽受の原理であり、そうして初めて宿命転換ができるのです。

仏法と病気の関係性】15/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)12時43分45秒  

「魔」や「業」による病は、生命それ自体の問題であり、結局、

自らの強い信心によって「病魔」を打ち破っていくしかないのです。

大聖人

「悪逆を犯した阿闍世王は、提婆達多や邪見の六師外道から

指導を受けていたので、仏には帰依しなかったのである。

ところがマカダ国に天変地夭が絶え間なく起こり、他国からは攻められて

事態は悪化していくばかりか悪瘡すら王の身に出て、国土は一時滅びるかにみえたときに、

王もにわかに改心し、仏の前にきて懺悔したのでその罪は消えた(趣意)」

(御書九三一頁)と述べています。

「懺悔」とは一般的に

過去の罪を悔いてお詫びするという程度に使われていますが、

この言葉はもともと仏法用語からきたものです。

仏法でいう?懺悔?とは二つの意味があって、

一つは過去に犯した罪悪を悔い改めて、仏や菩薩、また師匠や衆人などに公開してその内容を述べるということ。

二つは「端坐して実相を思え」と仏典(観普賢菩薩行法経)にはあって?実相を思う?とは信力・行力にあたります。

つまり、阿闍世王の病が治ったのは、過去の罪を悔い改め、

正法弘通に精進したからこそ、病気を完治し、さらに四十年も寿命を延ばすことができたのです。

大聖人

「小罪であっても懺悔しなければ、悪道を免れることはできないし、

大逆罪であっても懺悔すればその罪は消える(通解)」(御書九三〇頁)と断言しています。

病苦というものは、病気になった本人も、その家族や周りの人たちも辛く悲しいものにさせます。

辛く悲しいからこそ治したいのは当然として、

何のために治りたいのか、治してこれからの人生をどう生きていきたいのか、

それを考え、答えを見つけて、ご本尊に訴えていくことも大切なのではないでしようか。

仏法と病気の関係性】16/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)12時44分23秒  

また、涅槃経には

「今世に悪業を成せば、来世には必ず地獄に堕ちて大苦悩を受けなければならないが、

?仏・法・僧?の三宝供養することによって地獄には堕ちない。

そのかわりに現世にその報いを受けて?頭と目と背の痛み?となって現れる(通解)」

(御書一〇〇九頁)とも説かれています。

つまり、今世で正法誹謗の悪業を行えば来世に必ず地獄に堕ちるが、

それを悔い改め、反省してご本尊を信じ、広宣流布の実践に励んでいるなら、

地獄に堕ちるべき悪業の報いを現世で軽く受けることができるという意味です。

止観には

「もし重罪があっても、今世で軽く償う場合には悪業を消滅させるために病気になる」

と説かれています。

そしてそれが?頭・目・肩・腰の痛み?などの病気と現れ今世で罪業を消しているのです。

これらの経文や論釈は?病苦?という角度から、それを治す原理が明かされたものです。

だから

「信心しているのになぜ病気になるの、なぜすぐに治らないの」と

いちいち文句を言わずに、この病気で過去の償い(罪障消滅)をしているのだと思えば良いのです。

信心さえしっかりしていれば、嘆く必要はありません。

仏法と病気の関係性】17/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)12時45分8秒  

たとえ信心を一生懸命がんばっていたとしても、私たちは生身の人間なのですから、

当然、病気にだってなるし、身体の調子が悪くなる時だってあります。

信心しているのに何でこんな病気になったのだろうと疑問に思うこともあるし、

病気をしたら信心が無いみたいに思う人もいるかも知れません。

しかし、法華経には「少なく病み少なく脳む」とあります。

多少の病気や身体に痛みがあったとしても、そんなにイライラしないで

「ああ、この病気のおかげで私は地獄に堕ちずに済むわぁ。よかった♪」

「持病の頭痛ヘルニアは、きっと今世で悪いことをしたからだわ !

