SOKA薬王のBlog

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仏法と病気の関係性

宿坊の掲示板より 投稿者:大仏のグリグリのとこ様

【仏法と病気の関係性】1/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月26日(火)14時58分58秒  


現代の医学における治療技術は目覚ましいものがあります。

精密な技術を必要とする臓器移植や脳手術やバイパス手術、
また病気が起こる病原菌の存在をつきとめ、それを駆逐する戦いを通して

人間はあらゆる病気を克服してきました。

しかし、その一方で病原菌を殺す薬剤は副作用というリスクもあり、
かえって病原菌の抵抗力を強め、果てしないイタチごっこを繰り返しているという悲劇もあります。

だからといって医学を否定するものではないし、
人間が開発した偉大な医療技術は大いに利用すべきものだと思います。

また、釈尊の時代は?耆婆(ギバ)?という名医が活躍していたし、日蓮大聖人も門下の四条金吾
医術の心得があったことから、金吾の調合する薬を用いられています。

大聖人は?病?について経文や論釈を通し、
病の起こる原因をさらに一歩深く思索して問題解決の方途を教えました。

ここでは病の起こる原因と病気に対する仏法の考え方を見ていきたいと思います。

そもそも人間が病気になるのは体の不調や不摂生、また病原菌などがその原因であることは確かですが、

仏法では生命自体に病を起こす原因を持っていて、それが病気となって現れることがあると説いています。

つまり、病原菌などの外的な原因のほか、その人の生命自体にある内的な原因で病気になることがあり、
その原因を究明し、根本的に解決する方法は仏法以外にないと説いているのです。

たとえば、貧困、家庭不和、精神異常、思想の乱れ、人が人を殺し合う戦争なども仏法では病であると説いています。

これらは医学だけではどうしても治せない大きな病です。

極端な言い方かもしれませんが、
病を治すのはあくまでも人間の持つ自然治癒力(生命力)が主体であって、

医学はその手助けをすることに主眼が置かれ、人間自体の生命力を強くし、
病原菌に負けない、また発病しないようにすることが根本課題なのだと思います。

その意味で正しい仏法を根底にしつつ、医学を用いていけば、医学は偉大な効果を発揮することと思います。

グリグリは決して医学の専門家ではありませんが、医師の本当の願いは治療ではなく予防にあると想像します。

たとえ病気になっても負けない、それよりも病気にかからないようにするのが最も大切なことです。

そして医学の持つ力を十分に駆使して、その理想を実現する根本の基盤が仏法の生命哲学だと考えます。

【仏法と病気の関係性】2/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月26日(火)14時59分41秒  
御書には

「譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし」(九二一頁)

とあります。

私たち仏法者が心得なければならないのは、医療の専門家ではない限り、
病気を治療するのはあくまでも医師の仕事であって、

私たちができるのは?信心の指導?だということです。

たまに勘違いしている人もいますが、信心指導をおろそかにして、
治療法などを詳しく話したとしても根本的な解決にはなりません。

相手の悩みの根源を見抜かないで安易な指導をした場合は、
悩みが解決するどころか、かえって相手を苦しませることにもなります。

そういう意味でも指導する立場の人間は、まず自らがしっかり題目をあげ、
我見ではなく、つねに御書を依文として信心の指導を心がけることが大事だと思います。

さて、大聖人御在世当時、太田入道という門下が痛みを伴う病気にかかり、
それを手紙で報告したのに対する御返事(太田入道殿御返事)があります。

この手紙のなかで大聖人は太田入道が病気になったことについて

「一度は嘆いたが、再びは悦んだ(通解)」(御書一〇〇九頁)と述べています。

つまり、初めは世間一般のうえからは悲しんだが、仏法で見たならば一歩深い意義があり、
これによって仏法をさらに深く学ぶことができるからであるということです。

大聖人は経典や論釈の文を引用し、

特に天台の摩訶止観(次から止観)に光を当てて、病気の本質を解明していきました。

【仏法と病気の関係性】3/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月26日(火)15時00分30秒   編集済
天台は止観のなかで「病の起こる因縁を明かすのに六種類ある。

一には四大(地・水・火・風)が順調でないゆえに病む。
二には飲食が節制されていないがゆえに病む。
三には坐禅が正しく調(ととの)わないゆえに病む。
四には鬼が便りを得るゆえに病む。
五には魔の為すところゆえに病む。
六には業の起こるゆえに病む(通解)」(同頁)

と述べています。

因縁の?因?とは結果を生ずべき直接的な原因です。
?縁?とは因を助けて結果に至らしめる外的・間接的な原因ということです。

一切の現象はこの因と縁が和合して生滅を繰り返しているのです。

では、この六つの病の起こる因縁を見ていきましょう。

■一、四大(地・水・火・風)が順調でないゆえに病む。

仏法では宇宙の構成要素を?地・水・火・風?の四大と捉えていて、
人間もまたこの四大から構成されていると説いています。

つまり、四大とは色法(物質、形や色のあるもの)を構成する四種の元素・要素のことで、
自然の運行や身体の構成要素が乱れていることから起こる病です。

人体を構成する

?地?は、固さやものを保持し作用することをもって自性とし、筋肉・骨・歯・爪・髪などはあたります。

?水?は、湿りけやものを摂(おさ)めて集める作用を自性とし、血液やリンパ液がそれにあたると考えられています。

?火?は、熱さやものを成熟させることを自性とし、人の体温にあたります。

?風?は、動きやものを生長させる作用を自性とし、人の呼吸などです。

その四大が順調でないことから起こる病気とは、
たとえば、発熱・ねんざ・筋肉痛・疲労熱中症などがそれにあたると思います。

【仏法と病気の関係性】4/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月26日(火)15時01分10秒  
■二、飲食が節制されていないがゆえに病む。

これは飲み食いに節度がないという意味です。
飲みすぎや食べすぎ、また偏食や無謀なダイエットは身体に良くないのは当然です。

止観には「節度ない飲食は多くの病気を作る原因にもなり、五臓(内臓)の妨げになる(趣意)」とあります。

■三、坐禅が正しく調わないゆえに病む。

これは座って行う坐禅の修行が調和していないという意味ですが、
身体の動作や呼吸、また精神の集中が乱れている状態をも含まれます。

止観には「心が慢心になり怠けていることによって、魔がそれに付け入り、
背・脊髄・関節が痛くなる病気で最も治りにくい(趣意)」と述べました。

広い意味で言えば、日常の姿勢の悪さや運動不足、またそれとは逆に肉体を酷使することによって起こる病のことです。

■四、鬼が便りを得るゆえに病む。

?便りを得る?とは?付け入る?という意味ですが、
鬼が身体に付け入って病の原因になるという意味です。

仏法でいう?鬼?は、人の功徳や生命を奪い、天変地異や社会・思想の混乱などを
起こす原因になることから、病原菌などによって起こる病気(ウイルスや細菌などによる伝染病)と考えられます。

止観には「四大五臓は鬼ではない。もし四大五臓に入れば鬼病と名づける(趣意)」とあります。

考えてみれば、さまざまな病気が起こる原因は、
なにも六つのうちの一つだけをもって病気が決まるのではなく、
六つの因縁が複雑に絡み合って引き起こっているのではないかと考えます。

つまり「これが原因で病気になった」というような単純なものではないということです。

たとえば、医師は患者の症状を見て、その原因がどこから来ているのかを突き止めようとします。

?お腹が痛い?と訴えた患者に対して、いつから痛くなったのか、痛くなる前には何を食べたのか、
どう痛むのか、時々痛みが治まるのか、それともずっと痛いのか等々――。

医師は患者の話をよく聞いてその原因を導き出し、治療や予防を試みようと努めます。
それでも分からなければ、今度は科学的に精密検査をして原因を調べます。

それと同じように人間の?悩み?というものは千差万別であり、
その悩みの内容や背景をよく聞かずして信心指導などできるわけがありません。

先ほども述べましたが、まずは相手の話をよく聞いて、それでも分からなければ、
経験豊富な先輩に聞くとか、御書に求めるとかの方法を用いて、

その後に何らかの対処やアドバイスをすることが重要だと思います。

【仏法と病気の関係性】5/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月26日(火)15時01分54秒  
■五、魔の為すところゆえに病む。