もう謗法は絶対しないように気をつけよう。よかった、原因がわかって♪」

「病気のおかげで自分を見つめることができてよかった、功徳だわぁ♪」

というぐらいのおおらかな気持ちで病気とうまく付き合っていったほうが価値的です。

病気の根本治療はやはり「謗法を犯さない」ことに尽きます。

そのために?謗法とは何か??悪とは何か?を学ぶことは必要なことです。

しかし、それでもやっぱり凡夫ですから間違いを犯すことだってあります。

もしも病気になった場合は、悩んで落ち込むより、

そこに意義や価値を見出し、前を向いて人生を生きていくほうが得です。

また必ずそういう境涯になっていけるのが日蓮仏法の真骨頂なのです。

結局、苦しみの?生老病死?の人生を、喜びに満ち溢れた

?常楽我浄?の人生に転換していくのが信心する最大の目的なのです。

仏法と病気の関係性】18/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ

投稿日:2016年 7月27日(水)12時45分46秒  

最後に戸田先生の?業病?に対する指導の抜粋を記して終わります。(※読みやすいように変換)

――いまの世間を見るに、医者ではどうしても治すことができない業病の多いのには驚く。

本人の嘆きはもちろんのこと、家族の嘆きは筆舌につくせない。かわいそうでならないのだ。

何とかして一日も早くこれを治してやりたいものと思わざるを得ない。

凡夫の身として医者も治せない業病をどうして治すことができようか。

深く憂い、深く悲しみ、そのご指南を大聖人に受ける以外にないことを知って、

御書を拝見するのに明々白々として、これが治療の方法を知ったのである。

それはご本尊を信じてこれを行ずる、すなわち?信力・行力?が?法力・仏力?となって、

人の力では及ばない大現象をそこに出現するのである。

過去世の業因によって起こったところのものは、もっとも病中の病である。

たとえば、小児マヒ、精神病、脳水症等である。

治しき業病の最も重いのは、過去世の法華誹謗によることは明らかである。

また、業病は過去世の謗法によるものだけではなく、現世においても同じく言うのである。

「軽き有り重き有りて多少定まらず」(御書一〇一〇頁)と仰せの軽いものは、

今世の業因によるものである。

法華経こそ一切の病の良薬であり、変毒為薬の妙なるものである。

謗法は毒であり、これを治しうる法は良薬である。

業病の因たる謗法の毒を法華経の力によって良薬に変ずるのであるから、

これすなわち変毒為薬である。

「人の地に倒れてかえって地によりて起つ」(同頁)、すなわち法華経誹謗の業因あるものは、

法華経以外のものによって、治すことはできないことは明々白々である。

いま一例をひく。

小児マヒの子供をもった親があったとする。子供は御本尊を拝むことができない。

しかし、親は御本尊を信じ行ずることができる。

この親が大信力を起こして大御本尊を拝み、折伏を行ずるならば、その子供は治るのである。

しかし、その子供があまりにも業因が深くして終生その病気に悩まなければならない場合は、

その子供は生きることができないで早く死ぬのである。

なぜ死ぬのであろうか。

それは小児マヒの子供を持つ親には、そのような子供を持つ業因があるのである。

されば、信心することによって親の業因が消えたとするならば、

小児マヒの子供を持つ宿命がなくなったことになる。

そうなると、これに応じて子供は治るか、死ぬかのどちらかでなくてはならないのである。

付記していっておくが、金を持てない、家を持てない、というような貧乏な暮らしの宿命は、

身の業病ではないけれども、やはり業病の一種になる。

医者でも薬でも治らないゆえに、といえば冗談になるが、

だれ人の力をもってしても、どうすることもできない。

ゆえに、そういう人は大御本尊を信じ、信力・行力を励まなければならない――

(戸田城聖全集第一巻一四二頁)