これは?魔?のしわざによって病が起こるという意味です。

止観には「陰魔・煩悩魔・死魔・天子魔」の四つの魔を挙げており

「魔の病というのは、鬼の病とは質が違う。鬼の病はただ身を病(なや)まして身を殺す。
しかし、魔の病は心を破り思想を破る。

これは邪念を起こして人の功徳を奪う鬼の病とは違い、
魔はさまざまな衣服、飲食、七つの珍しいものや、雑物を現す。

これらを受け取って歓喜すれば、魔はその心に入り病を起こす。この病は治りにくい(趣意)」とあります。

四魔(陰魔・煩悩魔・死魔・天子魔)によって起こる病はじつに深刻で
この病の最大の特徴は?正法の実践?を妨げることにあります。

「陰魔(おんま)」とは五陰魔ともいい、物質的な側面や
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)から受ける心的作用、またそれによって
心に浮かべた意思や欲求を通して、信仰者の身体に病気を起こして信心を迷わせることをいいます。

たとえば、

信心や他の事は一切そっちのけで?ポケモンGO?に夢中になりすぎて、
事故に巻き込まれたり体調を崩したりすることもその一つです。

また「煩悩魔」の根本は、三毒(貪・瞋・愚)の煩悩のことを言います。

たとえば、お金もないのに遊びほうけて借金してでも高級ブランドを買いあさったり、
外面を気にするあまり過度のダイエットをしたり、

ギャンブルやストーカーなど何かに依存している状態も仏法では病気と説いています。

死魔」は文字通り、自分自身が死ぬことによってその人の信心活動を停止させ、
また身近な人が亡くなることによって信心を迷わせる働きです。

「天子魔」は他化自在天ともいい、魔のなかでは最強の魔です。
これは一切の魔の働きを生む根源の魔で?第六天の魔王?のことです。

つまり、多くの民衆から仏のように敬われている者が正法を迷わせ、
正法の信仰者に迫害を加えることによって?心や体?に起こる病です。

要するに、魔は衆生の心を悩乱させる働きをすることから、
本能的欲望や感情が乱れることによって起こる病気と考えられます。

以上が魔(四魔)のしわざによって起こる病です。

【仏法と病気の関係性】6/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月26日(火)15時02分33秒  
■六、業の起こるゆえに病む

これは前世の悪業が原因となって起こる病のことです。

?業?とは身・口・意にわたる行為のことであり、
過去世の業を宿業といい、現世の業を現業といいます。

業には善悪の両面があって、善の業因は楽の果報をもたらす因となりますが、
悪の業因は苦の果報をもたらす因となります。

止観には「業病とは前世の業である。あるいは今世に戒を破れば、
前世の業が発動して業病が出ることがある。

そのことによって所犯があることがわかる。もし

殺害の業ならば肝眼(かんげん)の病である。
飲食の罪の業は心口(しんく)の病である。
婬欲の罪の業は腎耳(じんに)の病である。
妄語の罪の業は脾舌(ひぜつ、脾は循環器系)の病である。
盗(ぬすむ)の罪の業は肺鼻(はいび)の病である。
五戒をそしる業は五蔵五根(ごぞうごこん)の病が起こることもある(趣意)」とあります。

これを整理すると、

?殺害の業――臓器は肝臓、六根は目。
?飲食の業――臓器は心臓、六根は口。
?婬欲(みだらな男女関係)の業――臓器は腎臓、六根は耳。
?妄語(ウソをつく)の業――循環器系(血液やリンパ液など)、六根は舌。
?盗む業――臓器は肺、六根は鼻。
?五戒をそしる業――五臓(肝・心・脾・肺・腎)、六根は五根(眼・耳・鼻・舌・身)

となります。以上が病の起こる六種類の因縁です。


・・・・つづく

【仏法と病気の関係性】7/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)08時43分43秒  
これらは病の起こる原因の違いによって立て分けたもので