おわり

宿坊の掲示板より

2016-06-30 舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門

舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門


宿坊の掲示板

大仏のグリグリのとこ様の投稿より


舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】1/13


日蓮仏法信仰し、日蓮教学を真剣に学んでいこうと志ざす人には、

大なり小なり、そこにいたる道程と動機があるものです。


ある日、もっとも尊敬する先輩から自身の体験を通して、

その道程と動機を教えて頂いたことがありました。


先輩は言います。

「わが家は親の代から学会員で、自分も人生の苦に何度も合ったが、

すべて信心を奮い起こして挑戦し、乗り越えてきた。

そんな矢先に待望の子供が障害者として生まれた。


この日以来、日蓮仏法を真剣に学び、人生をかけて子供の幸福(成仏)を思索してきた。

そして答えが見つかった。今ならはっきりわかる。

結局、教学は人生の苦のなかでしか深まらない」と。


先輩の体験を聞いた時に、本当にこの先輩は教学を学び終え、

それを実践に移している偉大な人だなと感動したものです。


というのは、グリグリの身内にも重度の障害者がいたからです。

一口に障害者といっても、いろんな人がいます。


目が見えない盲目の人、耳が聞こえず、はっきり言葉として話せない人、

背の低い人から足の不自由な人、そして背骨が弓状に盛り上がり湾曲した人等々――。


詳細は書けませんが、身内の障害者は目と耳と脳は正常なのですが、後はすべてダメなのです。

身体を自分で自由に動かすことが出来ず、常にオシメを着用し、食事も一人で食すことが不可能なので、身体を横にして誰かがスプンで口に運ぶしか食べる方法がない。


そして当然、しゃべることが出来ないので文字盤を指で押さえて自分の意思を伝えます。

健常者ならば、十秒で人に伝えられることも身内の障害者は五分十分かかります。


手を自由に動かせないながらも必死で文字盤を押さえて意思を伝える方も、

それを確認しながら必死で理解しようとする方も共に根気のいる作業です。

グリグリが教学を極めようと決意したきっかけの一つは、

そんな障害者が身内にいたからかもしれません。


その身内も学会員で、親は重度障害児の子を小さい頃から厳しく育てていました。

正確に南無妙法蓮華経と発音できない子供をご本尊の前に座らせ


「いいかい、子供よ、お前は口と身体はダメだが、目と耳は正常だ。

だから口で題目を唱えなくてもいいから、しっかりその目でご本尊を見て、心で題目を唱えなさい。

そして、もしも教学の話をしてくれる人が現れたら、しっかりその耳で聞きなさい」――こう言い聞かせていました。


そんな子供も成人し、今では電気式車イス障害者が集まる作業所に通い仕事をしています。

親は亡くなる前の枕元でグリグリにこう言いました。


「子供に仏法の偉大さを話してやってくれ、たのむ・・・・」と。

まもなく親は霊山に旅立ちました。先輩の体験を聞いて、そんなことを思い出したのです。


舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】2/13


さて、遠い昔のインドで何不自由なく暮らしていた一国の王子(釈尊)が、

王宮の門の外で老人や病人、また死人や修行者に出会い、人生の生老病死を目の当たりにして

「人生の苦悩」に目を開き、出家を決意したという故事があります。(四門出遊〈しもんしゅつゆう〉)。


釈尊は人間の苦悩の解決のために、修行に励み、

わが身の振舞いを通して生老病死の解決法を示し切り、尊い生涯を終えました。

そしてその釈尊「心」を弟子たちが法華経にまとめて後世に伝え残しました。


末法に出現した日蓮大聖人はその法華経をさらに昇華させた形で

「南無妙法蓮華経(ご本尊)」と表現を変え?万人成仏?の方途を示したのです。


これらのことから、すべての生命に貫かれているものが法華経だとすれば、

あとは何によって、その門に入るかという問題が残ります。


これを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。


その前に、智慧第一と言われた「舎利弗」と愚鈍の代表格である「修利槃特」の

共通点は何であったのかを見ていきたいと思います・・・・と、


ここまで書き終えた時に、妻から反論がありました。


「ちょっと待ってよ、舎利弗と修利槃特に共通しているのは成仏した事だけじゃない。

それ以外に共通したところなんて何があるの。あとは全部、正反対じゃないの」と。


妻の言ったことをまとめると、


1.舎利弗は智慧第一、修利槃特は愚鈍第一

2.舎利弗に対して師匠は厳しい態度だった、修利槃特に対して師匠はやさしい態度だった。

3.舎利弗は他の弟子からも人気があった、修利槃特は他の弟子からはバカにされた。


確かに妻の言う通り、成仏した以外は正反対だったかも知れません。

しかし、結論を急がず、もう少しじっくり考えていきたいと思います。


舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】3/13