原因の深さによってもその対処法は変わってきます。

たとえば、肝臓の病気を持つ人でもその原因が、
お酒を飲みすぎたことによって肝臓の病気になったのか、

それとも酒もタバコもせず、
健康に気を使っていた人が突然、肝臓の病気になったのか、

同じ肝臓の病気を持つ人でもその原因はさまざまです。

このように一応は六種類に立て分けていますが、

実際のところは本人が専門の医師に調べてもらい、
本人の話や信心状態をよく聞かないと正確な対処法はわからないということです。

また、御書には「人には二つの病があって、一つは身の病で四百四病あり、
二つは心の病でこれは三毒と八万四千の病がある(趣意)」(御書九九五頁)とあり、

止観には「四大はこれ身の病、三毒はこれ心の病」とあります。

?四百四病、八万四千病?というのは、
実際の数字というよりそれほど「多数ある」という意味だと思います。

身の病とは四大(地水火風)の不調和が引き起こす病気のことで、四大の質、量ともに
調和している時は健康ですが、そのバランスが崩れた時に病気になると考えられています。

四大の不順をもたらす原因としては、気候の変化、食物の過不足、生活リズムの乱れなどが挙げられます。

大聖人は「身の病はたとえ仏でなくても名医が薬で治療することによって治すことができる(趣意)」

(御書九九五頁)と述べています。

【仏法と病気の関係性】8/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)08時44分28秒  
さらに大聖人は

「身の病は医学によって治せるが、心の病は仏法でなければ治せない。
その理由は、心の病は?三毒?を基本として起こる病気だからである(趣意)」(同頁)

と述べました。

三毒とは?貪・瞋・愚(とん・じん・ち)?の三種類のことですが、

具体的に言うと

「貪」とはむさぼるように愛する・溺愛・偏頗な愛情という意味です。
「瞋」とは瞋恚(しんに)ともいい、いかりのことです。
「愚」とは愚癡(ぐち)・おろか・無智という意味です。

つまり、人間の心のなかに渦巻く?三毒?をはじめとするさまざまな煩悩により
?心の世界?の調和が乱れることによって心の病が起こるということです。

たとえば、親が偏った愛情や溺愛で子供を育てると大抵の場合、

その子供はわがままに育ち、成長すると親に反抗するか、もしくは家庭内暴力に発展するか、
もしくは社会に適応できない大人に育つ可能性があります。

親は親で無智と愚かさゆえに、親自身がそういうふうに育てたとは思わず、
子供に対して怒り、グチり、自分の思い通りにならなくなって、

いつしか「うつ状態」に陥って苦悩する――。これなどは典型的な三毒による心の病です。

要するに?心の病?とは、生命の濁りによって引き起こす病であるとともに、
生命の濁りが原因となって身の病も起こる場合があるのです。

そして心の病が原因となって起こる身の病は、単に身体の治療だけでは
根本的解決にはならず、他の病気と同じ症状でも治りにくい状態が続くのです。

仏法では心の領域は広大であり、空間的にも時間的にも宇宙大であると説きます。

大聖人はこのような広大な領域をもつ心の病には「重々に浅深・勝劣に分かれている」(同頁)

と述べ、五重の相対を通して心の病の浅深・勝劣を論じました。

【仏法と病気の関係性】9/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)08時45分6秒  
それらを簡単にまとめると、

そもそも生命の表層部に現れる煩悩(三毒)は、浅く弱いものもあれば、
心の奥深くから強烈に湧き起ってくるものもあります。

仏法はそうした人々の?煩悩(三毒)?の浅深に応じて、
浅い法から深い法へと重々の法門を立て分けて説いたのです。

浅い煩悩(三毒)ならば、浅い法でも治療できますが、
深層部から湧き出てきた深い煩悩(三毒)ならば、深く勝れた法でなければ治すことはできません。

たとえば、社会的・心理的ストレスによって起こる?怒りや欲望?が原因で、
心の調和が乱れたとしても、これらはまだ心の深層部までは及んでいませんから、

小乗のような劣った法でも調整し快復させることができます。

ただし、小乗教の浅く劣った教えに「執着」して大乗教に背くと、
その心の煩悩(三毒)が原因となって、さらに治療がむずかしい病(心の病)を生ずるのです。

小乗教に執着する人に起こる特有の心の病は、善良な人とは比較にならないほど

強い自我意識にとらわれた?利己主義?です。

これによって出てくる煩悩(三毒)は、
社会的・心理的ストレスによって起こる煩悩(三毒)よりも一段と強烈なものです。

たとえば、他者への瞋りは心身症(皮膚病・胃腸障害など)を引き起こします。

社会的・心理的ストレスによって起こる瞋り(心身症)はまだ根が浅いですが、
小乗教に執着した人が起こす瞋り(心身症)は根が深いのです。

この場合、どちらも病気(心身症)としては同じですが、病気(心身症)を引き起こしている

?瞋り?が、何を対象とし、生命のいかなる深さから出てきているかによって、

治療の易度は全く違ってくるのです。

つまり、小乗教に執着することによって起こった二乗心身症は、大乗教によって
利己主義を打ち破り、利他の精神に転換させない限り治すことはできないということです。

【仏法と病気の関係性】10/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)08時45分40秒  
原理はこれと同じで、大乗教が絶対と思い込んで

法華経に敵対し、法華経よりも勝れているなどの邪見を起こせば、

極めて深刻な諸病を誘発してしまうのです。

それは部分による全体の混乱は、生命の調和を極端に破壊していく方向に導くからです。

ちなみに、涅槃経には阿闍世王の故事が記されていますが、

それによると、提婆達多にそそのかされて悪逆を行った阿闍世王は、その後、
強い後悔の念から熱を出して五十歳になる年の二月十五日に全身に大悪瘡(悪いできもの)ができ、

悪臭を放つため人々が近づくこともできない状態になり三月七日に死ぬと予言されました。

阿闍世王の母がいろんな薬をつけたが、かえって悪瘡が増えるだけで少しも軽くならなかった。

阿闍世王は母に対して

「この悪瘡は心から生じたもので四大の不調和から起こったものではないから、
世間の者がこの病を治せるといってもその道理がない」と言います。

阿闍世王の悪瘡はおそらく今でいえば、末期の皮膚ガンと思われます。

阿闍世王は自分をそそのかした提婆達多が生きながらにして地獄に堕ちたことを知り、
自身の悪業への後悔から仏法に帰依し、仏の慈悲によって救われ、

その後、四十年も寿命をのばして釈尊滅後もおおいに仏法を宣揚し、
第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くしました。

【仏法と病気の関係性】11/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)08時46分20秒  
さて、大聖人は

「大乗教を信奉している人々でも、それが劣っているにもかかわらず、
我が宗は法華経よりも勝れているなどと言う人たちが多く出てきている。

もし権力者がこの誤りを用いれば、これによって三毒・八万四千の病(伝染病など)が起こる。
大乗教の人々が自らの依経をもって治そうとしても、かえって病はますます倍増し悪化する。

また彼らが法華経で治療にあたっても功力は現れない。なぜかといえば、
経は勝れてはいるが?行者が誤った者?だからである(趣意)」(御書九九六頁)

と述べています。

信心していても「身の病・心の病」で何年も苦しんでいる人がいます。可哀そうでならない。

しかし、一度ゆっくり立ち止まって上記の御文を自分に当てはめて考えてみてはどうでしょうか。

同志が御書や信仰体験(病気)を通してアドバイスした話を
しっかり聞いて、その通りに実践しているだろうか。

自我意識にとらわれ、利己主義になっていないだろうか。

御書根本・池田先生根本で信心している同志を軽んじてはいないだろうか。

我流の信心をしていないだろうか。

誰のせいでもありません。苦しんでいるのは自分自身です。
自分自身が自らの行動で治していくしかないのです。

まずそう決意して、医師に依存するのではなく、
医師の助けをかりながら病気と向き合うのが、もっとも健全なのだと思います。

【仏法と病気の関係性】12/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)08時46分59秒  
では次に「遺伝」という角度から見ていきましょう。