法華経方便品第二」の対告衆は舎利弗ですが、

確かに師匠舎利弗に対して厳しい態度で接しています。


その内容を要約すると


舎利弗よ、よく聞け。仏の智慧は甚深無量でいまだかつて聞いたことのない無量無辺の未曾有の法である。

仏の智慧を理解するのは解で、智慧の門に入るのはしい。一切の二乗(声聞・縁覚)が知ることのできないものである」と、


仏の境涯をさんざん賛嘆したのち、二乗の代表である舎利弗を徹底的に叱り飛ばしています。


これまでも釈尊は、三乗(声聞・縁覚菩薩)の人は皆、もろもろの執着を離れて、

もう世の中はこれでいいのだと思いこんでいる。

三乗の境涯のままでいいのだと満足している。


しかし、違うのだ。


あらゆる仏が出現するのは、君たち三乗や万人がもともと持っている仏知見を開いてやろう、

悟らしてやろう、そしてそれを示して仏の境涯に入らしてやろう(開示悟入)として生まれてきたのだ。


だからまず仏の智慧を賛嘆し、それから君たちを導くのだ。

君たちみたいな者が何億人集まっても仏の智慧はわからない――。

そして「止めよ、舎利弗よ。もう法は説かない。なぜなら仏が成就したのは

稀有にして解な第一の法であり、ただ仏と仏だけが『諸法の実相』を究め尽くしているからである」


と説きます。


これを聞いて舎利弗はやっと理解できたのです。

舎利弗は「師匠よ、やっとわかりました。そんなに偉大な法があるのですから、私はその偉大な法を信じます」と。


これを以信得入(いしんとくにゅう)、?信をもって入ることを得たり?といいます。


舎利弗と修利槃特の最大の共通点は「信心」です。

信ずる心をもっていたがゆえに、成仏することができたのです。


そしてそれは?信ずる心?をもって入らなければ、

法華経の心を会得することは絶対にできないということでもあるのです。


舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】4/13

では、仏と仏だけが知る「諸法実相」とは何でしょうか。


結論から言えば、諸法実相とは十如是のことです。

つまり「いわゆる諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本、末究竟等なり」です。


この十如是の文は、ちょっとむずかしい言葉ですが「略開三顕一」といいます。

これは三乗(声聞・縁覚菩薩)を破折して、一仏乗をあらわすという意味です。


もっとわかりやすく言えば、人生の目的は幸福になるためにあるのですが、


それは金持ちになる事である、社会的名声を得る事である、世界一周旅行に行く事である、

結婚して家庭を持つ事である、美人になる事である、健康になることである等々いろいろありますが、


それは小さな目的観に立った三乗を求める衆生の姿なのだと師匠は言います。


そうではなく、本当の人生の目的は、ご本尊様を信じ、南無妙法蓮華経を信じなさい。

そうすれば、絶対に崩れない幸福な自分になれる。これが人生の究極の目的です――略開三顕一とは、こういう意味です。


こんなこと言われても誰だってわかりませんし、理解できません。


しかし、師匠がそう説いた時、舎利弗だけが師匠の言葉を理解したのです。

いや、理解したというよりもその言葉を?信じた?というべきかも知れません。


戸田先生はこのことを通して、幸福には「相対的幸福境涯」と「絶対的幸福境涯」の二つがあると表現しました。


何があろうが、何が起ころうが、何物にも侵されず、わが身の心に幸せを感じ、

生きていること自体が幸せである――そう言い切れる自分になるためには、ご本尊様を信じ、

行じていくところに人生の目的があり、本当の幸福を勝ち取る源泉があるのです。


舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】5/13


話をもどします。

仏と仏だけが知る諸法実相(十如是)を簡単に説明すると、


初めの三如是(相・性・体)は、生命の実体そのものを示しており、

あとの七如是(力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)は、

生命の実体(相・性・体)がどのような運動をするかを示したものといえます。


つまり「力・作」は生命の?発動や広がり?を示し

「因・縁・果・報」は生命の?流れ?を鋭くとらえていると解釈することも可能です。


そして「本末究竟等」はその生命の法則を総括している?妙なる法?ともいえます。


要するに、この十如是という実相なくして生命というものはなく、

生命の実体(相・性・体)が明確でなければ観念論です。


仏法実相に即した生命論であり、日蓮仏法はその生命を解明して、

万人が成仏する方途をものの見事に解き明かした大生命哲学なのです。


では、仏と仏だけが知る諸法実相(十如是)を通して、冒頭に挙げた

南無妙法蓮華経を正確に発音できない重度障害者はどうやって成仏するのか、


今度はそれを考えていきたいと思います。


同じ人間として生まれても、人にはさまざまな身体的差別があります。


大聖人は「人間に生まれる?因?は分かったが、同じように五戒を持って人間に生まれながら、どうして目の見えない人、耳の聞こえない人、口のきけない人、背の低い人、足の不自由な人、