?親の因果が子に報い?という言葉がありますが、

親から子や孫に体の形や性質が伝わる現象を遺伝といいます。
血液型や体質が親から子に伝わる現象などもそうです。

生物学などは遺伝を体形、体質、性質などに関わる伝播を問題にして論じているのに対して、

仏法ではそこからさらに一歩深い性質や思想などの
いわゆる?生命の傾向性?にまで踏み込んで論じています。

また親子に限らず、兄弟、夫婦、さらには社会、世界という単位でも
一つの傾向性をもった生命が集まるという広げた概念を説いて、

それを「眷属」と呼びました。

遺伝と眷属の考え方の違いは、根本的には遺伝がその?仕組み、仕方?を述べているのに対して、
眷属はその?因果?を明らかにしているところです。

つまり、親から遺伝を受けた?仕組み?が明らかになっても、
その遺伝を?なぜ?受けなければならないのかは遺伝学では解明していません。

つまり「なぜ自分が病気に・・・・」という悩みは、遺伝学では解決しないのです。

たとえば、色盲で生まれたのは、その生命の過去の原因によって、
色盲という結果をもって生まれたのでありこれを?宿命?といいます。

その現れ方は「色盲になる遺伝子をもった親のところへ生まれてくる」という形になるのです。

色盲という病気が宿命であるならば、その宿命をどのように転換していくのか
ということになれば、これはもう遺伝学の分野ではなく、仏法の領域です。

そしてそれを完璧に解き明かしているのが、大聖人の仏法(大生命哲学)なのです。


・・・つづく (たぶん夕方)

【仏法と病気の関係性】13/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)12時42分29秒  
話をもどします。

このように御書を通して?病?を見ていくと、病の根本原因を突き止めるのは
大変しく、非常に複雑な条件が絡み合って病気が発症していることが分かります。

そういう意味においては

「一、四大順ならざるゆえに病む」
「二、飲食節ならざるゆえに病む」
「三、座禅調わざるゆえに病む」

の三つは、病院へ行って治療すればまだ治る病気だと思います。

「四、鬼便りを得る」
「五、魔の所為」

にしても、近年の医学は目覚ましい進歩を遂げていますから
幾分の治療効果は得られていますが、まだ完全完治とはいえない状態です。

しかし

「六、業の起こるゆえに病む」

というのは医師ではどうすることもできません。

涅槃経には

「世の中に最も治しにくい病人が三人いる。

第一は大乗教を誹謗する人
第二は五逆罪を犯す人
第三は一闡提(いっせんだい)の人

このような三種の病人は病のうちで極めて重い(通解)」(御書一〇〇九頁)とあります。

一闡提の人とは正法を信ぜず、悟りを求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生のことです。

つまり、この三種が原因となって起こる病は極重病であると説かれているのです。

一般の人や、たとえ学会二世、三世、四世の人であっても、
それを知ろうと知るまいとに関わらず、

純粋に信心に励む人をバカにしたり迫害したりすれば、
その罪業は極めて深く重いために滅することはしいのです。

だからこそ、その悪業を原因として起こる業病は治しく極重病になるのです。

【仏法と病気の関係性】14/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)12時43分9秒  
たとえば、今までさんざん学会の悪口を言い、同志の悪口を言って、
好き勝手にしていた学会員やその子供が病気になると、

その人は組織の同志に向かって

「地区・支部で唱題会を設けて病気が治るように題目を送ってほしい、私も題目に挑戦します」と言う――。

それは別に悪いことではないし「病によりて道心はをこり候なり」(御書一四八〇頁)なのですから、
病気になったことによって今までの信心の態度を改め、新たに決意することは良いことです。

なにもわざわざ組織をあげて唱題会を開催しなくても、
それを聞いた同志は何も言わず一生懸命に題目を送ってくれます。

それが草創期から築きあげてきた学会の伝統であり同志愛です。

しかし、業病が出た場合は少し違います。

確かにご本尊に祈れば「罪として滅せざるはなし」なのですが、
なんでもかんでもご本尊に題目をあげれば、

過去世の罪が?すぐに帳消し?になるわけではありません。

盗んだ物や、危害を加えた人や物をそのままにしておいて、
ただ題目をあげて罪が消えるわけがありません。

盗んだものは元にもどし、危害を加えたら謝罪し、罪を償うのが道理です。

そうであるならば「病気を治してくれ」という祈りの前に、

まずは懺悔滅罪(ざんげめつざい)の祈りが先です。

過去の悪業や非礼をご本尊におわびし、心新たに自行化他の題目(本門の題目)を実践することです。

自行の題目も、化他行の題目も実践しないで病気になったから「治してくれ」と
同志やご本尊にすがるのは、ただの乞食信心であり、単なるゴロツキです。

そうではなく病気を機縁として、

仏法の偉大さを教えてくれた師匠と同志に報恩と感謝を捧げ、
日々の弘教拡大の実践をしていくことによって、

重罪が転じて軽く受けることができるのです。

これが転重軽受の原理であり、そうして初めて宿命転換ができるのです。


【仏法と病気の関係性】15/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)12時43分45秒  
「魔」や「業」による病は、生命それ自体の問題であり、結局、
自らの強い信心によって「病魔」を打ち破っていくしかないのです。

大聖人は

「悪逆を犯した阿闍世王は、提婆達多や邪見の六師外道から
指導を受けていたので、仏には帰依しなかったのである。

ところがマカダ国に天変地夭が絶え間なく起こり、他国からは攻められて
事態は悪化していくばかりか悪瘡すら王の身に出て、国土は一時滅びるかにみえたときに、

王もにわかに改心し、仏の前にきて懺悔したのでその罪は消えた(趣意)」

(御書九三一頁)と述べています。

「懺悔」とは一般的に
過去の罪を悔いてお詫びするという程度に使われていますが、
この言葉はもともと仏法用語からきたものです。

仏法でいう?懺悔?とは二つの意味があって、

一つは過去に犯した罪悪を悔い改めて、仏や菩薩、また師匠や衆人などに公開してその内容を述べるということ。
二つは「端坐して実相を思え」と仏典(観普賢菩薩行法経)にはあって?実相を思う?とは信力・行力にあたります。

つまり、阿闍世王の病が治ったのは、過去の罪を悔い改め、
正法弘通に精進したからこそ、病気を完治し、さらに四十年も寿命を延ばすことができたのです。

大聖人は

「小罪であっても懺悔しなければ、悪道を免れることはできないし、
大逆罪であっても懺悔すればその罪は消える(通解)」(御書九三〇頁)と断言しています。

病苦というものは、病気になった本人も、その家族や周りの人たちも辛く悲しいものにさせます。

辛く悲しいからこそ治したいのは当然として、

何のために治りたいのか、治してこれからの人生をどう生きていきたいのか、

それを考え、答えを見つけて、ご本尊に訴えていくことも大切なのではないでしようか。

【仏法と病気の関係性】16/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)12時44分23秒  
また、涅槃経には

「今世に悪業を成せば、来世には必ず地獄に堕ちて大苦悩を受けなければならないが、
?仏・法・僧?の三宝供養することによって地獄には堕ちない。

そのかわりに現世にその報いを受けて?頭と目と背の痛み?となって現れる(通解)」

(御書一〇〇九頁)とも説かれています。

つまり、今世で正法誹謗の悪業を行えば来世に必ず地獄に堕ちるが、
それを悔い改め、反省してご本尊を信じ、広宣流布の実践に励んでいるなら、
地獄に堕ちるべき悪業の報いを現世で軽く受けることができるという意味です。

止観には

「もし重罪があっても、今世で軽く償う場合には悪業を消滅させるために病気になる」

と説かれています。

そしてそれが?頭・目・肩・腰の痛み?などの病気と現れ今世で罪業を消しているのです。

これらの経文や論釈は?病苦?という角度から、それを治す原理が明かされたものです。

だから

「信心しているのになぜ病気になるの、なぜすぐに治らないの」と

いちいち文句を言わずに、この病気で過去の償い(罪障消滅)をしているのだと思えば良いのです。

信心さえしっかりしていれば、嘆く必要はありません。

【仏法と病気の関係性】17/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)12時45分8秒  
たとえ信心を一生懸命がんばっていたとしても、私たちは生身の人間なのですから、
当然、病気にだってなるし、身体の調子が悪くなる時だってあります。