背骨が後方に盛り上がり、弓状に歪曲したりする病気にかかる人、

貧乏な人、多病の人などの差別があるのか(趣意)」(御書四三〇頁)


という?問い?を設定し、それに?答える?形で経文論釈を通してその因果を明かしました。


舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】6/13


そして大要、次のように答えています。


竜樹の書いた大智度論にはこうある。


『もし衆生の眼を破り、えぐったり、正法を持って真実を見る眼を誹謗して破っても

罪にならない人は、死んで地獄に落ち、罪を終えて人と生まれて盲目となる。

また仏塔の中の火珠および灯明を盗むなどの前世の業因によって自身の眼の光明を失う』とある。


また、耳の聞こえない人の前世は、師匠や父の教訓を受けようとせず、聞いても実践しないで、かえって怒り恨む。この罪によって耳が聞こえない人となる。


また、前世に他人の舌を切り、あるいはその口をふさぎ、毒を与えて口をきけないようにしたり、あるいは師匠の教え、父母の説教を聞いて途中でさえぎる。


これは世に生まれて人となるが、唖(おし)になって物を言うことができない(趣意)」(同頁〜)


竜樹の説を紹介し、また


「前世に他人の坐禅を妨げたり、坐禅の道場を破ったり、呪術で人を祈り、

怒らせたり争わせたり婬欲(いんよく)を起こさせた者は、今世にはたくさんの悩みがあり、


それは深く厚く、ちょうどバラモンが田畑(財産)を失い、

妻が死んで即時に発狂し、裸体で走り出したようなものである。


前世で仏・阿羅漢辟支仏の食物や父母親族の食物を奪った場合は、

たとえ仏の在世に生まれ合うことができたとしても、飢えや渇きの苦しみを受ける、

それは罪が重いためである。


前世に好んでムチや棒で人を打ち、拷問し、

拘束したりして種々に悩ませたために、今世に病苦となるのである。


前世に他人の身を傷つけ、頭を切り、手足を切り、種々に身体を傷つけ、

あるいは仏像を壊し、仏像の鼻や賢人聖人の像や父母の肖像を壊した者は、


その罪によって障害のある身となるのである。

また悪法を修行した報いとして、醜い身体に生まれる(趣意)」(御書四三一頁)とあります。



舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】7/13


さらに「法華経(譬喩品)には


『もし人が法華経を信じないで毀謗するならば、人と生まれることがあっても、

眼・耳・鼻・舌・身の五根は完全ではなく、目の見えない人、耳の聞こえない人、障害のある身と生まれるだろう。


口の息は常に臭く、貧乏でいやしい身となって人に使われ、多病で身体は痩せ細り、頼るところもない。

人から背かれ、脅迫され、盗まれるだろう――このような罪のために不慮の災にあうであろう(趣意)』とある。


また法華経(勧発品)には


法華経を受持する者を見て、その過去の過ちを言い出す者は、たとえそれが事実であっても、事実でなくても、その人は現世でハンセン病を得るであろう。


もしこれを軽蔑する者は、いつの世でも牙歯はすいて欠け、醜い唇、平たい鼻、手足はもつれて曲がり、眼はすがめ(片方の目が不自由、独眼)となり、身体は臭く汚く、悪いでき物に膿みや血がたまり、腹には水が溜まり、短気である、などの悪い重病にかかる(趣意)』とある(通解)」(同頁)


ことを紹介しました。これが仏の知見した生命の実相(十如是)です。


信じる、信じないに関わらず、これが仏法の厳しき因果です。仏は諸々の生命の実相

ありのままに見て、生命は十界を互具して永遠に続くものだと捉えていました。


それは生の生命、死の生命の区別こそあれ

?生命は生まれ変わる?というものではなく、変化しつつもそのまま続くということです。


大聖人は極寒の地、佐渡で?開目抄?を著し、その中で経典(心地観経)にある


「過去の?因?を知らんと欲せば、その現在の?果?を見よ。

未来の?果?を知らんと欲せば、その現在の?因?を見よ」(御書二三一頁)の文を通して、


迫害の本質を語り、どんなに不遇な人生であっても、

未来を幸福な人生に変えるのは、今現在の「一念」の中にあることを教えました。


大事なのはこの現実の人生をどう生きるかであり、

この人生を生きる生命それ自体の問題を解明しきる事だと思います。


それを万人に伝えるために、池田先生は初代・二代の意思を継ぎ、

あらゆる障魔の防波堤となって、学会員を育成してきたのだと考えます。


それを無視して


学会から打ち出された戦いはすべて信心で受けとめろ」

「心の持ち方ひとつで幸福を感じられる自分になる」


などという、いわゆる?心の持ち方論?的な思想や教訓は、アヘン(麻薬)であり、邪義です。



舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】8/13


日蓮仏法は一人の人間における正しい人生の目的を教え、

人々を目覚めさせて、絶対的幸福境涯への道を解き明かした生命哲学であり、

それを世界に伝えているのが池田先生を中心とする創価学会です。


それはまた、苦の人生から楽の人生への道であり、

狂気の人生から正気の人生への転換でもあるのです。


さて、話は変わりますが、


大聖人から唯一?修利槃特?のあだ名を付けられた富木常忍(御書九七六頁)は、

母の三回忌追善法要のために、身延にいる大聖人供養の品を届けたことがありました。


その供養の品々の返礼として、富木常忍は大聖人からお手紙(御書九八二頁)を頂いています。


その手紙の内容を簡単に説明すると、


法華経で説かれる?相対種(そうたいしゅ)の成仏?と?就類種(じゅるいしゅ)の成仏?