信心しているのに何でこんな病気になったのだろうと疑問に思うこともあるし、
病気をしたら信心が無いみたいに思う人もいるかも知れません。

しかし、法華経には「少なく病み少なく脳む」とあります。

多少の病気や身体に痛みがあったとしても、そんなにイライラしないで

「ああ、この病気のおかげで私は地獄に堕ちずに済むわぁ。よかった♪」

「持病の頭痛やヘルニアは、きっと今世で悪いことをしたからだわ !
もう謗法は絶対しないように気をつけよう。よかった、原因がわかって♪」

「病気のおかげで自分を見つめることができてよかった、功徳だわぁ♪」

というぐらいのおおらかな気持ちで病気とうまく付き合っていったほうが価値的です。

病気の根本治療はやはり「謗法を犯さない」ことに尽きます。
そのために?謗法とは何か??悪とは何か?を学ぶことは必要なことです。

しかし、それでもやっぱり凡夫ですから間違いを犯すことだってあります。

もしも病気になった場合は、悩んで落ち込むより、
そこに意義や価値を見出し、前を向いて人生を生きていくほうが得です。

また必ずそういう境涯になっていけるのが日蓮仏法の真骨頂なのです。

結局、苦しみの?生老病死?の人生を、喜びに満ち溢れた
?常楽我浄?の人生に転換していくのが信心する最大の目的なのです。

【仏法と病気の関係性】18/18 投稿者:大仏のグリグリのとこ
投稿日:2016年 7月27日(水)12時45分46秒  
最後に戸田先生の?業病?に対する指導の抜粋を記して終わります。(※読みやすいように変換)

――いまの世間を見るに、医者ではどうしても治すことができない業病の多いのには驚く。
本人の嘆きはもちろんのこと、家族の嘆きは筆舌につくせない。かわいそうでならないのだ。

何とかして一日も早くこれを治してやりたいものと思わざるを得ない。
凡夫の身として医者も治せない業病をどうして治すことができようか。

深く憂い、深く悲しみ、そのご指南を大聖人に受ける以外にないことを知って、
御書を拝見するのに明々白々として、これが治療の方法を知ったのである。

それはご本尊を信じてこれを行ずる、すなわち?信力・行力?が?法力・仏力?となって、
人の力では及ばない大現象をそこに出現するのである。

過去世の業因によって起こったところのものは、もっとも病中の病である。

たとえば、小児マヒ、精神病、脳水症等である。
治しき業病の最も重いのは、過去世の法華誹謗によることは明らかである。
また、業病は過去世の謗法によるものだけではなく、現世においても同じく言うのである。

「軽き有り重き有りて多少定まらず」(御書一〇一〇頁)と仰せの軽いものは、
今世の業因によるものである。

法華経こそ一切の病の良薬であり、変毒為薬の妙なるものである。
謗法は毒であり、これを治しうる法は良薬である。

業病の因たる謗法の毒を法華経の力によって良薬に変ずるのであるから、
これすなわち変毒為薬である。

「人の地に倒れてかえって地によりて起つ」(同頁)、すなわち法華経誹謗の業因あるものは、
法華経以外のものによって、治すことはできないことは明々白々である。

いま一例をひく。

小児マヒの子供をもった親があったとする。子供は御本尊を拝むことができない。
しかし、親は御本尊を信じ行ずることができる。

この親が大信力を起こして大御本尊を拝み、折伏を行ずるならば、その子供は治るのである。

しかし、その子供があまりにも業因が深くして終生その病気に悩まなければならない場合は、
その子供は生きることができないで早く死ぬのである。

なぜ死ぬのであろうか。

それは小児マヒの子供を持つ親には、そのような子供を持つ業因があるのである。

されば、信心することによって親の業因が消えたとするならば、
小児マヒの子供を持つ宿命がなくなったことになる。

そうなると、これに応じて子供は治るか、死ぬかのどちらかでなくてはならないのである。

付記していっておくが、金を持てない、家を持てない、というような貧乏な暮らしの宿命は、
身の業病ではないけれども、やはり業病の一種になる。

医者でも薬でも治らないゆえに、といえば冗談になるが、
だれ人の力をもってしても、どうすることもできない。

ゆえに、そういう人は大御本尊を信じ、信力・行力を励まなければならない――

(戸田城聖全集第一巻一四二頁)

おわり

宿坊の掲示板より