の二種類の成仏について問答形式で説明されながら、

特に?相対種の成仏?を通して、末代凡夫即身成仏法門を教えられました。


そして、相対種の成仏の法門を聞いて始めて、真の意味で法華経を聞いたことになる。


なぜなら、法華経は万人成仏の経典であり、

仏の出世の本懐は「一仏乗(即身成仏)」を説くことにあったからだ。


だから凡夫即身成仏を可能にする?相対種の成仏?の法門を聞かない限り、

その他の法華経法門を聞いても、法華経を聞いたことにはならない――というものです。


いったい?相対種の成仏?とは何でしょう。


むずかしい話はなるべく避けて話を続けます。


舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】9/13


大聖人法華経(薬草喩品第五)の「種・相・体・性の四字」の文を通して、

末代の凡夫法華経を修行する方法が二つあり、一つは?就類種の開会?と、

もう一つは?相対種の開会?があると述べました。


?開会?とは、簡単にいうと「成仏」という意味です。


また「種・相・体・性の四字」の?種?は仏の種子、つまり仏種のこと。

?相・体・性?は十如是(相・体・性)のことで、衆生の姿、人間の生命ということです。


まず?就類種(成仏)の修行法?は

同類種とも表現し、原因(仏性)と結果(仏果)が同じものでなければならないという

前提に立って、自身の仏性を開発する修行で煩悩を排し、迷いを除いて、


ひたすら清浄な仏性を開いて仏果に至るために生命本来の力を出していくことです。


つまり、仏法の因果でいう?善因?を積んで?善果?である

「仏果」を成就するということです。


それに対して


?相対種(成仏)の修行法?は

煩悩(無明)・業(悪業)・苦(生死)の?三道?が、

そのまま法身(仏性)・般若(智慧)・解脱(自在)の?三徳(三身如来)?に転ずることです。


つまり、悪業が転じて幸福への?因?となることであり、

凡夫の迷いと苦しみの生命自体が、そのまま仏種、仏性を開発するきっかけとなって


仏果を成就するという意味です――どういう事なのか、じっくり見ていきましょう。


舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】10/13


大聖人はどんな境遇の人であれ、末代の凡夫

必ず?即身成仏?できる原理を問答形式で分かりやすく教えました。


そしてまず、疑を投げかけてこう言います。


「今までの話を聞いて、ちょっと疑問に思うことがある。

そもそも火から水は出ないし、石から草は生じない。


悪因があるから悪果を感じ、善因は善報を生ずるのは仏法の常識であり、

定まった因果の理法である(趣意)」(御書九八三頁)と。


この疑は私たちにとっても非常に納得できます。


たとえば、重度障害者であるグリグリの身内は生きること自体が苦しみであり、

苦しみの原因になっている障害の身は、その根源を探れば、過去世の謗法ゆえであり、


貪・瞋・癡の三毒より生じたものです。


しかもこの煩悩である三毒と苦果の二道によって、苦しみの世界に縛りつけています。


それなのにどうしてこの三道(煩悩・業・苦)が

「じつは三道が、ほかならぬ三徳(法身般若解脱)なのだ」と言えるのですか。


そんなこと言われても到底、納得できるものではない――となります。


大聖人はこの疑を設けて、何と答えたかというと


「あなたの疑いはもっともなことです。私はこのことを心得ていない。ただし・・・・・」(同頁)と語り、


竜樹と天台の言説を引用して「即身成仏」の法門を明らかにし、こう述べます。


竜樹は妙法の?妙?の一字を解釈して

『たとえば、大名医がよく毒を以って薬とするようなものである』といわれている。

?毒?とは何かというと我らの煩悩・業・苦の三道のことであり?薬?とは何かというと、

法身般若解脱の?三徳?である。


『よく毒を以って薬とする』とはどういうことかというと、

三道を変じて三徳とすることである。


また天台は『妙は不可思議と名づける』といい

『一心に十法界を具している。あるいはまた不可思議境という。意(こころ)はここにある』といわれている。


即身成仏法門とはこのことである(趣意)」(御書九八四頁)と。


ここまで聞いても、やっぱり仏法の因果からいえば、悪因が悪果を生み、善因が善果を生むのであって、悪因がそのまま仏因になるという「相対種の成仏」は理解できません。



舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】11/13


しかし、竜樹は妙法の?妙?の一字を、名医の「変毒為薬」に譬えました。


つまり、名医は病者の病を治すために、毒を調合して薬としますが、

問題は毒をいかにして病に効く薬とするかにあります。


その場合、名医の調合した毒を、患者自身の生命力で「病を治す薬」に転じているのであって、名医は患者自身の病の状況や生命力をよく知ったうえで薬を作るものです。


名医は仏であり、患者は凡夫である私たちです。病は迷いです。


仏は衆生の迷いという病を治すために、病の源である三道そのものを逆に利用し、

それを使って病んでいる衆生の生命のなかで三徳の薬となるように仕向けているのです。


また、天台が?妙?の一字を「不可思議」と名づけたのは


?就類種の成仏?は、善因を積んで善果である仏果を成就する修行法だから、

凡夫の私たちにも理解しやすいので「思議(議論しやすい)種」としたのに対して


?相対種の成仏?は、すでに仏法の因果は超えていて理解できないことだから

「不可思議(議論が不可能)種」と立て分けて、そう言ったのです。


問いはさらに続きます。


凡夫の我々にもこの秘法(相対種の成仏)の意(こころ)を理解することができるだろうか」(同頁)と。


大聖人


「私見による?答え?は無益であり意味がない。竜樹も大智度論のなかで

『今、煩悩を断じ尽くした三乗(声聞・縁覚菩薩)は、仏になれないと決まっているのに、

かえって成仏するというのは、ただ仏のみがよく知っていることである。


論議とは正しくその事を論ずべきであるが、測り知ることはできない。

だから無益な論議をしてはならない。


もし仏になることができた時は、よく理解し納得することができる。

それ以外の人は、ただ?信ずべき?であって、いまだ理解し納得することはできない』と述べている(趣意)」(同頁)


竜樹の言説を紹介して答えます。


そして「法華経(方便品第二)の『唯仏与仏・乃能究尽(ただ仏と仏とのみがよく究め尽くしている)』とは、


法華経において煩悩・業・苦の三道がそのまま

法身般若解脱の三徳となると説いて、二乗(舎利弗)は成仏した(趣意)」(同頁)と述べました。


つまり、竜樹の?信じるしかない?という言葉は、誰に向けられて言ったのかというと、


別教円教菩薩や、普賢菩薩文殊師利菩薩の大菩薩に対してであり、

ましてや二乗・末代の凡夫法華経の妙法の力を知り、理解できるはずもなく、


ただ?信ずる?以外に「成仏の門」に入ることはできないということです。


舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】12/13


仏界の境涯を涌現するための?因縁?を明かした十法界明因果抄には


「仏界とは、菩薩の位において?四弘誓願?を発することをもって戒となす(通解)」

(御書四三四頁)とあります。


四弘誓願とは、


?一切衆生悟りの道に入らせ、一切衆生を救うことを誓う。

?一切の煩悩を断とうと誓う。

?仏の教えをすべて学びとろうと誓う。

?仏道修行において無上の悟りに至ろうと誓う、ことです。


これは爾前教で?四弘誓願?という菩薩戒を持った結果として仏果が示された文ですが、


法華経では一大事因縁を明かし「開示悟入」を説いて、

衆生の?心?に本来、仏界が具わっていることを示し、

自分自身の仏性を悟ることによって?即身成仏?することを明確にしているのです。


つまり、


目が見えない人は見えないまま仏になり、

耳の聞こえない人は聞こえないまま仏になり、

口でしゃべれない人はしゃべれないまま仏になるということです。


そして、どんな重度の障害を持つ身体であったとしても、

あらゆる形式を超越して「法華経を信ずる強き心」によって成仏できるのです。


大聖人

一念に億劫の辛労を尽せば、本来無作の三身念念に起るなり。所謂、南無妙法蓮華経は精進行なり」

(七九〇頁)と訴えています。


この御文は、今現在の心が広宣流布(四弘誓願)のために、努力しぬき、

苦労しぬいていけば、本来、わが身に具わる仏界が必ず涌現する。


広宣流布のために尽力すること自体が南無妙法蓮華経そのものなのだ――と捉えたい。


言い換えれば、


広宣流布は四弘誓願を誓った仏と仏でしか成し得ない大偉業であり、

仏と仏のみがよく理解し、説くことができる大生命哲学なのだと思います。


障害者であれ、健常者であれ、涙も出ないほど苦しくて、苦しくて、

もがき苦しむ日々の連続であったとしても、ただ今・現在「生きている」ということは、


心のどこかで仏法を求め「幸せになりたい」と願っているのではないでしょうか。


その苦しむ人を肩に背負い、支え励まし、蘇生させ、顔を上げて前を見ろと

教えてくれたのは、池田先生であり、学会同志です。


池田先生の心は自身亡きあとのことを考えて?即身成仏法門?を現代に縦横無尽に展開し、

末代の衆生に成仏への方途を説き示し、書き残しているのだと思います。


こう考えれば、かつて妻が言った


「私にとって池田先生の指導は『御書』なのよ。そんなの私の常識」


という言葉も本質を捉えていると思う。


舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】13/13


相対種の成仏――つまり即身成仏法門は「唯仏与仏・乃能究尽

(ただ仏と仏とのみがよく究め尽くしている)」の秘密の法門であり、

凡夫の思議しがたき法門なのです。


大聖人は「そのような秘密の法門を聞いて、いかなる利益があるのか(通解)」(御書九八四頁)


との質問に対して


「始めて法華経を聞くということである。・・・・そして末代の凡夫

この法門を聞くならば、ただ自分一人だけが成仏するばかりではなく、

父母もまた即身成仏するのです。これが第一の孝養である(趣意)」(同頁)


と答えました。


いうまでもなく?聞く?とは?信じる?ことと同義だと思います。


何物によっても壊されず、永久に崩れることのない絶対的な幸福

――これは人類の永遠の願いであり、万人共通の理想だと思います。


その願いと理想を全世界に流布するために、

師匠は今は何も語らず、弟子を厳しく鍛えているのだと考えます。


最後に、昭和三十一年の「大白蓮華」に掲載された師弟不二座談会を記して終わります。


池田

折伏をするということが、即自分自身を折伏しているんだということに通ずるでしょうか」


戸田

「それでは教えよう。最後の一問を教えます。自分自身が南無妙法蓮華経で生きているということです。

それ以外に折伏はないのです。覚えましたか。手練手管も方法もなにもありません。


ただただ、おれは南無妙法蓮華経以外になにもない!

と決めることを末法折伏というのです。


それ以外にないでしょう。


どういうふうにやったら南無妙法蓮華経が弘まるか、

どのようにやったら南無妙法蓮華経がよくなるか、

人によく教えられるか、そんな方法論は関係ありません。


我みずからが南無妙法蓮華経だ!南無妙法蓮華経以外になにもない!

と決めきって、決めきるのです。


おれはそれ以外にない、悪ければ、殺しても死んでもなんでもしょうがないと、

自分は南無妙法蓮華経だと決めるのが、最後の折伏です」


池田

「はぁ、それは簡単です。・・・・・・(笑い)」


戸田

「そう、簡単なのです。どうにでもいおうと思えば無限にいえるけれども、しかし、真義はそれしかない」


(戸田城聖全集第二巻四六六頁)

おわり

宿坊の掲示板より